2021年1月から「アメリカ歴代大統領」という記事を書いていますが,そこの年表が大統領別になっており,同じ年号が複数の大統領の場所に散らばるといった,年表それ自体として読みにくい仕様となっています。そこで全ての年表を1つの表に統合したものを作ることにしました。これで重複なしのすっきりした年表になります。
ただし余りに大統領個人にまつわるもの(大統領が大学を出た年号)とかは省きますので,各大統領の記事を見てください。
赤太字は戦争,暗殺事件,反乱・暴動など
青太字は大統領経験者(数字は第何代か)
1755年,フレンチ・インディアン戦争(1754-63七年戦争の一環。イギリス対フランス・スペイン)にワシントン(1)英国側で参加
1757年1月,フレンチ・インディアン戦争のかんじき(スノーシューズ)の戦いで英軍勝利。
1758年3月,かんじきの戦いで今度は仏軍勝利。6月,ルイブールの戦いで英軍勝利。3月,カリヨンの戦いで仏軍勝利。9月,デュケーヌ砦の戦いで英軍が砦を占領
1760年4月,サントフォワの戦い(カナダのケベックシティー)で仏軍勝利
1762年9月,シグナルヒルの戦いで英軍勝利
※フランスはカナダやルイジアナなど,北米のほとんどの領土(ヌーベルフランス)を失う。西部ルイジアナはそののちフランスに戻るが,ナポレオンがアメリカに売却することとなる
1763年5月,ポンティアック戦争勃発(-1766年7月)
※インディアンがイギリスのデトロイト砦などを攻撃。名前はオタワ族のポンティアック酋長(オブワンディヤグ)に因む。自動車のポンティアックも彼に因む
1763年10月,イギリスによる1763年宣言:アパラチア山脈の西側に植民地人が入植することを禁止→西に入植したい植民地人は不満
1764年4月,砂糖法制定(1766年撤廃)
※イギリス植民地以外から輸入される糖蜜に課税
1765年,印紙法制定(以下ウィキペディアより引用)
“これは新聞・パンフレットなどの出版物,法律上有効なあらゆる証書、許可証,トランプのカードなどに印紙を貼ることを義務付けるものであった。七年戦争などを経て財政難に陥っていたイギリスは,植民地への課税によってこれを乗り切ろうとした。これが植民地人の反発を招き,アメリカ独立戦争への端緒となった”
1765年,ジョン・アダムズ(2),印紙法に反対して有名になる
1766年,植民地の反発が激しく,印紙法撤廃
1767年,タウンゼンド諸法反対運動:植民地側から見ると不当に税金を取られるような制度など。以下ウィキペディア「タウンゼンド諸法」より引用。タウンゼンドは英国の財務大臣
“これを念頭に、当時の財務大臣チャールズ・タウンゼンドは、植民地に輸入された茶、紙、塗料、鉛、ガラスといった品々に新たに税金を課すという案を練った。いわゆるタウンゼンド関税である。これらの品々は、北米では生産されておらず、植民地はイギリス本土以外から購入することを認められていなかった”
1770年3月,ボストン虐殺事件(タウンゼンド諸法に反対して暴動を起こした民間人5名をイギリス軍が射殺)
※ジョン・アダムズは民間人を殺したイギリス兵の弁護を引き受けることになってしまった(無罪と過失致死傷罪に)。これにより評判が悪くなることを心配したが,同年,マサチューセッツ植民地議会議員に選出される
1770年4月,タウンゼンド諸法部分撤廃(茶への課税は継続)
1773年5月,イギリス,東インド会社を救済するための茶法(Tea Act)制定
※東インド会社に特権的地位を与えたためアメリカ植民地人は反発
1773年12月,ボストン茶会事件(Boston Tea Party)。以下ウィキペディアより引用
“こうした事態の中、1773年12月16日の夜に事件は起こった。毛布やフェイスペイント等でモホーク族風の簡易な扮装をした3グループ、50人ほどの住人がボストン港に停泊していた東インド会社の船を襲撃。「ボストン港をティー・ポットにする」と叫びながら、342箱の茶箱を海に投げ捨てた”
1774年,耐え難き諸法(Intolerable Acts,植民地側の呼び名)成立
:例えばボストン港法(茶会事件への報復で,連帯責任としてボストン港を封鎖)
1774年,ジェファーソン(3),耐え難き諸法に反対する決議文を書く
1774年9月,フィラデルフィアで第1回大陸会議(イギリスの高圧的態度に対して植民地側が結集。イギリス製品のボイコットなど)
1775年4月,レキシントン・コンコードの戦い:イギリス軍と植民地民兵隊が武力衝突。独立戦争の火蓋。
“4月19日の朝、イギリス軍がレキシントンの村に入ると、77名の民兵が村の緑地に待ち構えていた。銃火が交わされ、数人の民兵が殺された。「1発の銃声が世界を変えた」という出来事であった”
1775年5月,第2回大陸会議(-1781.3)にワシントンは軍服で参加
:大陸会議,大陸軍を創設。ワシントン,植民地軍総司令官に。ジェファーソン,独立宣言の草稿を書く
1775年12月,ケベックの戦いで大陸軍,英国軍に敗北。戦死約50名,捕虜400名以上
1776年1月,トマス・ペイン『コモン・センス』刊行,年末までに15万部を売る
“植民地の権利を守らないイギリスの支配から脱し,アメリカが独立するという考えは「Common sense」(常識)であると説いた”(ウィキペディア)
1776年3月,サンピエールの戦い(現在のケベック州)で大陸軍勝利。両軍にカナダ民兵がいた
1776年春,ジョン・アダムズ,小冊子『政府に関する考え方Thoughts on Government』を出版,独立派の精神的支柱に
:アダムズは独立宣言を起草する5人委員会(ジェファーソン,ベンジャミン・フランクリン,ロバート・リビングストン,ロジャー・シャーマン)に入る
(アメリカ100ドル札はフランクリンである)
1776年,イギリス軍,ニューヨークを占領
1776年,ポーランドのコシューシコ,義勇軍として植民地側に参戦
1776年12月,トレントンの戦い(指揮官:ワシントン)でアメリカ軍勝利,モンロー(5)負傷。ワシントンのまたいとこウィリアム・ワシントンも負傷
↓ワシントンとモンローが描かれているという
1777年1月,バーモント共和国がイギリスから独立
※独立した13植民地とは別。1791年にアメリカ合衆国に加入
1777年6月,ショートヒルズの戦い
1777年7月,フランスのラファイエット,義勇軍として植民地軍に参戦,少将に
1777年9月,ブランディワインの戦いでイギリス軍勝利(指揮官はワシントン。ラファイエットは足に銃弾を受ける)
→9月26日,イギリス軍,フィラデルフィアを占領
1777年10月,サラトガ方面作戦(同年6-10月)でイギリス軍降伏
1778年2月,フランス,アメリカ側につく
1778年6月28日,モンマスの戦い(指揮官はワシントン,決着つかず)
1779年6月,スペイン,アメリカ側につく
1779-81年,ジェファーソン,バージニア邦知事に(1780年,バージニアの首都が現在のリッチモンドに)
1780年5月,ワクスホーの戦いでイギリス軍,植民地軍に完勝。降伏した者が殺され「ワクスホーの虐殺」とも。14歳だったアンドリュー・ジャクソン(7)を含め南部の人々にイギリスへの憎悪が芽生える
1780年8月,キャムデンの戦いでイギリス軍勝利
1781年3月,ヘンリー岬の海戦(大陸軍を支援しようとした仏海軍と英海軍の戦い)
1781年9-10月,ヨークタウンの戦いでイギリス軍降伏,捕虜7000名
※フランス軍約1万(ロシャンボー)と大陸軍約9千(ワシントン)がイギリス軍7500を包囲
1783年,パリ条約でイギリスがアメリカの独立を承認
:アメリカについたスペインはヴェルサイユ条約でイギリスからフロリダを得る
:フランスはスペインほど得るものは大きくなく,参戦により財政がさらに悪化
1785年,通貨がドルであり10進法を採用するという決議
1785-89年,ジェファーソン,駐フランス公使に
1786年,1ドルの100分の1をセントと定める
1787年12月〜1790年5月,合衆国憲法,全13邦で批准
1788年,バージニア,合衆国憲法を批准(賛成89,反対79)。マサチューセッツは賛成187,反対168であり,反対者は合衆国の各州に対する権力強化を懸念
1789年2月,大統領選挙。ワシントンが大統領,得票2位のジョン・アダムズが副大統領に
1789年4月,ワシントン政権発足
1789年7月,フランス革命勃発(バスティーユ監獄襲撃・占領)
※カリブ海のフランス領サン=ドマングにも衝撃
1790年,首都がニューヨークからフィラデルフィアに
1790年,サン=ドマングのカラード(自由黒人)の反乱【対フランス独立運動】
1791年,サン=ドマングで黒人奴隷も反乱に加わる【対フランス独立運動】
1790-93年,ジェファーソン,初代国務長官に。初代財務長官アレクサンダー・ハミルトンと論争
1791年,ハミルトンの提案で第一合衆国銀行設立(-1811年失効)
1792年,大統領選挙でワシントン再選。アダムズ再び2位で副大統領に
1792年,ジェファーソン,ジェームズ・マディソン(4)らと共に民主共和党設立(ハミルトンは連邦党初代党首)
1793年1月15日,トマス・ペイン(イギリス生まれのアメリカ人),パリでルイ16世の処刑に反対する演説を行う(1793年12月,ペイン逮捕される)
1793年1月21日,ルイ16世,ギロチンで処刑される
1794年,ウィスキー税反乱(蒸留酒に対する課税に反発):かつてイギリスが課税で植民地を苦しめたのと同じような構図になってしまい,国家運営の難しさを窺わせた。反逆罪で死刑を宣告された者をワシントンは恩赦した
1794年11月,駐仏アメリカ大使モンローの尽力でトマス・ペイン釈放
1796年,大統領選挙。アダムズ(連邦党)大統領に(71票)。ジェファーソン(民主共和党)が副大統領に(68票)
“アメリカ合衆国の歴史の中で唯一、大統領と副大統領が反対党から選ばれた。ジェファーソンは副大統領職を梃子にしてアダムズの政策を攻撃し(…中略…)た”
1797年3月,アダムズ政権発足。息子クインシー(6),プロシア大使に
1797年,XYZ事件(フランス外相タレーランの代理人3名がアメリカに賄賂を要求)でアメリカとフランスの関係が悪化。独立戦争の時は味方であったフランスが敵に
1798年,第2回対仏大同盟(-1801年。革命を起こしたフランスを各国が包囲)。アメリカは対仏関係が悪化していたため,フランスと冷戦(擬似戦争)。軍を増強するため増税(ペンシルベニア州では反乱も)
1799年,ワシントン死去
(アメリカ1ドル札はワシントンである)
1800年,大統領選挙でジェファーソンとアーロン・バーが同点1位(73票)に。3位になってしまったジョン・アダムズは政界引退
※この選挙を契機にアダムズとジェファーソンは絶交状態に
※連邦党のハミルトンはアーロン・バーよりもジェファーソンを支持。結果,ジェファーソン大統領,バー副大統領に(ハミルトンとバーは険悪な仲であった)。国務長官はジェームズ・マディソン
“1800年の大統領選挙は1796年の選挙の再現となった。選挙運動は両陣営の中傷や個人攻撃で辛辣な性格となった。連邦党は、民主共和党がその敵を殺し、教会を焼き、国を滅ぼす急進派であるという噂を流した”
1801年,ジェファーソン政権発足。ジェームズ・マディソン国務長官に
1801年,合衆国新首都建設。「ワシントン」と命名
1801-05,第一次バーバリ戦争(アフリカのトリポリ。相手はオスマン帝国の独立採算州)。アメリカ独立後初めての宣戦布告
1803年,フランスからルイジアナを買収。ナポレオンの時代(皇帝になる1年前)
1804年5月,ルイス・クラーク探検隊(M.ルイスとW.クラーク)出発
:イリノイ州から太平洋まで西へ横断,詳細な地図を作製
1804年7月,アーロン・バー(副大統領現職),アレクサンダー・ハミルトンと決闘,ハミルトン死去
※バーがハミルトンより1歳下で,ハミルトンがバーの大統領就任を阻むなど,両者は仇敵であった
(アメリカ10ドル札はハミルトンである)
1804年,サン=ドマングの反乱軍,ハイチ独立宣言。ハイチはアメリカ合衆国に次いで西半球2番目の独立国となる【対フランス独立運動】
1804年,大統領選挙。ジェファーソン,連邦党のピンクニーを大差で破り大統領再選。アーロン・バーは副大統領候補から外され,副大統領はジョージ・クリントン。国務長官は引き続きジェームズ・マディソン
1807年8月,アメリカの発明家フルトン,蒸気船公開実験。9月,週一往復で営業開始(ニューヨーク-オールバニ間)
1808年,大統領選挙でジェームズ・マディソン,連邦党のピンクニーに大差で勝利,第4代大統領に。ピンクニーはジェファーソン(1804年),マディソン(1808年)に2連敗
1809年3月,ジェファーソン辞任,マディソン政権発足。クインシー・アダムズはロシア大使に
1812年,共に政界引退したということでアダムズとジェファーソン和解
1812年6月,米英戦争勃発。カナダはまだイギリス領(自治領になったのは1867年)でイギリス軍がおり,またインディアン諸部族は両陣営に分かれて戦った
1812年8月,米艦コンスティテューション,英艦ゲリエールに一騎打ちで完勝
※コンスティテューションは1797年就航。世界最古の現役艦
※USS は United States Ship,HMS は His/Her Majesty's Ship「陛下の船」
1812年11月,大統領選挙でマディソン,ジョージ・クリントンの甥デウィット(DeWitt)・クリントンに勝利。大統領再選。副大統領はニューヨーク知事のダニエル・トンプキンズがなり,空いたニューヨーク知事選に勝利したデウィット・クリントンが知事に
1812年冬,ナポレオン,ロシアで「冬将軍」に破れ撤退
1813年3月,プロイセン,フランスに宣戦。イギリスの対仏負担が軽くなる
1813年6月,イギリスのウェリントン,ビトリアでフランスを破る
1813年,サン・マルティン,サン・ロレンソの戦いでスペイン軍を破る(アルゼンチン独立運動)【対スペイン独立運動】
1813年10月,テムズの戦い(オンタリオ州)でアメリカ軍勝利,イギリス側だったショーニー族のテカムセ戦死
1814年3月,アンドリュー・ジャクソン,ホースシュー・ベンドの戦いを指揮し,クリーク族の1000名中800名を殺害
1814年8月,イギリス軍によるワシントン焼き討ち
1814年12月,両者決定打がなく,米英戦争終結(ガン条約。クインシー・アダムズがアメリカ代表)。マディソンは戦争を回避できなかったことが後世に批判されているが,アメリカはこの戦争を通じて経済的にもイギリスから独立した(イギリス製品が買えなくなった結果,経済の対英依存から脱した) アメリカの産業革命はこれ以後と言われている(鉄道網の拡大は1830年代から)
1814年12月-1815年1月,アンドリュー・ジャクソン,停戦の知らせが間に合わず,ニューオーリンズの戦いを指揮し,奇襲などでほぼ倍の数のイギリス軍に勝利。イギリス軍は死傷者約1500,捕虜約500,計2000。ジャクソンは国民的英雄に
1815年,第2次バーバリ戦争(対オスマン帝国のアルジェ邦)
1815年6月,ワーテルローの戦いでナポレオン破れ,ナポレオン戦争終結
1816年,第二合衆国銀行設立(1836年に公認が切れ,1841年閉鎖)
1816年,大統領選挙でモンロー,連邦党のルーファス・キングを大差で破り,大統領に(1817-1825)。副大統領はダニエル・トンプキンズ。
1817年3月,マディソン辞任,モンロー政権発足。国務長官はジョン・アダムズの息子クインシー
1817年,エリー運河建設開始
1817年,セミノール戦争でアンドリュー・ジャクソン,インディアンを大量虐殺
1819年,ジェファーソン,バージニア大学設立(最初期の学生にエドガー・アラン・ポー)
1819年,シモン・ボリバルの提唱でコロンビア共和国(大コロンビア)設立。現在のベネズエラ・コロンビア・エクアドル・パナマを含む【対スペイン独立運動】
1820年の大統領選挙でモンロー再選。「好感情の時代」の中,ほぼ無風選挙
1820年,ワシントン・アーヴィングの『スケッチ・ブック』刊行(『リップ・ヴァン・ウィンクル』などを含む)
1821年,スペイン,フロリダをアメリカに売却(1822年に準州に)
※1819年のアダムズ=オニス条約で署名されていたがスペインの批准が2年遅れた。アダムズは国務長官クインシー・アダムズ,オニスはスペイン外相
1821年,サン・マルティン,ペルーのリマに入城【対スペイン独立運動】
1823年,「モンロー教書(モンロー主義,モンロー・ドクトリン,モンロー宣言)」南北アメリカはヨーロッパに支配されない。アメリカはヨーロッパの戦争に対し中立を保つ
※原案起草は国務長官クインシー・アダムズ
1824年,シモン・ボリバルとスクレ,ペルー解放【対スペイン独立運動】
1824年の大統領選挙。民主共和党がアンドリュー・ジャクソン,クインシー・アダムズ,ウィリアム・クローフォード,ヘンリー・クレイの4人を立てる異例の選挙に(連邦党は見る影もなく,民主共和党は余裕をかましていた)。結果アンドリュー・ジャクソンが1位(99票),クインシー・アダムズが2位(84票)。しかし過半数を取った者がいなかったため,結果は下院に回される(1825年臨時選挙),ジャクソンよりも敵の少なかったクインシー・アダムズが選ばれる。ジャクソンは納得がいかなかったが,次代の大統領に選ばれることになる
※6州を除き,初めて資産に関係なく全ての自由白人が投票できた。ジャクソニアン・デモクラシーにも繋がって行く
1824年,クインシー・アダムズ,国民共和党設立。民主共和党は解体を始める
1825年,クインシー・アダムズ政権発足。ジャクソンは入閣せず,ヘンリー・クレイが国務長官に
1825年,エリー運河運用開始
1825年,「インディアン移住法」の原案を議会に提出→1830年,第7代アンドリュー・ジャクソン大統領の時に成立
1826年7月4日,アダムズとジェファーソン,同日に死去。アメリカ独立記念日だった
(アメリカ2ドル札はジェファーソンである)
1828年,アンドリュー・ジャクソンの支持者,民主党を設立。これが現在に続くものである
1828年大統領選挙は「史上最悪の中傷合戦」となり,民主党のジャクソン(178票)が国民共和党のクインシー・アダムズ(83票)に大勝。クインシーは父に次いで,1期で終わった2人目の大統領に
1829年,クインシー・アダムズ大統領を辞任,アンドリュー・ジャクソン政権発足。ヴァン・ビューレン(8)国務長官に
1830年,「インディアン移住法」成立。インディアンの西部への半強制的な移住を促す
1830年12月,サウスカロライナ運河鉄道で蒸気機関車「ベスト・フレンド・オブ・チャールストン」が営業開始
1830年代,ジャクソニアン・デモクラシー(ジャクソン流民主主義)進む:白人成年男子普通選挙制の普及(女性・黒人の選挙権はまだまだ先)
1831年,ナット・ターナーの反乱。黒人奴隷のナットがバージニア州で反乱を起こし50名以上の白人を殺害。50名以上の黒人が処刑され,ほか多数の黒人が報復で殺害された。
1832年,大統領選挙でジャクソン,国民共和党のヘンリー・クレイに大勝し再選
1832年,ブラック・ホーク戦争(対インディアン戦争)にザカリー・テイラー(12)従軍
1833年,ロバート・ランドルフによるジャクソン大統領殴打事件(作家のワシントン・アーヴィングも目撃)。告発はせず
1834年,国民共和党ヘンリー・クレイ,ホイッグ党を結成(共和党の前身)
1834-1836年,経済拡大,バブルの様相
1835年,リチャード・ローレンスによるジャクソン大統領暗殺未遂事件(ピストル,不発)。初の大統領暗殺未遂事件
1835年-1842年,第二次セミノール戦争(対インディアン戦争)にザカリー・テイラー従軍
1836年2~3月,アラモの戦い。メキシコからのテキサス独立派がメキシコ軍と戦ってアラモ守備隊が玉砕
1836年,メキシコ共和国からテキサス共和国が独立(→1845年にアメリカが併合し,1846年米墨戦争)
1836年,大統領選挙で民主党のビューレンがホイッグ党の4名の候補者(ハリソン(9),ホワイト,ウェブスター,マンガム)を破り大統領に。ホイッグ党は各地域でそれぞれビューレンに勝利し,ビューレンの過半数を阻止して決戦でホイッグ党が勝利するという奇策だった。しかしビューレンは獲得選挙人170で,ホイッグ党4人の合計124を上回り,過半数を獲得した。副大統領に関しては23人の選挙人を抱えるバージニア州が民主党副大統領候補リチャード・ジョンソンへの投票を拒否し,170-23で147票になってしまい(全体は294なので丁度半分),過半数にならず決選投票となった。それでも決戦でジョンソンが勝利した。
1837年3月,ジャクソン大統領辞任,ビューレン政権発足
1837年5月頃,1837年恐慌。失業率25%,デフレ不況
※ジャクソン時代の経済拡大・バブルが原因であったが後任のヴァン・ビューレンが批判された
1838年,アルーストック戦争。イギリス領カナダとアメリカメイン州の国境紛争
1838年,チェロキー族15000名,オクラホマへ移住,4000名が命を落とす(涙の道:Trail of Tears)
1839年,ラ・アミスタッド号のアフリカ人奴隷が反乱して船長を殺害,船を乗っ取る「アミスタッド号事件」が起こる
・奴隷廃止運動家ら「アミスタッド協会」設立,資金を集める
・クインシー・アダムズ,最高裁判所で奴隷側弁護人を務める
・彼らは誘拐されたものであると判決され自由の身となり,ほとんどがアフリカに帰還した
1840年,大統領選挙で今度はホイッグ党が候補者を1人に絞り,同党のウィリアム・ハリソン勝利,第9代大統領に。敗れたビューレンは1期で終わったが,大統領を諦めていなかった
1841年,ウィリアム・ハリソン大統領,任期1ヶ月で病死(最短任期記録)。副大統領ジョン・タイラー(10)が昇格(第10代)
1841年,エドガー・アラン・ポー,『モルグ街の殺人』を発表(刊本は1843)
1841-1842年,ドアの反乱(Dorr Rebellion)。唯一白人男子普通選挙がなかったロードアイランド州でトーマス・ドアらが白人男子普通選挙を求めて武装蜂起
※ドアは生涯の労役刑を宣告されたが,厳しすぎると大衆が怒り,12ヶ月服役したのち釈放された。しかし健康を害し,50歳手前で亡くなった
1843年,エドガー・アラン・ポー,『黄金虫』を発表(刊本は1845)
1844年,大統領選挙。ビューレンは民主党大統領候補の地位を目指すが,民主党大会でポーク(11)に敗れる。大統領選ではポークが勝利,ホイッグ党から政権を取り返す(第11代)
1845年3月,タイラー辞任,ポーク政権発足。国務長官はブキャナン(15)
1845年,テキサス併合:メキシコ合衆国から独立していたテキサス共和国が自発的にアメリカ合衆国に加盟
※メキシコ大統領サンタ・アナは「テキサスを併合したら開戦」とまで言っていたが,1844年12月に失脚して戦争には至らなかった。しかし……
1846年4月,国境争いから米墨戦争が勃発。ザカリー・テイラー,フランクリン・ピアース(14)が活躍
※まだカリフォルニアはメキシコ領であった
※メキシコはこの戦争で現在のカリフォルニア州,ネバダ州,ユタ州を初め,国土の1/3をアメリカに割譲。アメリカは代償として1500万ドルを支払い325万ドルの債権放棄をした
※アメリカ軍は戦死1700名のほか,感染症で1万名ほどが亡くなった
1848年,カリフォルニアでゴールドラッシュ始まる
※NFLのフォーティーナイナーズ(49ers)は1849年に金採掘に殺到した人々に由来する
1848年,大統領選挙。ビューレンは第3政党の自由土地党の大統領候補者に選ばれる。しかし大統領選挙では1選挙人も取れなかった(ホイッグ党のザカリー・テイラーが民主党のルイス・カスに勝利して第12代)
1849年3月,ポーク辞任,ザカリー・テイラー政権発足
1849年6月,ポーク元大統領死去。ポークは合衆国の領土を大幅に拡げた「強い大統領」であり,最も公約(テキサス併合など)を果たした大統領とも言われ,その激務の故に短命であった(50代前半で死去)
1849年,マディソン元大統領夫人ドリー死去。時の大統領ザカリー・テイラーが彼女を「一級の女性(First Lady)だった」と呼んだことが,ファースト・レディの由来となったらしい
テイラー大統領,国務長官クレイトンの主張で東アジアとの交易に関心を示す
※ペリー来航(1853)の数年前です!
1850.7 ザカリー・テイラー大統領コレラで死去,ミラード・フィルモア(13)が昇格
1850.9,カリフォルニアを州に昇格させる(奴隷制度のない自由州)
1851年,メルヴィル『白鯨』を発表
1851年,ハリエット・ビーチャー・ストウ『アンクル・トムの小屋』を発表
※ストウ夫人の弟については以下をご覧ください。
1852年の大統領選挙で民主党のピアースがホイッグ党のウィンフィールド・スコット(歴戦の軍人)に254対42で大勝
1853年1月,ピアース大統領,列車事故で同乗していた3男を失う(11歳)。ピアースは息子を全て失った
1853年,ペリーを日本に派遣(浦賀)
1853年,フィルモア退任,ピアース政権発足
1853-56年,クリミア戦争(仏,英,トルコらがロシア帝国に勝利)
“カンザス・ネブラスカ法は,1854年にアメリカ合衆国でカンザス準州とネブラスカ準州を創設して新しい土地を開放し,1820年のミズーリ妥協を撤廃し,2つの準州開拓者達がその領域内で奴隷制を認めるかどうかは自分達で決めることを認めた法律である”
“カンザス・ネブラスカ法は国を2つにわけ,内戦の方向を指し示した。・・・(中略)・・・法を巡る混乱は民主党とホイッグ党を分裂させ,共和党を興隆させることになり,アメリカ合衆国は北部(共和党)と南部(民主党)という2つの大政治勢力に分かれることになった”
※この法律の契機は「大陸横断鉄道をどこに走らすか」ということであったが,南北戦争の原因の一つとなったようですね。
※カンザス準州,ネブラスカ準州が奴隷制を採用するか自分達で決めることになったため,奴隷制を巡る議論が白熱。カンザスでは肯定派と反対派が戦闘して死者も出た(血を流すカンザス)
1855年,パナマ地峡鉄道開業:アメリカ東海岸→大西洋→パナマ地峡鉄道→太平洋→アメリカ西海岸という行き方が可能に。パナマ運河開通は1914年
1856年5月,ブルックスによるサムナー殴打事件(以下ウィキペディアより)
“サウスカロライナ州では奴隷制廃止運動に対する反感が強かった。州選出アメリカ合衆国下院議員プレストン・ブルックスは、上院の議場に入り、先端に金属を付けた杖で、マサチューセッツ州選出アメリカ合衆国上院議員チャールズ・サムナーを殴打した。サムナーが気絶するまで傷つけたので、サムナーは数か月間議場に出て来られなくなった。これは、サムナーが上院での演説で奴隷制度を攻撃し、サウスカロライナ州人を侮辱したことに対する報復だった。ブルックスは下院議員を辞職し、故郷に帰って英雄扱いを受けた”
※殴打事件を描いた絵が以下の記事にあります。
1854年,反奴隷制,反民主党を唱え,共和党が結党される。分裂した民主党員やホイッグ党員,自由土地党員らが結集
1855-59年,ワシントンに因んで命名されたワシントン・アーヴィング(1783-1859),ワシントン伝を執筆
1856年の大統領選挙でピアースは民主党の候補に選ばれず。民主党のブキャナンが共和党のフレモント,アメリカン党のフィルモア(前大統領)を174-114-8で破り大統領に。
1857年3月,ピアース退任,ブキャナン政権発足
1857年恐慌(〜1859)経済がグローバル化しており,初の世界恐慌
1857年,ユタ戦争。モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)とアメリカ陸軍が交戦
1858年,リンカン(16),リンカン・ダグラス論争で奴隷制に反対する演説
1859年(安政六年)神奈川奉行兼外国奉行新見正興が渡米,ブキャナン大統領と会見
1859年,奴隷廃止論者のジョン・ブラウン,奴隷を解放して蜂起させようとバージニア州の武器庫を襲撃,市民を殺害。殺人,反乱教唆,バージニア州に対する反逆罪で死刑に。
※ヴィクトル・ユーゴー(1802-1885)はブラウンを擁護する公開書簡を書いた
1860年,リンカン,ニューヨークのクーパー・ユニオン演説で奴隷制に反対する演説
1860年11月の大統領選挙で共和党のリンカンが勝利。民主党は北部民主党(ダグラス)と南部民主党(ブリッキンリッジ)に分裂
※ブルックスによるサムナー殴打事件に見られるようにサウスカロライナ州は奴隷制反対運動に対する反感が強かった。
1861年2月4日,同州とミシシッピ,フロリダ,アラバマ,ジョージア,ルイジアナ,テキサスの7州がアメリカ連合国(CSA)を結成。大統領はジェファーソン・デイヴィス(第14代ピアース大統領政権の陸軍長官)
1861年3月4日,ブキャナン退任,リンカン政権発足
※就任演説で南部諸州は合衆国を離脱できないこと,南部諸州に奴隷制廃止を強いるつもりはないと訴える
1861年4月12日,サウスカロライナ州にあったサムター要塞をリンカンが明け渡さなかったため南軍がサムター要塞を攻撃占領,南北戦争勃発(-1865年)
1861年4月,リンカン大統領,75000名の志願兵を募集。ユリシーズ・グラント(18)これに応募
:少量の貨物を積んだ封鎖突破船は6隻中5隻が突破に成功したが,アメリカ連合国の経済的打撃は大きかった
1861年,新たにバージニア,アーカンソー,テネシー,ノースカロライナ州がUSAを脱退,CSAに加入(合計11州)。首都はアラバマ州モンゴメリー(モントゴメリー)からバージニア州リッチモンドに。ミズーリ,ケンタッキー州はUSAに残ったが,CSAはこの2州の受け入れを表明(そのため国旗には星が13ある)
1861年7月,バージニア州マナサス近郊での第一次ブルランの戦いで南軍勝利
※ワシントンから約30マイルの所であったため,北の市民は恐怖した
1862年3月,北軍の「ポトマック軍」,バージニア州に上陸,南軍の首都リッチモンドを目指す
1862年4月,ユリシーズ・グラント,シャイローの戦いを指揮。初日に劣勢となるも最終的に勝利。劣勢になったのはグラントの飲酒が原因とメディアに非難され解任要求も起こるが,リンカンは「この男の代わりはいない(I can't spare this man)」と擁護
1862年4月末,北軍,海からルイジアナ州ニューオーリンズを無血占領(ニューオーリンズの戦い)
1862年6月25日-7月1日,南軍のロバート・リー,七日間の戦いでマクレラン率いるポトマック軍を撃破
※南軍は9.2万中戦死3500,負傷15000,北軍は10万中戦死1700,負傷8000という壮絶な戦い
※南北戦争で兵士がバタバタ倒れていく様はメル・ギブソンの『パトリオット』に描かれている。
1862年7月,連邦議会の第2押収法:北軍に敵対している南軍兵士の奴隷は解放されるべしというもの
1862年8月,北軍の「バージニア軍」,バージニア州マナサス近郊での第ニ次ブルランの戦いで南軍のロバート・リーに敗れる
1862年9月17日,ロバート・リー,メリーランド州に侵攻するもアンティータムの戦いで北軍のマクレランに敗れ撤退
※1日で両軍合わせ戦死3600,負傷1万7千。1日で死んだアメリカ人の最高記録?
1863年5-7月,グラント,ミシシッピ州ビックスバーグの包囲戦を指揮,勝利
※ゲティスバーグの戦いとこの戦いが南北戦争の決定的な転換点であった
1863年6月,米・仏,馬関海峡の長州軍艦を砲撃(下関事件)
1863年6月20日,バージニア州から独立したウェストバージニア州,アメリカ合衆国に加盟
1863年7月1日-3日,ゲティスバーグの戦い(ペンシルヴェイニア州)で南軍のロバート・リー(7万),北軍のミード(9万)に敗れる
※3日で両軍合わせ戦死者8千弱。両軍の死傷者は同程度であったが,元々人口の少ない南軍は戦力の補充に支障を来し始める
1863年は『ギャング・オブ・ニューヨーク』の舞台となった年。次項も描かれる
1863年7月13日,ニューヨーク徴兵暴動 ※死者100名以上を出した
※大きな戦いの度に千単位の死者を出す中で,南軍は兵士の補充に支障を来し,北軍では暴動が起きるわけです。外国からの祖国防衛でもない,内戦で死にたくはないですよね
※2分間の短いスピーチであったが世界的に有名なものになった
※Four score and seven years ago「87年前」(=1776年のこと)で始まる。score は「20」の意味
1864年3月,ユリシーズ・グラントが北軍総司令官に
1864年7月,南軍のアーリーがワシントンを攻撃(スティーブンス砦の戦い)
1864年8月,リンカン大統領暗殺未遂事件
1864年8月,イギリスの呼びかけで仏・蘭・米合わせて4カ国で長州藩を攻撃(下関戦争)
1864年の大統領選挙でリンカンは国民統一党から出馬,ジョンソン(18)(民主党の系統)が副大統領候補に選ばれ,勝利
※アメリカ連合国(CSA)は選挙に参加せず
1865年1月,第二次フィッシャー砦の戦い(ノースカロライナ州)で北軍勝利
“フィッシャー砦は「南部のジブラルタル」と言われることもある南軍最後の主要海岸拠点であり,南北戦争を通じて莫大な戦略的価値があった”
1865年3月,ノースカロライナ州ベントンビルの戦いで南軍降伏
1865年4月1日,バージニア州ファイブフォークスの戦いで北軍勝利
1865年4月3日,CSAの首都リッチモンドが陥落
1865年4月9日,アポマトックス・コートハウスの戦いの結果,ロバート・リー,グラントに降伏
※戦死者は50万人近く,戦死以外の死者を含めると70万人以上が死亡した戦争。
※ベトナム戦争の米軍死者は6万弱。第一次世界大戦は11万(参戦が遅かったので意外)。第二次世界大戦は40万。COVIDの死者は100万人以上
※南北戦争の結果,奴隷の数は1860年の400万人(9割が南部)から1864年には190万人に減少。
1865年4月14日,リンカン,ワシントンのフォード劇場でCSAのシンパ,ブースに暗殺される
※完全な単独犯ではなく協力者・共犯者がおり,ジョンソン副大統領,スワード国務長官,グラント将軍の殺害も計画されていた。スワードは自宅で襲撃され負傷
※共犯者達は軍法会議に掛けられブース(逃走中射殺)以外の4名が死刑となった。軍法会議で裁かれたことには批判も起こった
1865年4月15日,副大統領アンドリュー・ジョンソンが昇格して大統領に(第17代)
※戦後の再建(リコンストラクション)を担う。以下ウィキペディアより:
“共和党急進派は軍事再建法を通過させ、合衆国軍を用いて南部諸州を軍事的に占領するにいたった。北部の占領下の南部では黒人に投票権が与えられ、およそ1万から1万5千人の元連合国の役人や高官の白人が公職追放され、投票権を取りあげられた”
※奴隷制に強く反対する共和党急進派(タデウス・スティーヴンス,殴打事件の被害者チャールズ・サムナーなど)は,ジョンソン大統領が南部に甘いと攻撃
1865年5月,CSA大統領ジェファーソン・デイヴィス拘束される
※キューバに亡命政府を作るという計画もあったらしい
※国家反逆罪による起訴は,結果的に取り下げられ1889年まで生きた
1865年,ロバート・リー,私立ワシントン大学の学長に
1865年12月24日,白人至上主義団体KKK(クー・クラックス・クラン)結成
1866年7月,テネシー州がCSAで初めて合衆国に復帰
1867年3月,ロシア帝国からアラスカを購入 ※当初(〜1877年)は陸軍管轄
1867年7月,イギリス領カナダ,自治領カナダに(外交権なし)
1868年,ジョンソン大統領に対する弾劾裁判(上院)。下院では126対47で可決されたが,上院では賛成35,反対19と,弾劾成立の要件3分の2にギリギリ届かなかったため辞職を免れる(36対18だったら丁度3分の2だった)
“連邦政府による南部再建(レコンストラクション)において、南部人に寛大な政策をとったとみられ、そのせいで共和党急進派のメンバーと馬が合わず、政敵である陸軍長官スタントンを罷免したことからThe Tenure Law(政府高官が在職中は罷免を免れる法律)を破ったという口実で弾劾裁判にかけられた”(ウィキペディア)
※このような混乱から政権はレームダック化
※元々共和党のリンカンと民主党のジョンソンが,リンカンの強力なリーダーシップを元に国民統一党を結成して挙国一致内閣を成立させましたが,リンカンの死後,共和党と民主党の対立が顕在化したという形でしょうか
1868年の大統領選挙でユリシーズ・グラントが民主党のシーモアに大勝(第18代)
1869年3月,ジョンソン退任,グラント政権発足
1869年5月,最初の大陸横断鉄道が開通(1872年に岩倉使節団も利用)
1869年9月,禁酒党結成
1870年1月,スタンダード・オイル設立(ジョン・ロックフェラー)
1870年7月,司法省設置
1870年10月,ロバート・リー死去に伴いワシントン大学がワシントン・アンド・リー大学に改称
1871年10月,シカゴ大火(死者250名以上)
1872年3月,岩倉使節団,グラント大統領に謁見
1872年11月,メアリー・セレスト号,ニューヨークを出港(1か月後に無人で漂流しているのが発見された)
1872年の大統領選挙で共和党グラント,自由共和党のグリーリーに286-3で圧勝
※民主党はグリーリーに乗ったが惨敗
※女性で初めて,ヴィクトリア・ウッドハルが元奴隷のダグラスを副大統領候補にして出馬したが獲得選挙人ゼロ。そもそも1838年生まれ生まれで要件の35歳に達していなかった
1875年,ウィスキー汚職事件(Whiskey Ring)。グラント政権時の最悪のスキャンダルで,共和党の慢心から来る腐敗の象徴と映った
“グラントは史上初めて、またその後も現在までただ一人の、被告人側で証言した大統領となった”(ウィキペディア)
※グラントが飲酒癖で知られていたことは疑惑を大きくしたでしょうな
1876年3月,グラハム・ベル,電話機の実験に成功
1876.7.4,アメリカ独立宣言100周年
1876年,マーク・トゥエイン『トム・ソーヤーの冒険』を出版
1876年の大統領選挙で共和党のラザフォード・ヘイズ(19),民主党のティルデンに185-184で勝利
※稀に見る僅差であるが,南部のフロリダ,ルイジアナ,サイスカロライナ(この3州で19選挙人分あった)は,共和党ヘイズの当選を認める代わりに,南部から連邦軍を引き上げさせるという妥協(1877年妥協)があったという見解が強い。この妥協の犠牲になったのは黒人である(南部占領軍に平等派が多かったため)
“ヘイズは「黒人の権利は、南部白人に委ねたほうが安全である」と発言した”(ウィキペディア)
1877年,グラント退任,ヘイズ政権発足
1877年,フレデリック・ダグラスがワシントンDCの連邦保安官に
1877年7月,賃金カットなどを原因とする鉄道大ストライキ。45日間続き,暴動や市街戦に発展 ※1873-1879年恐慌の最中
1877年,エジソンの蓄音機登場
1877年12月,ワシントンポスト創刊
1878年,パリ万博にて自由の女神(作成中)の頭部が展示される
1879年4月,南米の太平洋戦争〈硝石戦争〉勃発(-1884)
※チリ 対 ペルー・ボリビア
1879年7月,グラント元大統領日本を訪問,明治天皇と会見
1880年1月,エジソン,白熱電球の特許を取得(Patent 223,898)
1880年の大統領選挙で共和党のガーフィールド(20)が民主党のハンコックに214-155で勝利
1881年7月,ガーフィールド大統領,ギトーにより銃撃される
“ギトーは、自分が選挙活動でガーフィールドを応援した見返りを求めていたが、彼は何の役職にも就けず、この一件で大いにガーフィールドを恨んだ”(ウィキペディア)
1881年7月,保安官ギャレット,アウトローのビリー・ザ・キッドを射殺
1881年9月,ガーフィールド大統領死去,副大統領チェスター・アーサーが大統領に昇格
1881年10月,OK牧場の決闘(保安官ワイアット・アープらvsカウボーイズ)
1882年5月,中国人排斥法(排華移民法,1943年まで有効)
※中国人労働者はゴールドラッシュ,大陸横断鉄道建設で増加。1871-1880年では12万人存在
1883年,公務員改革のペンドルトン法(Pendleton Civil Service Reform Act)可決
※公務員を試験で選ぶという至極まっとうな法律。公務員が政党に資金提供することを禁止。要するに従来は「猟官制」というものがまかり通っていた
1883年,グラント元大統領,全米ライフル協会第8代会長に(-1884年)
1884年,ニコラ・テスラ(1856-1943),アメリカで働き始めるもエジソンと対立
1884年の大統領選挙で民主党のクリーヴランド(22)(クリーブランド)と共和党のブレインが争う。クリーヴランドは対立陣営から徴兵逃れ,隠し子疑惑を突きつけられるが,これを全肯定,誠実さが評価される。ブレインにも汚職疑惑があり泥試合,219-182でクリーヴランドが勝利。副大統領はヘンドリックス。ヘンドリックスは1876年の大統領選挙でティルディンがヘイズに1選挙人差で敗れた時の副大統領候補
※隠し子騒動の風刺画が以下にあります
1885年,マーク・トウェイン,『ハックルベリー・フィンの冒険』を発表
1885年,アーサー大統領を退任,クリーヴランド政権発足
1886年,アパッチ族のジェロニモ(1829-1909)投降
※以降死ぬまで虜囚として過ごし,1904年のセントルイス万博では見世物として展示された
1887年,マイケルソン=モーリーの実験
※以下はホーキング著,佐藤勝彦訳,ソフトバンク文庫『ホーキング,未来を語る』(クルミの中の宇宙)より引用
“マイケルソンとモーリーは二本の光線のあいだにどんな日単位,年単位の差も見つけませんでした。それはまるで,光はどこにあろうと,その場所がどれほど速くどのような方向へ移動していようとも,常に同じ速さであるかのようでした”
1888年の大統領選挙でクリーヴランド,共和党のベンジャミン・ハリソン(23)に168-233で敗れ2期目ならず
※クリーヴランドは関税引き下げ派であった。保護貿易論者と自由貿易論者の論争は古くからあり,この頃にはアメリカ製品は関税を必要としないほど優秀であったが,イギリスが自由貿易を標榜していたために関税引き下げ論は「イギリス寄り」と批判される傾向もあった。クリーヴランドは一般投票では勝っていた(48.5%対47.8%)が,肝心の地元・ニューヨーク州(36選挙人)を48%対49%で落としたのが響いて敗れた
1889年,クリーヴランド退任,ベンジャミン・ハリソン政権発足
1889年4月,オクラホマで白人の入植が解禁され,ランドラッシュ(入植希望者が殺到)起こる(1890年準州,1907年州に)
1889年7月,ウォールストリートジャーナル(WSJ)創刊
1889年11月,ノースダコタ,サウスダコタ,モンタナ,ワシントンが州に
1890年,以下の3つの法律が成立
・マッキンリー関税法(マッキンリー・タリフ):マッキンリー下院議員は後の大統領(第25代)。関税は49.5%にも昇った
※tariff はアラビア語に由来し,「関税(率),関税表」の意味
※既に述べたがクリーヴランド大統領は反関税であった
・シャーマン購銀法(Sherman Silver Purchase Act):アメリカは金本位制であった(1878年の金準備は78トン)が,政府に銀購入も義務付ける
※シャーマン上院議員は第19代ヘイズ大統領のもとで財務長官(1877-1881),第25代マッキンリー大統領のもとで国務長官(1897-1898)を務めた
・シャーマン反トラスト法(Sherman Antitrust Act)
1890年,フロンティア消滅宣言
1891年10月,私立スタンフォード大学設立
1890年12月,サウスダコタ州でスー族に対するウーンデッド・ニーの虐殺(Wounded Knee Massacre)
1891年,体育教育者ネイスミス,身体的接触が少ない屋内競技としてバスケットボールを考案
1892年4月,合併によりGE(ジェネラル・イレクトリック,ゼネラル・エレクトリック)設立
1892年の大統領選挙で民主党クリーヴランドがベンジャミン・ハリソンに277対145対22(人民党ウィーバー)で勝利,大統領に返り咲き。連続しない2期に大統領を務めたのは彼のみ
※米史上初の大ストライキとも言われる,カーネギー鉄鋼(カーネギー・スティール)ホームステッド製鋼所(1881年設立)でのストライキ(1892年;銃撃戦となり州兵により鎮圧)で,民衆が共和党政権に反感を持ったことも民主党クリーヴランドの勝利に影響した
1893年,ベンジャミン・ハリソン退任,クリーヴランド政権(24)発足
1893年,ハワイでアメリカ人農場主によるクーデター。臨時政府を樹立し米政府に併合を求めるが,海外領土拡張に消極的だったクリーヴランドはハワイ併合を認めず
※ハワイ国王支持派の日本は邦人保護として東郷平八郎艦長の浪速を派遣
1893年5月,シカゴ万博(-1893.10)
1894年,臨時政府,ハワイ共和国建国を宣言
1896年8月,オットー・リリエンタール,グライダーを使った飛行実験で事故死
1896年の大統領選挙で共和党のマッキンリー(25)が民主党のブライアンに勝利
1897年,クリーヴランド退任,マッキンリー政権発足
マッキンリーは,帝国主義的政策を採った
1898年2月,メイン号事件(メイン号がハバナ湾で爆発,日本人ボーイ,コック数名を含む260名以上死亡)
※アメリカはスペインが設置した機雷が原因と主張。他に事故説,米軍の自作自演説(いわゆる陰謀論)がある
1898年4月-8月,米西戦争
※大統領は当初開戦に乗り気でなかったが世論に逆らいきれず?
※戦場はマニラ湾海戦(1898.5),グアム(1898.6に米が占領),キューバ,プエルトリコ
※T.ローズベルト(26)は海軍省を辞し,第1合衆国義勇騎兵隊「ラフ・ライダーズ」を結成。任務はスペイン領キューバへの侵攻。同年7月のサンファン高地への突撃で活躍
※火星,金星についてのSFや,「ターザン」シリーズを執筆したバローズ(1875-1950)はこれに志願し不採用となっている
※米兵はマラリアに苦しんだという
1898年8月,ハワイ併合(ハワイ準州)
※クリーヴランド大統領は1893年にハワイ併合を却下していた
1898年,アメリカの帝国主義的進出に反対するマーク・トウェイン,「鋼鉄王」アンドリュー・カーネギー,哲学者ジョン・デューイ,クリーヴランド元大統領ら,「アメリカ反帝国主義連盟」結成(-1921)
1898.12,パリ条約(米西戦争の講和)
※スペイン領キューバ独立,アメリカの保護国に。西領グアム,プエルトリコをアメリカに割譲。西領フィリピン群島をアメリカから2000万ドル受け取って割譲
※太平洋におけるスペインの力はなくなり,アメリカが太平洋の帝国に
1899-1902年,米比戦争
※1896年からスペインに対し武装蜂起していたフィリピン人アギナルドは独立のためアメリカに協力してスペインと戦ったが,アメリカの思惑は違った
1899.1,フィリピン第一共和国樹立,アギナルド大統領に
1899.2,アメリカ議会,(スペインがフィリピンをアメリカに2000万ドルで割譲するという)パリ条約を批准。独立を宣言したフィリピン共和国とアメリカの主張が対立
1899.2月末,米軍,マニラを掌握
1899.6,国務長官ジョン・ヘイ,列強に対し,中国に関する機会均等を求めて門戸開放宣言
1899.7,32ヶ国でハーグ陸戦条約署名(発効は1900年9月)
1899.11月,有色人種同士で戦うことに疑問を持った黒人兵ファーゲンら,米軍を脱走しフィリピン軍に参加
1899年,社会学者・経済学者T.ヴェブレン,『有閑階級の理論』を発表
:裕福な階層による「顕示的消費(conspicuous consumption;見せびらかすための消費行動)」などを提唱
1900年の大統領選挙でマッキンリー,再び民主党のブライアンに292-155で勝利し再選。前回より差が開いたので,大統領の政策は支持されたということか。副大統領はT.ローズベルト
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共和党のマッキンリー大統領が再選された1900年(19世紀の終わり)まで作れました。次回は1901年からF.D.ローズベルト大統領が逝去する1945年4月12日分まで作りたいと思います。
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