フレイニャのブログ

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アメリカ歴代大統領17-18(ジョンソン-グラント)

アメリカ歴代大統領15-16」の続きです。第16代大統領リンカンは,1865年4月に暗殺されました。

 

(17)アンドリュー・ジョンソン(1808-1875;1865-1869)

※第7代大統領アンドリュー・ジャクソンと混同注意

※昇格した3人目の大統領

1808年,ノースカロライナ州で生まれる。父は旅館の馬丁(hostler(アースラー))でいわゆる「下層階級」だった。母は織工,洗濯人

1812年,父死去に伴い貧困に

ジョンソンは洋服屋に奉公に出る

1826年,見習いを終え,テネシー州グリーンビル洋服屋の従業員に

1827年,19歳で17歳のイライザと結婚。無学だったジョンソンにイライザが勉強を教えた

1828年グリーンビル市会議員

1834年グリーンビル市長

1835年,テネシー州下院議員

1841年,テネシー州上院議員民主党

1843-1853年,連邦下院議員

1853-1857年,テネシー州知事

1857年,連邦上院議員

※ジョンソンは奴隷所有者で奴隷制に賛成であったが,合衆国からの脱退には反対

1860年大統領選挙で共和党のリンカン勝利。副大統領はハンニバル・ハムリン

1860年12月,サウスカロライナ州,合衆国を脱退。最初の離脱

1861年2月,脱退7州でアメリカ連合国(CSA)結成

1861年4月,南北戦争勃発

1861年テネシー州も合衆国から脱退してしまう(計11州に)。脱退反対派だったジョンソンは脱退した諸州出身の上院議員のうち唯一,連邦上院議員にとどまり,リンカンの覚えめでたくなる

1864年大統領選挙でリンカンは国民統一党から出馬,ジョンソン民主党の系統)が副大統領候補に選ばれ,勝利

共和党のリンカンと民主党のジョンソンが挙国一致ということで国民統一党を結成したわけですな

1865年3月4日,第二次リンカン政権発足。ジョンソン副大統領に就任

1865年4月14日,リンカン暗殺される

1865年4月15日,大統領に昇格。戦後の再建(リコンストラクション)を担う

以下はウィキペディアより

共和党急進派は軍事再建法を通過させ、合衆国軍を用いて南部諸州を軍事的に占領するにいたった。北部の占領下の南部では黒人に投票権が与えられ、およそ1万から1万5千人の元連合国の役人や高官の白人が公職追放され、投票権を取りあげられた”

奴隷制に強く反対する共和党急進派(タデウス・スティーヴンス,殴打事件の被害者チャールズ・サムナーなど)は,ジョンソン大統領が南部に甘いと攻撃

※殴打事件については(16)リンカンをご覧ください

1865年12月24日,白人至上主義団体KKKクー・クラックス・クラン)結成

1867年,イギリス領カナダ,自治領カナダに(外交権なし)

1867年,ロシア帝国からアラスカを購入 ※当初(〜1877年)は陸軍管轄

1868年,ジョンソン大統領に対する弾劾裁判(上院)。賛成35,反対19と,弾劾成立の要件3分の2にギリギリ届かなかったため辞職を免れる(36対18だったら丁度3分の2だった)

連邦政府による南部再建(レコンストラクション)において、南部人に寛大な政策をとったとみられ、そのせいで共和党急進派のメンバーと馬が合わず、政敵である陸軍長官スタントンを罷免したことからThe Tenure Law(政府高官が在職中は罷免を免れる法律)を破ったという口実で弾劾裁判にかけられた”ウィキペディア

tenure は「(終身)在職権」という意味

このような混乱から政権はレームダック

1868年11月の大統領選挙で共和党ユリシーズ・グラントが勝利。ジョンソンは全く人気がなく民主党候補に選ばれなかった。選ばれても負けていたであろう(214-80でグラントが勝ったため)

1869年3月,任期切れで退任

1872年,下院議員選挙で落選

1875年3月,上院議員選挙に当選(民主党

1875年7月,病没(66歳)

年表を見るとジョンソンはほぼ無学の洋服屋従業員から10年以内で市会議員,市長,州議員とめきめき出世しています。性格がよほど誠実だったからでしょうか。写真も誠実そうな顔をしています。上院議員としてただ1人合衆国を離脱しなかったことも誠実さの現れなのでしょう。

ja.wikipedia.org

 

(18)ユリシーズ・グラント(1822-1885;1869-1877)

南北戦争で活躍した北軍の英雄

※大統領退任後ではあるが初めて訪日した大統領

1822年,オハイオ州で「ハイラム・ユリシーズ・グラント」として生まれる。父は製革業者

1839年,17歳の時にヘイマー下院議員の推薦でエストポイントの陸軍士官学校

※ヘイマーは慣例に従って「ユリシーズ・シンプソン・グラント」であろうと推測し(母の旧姓がシンプソンだから),そのように登録し,グラントはそのままそれを名乗った

en.wikipedia.org

ウィキペディア日本語版の「ユリシーズ・グラント」では「ハマー」となっているが恐らく「ヘイマー」↓

www.youtube.com

1843年6月,陸軍士官学校を卒業

1843年8月,ジュリアと結婚

1846年,米墨戦争に従軍

1853年8月,大尉(Captain)に

1854年飲酒が原因で辞職。軍人以外の経験がなかったため生計に苦労する

1861年南北戦争勃発

1861年4月,リンカン大統領,75000名の志願兵を募集。これに応募しイリノイ州義勇軍に入れられる

1861年6月,イリノイ義勇軍歩兵連隊を任されるColonel(大佐)に

1861年8月,義勇軍のBrigadier General(准将)に

※グラントの昇進を度々進言してくれたのはウォッシュバーン下院議員

1862年4月,シャイローの戦いを指揮。初日に劣勢となるも最終的に勝利。劣勢になったのはグラントの飲酒が原因とメディアに非難され解任要求も起こるが,リンカンは「この男の代わりはいない(I can't spare this man)」と擁護

1863年5-7月,ミシシッピ州ビックスバーグの包囲戦を指揮,勝利

ゲティスバーグの戦いとこの戦いが南北戦争の決定的な転換点であった

1864年3月,グラント,北軍総司令官に

以降グラントは物量を背景に常にリーを相手に大損害を受けながら(笑)南下を続ける

※リーは常に自軍以上の損害を与えながら,開いた国力の差により負け続けた

1865年4月9日,アポマトックス・コートハウスの戦いの結果,ロバート・リー,グラントに降伏

(1868年1月,鳥羽・伏見の戦い

1868年の大統領選挙で共和党のグラント民主党シーモアに214-80で大勝

1871年末,岩倉使節団107名,横浜港を出港,太平洋をアメリカへ向かう)

1869.9,禁酒党結成(現存するが党勢はない)

1872年3月,岩倉使節団,グラント大統領に謁見

(1872年8月,岩倉使節団,イギリスのリヴァプールに到着) 

1872年の大統領選挙で共和党グラント,自由共和党のグリーリーに286-3で圧勝

民主党はグリーリーに乗ったが惨敗

※女性で初めて,ヴィクトリア・ウッドハルが元奴隷のダグラスを副大統領候補にして出馬したが獲得選挙人ゼロ。そもそも1838年生まれで要件の35歳に達していなかった

1875年,ウィスキー汚職事件(Whiskey Ring)。グラント政権時の最悪のスキャンダルで,共和党の慢心から来る腐敗の象徴と映った

“グラントは史上初めて、またその後も現在までただ一人の、被告人側で証言した大統領となった”

※グラントが飲酒癖で知られていたことは疑惑を大きくしたでしょうな

※ringは「一味」という意味がある

1876.7.4,アメリカ独立宣言100周年

1876年,マーク・トゥエイン,『トム・ソーヤーの冒険』を出版

1876年の大統領選挙で共和党のヘイズ民主党のティルディンに185-184で勝利

ウイスキー汚職事件が響いたのか,共和党は1選挙人差の薄氷勝利

1877年,大統領を退任

1879年7月,日本を訪問明治天皇と会見

日光東照宮天皇しか渡ることを許されていない橋を渡ることを恐れ多いとして固辞し話題となる

1883年,全米ライフル協会第8代会長

1884年,トゥエインの勧めで回顧録執筆

1885年8月,死去

現在,50ドル紙幣はグラントである

ja.wikipedia.org

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グラントはジョンソンに引き続き戦後の再建を担いましたが,その功績は自らが関与を疑われたウィスキー汚職事件で吹っ飛んでしまいました。グラント政権は禁酒党が結成された時期でもありました。

黒人(アフリカ系アメリカ人)の公民権は表向き認められましたが,黒人差別問題は100年続くことになります。白人至上主義団体KKKクー・クラックス・クラン)も1865年に結成されています。

次回は第19代ヘイズ,第20代ガーフィールド,第21代アーサーです。

 

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