「Wikipedia世界史(2) 南北朝時代(中国)続き」の続きです。前回北魏の歴史をほぼ終えたので,一旦南朝に入ります。
(8)東晋と淝水の戦い
司馬炎の建てた晋(西晋)は316年,南匈奴の漢の劉聡に滅ぼされます。この後中国南部で晋(東晋)を建てるのが
司馬懿の子に司馬師・司馬昭・司馬亮・司馬伷らがいました(司馬炎は司馬昭の子) まだ下にいます(八王の乱で解説した司馬倫とか)
司馬伷の妻は諸葛誕の娘でしたが,子に
316年に長安が陥落して西晋が滅亡すると,翌年司馬睿が建康で即位しました(東晋の元帝) 王導は339年に死去するまで東晋を支えました。王導のあと桓温が力を持ち,巴氐族の李雄が304年に成都で建国していた成漢を347年に滅ぼし,354年から北伐を開始。356年には洛陽を奪還(311年に南匈奴の漢の劉聡に奪われてから45年ぶり)。桓温はこのように大功を建てるのですが,帝位簒奪を考えるようになります。「諸葛亮の偉大さはその能力ではなく忠義だ」と誰かが言っていたのを思い出しますね。桓温はもう少しで皇帝のところまで行きましたが,62歳で亡くなりました(373年)。滅亡を免れた東晋でしたが,大きな危機が訪れます。376年に華北を統一した前秦の苻堅が東晋討伐を決意するのです。以前,前秦の功臣王猛は慕容垂を危険視していたという話をしましたが「鮮卑や羌の動きに注意し,東晋は攻めるな」と遺言して死にました。苻堅はこれに従わなかったことになります。
苻堅は25万の先遣隊(弟苻融,張蚝,梁成,慕容垂,慕容暐,乞伏国仁ら)を派遣し,自らは80万以上の本隊で出発しました。先遣隊は寿春を落としますが,東晋の謝安,謝石,謝玄らが7万の兵で対抗,猛将の劉牢之に5千を持たせて梁成の駐屯地に奇襲させ梁成を討ちました。
その後苻堅の本隊が寿春に合流し,両軍は淝水を挟んで対峙します。苻堅は降伏勧告の使者として朱序を遣わしました。朱序は元東晋の将軍でしたが,379年に襄陽を落とされた時に降伏して前秦に仕えていました。朱序は降伏を勧めるどころか「100万が集結したら勝てないので頭を叩け」と進言します。謝石らはまた劉牢之に前秦軍を攻撃させ,戦意が高いことを示しました。苻堅は一旦後退して東晋軍に淝水を渡らせ,反転して叩く作戦を取りますが,作戦がうまく伝わっておらず,また朱序は前秦の軍内にあって総退却のデマを流し,渡河してくる東晋軍を見て兵たちは総崩れになり,苻融は戦死,苻堅は慕容垂に保護されました。これを機に前秦が一気に瓦解したことは前回触れました。
歴史的大勝を掴んだ東晋でしたが,繁栄は長くは続きませんでした。謝安は2年後に死去,甥の謝玄は落日の前秦を攻撃して大功を建てるも40代半ばで病死(388年) 謝玄の死後東晋の政治は乱れ,猛将の劉牢之は腹心の劉裕の反対を聞かず,桓温の末子桓玄と結んで皇族に反逆,最後は劉裕にも見捨てられて自殺しました。実権を握った桓玄は403年,遂に安帝から禅譲を受けます。桓玄は楚を建てました(桓楚)。しかし翌年劉裕が桓玄を攻め滅ぼして一瞬でこの国は消えました。通常,東晋の次は宋(劉裕の劉宋)であり,桓楚は無視されます。なお,詩人の陶淵明(365-427)はこの時代の人で,一時期桓玄や劉裕のもとで生計のために官僚をしていたこともあります。
(9)劉裕と宋
劉裕は当時の史家に劉邦の子孫のような記述をさせていますが,怪しいそうです。劉裕は東晋の将として,孫恩(江南の五斗米道)の反乱を鎮圧するなど活躍しました。
桓温の子桓玄が安帝に禅譲させて楚を建国すると,桓玄は劉裕の力を認めてもてなしましたが,劉裕は1700名で決起,桓玄を建康から追放して安帝を復位させました。劉裕はその後,慕容徳が398年に山東半島に建てていた南燕を410年に滅ぼし,また成都で405年に興った譙縦の後蜀を部下に滅ぼさせます(413年。後蜀は五胡十六国に数えられない国。五代十国の十国にも後蜀がある)
この頃北では北魏(拓跋珪が386年に建国)や後秦(羌族の姚萇が384年に建国)が盛んでしたが, 劉裕は桓温同様に北伐を決意,桓温が奪回したのにまた後秦に取られていた洛陽を416年に再奪回,417年には長安も落として後秦を滅ぼしました。この時点で東晋は,南燕を滅ぼして山東半島を取り,洛陽・長安も取っていたわけですから中華統一に向け順調だったと言えるでしょう。しかし407年に後秦から自立して夏を建てていた匈奴の劉勃勃(
長安の失陥は汚点でしたが,しかし劉裕は安帝を殺害(419年)して弟の恭帝を立て,420年,恭帝から禅譲(しかも421年に殺害)を受けて皇帝に即位,宋を建てました。東晋の滅亡です。禅譲した皇帝を殺害したのは劉裕が最初だそうです。劉裕は422年に死去(武帝),長男の劉義符が継ぎました(少帝。不行跡で廃位)
劉家の宋(420-479)は60年8代ですが,余り良い君主は見当たりませんね。初代からして禅譲した皇帝を殺害するなど冷酷です。第3代文帝(424-453)の時は学問振興・仏教保護などで繁栄し,名将
倭の五王が入貢したのも劉宋の時代です。倭王の讃・珍・済・興・武が遣宋使を送って安東将軍に任じられました。倭王武は雄略天皇という説がありますね。
なお「日宋貿易」は平清盛らの時代ですので,別の宋です(北宋・南宋の南宋)
(10)斉・梁・陳──梁武帝の“皇帝菩薩”
劉宋を滅ぼすのは蕭道成です。劉邦の能臣蕭何の子孫を自称しました。宋の末期は権力を巡って皇族が殺し合うような混乱状態でしたが,蕭道成は北魏を抑えるのに功があり,大きな軍隊を擁して力を持ち,自分を除こうとした皇帝を殺害(後廃帝),順帝を立て,順帝に禅譲させて斉を立てました(順帝はやはり殺害)
斉(479-502)も余り名君はおらず,同じ皇族を殺したりしたので殺された皇族蕭懿の弟蕭衍が怒って決起,禅譲で斉を滅ぼして梁(502-557)を建てました。おなじ蕭氏だから斉のまま皇帝交替でも良さそうですが,「この国は腐っている。造り直しだ」と思ったのかもしれませんね。梁を建てた蕭衍は最初は名君だったようです。502年の建国から549年まで半世紀近く治めました。ただ途中(520年頃?)から仏教にハマってしまい,財政を逼迫させてしまいました。自らは「皇帝菩薩」と言われるほど戒律を守ったそうです。北魏文成帝が雲崗石窟(皇帝即如来)を造らせる半世紀ほど後ですね。
なお529年には短期間ではありますが北魏から洛陽を奪いました。ただこの時期の北魏は前回話しました通り胡太后が実権を握ったりして混乱し衰退期にありました。北魏は534-535年に東魏と西魏に分裂します。東魏から侯景という部将が梁に帰順してくるのですが,彼が548年に反乱,建康を落として蕭衍を幽閉,蕭衍は亡くなりました(武帝)
侯景は551年漢を建てますが,蕭衍の七男蕭繹(元帝)が臣下の陳霸先と王僧弁に侯景を滅ぼさせました(552年)。しかし弟(八男)の蕭紀が蜀で自立,蕭繹は蕭紀を討つために西魏の力を借り,結局西魏に蜀を奪われてしまいます。更に西魏に攻められ蕭繹は殺害,西魏が江陵で
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今回は東晋に始まり,南朝の宋斉梁陳まで概説できました。次回,また北魏に戻り,北魏の東西分裂,北斉と北周,そして楊堅による統一まで描きたいと思います!
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