『アメリカ歴代大統領5-6』の続きです。
(7)アンドリュー・ジャクソン(1767-1845;1829-1837)
「血まみれアンドリュー・ジャクソン(Bloody Bloody Andrew Jackson)」と後世に言われてしまった大統領
1767年,ノースカロライナとサウスカロライナの中間のワクスホー(Waxhau)に生まれる。父は3週間前に事故死
1780年,ワクスホーの戦いでイギリス軍,植民地軍に完勝。降伏した者が殺され「ワクスホーの虐殺」とも。アンドリュー・ジャクソンを含め南部の人々にイギリスへの憎悪が芽生える
1781年,おじの家にいたときに兄ロバートと共にイギリス人に捕らえられる。2人とも天然痘に罹り,餓死寸前の生活を強いられる。兄ロバート死去
1781年,母親コレラで死去。アンドリュー・ジャクソン14歳
鞍職人,学校教員を経て法律を学び,1787年,法曹界に認められ,辺境の弁護士としてはやっていけるように
地方政府の法務官に
1791年,レイチェルと結婚(元夫との離婚成立を受け)
1794年,レイチェルと結婚(1791年に元夫との離婚は正式に成立しておらず。この年に正式に結婚)。この件はジャクソン夫妻に対する誹謗中傷の的となった。子宝には恵まれず,甥(アンドリュー・ジャクソン・ジュニア)やインディアンの子(10代で結核で死去)を養子とする
1796年,テネシー州下院議員に
1801年,テネシー州市民軍の大佐に
奴隷主・農園主・商人・土地投機者としても成功
1806年,妻レイチェルを中傷したチャールズ・ディキンソンに決闘を申し込む。共に胸に銃弾を受けディキンソンは死亡,ジャクソンは銃弾を取り出すには危険すぎて銃弾を残したまま一生を過ごした
1807年8月,アメリカの発明家フルトン,蒸気船公開実験。9月,週一往復で営業開始(ニューヨーク-オールバニ間)
1812年,米英戦争勃発。インディアン諸部族は敵味方に別れた
1814年,ホースシュー・ベンドの戦いを指揮し,クリーク族の1000名中800名を殺害
1814年12月,ガン(ヘント)条約で米英戦争集結
1815年1月,停戦の知らせが間に合わず,ニューオーリンズの戦いを指揮し,奇襲などでほぼ倍の数のイギリス軍に勝利。イギリス軍は死傷者約1500,捕虜約500,計2000。ジャクソンは国民的英雄に
1817年,エリー運河建設開始
1818年,ジャクソン,スペイン領フロリダに侵入,セミノール族を虐殺
1821年,スペイン,フロリダをアメリカに売却(1822年に準州に)
1824年,大統領選挙でジョン・クインシー・アダムズ(84票)を上回る99票を得るも決戦で敗れ大統領になれず
※6州を除き,初めて資産に関係なく全ての自由白人が投票できた
1825年,エリー運河運用開始
1828年,大統領選挙でジョン・クインシー・アダムズに勝利したが,同年レイチェルが死去。ジャクソンは,アダムズ陣営から中傷を受けた心労が原因とみなしてアダムズを憎む。ファースト・レディの代わりは姪のエミリー・ドネルソンや養子ジュニアの妻サラ・ジャクソンが務めた
1828年,現在に繋がる民主党設立。ジャクソンは民主党初の大統領
1830年,「インディアン移住法」成立。インディアンの西部への半強制的な移住を促す
1830年12月,サウスカロライナ運河鉄道で蒸気機関車「ベスト・フレンド・オブ・チャールストン」が営業開始
1830年代,ジャクソニアン・デモクラシー(ジャクソン流民主主義)進む:白人成年男子普通選挙制の普及(女性・黒人の選挙権はまだまだ先)
1832年,大統領選挙でジャクソン,国民共和党のヘンリー・クレイに大勝し再選
1833年,ロバート・ランドルフによる大統領殴打事件(作家のワシントン・アーヴィングも目撃)。告発はせず
1834年,国民共和党ヘンリー・クレイ,ホイッグ党を結成(共和党の前身)
1834-1836年,経済拡大,バブルの様相
1835年,リチャード・ローレンスによる大統領暗殺未遂事件(ピストル,不発)。初の大統領暗殺未遂事件
1836年,メキシコ共和国からテキサス共和国が独立
1837年3月,大統領辞任
1837年5月頃,1837年恐慌。失業率25%,デフレ不況
※ジャクソン時代の経済拡大・バブルが原因であったが後任のヴァン・ビューレンが批判された
1838年,チェロキー族15000名,オクラホマへ移住,4000名が命を落とす(涙の道:Trail of Tears)
1845年,死去
(8)マーティン・ヴァン・ビューレン(1782-1862;1837-1841)
・アメリカ独立宣言(1776.7.4)以降に生まれた初めての大統領
・民主党ジャクソンの後継。ジャクソニアン・デモクラシーを推し進める
1631年,ビューレンの5世祖父,オランダからアメリカに移住
1782年,ニューヨーク州オールバニ近郊の村で生まれる。20人兄弟。父は農夫で居酒屋経営。奴隷は6人いた
1796年,14歳までにラテン語など基礎教育を終え,法律の勉強を始める
1803年,弁護士に
1807年,オランダ系のハンナと結婚
1819年,妻ハンナ,結核で死去(35歳)。再婚はせず
1821年,上院議員
1828年,大統領選挙でのアンドリュー・ジャクソン勝利に貢献。ジャクソン政権下で国務長官に(1829-1831)
1832年,大統領選挙でアンドリュー・ジャクソン再選。ビューレンは副大統領に
1836年,大統領選挙で民主党のビューレンがホイッグ党の4名の候補者を破り大統領に。ホイッグ党は各地域でそれぞれビューレンに勝利し,ビューレンの過半数を阻止して決戦でホイッグ党が勝利するという奇策だった。しかしビューレンは獲得選挙人170で,ホイッグ党4人の合計124を上回り,過半数を獲得した。副大統領に関しては23人の選挙人を抱えるバージニア州が民主党副大統領候補ジョンソンへの投票を拒否し,170-23で147票になってしまい(全体は294なので丁度半分),過半数にならず決選投票となった。それでも決戦でジョンソンが勝利した。
1837年恐慌(失業率25%)への対応に苦しむ
1838年,アルーストック戦争。イギリス領カナダとアメリカメイン州の国境紛争
1840年,大統領選挙で今度はホイッグ党が候補者を1人に絞り,同党のウィリアム・ハリソン勝利,第9代大統領に。敗れたビューレンは1期で終わったが,大統領を諦めていなかった
1841年,ウィリアム・ハリソン大統領,任期1ヶ月で病死(最短記録)。副大統領ジョン・タイラーが昇格(第10代)
1844年,大統領選挙。ビューレンは民主党大統領候補の地位を目指すが,民主党大会でポークに敗れる。大統領選ではポークが勝利,ホイッグ党から政権を取り返す(第11代)
1848年,大統領選挙。ビューレンは第3政党の自由土地党の大統領候補者に選ばれる。しかし大統領選挙では1選挙人も取れなかった(ホイッグ党のザカリー・テイラーが勝利して第12代)
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1860年,大統領選挙で共和党リンカン勝利。リンカンは共和党初の大統領
1862年,肺炎がもとで死去
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ジャクソン,ビューレンの時代は白人成年男子普通選挙といったジャクソン流民主主義が進んだ一方,「涙の道」に象徴されるインディアン強制移住も進みました。またビューレンの時代は「1837年恐慌」と言われるデフレ不況の時期でもありました。
またこの2人は妻を大統領就任前に亡くした大統領でした。ジャクソンは自分が大統領に選出された年に亡くなり,ビューレンは結核で妻を亡くしました。2人共再婚はしませんでした。
次回は第9代ハリソン,第10代タイラー,第11代ポークをやります。アメリカ大統領最短任期記録(もう書いちゃってますが)や,カリフォルニアのゴールド・ラッシュの時代ですよ!