「アメリカ歴代大統領19-21」(ヘイズ-ガーフィールド-アーサー)の続きです。
(22)スティーブン・グロバー・クリーブランド(スティーヴン・グロウヴァー・クリーヴランド)(1837-1908;1885-1889および1893-1897)
※連続しない2期(第22代と第24代),大統領を務めた唯一の大統領であったが,D・トランプが2人目となった
※身長180cm,体重は最高で110kgあった巨漢。巨漢と言えば第27代ウィリアム・タフトもいる
1837年,ニュージャージー州で牧師の子として生まれる
1853年,父死去,伯父の許へ
1859年,司法試験に合格
地方検事補,保安官,弁護士として活動。民主党員
※バッファローは複数存在するがここが最も有名で,ヴィンセント・ギャロの『バッファロー'66』もここが舞台
※大統領になった元ニューヨーク州知事:ヴァン・ビューレン(第8代大統領),セオドア・ローズベルト(第26代),フランクリン・ローズベルト(第32代)
※大統領選で敗れた元ニューヨーク州知事:デウィット・クリントン(マディソンに敗れる),シーモア(グラントに敗れる),ティルディン(ヘイズに1選挙人差で敗れる),デューイ(1944年FDローズベルトに敗れる)
↓先代(第56代:2011-2021)ニューヨーク州知事
↓父クオモもニューヨーク州知事だった(第52代:1983-1994)
↓今の(第57代:2021-),そして女性初のニューヨーク州知事。副知事からの昇格であったが2022年に再選された
1884年の大統領選挙で共和党のブレインと争う。クリーヴランドは対立陣営から徴兵逃れ,隠し子疑惑を突きつけられるが,クリーヴランドはこれを全肯定,誠実さが評価される。ブレインにも汚職疑惑があり泥仕合,219-182でクリーヴランドが勝利。副大統領はヘンドリックス。ヘンドリックスは1876年の大統領選挙でティルディンがヘイズに1選挙人差で敗れた時の副大統領候補
※隠し子騒動の風刺画が以下にあります
1886年,28歳年下で21歳のフランシスと結婚。米史上最年少のファースト・レディー
1886年,アパッチ族のジェロニモ(1829-1909)投降
※以降死ぬまで虜囚として過ごし,1904年のセントルイス万博では見世物として展示された
1887年,マイケルソン=モーリーの実験
※以下はホーキング著,佐藤勝彦訳,ソフトバンク文庫『ホーキング,未来を語る』(クルミの中の宇宙)より引用
“マイケルソンとモーリーは二本の光線のあいだにどんな日単位,年単位の差も見つけませんでした。それはまるで,光はどこにあろうと,その場所がどれほど速くどのような方向へ移動していようとも,常に同じ速さであるかのようでした”
1888年の大統領選挙で共和党のベンジャミン・ハリソンに168-233で敗れ2期目ならず
クリーヴランドは関税引き下げ派であった。保護貿易論者と自由貿易論者の論争は古くからあり,この頃にはアメリカ製品は関税を必要としないほど優秀であったが,イギリスが自由貿易を標榜していたために関税引き下げ論は「イギリス寄り」と批判される傾向もあった。クリーヴランドは一般投票では勝っていた(48.5%対47.8%)が,肝心の地元・ニューヨーク州(36選挙人)を48%対49%で落としたのが響いて敗れた
1889-1893年 共和党ベンジャミン・ハリソン政権(後述)
1892年の大統領選挙で民主党候補として再出馬,ベンジャミン・ハリソンに277対145対22(人民党ウィーバー)で勝利,大統領再選。連続しない2期に大統領を務めたのは彼のみ
※米史上初の大ストライキとも言われる,
1893年5月,シカゴ万博(-1893.10)
1893年,ハワイでアメリカ人農場主によるクーデター。臨時政府を樹立し米政府に併合を求めるが,海外領土拡張に消極的だったクリーヴランドはハワイ併合を認めず
※ハワイ国王支持派の日本は邦人保護として東郷平八郎艦長の浪速を派遣
1894年,臨時政府,ハワイ共和国建国を宣言
1896年の大統領選挙で共和党のマッキンリーが民主党のブライアンに勝利
1897年,任期切れで退任
1898年,米西戦争
1898年,アメリカの帝国主義的進出に反対するマーク・トゥエイン,「鋼鉄王」アンドリュー・カーネギー,哲学者ジョン・デューイ,クリーヴランド元大統領ら,「アメリカ反帝国主義連盟」結成(-1921)
1908年,死去
1913年,フランシス・クリーヴランド,大学教授と再婚
※フランシスはクリーヴランド元大統領と同様,女性参政権に否定的であったという
1947年,フランシス死去
(23)ベンジャミン・ハリソン(1833-1901;1889-1893)
※第9代大統領ウィリアム・ハリソンの孫。唯一の祖父-孫大統領
↓ウィリアム・ハリソンの子でベンジャミンの父。下院議員
1841年3月,祖父のウィリアム・ハリソン,大統領就任(第9代)
1841年4月,ウィリアム・ハリソン,就任1ヶ月で病死
※フロリダのマイアミとは無関係。マイアミは「マイアミ族」に由来
※マイアミ大学と言うとき,フロリダ州マイアミ大学(私立)とオハイオ州マイアミ大学(州立)の区別が必要
1852年,卒業。フラタニティはファイ・デルタ・シータ(ΦΔΘ)
※ΦΔΘは建築家のフランク・ロイド・ライトや,ベイカー国務長官(任1989-1992)などが所属
↓フランク・ロイド・ライトの名言
1853年,キャロラインと結婚。父がオハイオ州選出の連邦下院議員になる(~1857)
1854年,インディアナ州インディアナポリスに転居,弁護士を開業
1888年の大統領選挙でクリーヴランドに233-168で勝利
1890年,以下の3つの法律が成立
・マッキンリー関税法(マッキンリー・タリフ):マッキンリー下院議員は後の大統領(第25代)。関税は49.5%にも昇った
※tariff はアラビア語に由来し,「関税(率),関税表」の意味
※既に述べたがクリーヴランド大統領は反関税であった
・シャーマン購銀法(Sherman Silver Purchase Act):アメリカは金本位制であった(1878年の金準備は78トン)が,政府に銀購入も義務付ける
※シャーマン上院議員は第19代ヘイズ大統領のもとで財務長官(1877-1881),第25代マッキンリー大統領のもとで国務長官(1897-1898)を務めた
・シャーマン反トラスト法(Sherman Antitrust Act)
1890年,アメリカ,フロンティア消滅宣言
1892年6月,カーネギースティールのホームステッド製鋼所ストライキ。7月6日には銃撃戦も
1892年の大統領選挙でクリーヴランドに敗れる。同年,キャロライン死去
1893年,任期切れで退任
1896年,キャロラインの姪で25歳年下で37歳のメアリーと再婚
※息子ラッセルのほうが歳上(41歳)であった
1896年,オットー・リリエンタール,グライダーを使った飛行実験で事故死
1898年,ベネズエラと英領ギアナ(現ガイアナ共和国)の国境争いで,ベネズエラのために国際法廷で弁護士を務める
1901年,死去
1948年,メアリー死去
========
リリエンタールの飛行実験は失敗しますが,7年後の1903年,ライト兄弟が飛行実験に成功することになります。いよいよ20世紀に突入ですね。次回は第25代マッキンリー,第26代セオドア・ローズベルトです。
↓次回はこちら