「アメリカ史年表1755年-1900年」の続きです。「アメリカ歴代大統領」を元にしているため,F.D.ローズベルト大統領が亡くなった1945年4月12日が切れ目となっております。
1901.3月,アギナルド,米軍の捕虜に。フィリピン軍,敗北が決定的に
※なお米軍のフィリピン軍政長官はダグラス・マッカーサーの父
※この後はゲリラ戦や蜂起が10年ほど続いた
1901-1904年,タフト(27),フィリピンの民政長官に(米比戦争1899-1902)
1901年9月,マッキンリー大統領,無政府主義に傾倒したチェルゴッシュにより銃撃され,9日後死去。T.ローズベルト政権発足(42歳10ヶ月)
※狂信的禁酒主義者キャリー・ネイション,大統領の暗殺は飲酒の罰と不謹慎発言
※北米最高峰,マッキンリー(6190m)は彼が由来であるが,2015年,オバマ大統領によりデナリが正式名称となった
※海軍力を背景にしたローズベルトの強硬外交は棍棒外交と呼ばれる
※ローズベルトは海軍の歴史について論文を書いており,海軍次官も務めている
※テレビ中継もない時代で『サイエンティフィック・アメリカン』を初め多くの科学者,雑誌がこれを信じなかった
1904年4月,セントルイス万博(-1904.12)
※マックス・ヴェーバーや岡倉天心も参加。日本は9館を開館。またジェロニモ,フィリピン先住民,アイヌなどが「人類学展示」される
1904年,アメリカ資本でパナマ運河建設開始(1914年開通)
1904年,タフト,アメリカ陸軍長官に
1904年の大統領選挙でローズベルト,民主党のパーカーに336-140で勝利,選挙でも大統領に選ばれる
1904-1905年,日露戦争
1905年7月,桂・タフト協定
※内容は「アメリカが日本の朝鮮半島の権益に口を出さず,日本がアメリカのフィリピンの権益に口を出さない」というもの
1905年9月,ポーツマス条約(日:小村寿太郎 露:ウィッテ)
1906年4月,サンフランシスコ地震。死者500~3000人
1906年,O・ヘンリー,『警官と讃美歌』を含む短編集を発表
『警官と讃美歌』ネタバレ:冬を刑務所でぬくぬくと過ごそうと犯罪を犯そうとするが,賛美歌を聞いて改心,真面目に生きようと決心した瞬間,不法侵入で捕まり刑務所へ
1906年,T.ローズベルト大統領,アメリカ人で初めてノーベル平和賞受賞(日露戦争仲裁による)
※他に平和賞受賞大統領はウィルソン,カーター,オバマ
1907年金融恐慌;取り付け騒ぎ,ニッカーボッカー信託会社倒産,株価は前年度最高値から半減,失業者300-400万人
※中央銀行がないことはアメリカ経済の脆弱性の原因とされた。連邦準備制度は1913年成立(ウィルソン政権)
1907年,マイケルソン=モーリーの実験で有名なアルバート・マイケルソン,ノーベル物理学賞を受賞(米国史上2人目)
1907年,O・ヘンリー,『最後の一葉』を含む短編集を発表
1908年3月8日,ニューヨークで女性が女性参政権を求めデモ
※3月8日は国際女性デーに
1908年,フォード・モデルT(T型フォード)発売
※流れ作業による大量生産で1927年までに1500万台生産
1908年,アメリカ連邦捜査局(FBI)設立
1908年,ジェネラルモーターズ(GM)創業
1908年の大統領選挙で共和党のタフト,民主党のブライアンに321-162で勝利
※ローズベルトは3期目は出馬しないという約束を果たしたが……
※退任したローズベルトはまだ50歳。タフトの方が1歳年上
※ブライアンは1896年,1900年,1908年に出馬して全敗。民主党ウィルソン政権で国務長官となった
1909年3月,タフト政権発足
1910年頃,共和党の中で保守派(タフト)とリベラル派・進歩派(前大統領ローズベルト)が対立
1910年10月-,チャップリン,カーノー劇団の下でアメリカ巡業
1910年,メキシコでマデロによる革命運動
1910年の中間選挙で,共和党の内部対立を受けてか,共和党は下院(下院は全員改選)で57議席を失い,民主党が多数派に
1911年,マデロ,メキシコ大統領に
※ローズベルト政権の国務長官の1人で,国際紛争の解決の調停に尽力
※日本とは高平・ルート協定(太平洋方面ニ関スル日米交換公文)
1912年の大統領選挙で共和党進歩派は進歩党を結成し前大統領セオドア・ローズベルトを擁立。共和党支持者はタフト支持とローズベルト支持に分裂しタフトは惨敗,民主党ウィルソン(28)に敗れる(ウィルソン435-ローズベルト88-タフト8)
※上の数字では共和党が分裂しなくても負けたように見えますが,分裂したため余計支持を失った可能性も。以下の記事内に,共和党分裂の風刺画があります
※一般得票率はウィルソン41.8%,ローズベルト27.4%,タフト23.2%,社会党デブス6.0%,禁酒党候補1.4%。共和党と進歩党が分裂しなければ一般投票は5割ありましたね
1913年2月,メキシコでウエルタ将軍のクーデター。マデロ殺害される
※メキシコの臨時代理公使だった堀口九萬一(堀口大學の父)はマデロの親族を公然と保護
1913年,民主党ウィルソン政権発足。国務長官は過去3回大統領選に負けたブライアン
1913年9月,チャップリン,ロサンゼルスのキーストン・スタジオと契約
1913年12月,連邦準備法。連邦準備制度成立
1914年7月,第一次世界大戦勃発
1914年,反トラスト法のクレイトン法
1914年,メキシコでパンチョ・ビリャら,ウエルタ政権を打倒
1914年,セオドア・リチャーズ,ノーベル化学賞受賞(原子量の研究)
1915年2月,サンフランシスコ万博(パナマ・太平洋万博,-1915.12)
1915年5月,ルシタニア号事件
※イギリス船籍の旅客船ルシタニアがドイツのUボートにより撃沈。アメリカ人128名を含む1198名が死亡。子どもも100名ほどいた。アメリカの対ドイツ世論悪化
※ドイツはいったん無制限潜水艦作戦を停止
1915年6月,国務長官ブライアン辞任。後任はランシング(-1920年)
※ブライアンはルシタニア号事件がアメリカの参戦に利用されることを警戒,ウィルソンがドイツに正式に抗議したため抗議の辞任
※アメリカは参戦しなかったら,11万人以上が死なずに済みました
1915年,ハイチを占領,保護国化(-1934年)
1915年,メキシコのカランサ政権をアメリカが承認。ビリャは反発,ゲリラ戦
1916年,ドミニカを占領(-1924年)
1916年,ウィルソン,メキシコのビリャに対し懲罰遠征(-1917年)
※パットン(1885-1945)が従軍して活躍
※ビリャは1923年暗殺された
※ウィルソンのカリブ諸国,メキシコへの軍事介入は中南米諸国の反発を招いた。ウィルソンは武力介入型民主主義者「リベラル・ホーク」の先駆けと言えよう
1916年の大統領選挙でウィルソン,共和党のヒューズに277-254で勝利
※T.ローズベルト,タフト,ヘンリー・フォードらも共和党の候補に立候補している
※進歩党は再びT.ローズベルトに出馬を要請したが拒否され進歩党(1912-1916)は瓦解→1924年に再結成
1917年1月,連邦議会で民主党はドライ(禁酒派)140・ウェット64,共和党はドライ138・ウェット62と,禁酒派が多数派だった。
1917年1月,ツィンメルマン電報事件
※ドイツ外相ツィンメルマン(ツィマーマン)がメキシコに,もしアメリカと戦ったらドイツは援助するという内容の電報を送り,イギリスが傍受解読した
1917年2月,ドイツ,無制限潜水艦作戦の再開を宣言
1917年4月,アメリカ,ドイツに宣戦布告
※南北戦争以来の徴兵を実施。アメリカは11万6千人もの死者を出した
※戦死約5万人,戦死以外の死者6万人(うちインフルエンザ死者2.5万人)
※負傷者20万人を含め,死傷者32万人
↓200万人が動員された
※ヘミングウェイ(1899-1961)は近視で徴兵されず,1918年,赤十字メンバーとしてイタリア戦線に派遣,瀕死の重傷を負う
※本記事のアイキャッチ画像は若き日のヘミングウェイで,以下の記事に画像があります
1917年11月2日,石井・ランシング協定
※特命全権大使石井菊次郎は元(1915-1916)外相
※中国における権益に関する日米の妥協策
アメリカは満蒙における日本の権益を認める
日本はアメリカの門戸開放宣言を支持
1917年11月7日,ロシア革命「十月革命」(「十月」は旧暦に基づく)
※ボリシェヴィキが政権奪取
※翌日「平和に関する布告」で「無賠償・無併合・民族自決」を主張,ウィルソンにも影響
1918年,ベネズエラのマラカイボ湖で油田発見
“20世紀前半には,ベネズエラやインドネシアが石油の輸出地に加わった。この当時,世界の石油生産はアメリカ,ソ連,そしてベネズエラが多く占めていた。その中でもアメリカ合衆国は約70パーセントを占めていた”(ウィキペディア「石油」)
1918年1月,ウィルソン「十四か条の平和原則」発表
1918年9月,ムーズ・アルゴンヌ攻勢(アルゴンヌの森の戦い)
※アメリカ外征軍120万人,フランス軍,シャム遠征軍が勝利するも全軍で死傷者19万
※「アメリカは1年数か月しか参戦していないのに11万人も亡くなっている。いったいどこで死んだのだ?」と言われたら,「例えばアルゴンヌの森で。またスペインかぜなど病死も多かった」と答えればいいでしょう
1918年11月,敗色濃いドイツでキール軍港の反乱→ドイツ革命勃発
※ヴィルヘルム2世,オランダに亡命
1918年11月11日,第一次世界大戦休戦
1918年,この年ベーブ・ルース,投手として10勝以上(13勝7敗),打者として10本塁打以上(11本塁打)という記録を樹立
※2022年にロサンゼルス・エンゼルスの大谷翔平が同様の記録を達成した
1919年1月,パリ講和会議始まる
※ウィルソン,国際連盟委員会委員長に
※日本全権牧野伸顕らは国際連盟規約に人種差別撤廃を明記するという「人種差別撤廃提案」をするも否決
1919年1月,禁酒法達成のための憲法修正決議は48州のうち36州で批准
1919年6月,ヴェルサイユ条約
※ドイツは1320億金マルクの賠償を課せられる(2010年に払い終えた)
※イギリスのケインズは「禍根を残す」と反対して英国大蔵省を辞任
1919年,ウィルソン,ノーベル平和賞受賞
1919年10月,ボルステッド法(国家禁酒法)
※ウィルソンは拒否権を発動したが議会により覆された
※製造・販売などは禁止だが,飲むことはお咎めなしだった
1919年10月,ウィルソン脳梗塞に倒れ,後遺症が残るが秘匿される
1919年,フーヴァー(31),出身校のスタンフォード大学(一期生だった)に5万ドルを寄付。フーヴァー研究所の始まり
※アメリカは上院が批准しなかったため参加できず
※ソ連は1934年まで参加せず(しかもフィンランド侵攻で追放)
※常任理事国は英仏伊日(1926年からドイツ)。日独は1933年脱退
1920年2月,ウィルソン,ランシングを罷免。後任はコルビー
1920年の大統領選挙で共和党のハーディング(29)が民主党のコックスに404-127で大勝
※ウィルソン及び民主党の人気はなくなっていた模様
※一般得票率は60.3%対34.1%で,米史上最も共和党と民主党の差が開いた
※足すと94.4%だが残りは社会党,禁酒党など
※やっぱり世界大戦参戦のせい?
※敗れたコックスの伴走候補(副大統領候補)はF.D.ローズベルト(32)だった
1921年3月,共和党ハーディング政権発足。国務長官は1916年の大統領選挙でウィルソンに敗れたヒューズ
※ハーディングは保守主義者として富裕層への減税,保護貿易政策を採った
1921年6月,元大統領タフト,最高裁判所長官に(-1930年)
※三権中二権のトップを務めた稀有な大統領
※行政(内閣)側の司法長官とは違うので注意
1921-1922年,ワシントン会議
・ワシントン海軍軍縮条約:米(5),英(5),日(3),仏(1.67),伊(1.67)
※日本は対米7割(3.5)を主張したが受け入れられず
※日本は陸奥の破棄を辛うじて免れる(未完成艦は破棄が原則だったが完成と主張。その代わり米・英も同様の恩恵を受けた)
・九カ国条約:米・英・蘭・伊・仏・ベルギー・ポルトガル・日・中
※中華民国の領土保全,機会均等を認める。日本の特殊権益を認めた石井・ランシング協定は破棄
・四カ国条約:米・英・日・仏
※日英同盟は破棄(1902-1923.8失効)
以上のようにワシントン会議は第一次世界大戦で台頭した日本を抑える役割を果たした
※内務長官アルバート・フォールは“刑務所に収監された初の閣僚となった”(ウィキペディア)
1922年,T.S.エリオット,長編詩『荒地』発表
1923年8月,ハーディング大統領病死。副大統領のクーリッジが昇格
1923年,電気素量の計測などによりミリカン,ノーベル物理学賞受賞
1920年代は「狂騒の20年代(Roaring Twenties)」:クーリッジ大統領は富裕層に減税し,自由放任の経済政策を採った。
“クーリッジは,民間企業に政府が介入することを一定して阻止した。ハーディングとクーリッジの管理方法で,この10年間の大半を通じて経済成長を持続させたが,この期間の自信過剰が株式市場の崩壊と世界恐慌に繋がる投機バブルを呼んだ”(ウィキペディア「狂騒の20年代」)
1924年2月,クーリッジ,ラジオ演説を行った初めての大統領に
1924年,チャールズ・ドーズによるドーズ案
※フランスの反対を米英が押し切ってドイツの賠償方式を緩和,ヴァイマル共和国を救う。仏軍によるルール占領も解消
1924年7月,1924年移民法(アジア人排除法,排日移民法)
※移民全般の数を規制し,特にアジア系移民の制限が厳しかった。「排日移民法」は日本の立場からの呼称
1924年の大統領選挙でクーリッジは民主党のデイヴィス,進歩党のラフォレットに382対136対13で勝利,選挙でも信任
※進歩党は一度崩壊していたが,同年に再結成された。一般得票率は17%あり,選挙人13名のウィスコンシン州のみ獲得した
1925年,二期目のクーリッジ政権発足。副大統領はチャールズ・ドーズ,国務長官はケロッグ
※ドーズ(ドーズ案),ケロッグ(ケロッグ=ブリアン協定)ともにノーベル平和賞を受賞した
1925年4月,フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(邦訳では『華麗なるギャツビー』とも)発表
1925年6月,チャップリン『黄金狂時代』公開
1925年,ドーズ案によりチャールズ・ドーズ,ノーベル平和賞受賞
↓ピアニスト・作曲家でもあった
1927年,コンプトン効果の発見などによりコンプトン,ノーベル物理学賞受賞
※マンハッタン計画にも参加
1928年8月,ケロッグ=ブリアン協定(パリ不戦条約)
1928年の大統領選挙にクーリッジは不出馬。共和党フーヴァーが民主党スミスに444対87で大勝
※一般得票率は58.2%対40.8%。足すと99.0%だが残りは社会党,共産党など
※ウィルソンが勝った選挙では社会党は6%(90万票)だったが今回は0.7%(26万票)と退潮。共産党は0.1%(5万人票)
1929年2月,ヤング委員会開始
※ヤングはGE(ジェネラル・イレクトリック)の会長
1929年3月,共和党フーヴァー政権発足
1929年9月1日,ヤング案遡及適用の日(発行は1930年5月)
※ドイツの賠償方式をドーズ案よりも更に緩和
1929年10月24日,ウォール街株価大暴落(ブラック・サースデー)
※世界恐慌
※第一次世界大戦での体験を基にしている
1929年,ケロッグ=ブリアン協定によりケロッグ,ノーベル平和賞受賞
※10年も経たずに第二次世界大戦が起こってしまいました
1930年6月,スムート・ホーリー関税法(ホーリー・スムート関税法)で平均40%前後の記録的な高関税に
※フーヴァー大統領の保護主義政策。報復関税もあり,アメリカの輸出入は半分以下,世界恐慌を更に悪化させた
“1933年の名目GDPは1919年から45%減少し、株価は80%以上下落し、工業生産は平均で1/3以上低落、1200万人に達する失業者を生み出し、失業率は25%に達した。閉鎖された銀行は1万行に及び、1933年2月にはとうとう全銀行が業務を停止した”(ウィキペディア「世界恐慌」)
1930年,シンクレア・ルイス,ノーベル文学賞受賞
1931年6月,フーヴァー・モラトリアム
※世界恐慌により,ドイツの賠償支払いを1年間猶予。しかし経済は好転しなかった
1931年,パール・バック『大地』を発表
※中国に対するシンパシーをアメリカ人にもたらした
1931年,ジェーン・アダムズ(社会事業家)とニコラス・バトラー(ケロッグ・ブリアン協定に貢献した平和運動家),ノーベル平和賞受賞
1932年ローザンヌ会議
※ドイツの賠償金を更に減額。ナチス政権成立により支払いは行われず
1932年の大統領選挙で「ニュー・ディール」を掲げる民主党F.D.ローズベルトがフーヴァーに472対59(得票は57.4&対39.7%)で大勝
※世界恐慌にも拘らず社会党は2.2%(88万票),共産党は0.3%(10万票)だった。「ニュー・ディール」は国家の経済介入を約束することで政府に期待させ,社会党・共産党の躍進を抑える働きもあった
※"I pledge myself to a new deal for the American people." (Wikipedia, New Deal)
※"new deal" はマーク・トウェイン『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』で,アーサー王の時代にタイムスリップするヤンキー(アメリカ北部人)の「ハンク・モーガン」が提唱する社会改革に因む(用語を大統領に紹介したのはチェイス)
1932年,ラングミュア,ノーベル化学賞受賞(表面科学)
1932年,この年ベーブ・ルース,打率.341,41本塁打,137打点を記録,所属していたヤンキースは優勝し,ワールドシリーズでもナショナルリーグのカブスに4連勝
1933年3月,民主党ローズベルト政権発足。副大統領はガーナー,国務長官はコーデル・ハル
1933年3月12日,大統領の最初の炉辺談話(ろべだんわ;ラジオ演説)
※1944年6月まで30回行われた
1933年3月27日,日本,国際連盟脱退を発表(発効は1935年)
1933年5月,農業調整法(AAA)
※過剰生産物を買い上げるなど政府が介入して農産物価格を安定化
1933年5月,シカゴ万博(-1934.10)
※不況もあってか,1893年のシカゴ万博(2750万人)より少ない2232万人
※鉄道・自動車・建築など科学技術の発展がテーマ
1933年6月,全国産業復興法(NIRA)
※1935年に最高裁が違憲判決。最高裁長官は共和党ヒューズ(2016年の大統領選挙でウィルソンに敗れた人。ハーディング・クーリッジ政権で国務長官。1930-1941年最高裁長官)
1933年9月,テネシー川流域開発公社(テネシー渓谷開発公社,TVA)設立
※現在も存続
1935年5月,公共事業推進局(WPA)
“850万人以上のアメリカ国民がWPAに雇用されて肉体労働などに従事した。 WPAの雇用した労働者の75%、およびWPAが使った支出の75%は、高速道路・街路・公共建築・空港・ダム・下水道・公園・図書館・レクリエーション空間など公共施設の建設に費やされた”(ウィキペディア)
“その他、WPAは失業した音楽家、美術家、俳優、研究者、小説家などを雇用し、芸術や出版などの分野が断絶するのを防止した”(ウィキペディア)
1935年6月,ベーブ・ルース引退
※1914年から20年以上活躍した
1935年7月,全国労働関係法(ワグナー法)
“最低賃金,最高労働時間,労働者の団結権と代表者による団体交渉権を保障し,不当解雇,御用組合,差別待遇を禁じた。 また雇用主による不当労働行為の禁止を規定した”(ウィキペディア)
1936年2月,チャップリンの『モダン・タイムス』
1936年,デューイ検事,マフィアのラッキー・ルチアーノを「公共の敵ナンバーワン」と公言。4月にルチアーノ逮捕。1945年まで投獄
※デューイ検事は1943年からニューヨーク州知事。1944年の大統領選挙で共和党候補となる
1936年11月の大統領選挙でローズベルトは共和党ランドンに60.8%対36.5%,523対8で大勝,再選。副大統領はガーナー
※この年実質GDPが1929年を上回り,景気回復が評価された
1937年7月,日中戦争勃発(いくさな(1937)がびく日中戦争)
※援蒋ルートで中国の蒋介石を支援:ビルマ公路,空輸,レド公路
1937年秋頃-1938年,1937年不況
※失業率は1937年5月の14.3%から1938年6月の19.0%に
↓の記事のグラフではこの時期に失業率が跳ね上がったものの,参戦で失業率が急低下したことが分かる
1937年11月,日独伊防共協定
1939年4月,ニューヨーク万博(-1940.10)
1939年8月,アインシュタイン,原子爆弾の開発について大統領に手紙(アインシュタイン=シラードの手紙)(大統領が手にしたのは10月)
1939年9月,第二次世界大戦勃発(ドイツのポーランド侵攻)
1940年7月-1941年5月,バトル・オブ・ブリテン
※ドイツ,空軍力によってイギリス上陸を目論むが失敗
1940年9月,日独伊三国同盟
1940年9月,日本による北部仏印進駐
1940年10月,チャップリンの『独裁者』
※アメリカ参戦前ということもあり,チャップリンに対する批判もあった
1940年11月の大統領選挙でローズベルト,共和党ウィルキーに54.7%対44.8%,449対82で大勝,3選。副大統領はウォレス
1941年3月,武器貸与法(レンドリース法)で英ソ仏中を支援
1941年6月,戦時情報局(OWI)設置
1941年7月,日本による南部仏印進駐。アメリカ,日本の在米資産凍結
1941年7月,情報調整局(OCOI)設立
※中央情報局(CIA)の前身。連邦捜査局(FBI)は1908年にできている
1941年8月,石油の対日全面禁輸
1941年11月,国務長官コーデル・ハルによるハル・ノート提示
・日本の中国・仏印からの全面撤兵
・不可侵条約の提案,資産凍結解除,通商条約再締結
1941年12月,真珠湾攻撃,日米開戦
1942年2月,伊号第十七潜水艦,カリフォルニア州沿岸の製油所付近を砲撃
1942年2月,「ロサンゼルスの戦い」
“アメリカ陸軍が日本軍の航空機の襲来があったと誤認し、多数の対空砲火を行った「ロサンゼルスの戦い」が発生した”(ウィキペディア)
1942年2月,ボイス・オブ・アメリカ(VOA)放送開始
1942年5月,珊瑚海海戦
1942年6月,ミッドウェー海戦
1942年6月,情報調整局(OCOI),戦略情報局(OSS)に改組
※中央情報局(CIA)の前身
1942年8月-1943年2月,ガダルカナル島の戦い
※日本軍撤退,死者2万人
1942年8月8日,第一次ソロモン海戦
1942年8月24日,第二次ソロモン海戦
1942年10月,南太平洋海戦(サンタ・クルーズ諸島海戦)
1942年11月,第三次ソロモン海戦
1943年1月,カサブランカ会談(ローズベルト,チャーチル)
1943年,ロスアラモス国立研究所設立,初代所長オッペンハイマー
1943年9月8日,イタリア無条件降伏
1943年11月22日-,カイロ会談(ローズベルト,チャーチル,蒋介石)
※日本の処遇を話し合う。日ソ中立条約によりスターリンは不参加
1943年11月28日-,テヘラン会談(ローズベルト,チャーチル,スターリン)
1943年12月,アメリカで世界恐慌終結宣言。参戦で失業問題がほぼなくなり,公共事業推進局解散
1944年2月,米軍,マーシャル諸島(日本の委任統治領)を占領
1944年4月,米陸軍航空軍,スイスのシャフハウゼンを誤爆,死者40名
1944年6月6日,ノルマンディー上陸作戦
1944年6月,サイパンの戦いで日本軍全滅,戦死3万
1944年6月,マリアナ沖海戦
1944年7月,東条英機内閣総辞職,小磯國昭内閣に(-1945.4)
1944年8月10日,グアムの戦いで日本軍全滅
1944年8月22日,米軍の魚雷による対馬丸沈没事件
1944年8月25日,連合軍パリを解放
1944年9月頃,財務長官モーゲンソーによるモーゲンソー計画
※ドイツから工業を奪って農業国にし,二度を戦争をさせないようにするという計画。余りに過激で,またソ連の脅威もあるため放棄された
※ユダヤ系アメリカ人であったモーゲンソーは難民政策によって20万人のユダヤ人を難民として救った
1944年10月,レイテ島の戦いで日本軍戦死8万
1944年10月,レイテ沖海戦
1944年10月,フィリピンの戦い始まる
1944年11月の大統領選挙でローズベルト,共和党デューイに53.4%対45.9%,432対99で大勝,4選。副大統領はトルーマン(33)
1944年12月,バルジの戦い(アルデンヌ攻勢,ルントシュテット攻勢)。米軍(アイゼンハワー)主体の84万対独軍50万。米軍戦死者8607名
1945年1月,米軍,ルソン島に上陸,ルソン島の戦い(-1945.8.15)始まる
1945年2月4日-,ヤルタ会談(ローズベルト,チャーチル,スターリン)
1945年2月19日-,硫黄島の戦い
1945年3-5月,東京大空襲
1945年3月26日-,沖縄戦
1945年4月7日,坊ノ岬沖海戦で戦艦大和沈没
1945年4月7日,小磯國昭内閣総辞職,鈴木貫太郎内閣に(-1945.8)
1945年4月12日,ローズベルト死去,トルーマンが大統領に昇格
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取り急ぎ1945年4月12日まで作りました。今後は適宜の加筆と,トルーマン大統領の執筆に取り掛かることになります。