「アメリカ歴代大統領17-18」の続きです。
(19)ラザフォード・ヘイズ(1822-1893;1877-1881)
※1選挙人差(185-184)で勝った大統領
1822年,オハイオ州デラウェアで生まれる。雑貨店経営の父は10ヶ月前に逝去,母ソフィアが育てる。叔父(母の弟)が父親的存在に
※オハイオ州デラウェアとデラウェア州は場所が異なる。デラウェア湾・デラウェア川よりデラウェア州,またデラウェア族(レナペ族)が命名され(デラウェアはバージニア植民地総督のデラウェア男爵トマス・ウェストに由来),デラウェア族からオハイオ州デラウェアが命名された
1838年,オハイオ州のケニオン大学に入学(同州出身の俳優ポール・ニューマンが卒業)
1842年,卒業。卒業生総代
1843年,ハーバード・ロー・スクールに入学
1845年,法律事務所開業
1852年,ルーシーと結婚
1864年,准将
1865年,少将に名誉昇進(南北戦争で5回重傷を負った)
1868-1872年,オハイオ州知事。オハイオ農工大学を支援
1876.7.4 アメリカ独立宣言100周年
1876年の大統領選挙で民主党のティルデンに185-184で勝利
※稀に見る僅差であるが,南部のフロリダ,ルイジアナ,サイスカロライナ(この3州で19選挙人分あった)は,共和党ヘイズの当選を認める代わりに,南部から連邦軍を引き上げさせるという妥協(1877年妥協)があったという見解が強い。この妥協の犠牲になったのは黒人である(南部占領軍に平等派が多かったため)
“ヘイズは「黒人の権利は、南部白人に委ねたほうが安全である」と発言した”(ウィキペディア)
1877年,エジソンの蓄音機登場
1878年,パリ万博にて自由の女神(作成中)の頭部が展示される
1880年の大統領選挙で共和党のガーフィールドが民主党のハンコックに214-155で勝利
1889年,妻死去
1893年,死去
(20)ジェームズ・ガーフィールド(1831-1881;1881.3-1881.9)
※リンカンに続き暗殺された2人目の大統領
1833年,父死去,貧困生活に。16歳の時船員として働く
1850年,洗礼を受ける
1851年,ウェスタン・リザーブ折衷学研究所(Western Reserve Eclectic Institute)に学ぶ
※後のハイラム大学。ウェスタン・リザーブは「西部保留地」のこと
“最も博学の大統領で、片手でラテン語、もう一方の手でギリシャ語を同時に書くことができた”(ウィキペディア)
1858年,ルクレティア・ルドルフと結婚
1861年,南北戦争勃発。北軍に入隊。指揮官となり,最終的には少将に
1880年の大統領選挙で共和党のガーフィールドが民主党のハンコックに214-155で勝利
1881年7月,ギトーにより銃撃される
“ギトーは、自分が選挙活動でガーフィールドを応援した見返りを求めていたが、彼は何の役職にも就けず、この一件で大いにガーフィールドを恨んだ”(ウィキペディア)
1881年9月,死去
1907-1909年,息子のジェームズ・ルドルフ・ガーフィールド,セオドア・ルーズベルト内閣の内務長官に
1918年,妻死去
(21)チェスター・アーサー(1829-1886;1881-1885)
※ジョン・タイラー,ミラード・フィルモア,アンドリュー・ジョンソンに次いで4人目の昇格した大統領
主に労働者階級向けの教育運動,ライシーアム(lyceum)にて学ぶ
1845年,ニューヨーク州スケネクタディのユニオン大学に進学
1848年,フラタニティのファイ・ベータ・カッパ(ΦΒΚ)のメンバーに(他にジョン・クィンジー・アダムズ,ナサニエル・ホーソーン,ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー,R.W.エマーソン,前大統領ガーフィールド,セオドア・ルーズベルトなど)
1851年,弁護士を開業
1861年,南北戦争勃発。アーサーは准将(brigadier general)になるなど活躍
ニューヨーク税関の地位を得るもラザフォード・ヘイズ大統領と対立し職を追われる
1880年の大統領選挙で共和党のガーフィールドが民主党のハンコックに214-155で勝利。アーサーは副大統領に。なお,既に1869-77と2期務めているグラント前大統領も3期目の大統領指名を求めたがガーフィールドに敗れている
1881年7月,ガーフィールド銃撃され,9月死去。アーサーが大統領に昇格
1882年,エジソン,ニューヨークのマンハッタン,パールストリート255-257に石炭火力発電所パールストリート・ステーションを建設
1883年,公務員改革のペンドルトン法(Pendleton Civil Service Reform Act)可決
※公務員を試験で選ぶという至極まっとうな法律。公務員が政党に資金提供することを禁止。要するに従来は「猟官制」というものがまかり通っていた
1884年の大統領選挙の共和党候補指名でアーサーはブレインに敗れる。大統領選挙は民主党のクリーブランドがブレインを219-182で破り勝利
※美食家でありパーティー好きだったアーサーは腎臓を悪くしていた
1884年,ニコラ・テスラ(1856-1943),アメリカで働き始めるもエジソンと対立
1885年,大統領を退任
1885年,マーク・トウェイン,『ハックルベリー・フィンの冒険』を発表
1886年,健康が悪化し,死去
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次回は第22代クリーブランド(民主党),第23代ハリソン(共和党),第24代クリーブランド(民主党)です。
アイキャッチ画像は「ヘイズ大統領によりニューヨーク税関を追われるアーサー」です。以下の記事や,アーサー大統領の英語版記事にあります。