「アメリカ歴代大統領25-26」の続きです。
(27)ウィリアム・タフト(1857-1930;1909-1913)
・「桂・タフト協定」(1905年)のタフト
・「タフト・ハートリー法」(1947年)のタフトは彼の息子
・大統領と最高裁長官(大統領退任後)を務めた稀有な人物
1857年,オハイオ州シンシナティ生まれ。父はグラント政権で陸軍長官,司法長官を歴任したアルフォンソ・タフト。なおアルフォンソは1番目の妻を亡くし,2番目の妻の2人目の子がウィリアムだった(全体で10人中7番目)
1874年,イェール大学に進学,父が結成に関わった秘密結社スカル&ボーンズに入会
※ブッシュ,パパブッシュ,祖父ブッシュもS&Bのメンバー
※タフトは巨漢(182cm 140kg)でレスリングで活躍した。生涯を通じて体躯のことをいろいろ言われたらしい。ホワイトハウスのバスタブから出られなくなったり,自動車のドアにはまった逸話も
↓写真でも迫力満点のタフト
1878年,同期の中で2番でイェールを卒業
1880年,法学位を得る。ハミルトン郡の検察官に
1886年,ヘレンと結婚
1890年,32歳で訟務長官(Solicitor General;連邦裁判所で政府を弁護する役割。1870年設立)に
1901-1904年,フィリピンの民政長官(米比戦争1899-1902)
1904年,アメリカ陸軍長官
1904年,日露戦争勃発
1905年7月。桂・タフト協定
※内容は,アメリカが日本の朝鮮半島の権益に口を出さず,日本がアメリカのフィリピンの権益に口を出さない,と言うもの
1905年9月,ポーツマス条約(当時T.ローズベルト政権)
1906年,O・ヘンリー,『警官と讃美歌』を含む短編集を発表
『警官と讃美歌』ネタバレ:冬を刑務所でぬくぬくと過ごそうと犯罪を犯そうとするが,賛美歌を聞いて改心,真面目に生きようと決心した瞬間,不法侵入で捕まり刑務所へ
1907年,O・ヘンリー,『最後の一葉』を含む短編集を発表
1908年の大統領選挙で共和党のタフトが民主党のブライアンに321-162で勝利
※退任したT.ローズベルトはまだ50歳。タフトの方が1歳年上
1909年3月,タフト大統領に就任
1910年頃,共和党の中で保守派(タフト)とリベラル派・進歩派(前大統領ローズベルト)が対立
1910年10月-,チャップリン,カーノー劇団の下でアメリカ巡業
1910年の中間選挙で,共和党の内部対立を受けてか,共和党は下院(下院は全員改選)で57議席を失い,民主党が多数派に
1912年の大統領選挙で共和党進歩派は進歩党を結成し前大統領セオドア・ローズベルトを擁立。共和党支持者はタフト支持とローズベルト支持に分裂し,タフトは惨敗,民主党ウィルソンに敗れる(ウィルソン435-ローズ88-タフト8)
※上の数字では共和党が分裂しなくても負けたように見えますが,分裂したため余計支持を失った可能性も。以下の記事内に,共和党分裂の風刺画があります
1913年,大統領を退任
1921年,ハーディング大統領により最高裁判所長官に(-1930年)
1921年,息子のロバート・タフト,下院議員に
1930年,死去
1932年,ロバート上院議員に
1947年,タフト・ハートリー法(労働組合の力を抑えるもので,トルーマンは拒否権を行使したものの成立)
(28)ウッドロウ・ウィルソン(1856-1924;1913-1921)
・アンドリュー・ジャクソン以来,民主党で連続2期を務めた
・名誉学位ではなく実力の博士号(政治学)を持った唯一の大統領。政治学から行政学を独立させた「行政学の父」
・T.ローズベルトに続きノーベル平和賞を受賞した2人目の米大統領
・T.ローズベルト(1858年生)より後任のタフト(1857年生)の方が1歳年上であったが,ウィルソン(1856年生)はタフトより1歳年上であった
1856年,バージニア州スタントンで生まれる。父は長老派牧師
1873-74年度,長老派教会系のデイビッドソン大学。その後ニュージャージー大学(現プリンストン大学)に編入
1879年,ニュージャージー大を卒業。フラタニティはファイ・カッパ・サイ(ΦΚΨ。ケネディ大統領もメンバーに)
1885年,エレンと結婚
1890年,プリンストン大学に就職。彼の The State は多くの大学で教科書に
1902年,プリンストン大学学長に
1906年,左目を失明するなど体調悪化
1910年,メキシコでマデロによる革命運動
1911年,マデロ,メキシコ大統領に
1911-1913年3月,ニュージャージー州知事
※ローズベルト政権の国務長官の1人
※国際紛争の解決の調停に尽力
※日本とは高平・ルート協定(太平洋方面ニ関スル日米交換公文)
1912年の大統領選挙でT.ローズベルト(進歩党),タフト(共和党)に大勝,大統領に
※一般得票率はウィルソン41.8%,ローズベルト27.4%,タフト23.2%,社会党デブス6.0%,禁酒党候補1.4%。共和党と進歩党が分裂しなければ一般投票は5割ありましたね
1913年2月,メキシコでウエルタ将軍のクーデター。マデロ殺害される
※メキシコの臨時代理公使だった堀口九萬一(堀口大學の父)はマデロの親族を公然と保護
1913年3月,ウィルソン大統領に就任。国務長官は過去3回大統領選に負けたブライアン
1913年9月,チャップリン,ロサンゼルスのキーストン・スタジオと契約
1913年12月,連邦準備法。連邦準備制度成立
1914年7月,第一次世界大戦勃発
1914年,反トラスト法のクレイトン法
1914年,メキシコでパンチョ・ビリャら,ウエルタ政権を打倒
1914年,妻エレン死去。翌年イーディスと再婚
1914年,セオドア・リチャーズ,ノーベル化学賞受賞(原子量の研究)
1915年2月,サンフランシスコ万博(パナマ・太平洋万博,-1915.12)
1915年5月,ルシタニア号事件
※イギリス船籍の旅客船ルシタニアがドイツのUボートにより撃沈。アメリカ人128名を含む1198名が死亡。子どもも100名ほどいた。アメリカの対ドイツ世論悪化
※ドイツはいったん無制限潜水艦作戦を停止
1915年6月,国務長官ブライアン辞任
※ブライアンはルシタニア号事件がアメリカの参戦に利用されることを警戒,ウィルソンがドイツに正式に抗議したため抗議の辞任
※アメリカは参戦しなかったら,11万人以上が戦死せずに済みました
※ブライアンの後任はランシング(-1920年)
1915年,ハイチを占領,保護国化(-1934年)
1915年,メキシコのカランサ政権をアメリカが承認。ビリャは反発,ゲリラ戦
1916年,ドミニカを占領(-1924年)
1916年,ウィルソン,メキシコのビリャに対し懲罰遠征(-1917年)
※パットン(1885-1945)が従軍して活躍
※ビリャは1923年暗殺された
※ウィルソンのカリブ諸国,メキシコへの軍事介入は中南米諸国の反発を招いた。ウィルソンは武力介入型民主主義者「リベラル・ホーク」の先駆けと言えよう
1916年の大統領選挙でウィルソン,共和党のヒューズに277-254で勝利
※T.ローズベルト,タフト,ヘンリー・フォードらも共和党の候補に立候補している
※進歩党は再びローズベルトに出馬を要請したが,拒否され,進歩党(1912-1916)は瓦解→1924年に再結成
1917年1月,連邦議会で民主党はドライ(禁酒派)140・ウェット64,共和党はドライ138・ウェット62と,禁酒派が多数派だった。
1917年1月,ツィンメルマン電報事件
※ドイツ外相ツィンメルマン(ツィマーマン)がメキシコに,もしアメリカと戦ったらドイツは援助するという内容の電報を送り,イギリスが傍受解読した
1917年2月,ドイツ,無制限潜水艦作戦の再開を宣言
1917年4月,アメリカ,ドイツに宣戦布告
※南北戦争以来の徴兵を実施。アメリカは11万6千人もの死者を出した
※戦死約5万人,戦死以外の死者6万人(うちインフルエンザ死者2.5万人)
※負傷者20万人を含め,死傷者32万人
↓200万人が動員された
※ヘミングウェイ(1899-1961)は近視で徴兵されず,1918年,赤十字メンバーとしてイタリア戦線に派遣,瀕死の重傷を負う
1917年11月2日,石井・ランシング協定
※特命全権大使石井菊次郎は元(1915-1916)外相
※中国における権益に関する日米の妥協策
アメリカは満蒙における日本の権益を認める
日本はアメリカの門戸開放宣言を支持
1917年11月7日,ロシア革命「十月革命」(「十月」は旧暦に基づく)
※ボリシェヴィキが政権奪取
※翌日「平和に関する布告」で「無賠償・無併合・民族自決」を主張,ウィルソンにも影響
1918年,ベネズエラのマラカイボ湖で油田発見
“20世紀前半には,ベネズエラやインドネシアが石油の輸出地に加わった。この当時,世界の石油生産はアメリカ,ソ連,そしてベネズエラが多く占めていた。その中でもアメリカ合衆国は約70パーセントを占めていた”(ウィキペディア「石油」)
1918年1月,ウィルソン「十四か条の平和原則」発表
1918年9月,ムーズ・アルゴンヌ攻勢(アルゴンヌの森の戦い)
※アメリカ外征軍120万人,フランス軍,シャム遠征軍が勝利するも全軍で死傷者19万
※「アメリカは1年数か月しか参戦していないのに11万人も亡くなっている。いったいどこで死んだのだ?」と言われたら,「例えばアルゴンヌの森で。またスペインかぜなど病死も多かった」と答えればいいでしょう
1918年11月,敗色濃いドイツでキール軍港の反乱→ドイツ革命勃発
※ヴィルヘルム2世,オランダに亡命
1918年11月11日,第一次世界大戦休戦
1918年,この年ベーブ・ルース,投手として10勝以上(13勝7敗),打者として10本塁打以上(11本塁打)という記録を樹立
1919年1月,パリ講和会議始まる
※ウィルソン,国際連盟委員会委員長に
※日本全権牧野伸顕らは国際連盟規約に人種差別撤廃を明記するという「人種差別撤廃提案」をするも否決
1919年1月,禁酒法達成のための憲法修正決議は48州のうち36州で批准
1919年6月,ヴェルサイユ条約
※ドイツは1320億金マルクの賠償を課せられる(2010年に払い終えた)
※イギリスのケインズは「禍根を残す」と反対
1919年,ウィルソン,ノーベル平和賞受賞
1919年10月,ボルステッド法(国家禁酒法)
※ウィルソンは拒否権を発動したが議会により覆された
1919年10月,脳梗塞に倒れ,後遺症が残るが秘匿される
※アメリカは上院が批准しなかったため参加できず
※ソ連は1934年まで参加せず(しかもフィンランド侵攻で追放)
※常任理事国は英仏伊日(1926年からドイツ)。日独は1933年脱退
1920年2月,ウィルソン,ランシングを罷免。後任はコルビー
1920年の大統領選挙で共和党のハーディングが民主党のコックスに404-127で大勝
※ウィルソン及び民主党の人気はなくなっていた模様
※敗れたコックスの伴走候補(副大統領候補)はF.D.ローズベルトだった
1921年3月,ウィルソン退任
1924年,死去
↓アイキャッチ画像は1918年時のヘミングウェイで,以下の記事にあります。
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次回はハーディング(第29代),クーリッジ(第30代),フーバー(第31代)です。