『アメリカ歴代大統領3-4』の続きです。米英戦争(1812-1815)を戦い抜き,「好感情の時代(1817-1825)」がやって来ました。それはモンロー大統領の任期です。
(5)ジェームズ・モンロー(1758-31;1817-1825)
1758年,バージニア植民地に生まれる。親は農園主
秀才として知られ,16歳でウィリアム・アンド・メアリー大学に入学(ジェファーソンと同じ)
1775年,イギリス軍と植民地民兵が衝突したレキシントン・コンコードの戦い。愛国心に火がつく。まだ10代
1776年,大学を中退し大陸軍に入隊。そのまま大学を出ることはなかった。ジェファーソンに師事して法律を学ぶ
1776年12月,トレントンの戦い(指揮官:ワシントン)に勝利するも左肩を撃たれ負傷。ワシントンのまたいとこウィリアム・ワシントンも負傷
↓ジョージ・ワシントンとモンローが描かれているという
戦後,法律の勉強を再開
1782年,バージニア下院議員に
1783-86年,連合会議(大陸会議の後身)代議員に
1786年,エリザベスと結婚
1788年,バージニア州,合衆国憲法を批准(賛成89,反対79)。マサチューセッツ州は賛成187,反対168であり,反対者は合衆国の各州に対する権力強化を懸念
1789年,フランス革命勃発。カリブ海のフランス領サン=ドマングにも衝撃
1790年,上院議員に。ジェファーソンやマディソンのグループに加わる(1792年民主共和党結党)
1790年,サン=ドマングのカラード(自由黒人)の反乱【対フランス独立運動】
1791年,サン=ドマングで黒人奴隷も反乱に加わる【対フランス独立運動】
1793年1月15日,トマス・ペイン(イギリス生まれのアメリカ人),パリでルイ16世の処刑に反対する演説を行う(1793年12月,逮捕される)
1793年1月21日,ルイ16世,ギロチンで処刑される
1794年,駐仏アメリカ大使に。ジェファーソンと同様フランス革命を支持,親フランス
1794年11月,モンローの尽力でトマス・ペイン釈放
1803年,ナポレオン,アメリカにルイジアナ売却。フランスにとって西半球の重要性低下
1804年,サン=ドマングの反乱軍,ハイチ独立宣言。ハイチはアメリカ合衆国に次いで西半球2番目の独立国となる【対フランス独立運動】
1811年,マディソン政権(1809-1817)の下で国務長官に(1811-1814)。1814-1817も実質的に国務長官の役割を果たす
1812年-1815年,米英戦争を戦い抜き,「好感情の時代(Era of Good Feelings)」に
1813年,サン・マルティン,サン・ロレンソの戦いでスペイン軍を破る(アルゼンチン独立運動)【対スペイン独立運動】
1815年6月,ワーテルローの戦いでナポレオン破れ,ナポレオン戦争終結
1816年,大統領選挙で連邦党のルーファス・キングを大差で破り,大統領に(1817-1825)。副大統領はダニエル・トンプキンズ。国務長官はジョン・アダムズの息子クインシー
1817年,セミノール戦争でアンドリュー・ジャクソン,インディアンを大量虐殺
1819年,シモン・ボリバルの提唱でコロンビア共和国(大コロンビア)設立。現在のベネズエラ・コロンビア・エクアドル・パナマを含む【対スペイン独立運動】
1820年の大統領選挙で再選。「好感情の時代」の中,ほぼ無風選挙
1820年,ワシントン・アーヴィングの『スケッチ・ブック』刊行(『リップ・ヴァン・ウィンクル』などを含む)
1821年,サン・マルティン,ペルーのリマに入城【対スペイン独立運動】
1822年,シモン・ボリバル,エクアドル解放【対スペイン独立運動】
1823年,「モンロー教書(モンロー主義,モンロー・ドクトリン,モンロー宣言)」南北アメリカはヨーロッパに支配されない。アメリカはヨーロッパの戦争に対し中立を保つ
1824年,シモン・ボリバルとスクレ,ペルー解放【対スペイン独立運動】
1825年,「インディアン移住法」の原案を議会に提出。1830年,第7代アンドリュー・ジャクソン大統領の時に成立
1825年,大統領の任期終了。バージニア大学の敷地内に住む(バージニア大学の敷地は元モンローの土地であった)
1830年,妻エリザベス死去
(この記事のアイキャッチ画像もエリザベス・モンローです)
1831年,死去
(6)ジョン・クィンシー・アダムズ(1767-1848;1825-1829)
Quincyは /kwɪ́nzi/ と発音するためクインジー,クィンジーという表記も
アメリカ史上初の親子大統領
1735年,父ジョン・アダムズ,ブレインツリーで生まれる
1767年,クインシー,ブレインツリーで生まれる
1777年頃〜 父のヨーロッパ赴任に同伴。フランス語とオランダ語を習得
父と同様,「ハーバード・カレッジ(現在のハーバード大学)」に入学
ボストンで弁護士を開業(父も弁護士)
1794年,ワシントン政権(1789-1797)の下でオランダ大使に。当時26歳
1796年,ポルトガル大使に
1797年,父ジョン・アダムズが大統領に。クインシーはプロシア大使に(-1801)
アメリカ人商人の娘ルイーザと結婚。ロンドン生まれで,初めての外国生まれのファースト・レディ(この次はメラニア・トランプらしい)
1802年,マサチューセッツ州上院議員。同年,連邦下院議員に落選
民主共和党ジェファーソン政権のルイジアナ買収(1803年)などを支持し,仲間の連邦党員と対立
1808年,連邦党と袂を分かち民主共和党へ
1809年,マディソン政権成立。ロシア大使に。サンクトペテルブルクで過ごす
1812年,ナポレオン,ロシアの「冬将軍」に敗れる
1814年,帰米。米英戦争の停戦交渉を任される。12月,ガン(ヘント)条約で停戦
1815年-1817年,イギリス大使に
1817年,モンロー政権成立。その下で国務長官に
1823年,モンロー大統領の「モンロー・ドクトリン」(南北アメリカ大陸とヨーロッパ大陸の相互不干渉を旨とする)。起草したのは国務長官のクインシー・アダムズであった。
1824年の大統領選挙。民主共和党がアンドリュー・ジャクソン,クインシー・アダムズ,ウィリアム・クローフォード,ヘンリー・クレイの4人を立てる異例の選挙に(連邦党は見る影もなく,民主共和党は余裕をかましていた)。結果アンドリュー・ジャクソンが1位(99票),クインシー・アダムズが2位(84票)。しかし過半数を取った者がいなかったため,結果は下院に回される(1825年臨時選挙)。ジャクソンよりも敵の少なかったクインシー・アダムズが選ばれる。ジャクソンは納得がいかなかったが,次代の大統領に選ばれることになる。
1824年,クインシー・アダムズ,国民共和党設立。民主共和党は解体を始める
1825年,クインシー・アダムズ政権成立。ジャクソンは入閣せず,ヘンリー・クレイが国務長官に
1828年,アンドリュー・ジャクソンの支持者,民主党を設立。これが現在に続くものである
1828年大統領選挙は「史上最悪の中傷合戦」となり,民主党のジャクソン(178票)が国民共和党のクインシー・アダムズ(83票)に大勝。クインシーは父に次いで,1期で終わった2人目の大統領に
1829年,大統領を辞任
1831年-1848年,下院議員に(死去まで)
1839年,ラ・アミスタッド号のアフリカ人奴隷が反乱して船長を殺害,船を乗っ取る「アミスタッド号事件」が起こる
奴隷廃止運動家ら「アミスタッド協会」設立,資金を集める
クインシー・アダムズ,最高裁判所で奴隷側弁護人を務める
彼らは誘拐されたものであると判決され自由の身となり,ほとんどがアフリカに帰還した
1848年,死去
1997年,スティーヴン・スピルバーグ,映画『アミスタッド』を制作。クインシー・アダムズ役はアンソニー・ホプキンス
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これで第6代まで紹介しましたが,ここで歴代大統領の出身地を復習してみましょう。
(1)ワシントン・・・バージニア植民地
(2)アダムズ・・・ブレインツリー北地区(マサチューセッツ)
(3)ジェファーソン・・・バージニア植民地
(4)マディソン・・・バージニア植民地
(5)モンロー・・・バージニア植民地
(6)JQアダムズ・・・ブレインツリー北地区(マサチューセッツ)
アダムズ父子を除く4人がバージニア植民地出身であり,皮肉を込めて「バージニア王朝(Virginia dynasty)」と言われることがあります。第7代アンドリュー・ジャクソンはカロライナ,第8代ヴァン・ビューレンはニューヨーク州の出身なので,モンローが最後の「バージニア王朝」大統領です。
バージニア植民地出身者が大統領選に強かった理由としては
・奴隷の多い南部植民地であった・・・大土地所有の有力者が多い
・人口が最大であった・・・1780年時点で白人は35万(2位はペンシルヴェイニアで32万,3位はマサチューセッツで31万),黒人は圧倒的な22万(2位はサウスカロライナで10万弱)。選挙人を割り当てる際,黒人人口も5分の3倍して加算したため選挙で有利になった。ジェファーソンは黒人奴隷の多さで有利になった「ニグロ大統領」と揶揄された
「モンロー主義」はアメリカのヨーロッパに対する中立を旨とするもので,第1次世界大戦(1914-1918)では1917年4月までは中立を保ちました。ハイチ革命やらシモン・ボリバルやら書きましたが「モンロー主義」に関係するからです。
ジョン・クインシー・アダムズはアメリカ初の父子大統領でしたが,父同様再選を果たせず1期で終わりました。しかし大統領辞任後に「アミスタッド号事件」で脚光を浴びることになります。
次回は第7代アンドリュー・ジャクソンと第8代ヴァン・ビューレンです。