「Wikipedia世界史(3) 南北朝時代(中国)続き」の続きです。前回は東晋と宋斉梁陳という南朝の国々を見ましたので,北魏の滅亡以降の話に進みます。
(11)鮮卑宇文部とは
北魏以降に関して宇文氏が重要な役割を果たしますので,まず宇文部の話から見ていきます。宇文部は元は匈奴でした。
匈奴が南北に分裂し,滅んだ北匈奴の一部が遼東の辺りで鮮卑と雑居し,鮮卑化して鮮卑宇文部となりました。宇文部は拓跋部(代)と結んで慕容部と敵対することが多かったようですが,344年,慕容皝(燕王)と兄慕容翰に宇文部は攻め滅ぼされました。その時の指導者(宇文逸豆帰)の子宇文陵は前燕・後燕に仕え,後燕が北魏に敗れると北魏に降り,代々北魏の将になりました。その後の系譜は宇文陵─宇文系─宇文韜─宇文肱─宇文泰です。この宇文泰が西魏を建てる重要人物です。
(12)北魏の政治的混乱と衰退,分裂
前々回では
高歓は531年に反爾朱一族の旗を掲げ,翌年鄴に入城して大丞相になります。爾朱兆らが20万の兵で攻め寄せると,韓陵の戦いで勝利しました(532年)。高歓の側は3万の歩兵と2千の騎兵だったそうです。敗れた爾朱兆は并州へ逃れ,追撃を受けて自決しました(533年)
高歓は宣武帝(元恪。Wikipedia世界史(2)で触れた,外戚高肇を重用した皇帝)の甥,孝武帝(元脩・元修)を皇帝に擁立しました(532年)。高歓の完全な傀儡で,皇帝に擁立されようとする時「身の安全はあるのか?」と賓客の王思政に問うたほどです。やがて孝武帝は高歓を除きたいと思うようになり,王思政のほか
孝武帝と宇文泰の方はやがて険悪となり,宇文泰は孝武帝を殺害,孝武帝の従兄を擁立しました(文帝。以前高肇に反発して反乱した元愉の子)。宇文泰が文帝を傀儡として建国したのが西魏です(535-556)。北魏は滅亡したと言うか,東魏と西魏に分裂したわけですね。
ここでWikipediaの地図を元に地図を作ってみるとこうなります。梁は漢民族の国ですが,柔然は北方遊牧民族,東魏・西魏の皇族は鮮卑元氏(もと拓跋氏),吐谷渾はもと鮮卑慕容氏,実力者の宇文泰は鮮卑宇文氏です。高歓は鮮卑ではありませんが渤海郡の高氏ですね。
高歓が建てた東魏は1代(孝静帝)で,宇文泰が建てた西魏は3代(文帝─廃帝─恭帝)で滅びます。東魏の実力者・大丞相高歓は547年に亡くなり,長男の高澄が大丞相になりました。高澄は斉王にまでなりますが,暴虐だったために高澄の家の奴隷に身を落としていた
西魏の実力者宇文泰は漢化を押し留めて鮮卑化に戻す一方,古代周の制度を取り入れることもやりました。傀儡であった文帝は551年に崩御,長男元欽が帝位に就きますが,宇文泰を除こうとし,廃位され殺されました。妻(宇文皇后)は宇文泰の長女で夫婦仲はよく,元欽(廃帝)が毒殺されると死を選びました。廃帝の弟の元廓(鮮卑化政策で拓跋廓に)が擁立されました(恭帝)。556年,宇文泰が亡くなると,その三男の宇文覚に帝位を譲るようにと,宇文泰の兄の子宇文護が恭帝に迫り,禅譲が成立,西魏は滅んで北周となりました。
さてここで東魏・西魏・高氏・宇文氏・北斉・北周の組み合わせを覚えましょう。
東魏・西魏のうちどちらが北斉・北周になったかですが,これは斉という国が伝統的にどこにあったかがヒントになります。斉は伝統的に山東半島(山東省,臨淄とか)にあったのです。よって東のほうが北斉ですので,東魏→北斉です。北周は逆(西魏)と覚えましょう。
次に高氏(高歓・高澄・高洋)・宇文氏(宇文泰・宇文護・宇文覚)の区別ですが,これには高氏の出自が有効でしょう。高肇は本貫が渤海郡にあり,高句麗の血が流れているそうです。高歓と高肇の関係は不明ですが,高歓も本貫は渤海郡なのです。ということで高歓からは渤海郡を連想しましょう。渤海郡は渤海(湾)の近くです。満州のあたりにあった渤海(国)とは全然別の場所ですが,いずれにしても東です。実は初代王の大祚榮が唐に朝貢して渤海郡王の称号をもらったので,場所は満州にありながら渤海という国号にしたようです。ということで本来の渤海の位置は渤海湾のところです。
さて後は隋の楊堅(文帝)が北斉・北周,そして南朝を滅ぼして中華統一する所までを語れば南北朝史は終了ですが,次回に回す代わりに隋の滅亡までくらいを調べてみようと思います。ということは煬帝や聖徳太子の時代までやるということですね! 次回をお楽しみに!
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