「アメリカ歴代大統領12-14」の続きです。遂に南北戦争(1861-1865)が始まります。
(15)ジェームズ・ブキャナン(1791-1868;1857-1861)
※結婚しなかった唯一の大統領(かつて婚約者はいた)
※ペンシルヴェイニア州選出の唯一の大統領
※南北戦争を阻止できなかった大統領
1783年,父ジェームズ・ブキャナン・シニア,北アイルランドからアメリカに移住
1791年,ペンシルヴェイニア州の丸太小屋で生まれる。父は裕福な商人
ペンシルヴェイニア州のディッキンソン大学に入学
同年,米英戦争勃発。ブキャナンは米軍に志願
1814-15年,ペンシルヴェイニア州選出下院議員
1819年,裕福な製鉄業者の娘アンと婚約
1819年12月,アン,ブキャナンとの婚約を破棄した上で自殺。理由は忙しくて同居した時間が少なかった,金目当てで結婚したとの噂,浮気の噂に苦しんだため(英語版)。ブキャナンは生涯結婚しなかった
1821-31年,ペンシルヴェイニア州選出下院議員
1832-34年,駐ロシア大使
※ポークは米墨戦争(1846-48)に勝利,米国の領土を大幅に増やす
1853-56年,駐英大使(民主党ピアース政権)
1853-56年,クリミア戦争(仏,英,トルコらがロシア帝国に勝利)
1856年の大統領選挙で共和党のフレモント,アメリカン党のフィルモア(第13代大統領)を174-114-8で破り,第15代大統領に。ファースト・レディは姪に当たるハリエット・レーンが努めた
1857年恐慌(〜1859)経済がグローバル化しており,初の世界恐慌
1857年,ユタ戦争。モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)とアメリカ陸軍が交戦
1859年(安政六年)神奈川奉行兼外国奉行
1860年11月の大統領選挙で共和党のリンカンが勝利。民主党は北部民主党(ダグラス)と南部民主党(ブリッキンリッジ)に分裂
※ブキャナンは北部自由州出身でありながら,南部の奴隷制度に認容的だった“doughface”の1人だった
1861年2月4日,同州とミシシッピ,フロリダ,アラバマ,ジョージア,ルイジアナ,テキサスの7州がアメリカ連合国(CSA)を結成。大統領はジェファーソン・デイヴィス(第14代ピアース大統領政権の陸軍長官)
1861年3月4日,リンカンが大統領就任
1861年4月12日,南軍がサムター要塞を攻撃,南北戦争勃発
退任後のブキャナンは自身に対する批判から自己を弁護する戦いを余儀なくされた(Buchanan's War)
1868年,病死
(16)エイブラハム・リンカン(1809-1865;1861-1865)
※共和党初の大統領
※暗殺された初めての大統領
※/lɪ́ŋk(ə)n/ という発音であり近年は「リンカン」表記も多い。中国語では「林肯 línkěn」また豊田有恒の歴史if小説『モンゴルの残光』では「林汗」
1809年,ケンタッキー州(奴隷州)の丸太小屋で開拓農民の子(次子,長男)として生まれる。父トーマスは子どもの頃,父エイブラハムがインディアンに殺害されるのを目撃した。トーマスは息子に父の名,エイブラハムと名付けた
※ダーウィンと同年同日生まれ
※ケンタッキー州は奴隷州でありながらアメリカ合衆国を脱退しなかった「境界州」の1つ(他デラウェア,メリーランド,ミズーリ)
1816年,北隣するインディアナ州(自由州)に引っ越し
※引っ越しの理由は父が奴隷制を嫌っていたことと,ケンタッキーより土地取得がしやすかったため?
1818年,母ナンシーが34歳で病死
1819年,父がサラ(夫を亡くし未亡人となっていた)と再婚
1828年,長女でエイブラハムの姉サラ,死産が元で死去
1831年,父から独立,イリノイ州ニューセイラムに転居。荷物の運搬をしたり雑貨屋を営んだりレスリングの試合に出たりした。193cmあったという
1831年,ナット・ターナーの反乱。黒人奴隷のナットがバージニア州で反乱を起こし50名以上の白人を殺害。50名以上の黒人が処刑され,ほか多数の黒人が報復で殺害された。
ニューセイラム郵便局長に
1836年,法廷弁護士に
1837年頃,奴隷制には反対だが,奴隷制廃止論も過激との見解
1842年,メアリー・トッドと結婚
※社交的で魅力があり,恋愛結婚であったが,奢侈でヒステリー持ちということもあり,結婚生活はうまく行かず。「リンカンの暗殺は悲劇であったが,結婚ほどではなかった」とさえ言われた。そう言えばリンカンは「結婚は地獄ではない。煉獄である」という迷言を残していたように思う。仮にそうなら暗殺は彼を煉獄から解き放ったことになる。
1843年,長男ロバート誕生。他の3人の息子はみな20歳前に死去し,このことも結婚生活に暗い影を落とした
1846年,連邦下院議員に。米墨戦争に反対の演説をするなど民主党ポーク政権を批判
1848年の大統領選挙でホイッグ党はザカリー・テイラーを立て,民主党ルイス・カスに勝利
※リンカンは師匠のヘンリー・クレイを立てることを断念(70歳を超えていた)
1849年,ザカリー・テイラー政権発足
リンカンは一旦,弁護士として精力的に働く
1851年,ハリエット・ビーチャー・ストウ,『
※Stowe は /stoʊ/ という発音のため「ストー」より「ストウ」が近い。更に母音が t の後にしか無いため「ストウ」より「ストウ」の方が良さげ
※ストウ夫人の弟についてはこちら↓をご覧ください。
※カンザス準州,ネブラスカ準州が奴隷制を採用するか自分達で決めることになったため,奴隷制を巡る議論が白熱。カンザスでは肯定派と反対派が戦闘して死者も出た(血を流すカンザス)
1856年5月,ブルックスによるサムナー殴打事件(以下ウィキペディアより)
“サウスカロライナ州では奴隷制度廃止運動に対する反感が強かった。州選出アメリカ合衆国下院議員プレストン・ブルックスは、上院の議場に入り、先端に金属を付けた杖で、マサチューセッツ州選出アメリカ合衆国上院議員チャールズ・サムナーを殴打した。サムナーが気絶するまで傷つけたので、サムナーは数か月間議場に出て来られなくなった。これは、サムナーが上院での演説で奴隷制度を攻撃し、サウスカロライナ州人を侮辱したことに対する報復だった。ブルックスは下院議員を辞職し、故郷に帰って英雄扱いを受けた”
※殴打事件を描いた絵は以下の記事にあります。
1856年の大統領選挙で民主党のブキャナンが共和党のフレモントを破る
1857年,民主党ブキャナン政権発足
1858年,リンカン・ダグラス論争で奴隷制に反対する演説
1859年,奴隷廃止論者のジョン・ブラウン,奴隷を解放して蜂起させようとバージニア州の武器庫を襲撃,市民を殺害。殺人,反乱教唆,バージニア州に対する反逆罪で死刑に。
※アイキャッチ画像は処刑場に向かう途中で赤子を抱いた黒人の母親に尊敬されるジョン・ブラウンです。以下の記事に絵の全体像があります。
※ヴィクトル・ユーゴーはブラウンを擁護する公開書簡を書いた。
※奴隷制反対演説を繰り返していたリンカンはジョン・ブラウンを擁護したのか,突き止められませんでしたが,私は擁護しなかったと思います。リンカンは奴隷制に反対でしたが,反乱を起こし無実の市民を殺害してまで奴隷制廃止を実行するのは間違いであると思っていたに違いありません。
1860年,ニューヨークのクーパー・ユニオン演説で奴隷制に反対する演説
1860年の大統領選挙で南部民主党ブリッキンリッジ,立憲連合党ベル,上記の北部民主党ダグラスを破って大統領に当選
1860年12月,サウスカロライナ州,アメリカ合衆国(USA)を脱退
※ブルックスによるサムナー殴打事件に見られるようにサウスカロライナ州は奴隷制反対運動に対する反感が強かった。
1861年2月4日,同州とミシシッピ,フロリダ,アラバマ,ジョージア,ルイジアナ,テキサスの7州がアメリカ連合国(CSA)を結成
※ブキャナン大統領もリンカン次期大統領もCSAを認めず
1861年3月4日,リンカン,大統領就任
※就任演説で南部諸州は合衆国を離脱できないこと,南部諸州に奴隷制廃止を強いるつもりはないと訴える
1861年4月12日,USAを脱退したサウスカロライナ州のサムター要塞をリンカンが明け渡さなかったため南軍が攻撃・奪取,南北戦争勃発
1861年,新たにバージニア,アーカンソー,テネシー,ノースカロライナ州がUSAを脱退,CSAに加入(合計11州)。首都はアラバマ州モンゴメリー(モントゴメリー)からバージニア州リッチモンドに。ミズーリ,ケンタッキー州はUSAに残ったが,CSAはこの2州の受け入れを表明(そのため国旗には星が13ある)
1861年7月,バージニア州マナサス近郊での第一次ブルランの戦いで南軍勝利
※ワシントンから約30マイルのところであったため,北の市民は恐怖した
1862年3月,北軍の「ポトマック軍」,バージニア州に上陸,南軍の首都リッチモンドを目指す
1862年4月末,北軍,海からルイジアナ州ニューオーリンズを無血占領(ニューオーリンズの戦い)
1862年6月25日-7月1日,南軍のロバート・リー,七日間の戦いでマクレラン率いるポトマック軍を撃破
※南軍は9.2万中戦死3500,負傷15000,北軍は10万中戦死1700,負傷8000という壮絶な戦い
※南北戦争で兵士がバタバタ倒れていく様はメル・ギブソンの『パトリオット』に描かれている。
1862年7月,連邦議会の第2押収法:北軍に敵対している南軍兵士の奴隷は解放されるべしというもの
1862年8月,北軍の「バージニア軍」,バージニア州マナサス近郊での第ニ次ブルランの戦いで南軍のロバート・リーに敗れる
1862年9月17日,ロバート・リー,メリーランド州に侵攻するもアンティータムの戦いで北軍のマクレランに敗れ撤退
※1日で両軍合わせ戦死3600,負傷1万7千。1日で死んだアメリカ人の最高記録?
1863年6月,米・仏,馬関海峡の長州軍艦を砲撃(下関事件)
1863年6月20日,バージニア州から独立したウェストバージニア州,アメリカ合衆国に加盟
1863年7月1日-3日,ゲティスバーグの戦い(ペンシルヴェイニア州)で南軍のロバート・リー(7万),北軍のミード(9万)に敗れる
※3日で両軍合わせ戦死者8千弱。両軍の死傷者は同程度であったが,元々人口の少ない南軍は戦力の補充に支障を来し始める
1863年,『ギャング・オブ・ニューヨーク』の舞台となった年。次項も描かれる
1863年7月13日,ニューヨーク徴兵暴動 ※死者100名以上を出した
※大きな戦いのたびに千単位の死者を出す中で,南軍は兵士の補充に支障を来し,北軍では暴動が起きるわけです。外国からの祖国防衛でもない,内戦で死にたくはないですよね
(1863年旧暦7月,薩英戦争で薩摩藩とイギリスが和睦,接近)
※2分間の短いスピーチであったが世界的に有名なものになった
※Four score and seven years ago「87年前」(=1776年のこと)で始まる。score は「20」の意味
1864年3月,ユリシーズ・グラントが北軍総司令官に
1864年7月,南軍のアーリーがワシントンを攻撃(スティーブンス砦の戦い)
(1864年旧暦7月,禁門の変(蛤御門の変)で長州藩敗れる。第一次長州征伐)
1864年8月,リンカン大統領暗殺未遂事件
1864年8月,イギリスの呼びかけで仏・蘭・米合わせて4カ国で長州藩を攻撃(下関戦争)
1864年11月,大統領選挙でリンカン圧勝(CSAは参加せず)
1865年4月9日,アポマトックス・コートハウスの戦いの結果,ロバート・リー,グラントに降伏
※戦死者は50万人近く,戦死以外の死者を含めると70万人以上が死亡した戦争。
※ベトナム戦争の米軍死者は6万弱。第一次世界大戦は11万(参戦が遅かったので意外)。第二次世界大戦は40万。COVIDの死者は50万人以上
※南北戦争の結果,奴隷の数は1860年の400万人(9割が南部)から1864年には190万人に減少。
1865年4月14日,リンカン,ワシントンのフォード劇場でCSAのシンパ,ブースに暗殺される
※完全な単独犯ではなく協力者・共犯者がおり,ジョンソン副大統領,スワード国務長官,グラント将軍の殺害も計画されていた。スワードは自宅で襲撃され負傷
※共犯者達は軍法会議に掛けられブース(逃走中射殺)以外の4名が死刑となった。軍法会議で裁かれたことには批判も起こった
1865年4月15日,副大統領アンドリュー・ジョンソンが昇格して大統領に(第17代)
1865年,ロバート・リー,私立ワシントン大学の学長に
1868年の大統領選挙でユリシーズ・グラントが民主党のシーモアに大勝(第18代)
1870年,リー死去に伴いワシントン大学がワシントン・アンド・リー大学に改称
1882年,妻メアリー死去
1917年,リーランド父子,リンカンに因んでザ・リンカン・モーター・カンパニー創業
1939年,リンカン社のコンチネンタル誕生
※大陸ヨーロッパ風という意味
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今回は南北戦争もあり,かなり大変でしたがまだまだ書き足りないことがあるかもしれません。何か気づいたら加筆したいと思います。
次回は昇格したジョンソン(第17代)と,南北戦争で活躍したグラント(第18代)です。