ダジャレ好きの同僚がかつて「『ライス米国務長官』って面白いよなー」と盛り上がっていました。
『アメリカ歴代大統領1-2』の続きです。アメリカ大統領を順に見ていくことで,アメリカの歴史が少しでも学べたら良いと思います。
(3)トマス・ジェファーソン(1743-1826;1801-1809)
Thomasという発音:アメリカ英語では /tɑ́(ː)məs/「タマス,ターマス」,イギリス英語では /tɔ́məs/「トマス」に近い発音になります。この,「アメリカ英語では/ɑ́(ː)/,イギリス英語では /ɔ́/」というのは,辞書で一々表記していられないほど一般的なパターンです。例えば「サッカーsoccer」はアメリカ英語で /sɑ́(ː)kər/ イギリス英語で /sɔ́kə/ です。
またJeffersonの方では,英語ではJeに強勢があるので気をつけましょう。
1743年,ワシントンと同様,バージニア植民地に生まれる。親はプランテーション主。
1757年,父が死去,5000エーカーの土地と奴隷を相続。生涯で所有した奴隷は約600人
1760年,名門のウィリアム・アンド・メアリー大学(ハーバードに次いで2番めに古い)に入学
※フランス語が堪能,ギリシア語,ラテン語,哲学,数学を学び,ヴァイオリンを演奏。
※第2代大統領ジョン・アダムズはハーバードでしたね
1767年,法廷弁護士に
1769年,所有するプランテーションに邸宅の建設を開始。
1769年,バージニア植民地議会議員に
1774年,耐え難き諸法に反対する決議文を書く
1775年,第2回大陸会議に参加。独立宣言の草稿を書く
1776年7月4日,アメリカ独立宣言
1776年9月,バージニア邦議会議員に
1779-81年,バージニア邦知事(1780年,バージニアの首都が現在のリッチモンドに)
1783年,イギリスがアメリカの独立を承認
1785-89年,駐フランス公使(1789年,フランス革命勃発)
1789年,ワシントン大統領に,アダムズ副大統領に
1790-93年,初代国務長官に。初代財務長官アレクサンダー・ハミルトンと論争
1792年,民主共和党設立(ハミルトンは連邦党初代党首)
※ジェファーソンは革命フランスに同情的であり親フランスであった
1796年,第2回大統領選挙でアダムズ1位,ジェファーソン2位で副大統領に
1800年,大統領選挙でジェファーソンとアーロン・バーが同点1位(73票)に。3位になってしまったジョン・アダムズは政界引退
※連邦党のハミルトンはアーロン・バーよりもジェファーソンを支持。ジェファーソン大統領,バー副大統領に(ハミルトンとバーは険悪な仲であった)。国務長官はジェームズ・マディソン
1801-05,第一次バーバリ戦争(アフリカのトリポリ。相手はオスマン帝国の独立採算州)。アメリカ独立後初めての宣戦布告
1803年,フランスからルイジアナを買収。ナポレオンの時代(皇帝になる1年前)
1804年,アーロン・バー(副大統領現職),アレクサンダー・ハミルトンと決闘,ハミルトン死去
※バーがハミルトンより1歳下で,ハミルトンがバーの大統領就任を阻むなど,両者は仇敵であった
1804年,大統領選挙。ジェファーソン,連邦党のピンクニーを大差で破り大統領再選。アーロン・バーは副大統領候補から外され,副大統領はジョージ・クリントン。国務長官は引き続きジェームズ・マディソン
1809年,プランテーションの邸宅完成。「モンティチェロ」と呼ばれる(世界遺産)
1809年,大統領辞任
1812年,共に引退したということもあり政敵アダムズと和解
1819年,バージニア大学設立(最初期の学生にエドガー・アラン・ポー)
1826年7月4日,アメリカ独立記念日にアダムズと共に他界
(4)ジェームズ・マディソン(1751-1836;1809-1817)
父はジェームズ・マディソン・シニア,本人はジェームズ・マディソン・ジュニア
アイオワ州マディソン郡,『マディソン郡の橋』,マンハッタンのマディソン・スクエア・ガーデンの由来
1751年,ワシントン,ジェファーソンと同様,バージニア植民地に生まれる。両親はプランテーション主
1769年,ニュージャージー大学(1746年設立)に入学(現在のプリンストン大学),猛勉強する
1776-79年,バージニア邦議会議員
1780-83年,大陸会議に参加
1783年,イギリスがアメリカの独立を承認
1784-86年,バージニア邦議会議員
1789年,アメリカ合衆国下院議員に。権利章典の作成に関わる
1792年,連邦党のアレクサンダー・ハミルトンと政策を巡って対立した結果,ジェファーソンと共に民主共和党結成
1794年,未亡人のドリーと結婚。マディソンは40代前半で163cmほど,ドリーは17歳ほど年下で170cmほどあった。
※ドリーは地味だったマディソンに華を添えた。以下はウィキペディアより:
“1808年大統領選挙でマディソンに敗れたチャールズ・コーツワース・ピンクニーは「マディソン夫妻に負けた。マディソンだけなら、勝てただろうに・・・」と嘆いたと言われている”
1801-09年,ジェファーソン大統領のもとで国務長官に
1808年,ポスト・ジェファーソンとして民主共和党の大統領候補に選ばれる
1808年,大統領選挙で連邦党のピンクニーに大差で勝利,第4代大統領に。ピンクニーはジェファーソン(1804年),マディソン(1808年)に2連敗
※ピンクニーが「ドリーがいなかったら」と述べた話をしましたが,マディソンは122対47でピンクニーに勝ちました。ドリーがいなくてもピンクニーは負けたでしょう。マディソンには「ジェファーソンに後継として認められた男」というお墨付きがあったのです。
1812年6月,米英戦争勃発。カナダはまだイギリス領(自治領になったのは1867年)でイギリス軍がおり,またインディアン諸部族は両陣営に分かれて戦った
1812年8月,米艦コンスティテューション,英艦ゲリエールに一騎打ちで完勝
※コンスティテューションは1797年就航。世界最古の現役艦
1812年11月,大統領選挙でジョージ・クリントンの甥デウィット(DeWitt)・クリントンに勝利。大統領再選。副大統領はニューヨーク州知事のダニエル・トンプキンズがなり,空いたニューヨーク州知事選に勝利したデウィット・クリントンが知事に
1812年冬,ナポレオン,ロシアで「冬将軍」に破れ撤退
1813年3月,プロイセン,フランスに宣戦。イギリスの対仏負担が軽くなる
1813年6月,イギリスのウェリントン,ビトリアでフランスを破る
1813年10月,テムズ川の戦い(オンタリオ州)でアメリカ軍勝利,イギリス側だったショーニー族のテカムセ戦死
1814年8月,メリーランド州ブラーデンスバーグの戦いでイギリス軍勝利
“混乱し、隊列を乱したアメリカ軍の退却の様子は当時見物であったらしく、1816年に作られた詩により「ブラーデンスバーグの競走」と呼ばれることになった。アメリカの民兵はワシントンの市街地を逃走し、マディソン大統領も連邦政府の役職者たちと共にその後に続いた”(ウィキペディア)
※この戦いがワシントン焼き討ちを招く
1814年8月,イギリス軍によるワシントン焼き討ち
“この時焼け焦げた外壁を白く塗装したことから官邸は現在のように「ホワイトハウス」と呼ばれるようになった”(ウィキペディア「ホワイトハウス」)
1814年12月,両者決定打がなく,米英戦争終結。マディソンは戦争を回避できなかったことが後世に批判されているが,アメリカはこの戦争を通じて経済的にもイギリスから独立した(イギリス製品が買えなくなった結果,経済の対英依存から脱したということ) アメリカの産業革命はこれ以後と言われている(鉄道網の拡大は1830年代から)
1814年12月-1815年1月,アンドリュー・ジャクソン,ニューオーリンズの戦いでイギリス軍を破り英雄に(知らせが間に合わず講話締結後であった)
1815年,第2次バーバリ戦争(対オスマン帝国のアルジェ邦)
1817年,辞任,故郷のプランテーション(モントピリア)に帰る
1826年,ジェファーソンの死去に伴いバージニア大学学長(第2牧師)に
1836年,死去
1849年,ドリー死去。時の大統領ザカリー・テイラーが彼女を「一級の女性(First Lady)だった」と呼んだことが,ファースト・レディの由来となったらしい。
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ジェファーソンとマディソンは先輩後輩のような関係だったようです。ジェファーソンは身長183cm,マディソンは歴代大統領の中で最も小柄な身長163cmでしたが「ファースト・レディ」のドリーが華を添えました。
しかし現職副大統領(アーロン・バー)の決闘には驚きましたね。死去したアレクサンダー・ハミルトンは初代財務長官を務めるほどの秀才だったようです(享年49)
米英戦争はアメリカが勝利(引き分け?)しましたが,イギリスはナポレオンというとんでもない敵と戦いながらだったんですね。
次回は「モンロー主義」で有名なジェームズ・モンローと,第2代ジョン・アダムズの息子ジョン・クインシー・アダムズです。