「アメリカ歴代大統領33」(トルーマン大統領)の続きです。
(34)ドワイト・アイゼンハワー(1890-1969;1953.1.20-1961.1.20)
・18世紀にアメリカに移住したドイツ系移民の子孫
・身長約179cm
1890年10月14日,テキサス州デニソンにて生まれる
1892年,一家はカンザス州アビリーンに転居
1909年,アビリーン高校を卒業
※兄の大学進学のためバター工場で働く
1911年,ウェストポイントの陸軍士官学校に入学
1916年,マミー・ダウドと結婚
1918年,第一次世界大戦には従軍できず,国内で軍務。戦後少佐に昇進し,16年間少佐にとどまった
1921年1月2日,1人目の息子「イッキー」ことダウド・アイゼンハワー(1917.8.24生まれ)を猩紅熱で亡くす
※ドワイト自身は「アイクIke」と呼ばれており,「イッキーIkky」はこれを可愛く言ったものと思われる
1922年8月3日,2人目の息子ジョン・アイゼンハワー生まれる(2013年没)
1935年,フィリピン軍の軍事顧問,のちフィリピン陸軍元帥になったマッカーサーの副官に
1936年,中佐に
1939年12月,フィリピンから米国に帰国
1941年3月,大佐に
1941年9月,准将に
1941年12月7日,真珠湾攻撃(日米開戦)
1942年3月,少将に。対ドイツ作戦立案でジョージ・マーシャル大将に評価される
↓のちマーシャル・プラン(ヨーロッパ復興計画)で西欧の共産化を防ぎノーベル平和賞受賞。ノーベル平和賞を受賞した軍人
1942年6月,ヨーロッパ戦域の連合軍最高司令官に
1942年11月,中将に
1942年11月8日,トーチ作戦(モロッコとアルジェリアへの上陸作戦)
1943年7月10日,ハスキー作戦(シチリア島への上陸作戦)
1943年12月,連合国遠征軍最高司令官に
1944年3月,大将に
1944年6月6日,ノルマンディー上陸作戦
1944年8月25日,パリ解放
1944年12月,元帥に
1945年5月8日,ドイツのアメリカ占領区域軍政府長官に(~11月10日)
1945年11月19日,陸軍参謀総長に(前任はジョージ・マーシャル)(~1948年2月)
1948年7月,コロンビア大学学長に
1950年6月25日,朝鮮戦争勃発
1951年9月1日,軍事同盟ANZUS設立(豪州・ニュージーランド・米国)
1951年9月8日,サンフランシスコ講和条約(日本国との平和条約)
1952年11月6日,大統領選挙で共和党アイゼンハワーが民主党スティーブンソン(イリノイ州知事)に442対89選挙人で勝利(得票率は55.2%対44.3%)
“1936年以来積極的にアメリカ共和党大統領候補としての指名を求めていたマッカーサーと異なり,当人は政治にほとんど関心が無く選挙で投票したことも無かったので,支持政党が共和党か民主党かも知られていなかった”
“アイゼンハワーは「民主党が20年間大統領を輩出し,その変更を国が必要としたので共和党を選んだ」と語った”
※トルーマン・ドクトリン(共産主義封じ込め)やチャーチルの「鉄のカーテン」演説,マッカーシズム(赤狩り)といった反共の雰囲気の中,共和党陣営は民主党を「共産主義に寛大」と攻撃
※第一次世界大戦後にも民主党(ウィルソン)から共和党(ハーディング)への大統領交代が起こっている。やはり大戦参戦後は現職大統領の政党に不利?
※共和党の指名をめぐって最大のライバルはタフト元大統領の子,ロバート・タフト(タフト=ハートリー法のタフト)。1回目投票ではアイゼンハワー545,タフト450だった。
1953年1月20日,トルーマン大統領退任。アイゼンハワー大統領に就任。副大統領はニクソン,国務長官はダレス
1953年,メリーランド州にある保養地「シャングリラ」(サーモント海軍支援施設)を大袈裟だとして「キャンプ・デービッド(デイヴィッド)」に改名させる
↓孫
1953年3月5日,スターリン死去。ソ連最高指導者はマレンコフ(暫定)を経てフルシチョフに
1953年7月27日,朝鮮戦争休戦協定
1953年8月,イランで国王派のクーデター
※パーレビ国王(パフラヴィー2世)派を米(CIA)英(MI6)が支援してモサッデク首相失脚(米英の関与は後の機密文書公開で発覚)
※モサッデク首相はソ連に接近し,石油国有化政策を取っていた
※この「パーレビ国王」(と日本では呼ばれた)は欧米に接近し近代化・世俗化(女性のヒジャブの着用を禁止するなど)を進めたが,1979年にホメイニ革命で打倒され亡命した
1953年10月1日,米韓相互防衛条約署名(1954年11月17日発効)
1953年11月,ディエンビエンフーの戦いでベトミン(ベトナム独立同盟)がフランスに勝利
※米国は仏を支援していたが,小型原爆の使用やB-29による爆撃を大統領は却下
1953年12月8日【核の平和利用】国連総会(ニューヨーク)で「平和のための原子力Atoms for Peace」演説
↓この記事のアイキャッチ画像は以下の記事にあります
1954年1月14日,マリリン・モンローがジョー・ディマジオと結婚(初婚はハリウッドデビュー前の16歳の時),同年10月離婚
1954年4月11日【アイゼンハワーの内政】保健教育福祉省設置(1980年に教育省が分離して保健福祉省に)
1954年5月17日,ブラウン判決。黒人と白人の学生の分離は不平等と判決(→1957年9月)
※ブラウンは原告であった父親(アフリカ系アメリカ人)。首席判事のアール・ウォーレンはトルーマンがデューイ検事を大統領選で破った時のデューイ側の副大統領候補
1954年7月1日,日本の保安隊が自衛隊に改組
1954年7月21日,ジュネーヴ協定でベトナム,カンボジア,ラオスがフランスから独立
※北ベトナム(ホー・チ・ミン)と南ベトナム(ゴ・ディン・ジエム)に分かれる
1954年9月5日,反共軍事同盟東南アジア条約機構SEATO結成(1977年6月30日解散)
※米英仏豪新比(フィリピン)泰(タイ)巴(パキスタン)
※1954年タイム誌「マン・オブ・ザ・イヤー」はダレス
1954年9月30日,世界初の原子力潜水艦ノーチラス就役(→12.30)
1954年11月2日,中間選挙で共和党は上院(203/435)・下院(47/96)とも過半数を割る敗北
※1950年代のマッカーシズムの行き過ぎへの批判もあったか
1954年12月2日,台湾の中華民国と米華相互防衛条約署名(1955年3月3日発効,有効期限は1980年1月1日までだったが「台湾関係法」が事実上引継ぎ)
1954年12月30日,原潜ノーチラスの原子炉が臨界に達す
1955年1月17日【本艦は原子力にて航行中】原潜ノーチラスが原子力を使った運転に成功
1955年4月18-24日,バンドン会議(アジア・アフリカ会議)
:日米同盟を結んでた日本は首相ではなく経済企画庁の前身である経済審議庁長官(国務大臣)らが参加
1955年7月17日,カリフォルニア州アナハイムにディズニーランド開園
1955年9月30日,ジェームズ・ディーン事故死
1955年12月1日【公民権運動の母】アラバマ州で白人に席を譲らなかった黒人のローザ・パークスが逮捕された事件→キング牧師らによるバス・ボイコット運動(→1956.11)
1956年2月14日,ソ連共産党第20回大会(スターリン死後初の大会)
:個人独裁から集団指導へ,平和共存路線の外交,暴力革命と異なる平和革命の可能性
:2月25日にはフルシチョフによるスターリン批判の秘密報告。内容はまず東側諸国の共産党指導者に公開され,6月4日には米国国務省が公開
:ポーランドで恐怖政治を敷いたビェルトがモスクワで客死したのは“スターリン批判にショックを受けたことによる心臓発作だったと言われる”(ウィキペディア)
:毛沢東はスターリンの評価を「七分功、三分過」としてスターリン批判を批判。1960年代の中ソ対立に繋がっていく
1956年6月29日【アイゼンハワーの内政】連邦補助高速道路法施行で州間高速道路網を整備
1956年7月26日,エジプトのナーセル大統領がスエズ運河を国有化
1956年10月29日,第二次中東戦争勃発
※スエズ運河国有化に反発した英仏がイスラエルを誘ってエジプトに軍事介入
※米ソが強調して英仏・イスラエルに停戦を受け入れさせ,英国の威信が傷つく
1956年11月6日,大統領選挙でアイゼンハワーとニクソンのコンビがスティーブンソンとキーフォーヴァーのコンビに457対73選挙人で勝利,アイゼンハワー二選
1956年12月18日,日本,国際連合に加盟
1957年6月25日,日本飲料工業株式会社設立(→翌年日本コカ・コーラ株式会社に)
1957年9月の新学期に,アーカンソー州のリトルロック・セントラル高校が9名のアフリカ系アメリカ人の生徒を入学させようとしたところ,州知事が州兵を派遣してこれを阻止しようとするリトルロック高校事件が発生。リトルロック市長がアイゼンハワー大統領に軍の派遣を要請。大統領は第101空挺師団を派遣して9名を護衛して登校させる
1957年10月4日,スプートニク・ショック
※ソ連の人工衛星スプートニク1号の打ち上げ成功により,米国が科学においてソ連の後塵を拝したというショック。フルシチョフは1957年のタイムズ誌マン・オブ・ザ・イヤー
1957年10月17日,エリザベス女王が訪米(1959年にはアイゼンハワーが訪英)
1958年1月31日,米国の人工衛星エクスプローラー1号打ち上げ成功
1958年2月1日,エジプトとシリアが合邦しアラブ連合共和国に
※飛び地国家。1961年にはシリアが脱退した
1958年2月14日,イラク王国とヨルダン王国がアラブ連邦を結成
※同年7月にイラク王国が革命で倒れ,連邦は解消
1959年1月1日,キューバ革命成功し,バティスタ政権崩壊,社会主義政権に
※「ゴッドファーザーPart II」でも描かれる。確かに元日であった
1959年1月3日,アラスカ準州がアラスカ州に(49番目の州)
1959年5月24日,国務長官ダレス死去(後任は4月22日からハーター)
1959年8月21日,ハワイ準州がハワイ州に(50番目の州)
1959年9月,フルシチョフ訪米,キャンプ・デービッドで大統領と会談
1960年1月1日【アフリカの年】カメルーンがフランスから独立
1960年2月13日【公民権運動】ナッシュビル座り込み始まる(テネシー州)
※飲食店で白人席と有色人種席を分けることに反対
1960年5月1日,アメリカの偵察機ロッキードU-2がソ連上空で撃墜される。米ソ関係悪化
1960年6月23日,日米安保条約発効(署名は1月19日)
※6月19日予定のアイゼンハワー訪日に向け,日本で安保闘争が激化。6月10日,先んじて来日した大統領報道官ハガティHagertyが羽田空港に詰めかけたデモ隊から海兵隊ヘリで脱出する事件。6月15日,デモに参加していた東大生樺美智子が死去する事故。6月19日,大統領来日は延期(中止)となる(アメリカ施政下の沖縄を訪問)。6月23日,岸内閣総辞職表明(7月15日総辞職)
1960年6月30日【アフリカの年】ベルギー領コンゴが独立(→7月11日)
1960年7月11日【コンゴ動乱の始まり】コンゴからカタンガ国が分離独立,ベルギーが軍事支援
1960年9月8日,日本政府より大勲位菊花章頸飾を贈与される
1960年9月26日,大統領選挙に出馬表明しているケネディとニクソンがテレビ討論(米史上初)
1960年11月8日,大統領選挙で民主党ケネディが共和党ニクソンに303対219選挙人(得票率49.7%対49.6%の大接戦)で勝利。副大統領はリンドン・ジョンソン
:ニクソンは接戦で敗れたが,1968年の大統領選挙で勝利した。1972年の大統領選挙でも再選されたが,ウォーターゲート事件で辞任した(1974年)
:大統領選でアイゼンハワーに二度敗れた民主党スティーブンソンはケネディ政権下で国連大使となった
1961年1月17日,大統領退任演説で軍産複合体に触れる
1961年1月17日【コンゴ動乱】コンゴの初代首相ルムンバ殺害される
1969年3月28日,死去
1979年11月1日,妻マミー死去
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次回は第35代大統領ケネディです。