「アメリカ歴代大統領27-28」の続きです。
(29)ウォレン・ハーディング(1865-1923;1921-1923)
・任期中に病死(ウィリアム・ハリソン,ザカリー・テイラー)した3人目の大統領
・暗殺された大統領(リンカン,ガーフィールド,マッキンリー)を含めると,任期中に死去した6人目の大統領
1865年,オハイオ州で8人兄妹の長子として生まれる。父は農家・教師,母は国家免許を持つ助産師。父はのち医師免許を取り開業
1870年,一家は同州カレドニアに転居し,父は地元紙(週刊新聞)The Argus を買収。ウォレンはそこで新聞経営を学ぶ
※カレドニアはスコットランドの古名。ここの最初の植民者にスコットランド系移民が多かった
↓医師,経営者として成功した父
1879年,父の母校オハイオセントラルカレッジに入学。最終学年の時新聞を出版
1882年,卒業。卒業後 The Marion Star 誌を買収。またマリオン市の成長に伴い投資家としても成功
1891年,フローレンス・クリングと結婚
1900-1904年,オハイオ州知事フォラカーや上院議員マーク・ハンナらの支援で州議会議員に
1910-1912年頃,共和党がタフト派とT.ローズベルト派に分裂。ハーディングはタフトを支持。しかし共和党は敗れ,大統領は民主党ウィルソンに
1917年,アメリカ,ドイツに宣戦布告。1年数か月でアメリカ人11万人が命を落とす
1920年の大統領選挙で民主党のコックスに404-127で大勝,大統領に。副大統領はクーリッジ。敗れた副大統領候補はF.D.ローズベルトだった
※一般得票率は60.3%対34.1%で,米史上最も共和党と民主党の差が開いた
※足すと94.4%だが残りは社会党,禁酒党など
※民主党大敗は世界大戦参戦のせい?
※ハーディングは保守主義者として富裕層への減税,保護貿易政策を採った
1921-1922年,ワシントン会議
・ワシントン海軍軍縮条約:米(5),英(5),日(3),仏(1.67),伊(1.67)
※日本は対米7割(3.5)を主張したが受け入れられず
※日本は陸奥の破棄を辛うじて免れる
・九か国条約:米・英・蘭・伊・仏・ベルギー・ポルトガル・日・中
※中華民国の領土保全,機会均等を認める。日本の特殊権益を認めた石井・ランシング協定は破棄
・四か国条約:米・英・日・仏
※日英同盟は破棄
以上のようにワシントン会議は第一次世界大戦で台頭した日本を抑える役割を果たした
※内務長官アルバート・フォールは “刑務所に収監された初の閣僚となった”(ウィキペディア)
1922年,T.S.エリオット,長編詩『荒地』発表
1923年8月,ハーディング大統領病死。副大統領のクーリッジが昇格
(30)カルヴィン・クーリッジ(1872-1933;1923-1929)
・昇格した6人目の大統領
・無口で有名だった大統領(Silent Cal)※Cal=Calvin
・「クール (cool) なクーリッジ (Coolidge)」
1872年7月4日,バーモント州で生まれる。父はビジネスマン,バーモント州議会議員を務めた政治家
※全くの偶然であるが,アメリカ独立記念日に生まれた唯一の大統領
※同州のウィリアムズ大学とアマースト大学はリベラルアーツの部門で全米1位,2位を争う名門校
※アマースト卒業生:J.E.スティグリッツ(2001年ノーベル経済学賞),チャールズ・メリル(1914年メリルリンチ創業),タルコット・パーソンズ(社会学者),ダン・ブラウン(ダヴィンチ・コードの著者),クラーク博士,内村鑑三,新島襄
1898年,マサチューセッツ州ハンプシャー郡ノーサンプトン市で弁護士を開業
1899年,市会議員
1905年,グレースと結婚
1907-1909年,マサチューセッツ州下院議員
1910-1912年,ノーサンプトン市長
1912-1915年,マサチューセッツ州上院議員(1914-1915上院議長)
1916-1919年,マサチューセッツ州副知事
※大統領になれなかった同州知事:マイケル・デュカキス(ギリシア系。1988年に共和党パパブッシュに敗れる),ミット・ロムニー(2012年に民主党バラク・オバマに敗れる)
1921-1923年,合衆国副大統領に(大統領は共和党ハーディング)
1923年8月,ハーディング大統領急死,大統領に昇格
1923年,電気素量の計測などによりミリカン,ノーベル物理学賞受賞
1920年代は「狂騒の20年代(Roaring Twenties)」:クーリッジ大統領は富裕層に減税し,自由放任の経済政策を採った。
“クーリッジは、民間企業に政府が介入することを一定して阻止した。ハーディングとクーリッジの管理方法で、この10年間の大半を通じて経済成長を持続させたが、この期間の自信過剰が株式市場の崩壊と世界恐慌に繋がる投機バブルを呼んだ”(ウィキペディア「狂騒の20年代」)
1924年2月,ラジオ演説を行った初めての大統領に
1924年,チャールズ・ドーズによるドーズ案
※フランスの反対を米英が押し切ってドイツの賠償方式を緩和,ヴァイマル共和国を救う。仏軍によるルール占領も解消
1924年,二男ジュニアを病気で失う(長男は2000年,93歳まで生きた)
1924年7月,1924年移民法(アジア人排除法,排日移民法)
※移民全般の数を規制し,特にアジア系移民の制限が厳しかった。「排日移民法」は日本の立場からの呼称
1924年の大統領選挙でクーリッジは民主党のデイヴィス,進歩党のラフォレットに382対136対13で勝利,選挙でも信任
※進歩党は一度崩壊していたが,同年に再結成された。一般得票率は17%あり,選挙人13名のウィスコンシン州のみ獲得した
1925年,二期目のクーリッジ政権発足。副大統領はチャールズ・ドーズ,国務長官はケロッグ
1925年4月,フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(邦訳では『華麗なるギャツビー』とも)発表
1925年6月,チャップリン『黄金狂時代』公開
1925年,ドーズ案によりチャールズ・ドーズ,ノーベル平和賞受賞
↓ピアニスト・作曲家でもあった
1927年,コンプトン効果の発見などによりコンプトン,ノーベル物理学賞受賞
※マンハッタン計画にも参加
1928年8月,ケロッグ=ブリアン協定(パリ不戦条約)
1928年の大統領選挙は不出馬。共和党フーヴァーが勝利
1929年,ケロッグ=ブリアン協定によりケロッグ,ノーベル平和賞受賞
※10年も経たずに第二次世界大戦が起こってしまいました
1932年の大統領選挙で民主党のF.ローズベルトが現職フーヴァーに勝利。自由放任主義のクーリッジは落胆したという
1933年,病死。60歳
(31)ハーバート・フーヴァー(1874-1964;1929-1933)
・「フーヴァー・モラトリアム」が有名
・世界恐慌にはほぼ無策だった
1874年,アイオワ州で生まれる。父は鍛冶屋・商人。父母はクエーカー教徒
1885年,オレゴン州のおじの許へ。働きながら学ぶ
1891年,同年設立のスタンフォード大学(カリフォルニア州)の1期生として入学。地質学専攻
1895年,卒業。鉱山技師となり,中国(清)へ
1899年,ルイーズと結婚
1900年,清で義和団の乱に遭う
1917年,ウィルソン大統領はフーヴァーをアメリカ合衆国食品局(1917-1920)の長に任命
1919年,スタンフォード大学に5万ドルを寄付(フーヴァー研究所の始まり)
※第一次世界大戦の資料を集めたライブラリーに
1921-1928年,商務長官(ハーディング-クーリッジ政権)
※商務長官は1913年,ウィルソン政権時に設立。フーヴァーは3代目
※フーヴァーは革命後ソ連,戦後ドイツに食糧支援
1928年の大統領選挙で民主党スミスに444対87で大勝
※一般得票率は58.2%対40.8%。足すと99.0%だが残りは社会党,共産党など
※ウィルソンが勝った選挙では社会党は6%(90万人)だったが今回は0.7%(26万人)と退潮していますね。共産党は0.1%(5万人弱)
1929年2月,ヤング委員会開始
※ヤングはGE(ジェネラル・イレクトリック)の会長
1929年9月1日,ヤング案遡及適用の日(発行は1930年5月)
※ドイツの賠償方式をドーズ案よりも更に緩和
1929年10月24日,ウォール街株価大暴落(ブラック・サースデー)
※世界恐慌
※第一次世界大戦での体験を基にしている
1930年6月,スムート・ホーリー関税法(ホーリー・スムート関税法)で平均40%前後の記録的な高関税に
※フーヴァー大統領の保護主義政策。報復関税もあり,アメリカの輸出入は半分以下,世界恐慌を更に悪化させた
“1933年の名目GDPは1919年から45%減少し、株価は80%以上下落し、工業生産は平均で1/3以上低落、1200万人に達する失業者を生み出し、失業率は25%に達した。閉鎖された銀行は1万行に及び、1933年2月にはとうとう全銀行が業務を停止した”(ウィキペディア「世界恐慌」)
1930年,シンクレア・ルイス,ノーベル文学賞受賞
1931年6月,フーヴァー・モラトリアム
※世界恐慌により,ドイツの賠償支払いを1年間猶予。しかし経済は好転しなかった
1931年,パール・バック『大地』を発表
※中国に対するシンパシーをアメリカ人にもたらした
1931年,ジェーン・アダムズ(社会事業家)とニコラス・バトラー(平和運動家。ケロッグ・ブリアン協定に貢献),ノーベル平和賞受賞
1932年ローザンヌ会議
※ドイツの賠償金を更に減額。ナチス政権成立により支払いは行われず
1932年の大統領選挙で「ニュー・ディール」を掲げる民主党F.D.ローズベルトがフーヴァーに472対59(得票は57.4&対39.7%)で大勝
※世界恐慌にも拘らず社会党は2.2%(88万人),共産党は0.3%(10万人)だった。「ニュー・ディール」は国家の経済介入を約束することで政府に期待させ,社会党・共産党の躍進を抑える働きもあった
1932年,ラングミュア,ノーベル化学賞受賞(表面科学)
1932年,この年ベーブ・ルース,打率.341,41本塁打,137打点を記録,所属していたヤンキースは優勝し,ワールドシリーズでもナショナルリーグのカブスに4連勝
1933年3月,フーヴァー大統領を退任,ローズベルト政権発足
フーヴァーは多数の本を書き,ローズベルトとその政策を徹底的に批判
1936年の大統領選挙でローズベルト大勝(フーヴァーは共和党候補になれず)
1938年,ヒトラーやゲーリングに会う。ユダヤ人を迫害するヒトラーをフーヴァーは頭がおかしいと考えたが,日本を挑発するローズベルト大統領の方が,ヒトラーよりもアメリカにとって危険と考えた
1940年の大統領選挙でローズベルト大勝(フーヴァーは共和党候補になれず)
1944年の大統領選挙でローズベルト大勝。ローズベルト,空前絶後の4選
1945年4月,ローズベルト死去,トルーマン昇格
1947年1月,フーヴァー使節団,ドイツの食糧事情を視察
※第二次世界大戦後のドイツを農業国にしてしまえというモーゲンソー計画を批判
1947年9月,フーヴァー委員会(行政改革に関して)※トルーマン政権
1953年,第2次フーヴァー委員会(行政改革に関して)※アイゼンハワー政権
1964年,90歳で死去
“大恐慌のときに有効な手を打てなかったので、大統領としての評価は低い。だが、自身が大統領になる前にウィルソン、ハーディング、クーリッジの下で閣僚として働き、第二次世界大戦後はトルーマン、アイゼンハワーの下で働いた”(ウィキペディア「ハーバート・フーヴァー」)
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共和党員でありながら民主党政権でも採用されたというのは彼に一定の評価があったことを窺わせますね。
次回はフランクリン・デラノ・ローズベルト(第32代)です。
↓次回はこちら