「アメリカ歴代大統領9-11」の続きです。今回も3代やります。
(12)ザカリー・テイラー(1784-1850;1849-1850)
※ウィリアム・ハリソンに次いで在職中に死去した2人目の大統領
1784年 バージニア州の農園主の子として生まれる
幼少期に家族が新天地を求めてケンタッキー州に移住,最初は丸太小屋で暮らす
やがて父は10000エーカーの土地(鎌倉市,富田林市くらい)と奴隷を所有するほどに
学問は余り修めず,軍隊に入ることを決意
1808年,陸軍に入隊
1832年,ブラック・ホーク戦争(対ネイティヴアメリカン)に従軍
1835年-,第二次セミノール戦争(対ネイティヴアメリカン)に従軍
※上記の戦争で多数のインディアンを殺害
※1808年の入隊以来,40年に渡って軍人を務めた
1848年の大統領選挙でホイッグ党の大統領候補に担がれ,民主党のルイス・カスに163対127で勝利。先代は民主党(ポーク)だったのでホイッグ党が政権奪還
※ポークはすごい大統領だったのになぜ民主党は負けたのでしょうか。やはり英雄のテイラーが担がれたことが大きかったのでしょうか
1849年,ジェームズ・マディソンの妻ドリーの葬儀に際し彼女を「一級のレディだった」と賞賛し,「ファースト・レディ」の由来とされた
カリフォルニア州を州に昇格させる(奴隷制度のない自由州)よう働きかける
国務長官クレイトンの主張で東アジアとの交易に関心を示す
※ペリー来航(1853)の数年前です!
1850.7 コレラで死去
副大統領ミラード・フィルモアが昇格し大統領に
1852年,妻マーガレット死去。マーガレットは大統領になったら夫が寿命を縮めると,大統領選で夫が負けるよう祈っていたという
(13)ミラード・フィルモア(1800-1874;1850-1853)
ジョン・タイラーに次いで副大統領から昇格した2人目の大統領
ペリーを日本に派遣した大統領
1800年,ニューヨーク州カユガ郡の丸太小屋で貧しい農民の子として生まれる
1819年,ニューホープ・アカデミーで教育を受ける。アビゲイルと出会う
同年,ウッド判事の下で法律を学ぶ
1823年,法曹界入り
1826年,アビゲイルと結婚
1829-31年,ニューヨーク州下院議員
1833-35年,連邦下院議員
1834年,ホール(後に郵政長官となる)と共に共同法律事務所を立ち上げる
1837-43年,連邦下院議員
1844年,ニューヨーク州知事選に出馬し落選
1846年,私立バッファロー大学を設立(現在のニューヨーク州立大学バッファロー校)
1848-49年,ニューヨーク州会計検査官
1848年の大統領選挙でザカリー・テイラーが大統領,フィルモアが副大統領に
1850.9 カリフォルニア州を州に昇格させる(奴隷制度のない自由州)
1851年,メルヴィル,『白鯨』を発表
1851年,ジョン万次郎,琉球に上陸し薩摩藩に送られる。翌1852年土佐に帰郷した
1853年,妻アビゲイル死去。2歳ほど年上であった(1798-1853)
1853年,ペリーを日本に派遣(浦賀)
1853年,大統領退任
1856年の大統領選挙でアメリカン党(ノウ・ナッシング)から擁立されるが民主党のブキャナン,共和党のフレモントには全く敵わず
1858年,未亡人のキャロラインと再婚
1874年,死去
1881年,キャロライン死去
(14)フランクリン・ピアース(1804-1869;1853-1857)
なかなかイケメンな感じの大統領
初めての19世紀生まれの大統領。作家ナサニエル・ホーソン(1804-1864)と同い年で友人
1804年,ニューハンプシャー州の丸太小屋で生まれる。父は開拓農民出身で,ニューハンプシャー州知事を務めた(1827-28;1829-30)
1824年,ボウディン大学を卒業
1827年,弁護士を開業
1833-37年,下院議員(民主党,ニューハンプシャー州選出)
1834年,ジェーンと結婚
1836年,長男を失う
1837-42年,上院議員
1843年,次男を発疹チフスで失う
1846年,米墨戦争勃発。ピアースは従軍して大佐から准将に昇進
1852年の大統領選挙で民主党のピアースがホイッグ党のウィンフィールド・スコット(歴戦の軍人)に254対42で大勝
1853年1月,列車事故で同乗していた3男を失う(11歳)。ピアースは息子を全て失った
1853年3月,大統領就任。50歳手前で,当時で最も若い大統領。しかし副大統領ウィリアム・キングが1ヶ月半で結核で死去(その後空席)
1853年7月,ニューヨーク万博(-1854.11)
“カンザス・ネブラスカ法は,1854年にアメリカ合衆国でカンザス準州とネブラスカ準州を創設して新しい土地を開放し,1820年のミズーリ妥協を撤廃し,2つの準州開拓者達がその領域内で奴隷制を認めるかどうかは自分達で決めることを認めた法律である”
“カンザス・ネブラスカ法は国を2つにわけ,内戦の方向を指し示した。・・・(中略)・・・法を巡る混乱は民主党とホイッグ党を分裂させ,共和党を興隆させることになり,アメリカ合衆国は北部(共和党)と南部(民主党)という2つの大政治勢力に分かれることになった”
※この法律の契機は「大陸横断鉄道をどこに走らすか」ということであったが,南北戦争の原因の一つとなったようですね。
1854年,反奴隷制,反民主党を唱え,共和党が結党される。分裂した民主党員やホイッグ党員,自由土地党員らが結集
1856年の大統領選挙でピアースは民主党の候補に選ばれず。民主党のブキャナンが共和党のフレモント,アメリカン党のフィルモア(前大統領)を174-114-8で破り大統領に。
1860年の大統領選挙でピアースに立候補を勧める人もいたが,ピアースは辞退し北部民主党のダグラス,南部民主党のブレッキンリッジを支持した。勝ったのは共和党リンカン
ピアースは80歳近い前大統領ヴァン・ビューレンに働きかけるなど南北戦争の阻止に尽力したが,叶わなかった
※50万人近くが戦死,70万人以上が死亡した凄まじい戦争
1864年の大統領選挙でリンカン圧勝(南部のアメリカ連合は参加せず)
1865年4月,リンカン暗殺される
1869年,アルコール依存症による肝硬変で死去。妻の横に埋葬された
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ピアースはハンサムで,ホーソーンの親友になるなど人柄も良かったのですが,子どもを全て早くに失い,副大統領に死なれ,妻に先立たれ,最後はアルコール依存症で亡くなるといった不運・不幸な生涯でした。
次回はブキャナンとリンカンです! いよいよ南北戦争ですね。