フレイニャのブログ

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アメリカ歴代大統領9-11(ハリソン-タイラー-ポーク)

アメリカ歴代大統領7-8』の続きです。今回は3代やります。

 

(9)ウィリアム・ハリソン(1773-1841;1841.3-1841.4)

アメリカ史上最短任期の大統領

本人は1ヶ月で任期を終えてしまったが,子だくさんであり,が……?

1630年,イギリス人ベンジャミン・ハリソン,新大陸のジェームズタウンに(1625年に亡くなったジェームズ1世に因む)。これがハリソン家の先祖

1773.2 バージニア植民地のプランテーションで生まれる。アメリカ独立宣言(1776.7.4)前に生まれた最後の大統領

※先代のビューレン(1782-1862)は独立宣言後に生まれた最初の大統領であり,ハリソンの方がビューレンより年上である(ビューレンは1860年のリンカン当選時も生きていた)

※ある意味バージニア王朝の系統であるが,普通は第5代モンローまでが「バージニア王朝」と言われる

※父ベンジャミン・ハリソン5世アメリカ独立宣言に署名した1人で,バージニア州知事(1781-1784)も務めた人物

1790年 ペンシルヴェイニア大学に入学,内科を学ぶ

あまり学問は楽しまず,まもなく陸軍に入隊

1812年-の米英戦争で活躍し国民的英雄にアンドリュー・ジャクソンに似ている)

戦後,民主共和党に属し,下院議員や上院議員

1836年の大統領選挙ホイッグ党はハリソン,ホワイト,ウェブスター,マンガムという4人を候補に立て,対立候補ビューレン(民主党過半数を阻止し,決戦で勝つという奇策に出たが,4人合わせてもビューレンの過半数を阻止できず敗北。ビューレンが大統領に

1840年大統領選挙ホイッグ党は候補をハリソンに一本化。234対60でビューレンに大勝,1期で引きずり下ろす(ビューレンは1837年に始まる恐慌対策に苦しんだ)

1841年3月4日,非常に寒い中2時間の就任演説を行う。68歳での就任は当時最高齢記録

1841年4月4日,肺炎で死去。就任演説との因果関係は不明

※「テカムセの呪い」の1人目(1840年選出。次は1860年選出のリンカン)

副大統領のジョン・タイラーが大統領に昇格

1841年,エドガー・アラン・ポー,『モルグ街の殺人』を発表(刊本は1843)

1889年,孫のベンジャミン・ハリソン,第23代大統領にアメリカ史上唯一の祖父-孫大統領

 

(10)ジョン・タイラー(1790-1862;1841-1845)

※未来からやって来た男ジョン・タイターと混同注意

ja.wikipedia.org

副大統領から昇格した初の大統領

1790年,バージニア州で生まれる。父はタバコプランテーション

ウィリアム・アンド・メアリー大学に入学(ジェファーソン,モンローと同じ)

連邦下院議員に

1808-1811年,父ジョン・タイラー・シニア,バージニア州知事

1825-1827年バージニア州知事に。父子ともに民主共和党

1840年大統領選挙ホイッグ党ウィリアム・ハリソン民主党のビューレンに勝利。ジョン・タイラーは副大統領に

1841年4月,大統領ウィリアム・ハリソン,肺炎で死去。タイラーが大統領に昇格

※当時の合衆国憲法では「副大統領が昇格する」と厳密に定まっていなかったため批判も

ホイッグ党(党首ヘンリー・クレイ)と政策を巡って対立,党から除名される。「政党を持たざる男」に

1841年6月,遭難していた中濱萬次郎鳥島アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助される

1841-1842年,ドアの反乱(Dorr Rebellion)。唯一白人男子普通選挙がなかったロードアイランド州でトーマス・ドアらが白人男子普通選挙を求めて武装蜂起

※ドアは生涯の労役刑を宣告されたが,厳しすぎると大衆が怒り,12ヶ月服役したのち釈放された。しかし健康を害し,50歳手前で亡くなった

1842年,妻のレティティア死去

1843年,エドガー・アラン・ポー,『黄金虫』を発表(刊本は1845)

1843年,中濱萬次郎アメリカに上陸

1844年,ジュリアと結婚。レティティアと8人,ジュリアと7人の子をもうけ,歴代大統領で最も子が多い。1人だけの妻ともうけた子の数では先代のウィリアム・ハリソンの10人が最多である。その3番めのジョンの,2番めの子であるベンジャミンが大統領になるのであった

1845年,大統領を退任

1861年アメリカ連合国(CSA),アメリカ合衆国から分離独立ジョン・タイラーアメリカ連合国に加わったバージニア州の代表人16人の1人に老齢(70歳過ぎ?)ながら選ばれる

1862年,死去

 

(11)ジェームズ・ポーク(1795-1849;1845-1849)

1795年,ノースカロライナ州に生まれる。父は農家で奴隷も所有

1818年,ノースカロライナ大学を卒業,弁護士に

1825-1839年連邦下院議員(1835-1839は下院議長も)

1839-1841年,テネシー州知事

1844年の大統領選挙に際し,民主党の候補者選びでポークがビューレンに勝つ。ポークは大統領候補者としては知名度は低かったが,170対105でホイッグ党ヘンリー・クレイに勝利し,政権をホイッグ党から民主党に奪還

※ポークは最初から1期で辞めるつもりだったという

1845年,テキサス併合メキシコ合衆国から独立していたテキサス共和国が自発的にアメリカ合衆国に加盟

※メキシコ大統領サンタ・アナは「テキサスを併合したら開戦」とまで言っていたが,1844年12月に失脚して戦争には至らなかった

しかし1846年4月,国境争いから米墨戦争が勃発。ザカリー・テイラー将軍が活躍

※まだカリフォルニアはメキシコ領であった

※メキシコはこの戦争で現在のカリフォルニア州ネバダ州,ユタ州を初め,国土の1/3をアメリカに割譲。アメリカは代償として1500万ドルを支払い325万ドルの債権放棄をした

アメリカ軍は戦死1700名のほか,感染症で1万名ほどが亡くなった

(1847年,松平昭致(あきむね),一橋家を相続して徳川慶喜に)

1848年,カリフォルニアでゴールドラッシュ始まる

NFLフォーティーナイナーズ49ers)は1849年に金採掘に殺到した人々に由来する

※ジョン万次郎(中濱萬次郎)も日本に帰る資金を集めるため金鉱で働いた

1849年3月,大統領を退任

1849年6月,死去。ポークは合衆国の領土を大幅に拡げた「強い大統領」であり,最も公約(テキサス併合など)を果たした大統領とも言われ,その激務の故に短命であった(50代前半で死去)

妻サラは1891年まで生きた

↓ポークが拡げた領土

ja.wikipedia.org

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ウィリアム・ハリソンジョン・タイラーは「子だくさん大統領」,ジェームズ・ポークは「合衆国の領土を西へ拡げた大統領」ですね。この3人で8年しか経っていません。

次回は(12) ザカリー・テイラー,(13) ミラード・フィルモア,(14) フランクリン・ピアースをやります。実はこの3人も,合わせて8年なのです。

 

↓今回のアイキャッチ画像の在り処(ウィキペディア英語版,William Henry Harrison)

en.wikipedia.org

 

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