フレイニャのブログ

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Wikipedia世界史(4) 南北朝時代(中国)続き

Wikipedia世界史(3) 南北朝時代(中国)続き」の続きです。前回は東晋と宋斉梁陳という南朝の国々を見ましたので,北魏の滅亡以降の話に進みます。

(11)鮮卑宇文部とは

北魏以降に関して宇文氏が重要な役割を果たしますので,まず宇文部の話から見ていきます。宇文部は元は匈奴でした。

匈奴が南北に分裂し,滅んだ北匈奴の一部が遼東の辺りで鮮卑と雑居し,鮮卑化して鮮卑宇文部となりました。宇文部拓跋部)と結んで慕容部と敵対することが多かったようですが,344年,慕容皝燕王)と兄慕容翰宇文部は攻め滅ぼされました。その時の指導者(宇文逸豆帰)の子宇文陵前燕後燕に仕え,後燕北魏に敗れると北魏に降り,代々北魏の将になりました。その後の系譜は宇文陵─宇文系─宇文韜─宇文肱─宇文泰です。この宇文泰西魏を建てる重要人物です。

(12)北魏の政治的混乱と衰退,分裂

前々回では高肇(こうちょう)という外戚が皇族の力を抑えたという話をしましたが,高肇は皆に恨まれて515年に殺されました。また太后というのが実権を持って政治が乱れたという話もしました。そんな中で爾朱栄じしゅえいという,北方の部族出身の将軍が力をつけます。孝明帝(第8代皇帝。太后の実子)は専横する母親を除こうとして爾朱栄に密使を送りますが露見して孝明帝は(実母に!?)殺されます(19歳)。これで大義を得た爾朱栄は決起,部下の高歓を先鋒に太后を攻撃。太后と,彼女が立てた皇帝元釗げんしょうは殺害されます。これで完全に実権を握った爾朱栄は皇族を含め,反対派2000人を粛清しました。爾朱栄は長女を新皇帝孝荘帝の妻(爾朱皇后)にして外戚となり権勢を振るいます。こうなると定位簒奪というのがお決まりのパターンですが,孝荘帝爾朱栄父子を暗殺することに成功しました。しかし残った甥の爾朱兆らが決起して孝荘帝とその子は殺されました。爾朱兆は権力を握りますが,配下の高歓との対立が始まります。なお高歓高肇は直接の血の繋がりはありませんが,共に本貫は渤海です。「渤海の高氏」という意味では同じということになります(高肇の先祖は高句麗出身という)

高歓は531年に反爾朱一族の旗を掲げ,翌年に入城して大丞相になります。爾朱兆らが20万の兵で攻め寄せると,韓陵の戦いで勝利しました(532年)。高歓の側は3万の歩兵と2千の騎兵だったそうです。敗れた爾朱兆は并州へ逃れ,追撃を受けて自決しました(533年)

高歓武帝元恪Wikipedia世界史(2)で触れた,外戚高肇を重用した皇帝)の甥,武帝元脩・元修)を皇帝に擁立しました(532年)。高歓の完全な傀儡で,皇帝に擁立されようとする時「身の安全はあるのか?」と賓客の王思政に問うたほどです。やがて武帝高歓を除きたいと思うようになり,王思政のほか斛斯 椿(こくし ちん)賀抜 岳(がばつ がく)を取り込み,また高歓と近い高乾(これも本貫は渤海)も取り込もうとします。高乾はどっちつかずの態度を取りますが,やがて高歓に報告し帝位を簒奪せよと進言します。しかし露見し,高乾武帝に処刑され,武帝高歓の対立は決定的になりました。賀抜岳武帝から都督二雍二華二岐豳四梁三益巴二夏蔚寧涇二十州諸軍事・大都督というすごい肩書を与えられ,更に宇文泰と結んで高歓に対抗しようとしますが,高歓の息がかかった者に暗殺されます。そこで武帝宇文泰を頼るようになりました。534年,武帝洛陽から長安に脱出,残された高歓静帝漢化政策拓跋宏から元宏に改姓した孝文帝の曾孫)を建て,北魏)は分裂しました。高歓長安から見れば東)に建てたを歴史家は東魏と呼びます(534-550)

武帝宇文泰の方はやがて険悪となり,宇文泰武帝を殺害,武帝の従兄を擁立しました(文帝。以前高肇に反発して反乱した元愉の子)。宇文泰文帝を傀儡として建国したのが西魏です(535-556)。北魏は滅亡したと言うか,東魏西魏に分裂したわけですね。

東魏西魏

ここでWikipediaの地図を元に地図を作ってみるとこうなります。漢民族の国ですが,柔然は北方遊牧民族東魏西魏の皇族は鮮卑元氏(もと拓跋氏),吐谷渾はもと鮮卑慕容氏,実力者の宇文泰鮮卑宇文氏です。高歓鮮卑ではありませんが渤海郡の高氏ですね。

(13)北斉北周の成立

高歓が建てた東魏は1代(孝静帝)で,宇文泰が建てた西魏は3代(文帝─廃帝恭帝)で滅びます。東魏の実力者・大丞相高歓は547年に亡くなり,長男の高澄が大丞相になりました。高澄斉王にまでなりますが,暴虐だったために高澄の家の奴隷に身を落としていた蘭京(らんけい)(もとはの部将の子だったが戦争で捕らえられた)らに恨まれ暗殺されました。高澄の弟の高洋蘭京らを討ち,斉王に就きました。550年,高洋静帝禅譲させて帝位に就きました。これが北斉です。

西魏の実力者宇文泰漢化を押し留めて鮮卑に戻す一方,古代の制度を取り入れることもやりました。傀儡であった文帝は551年に崩御,長男元欽が帝位に就きますが,宇文泰を除こうとし,廃位され殺されました。妻(宇文皇后)は宇文泰の長女で夫婦仲はよく,元欽廃帝)が毒殺されると死を選びました。廃帝の弟の元廓鮮卑化政策拓跋廓に)が擁立されました(恭帝)。556年,宇文泰が亡くなると,その三男の宇文覚に帝位を譲るようにと,宇文泰の兄の子宇文護恭帝に迫り,禅譲が成立,西魏は滅んで北周となりました。

さてここで東魏西魏・高氏・宇文氏・北斉北周の組み合わせを覚えましょう。

東魏西魏

東魏西魏のうちどちらが北斉北周になったかですが,これは斉という国が伝統的にどこにあったかがヒントになります。斉は伝統的に山東半島山東省,臨淄とか)にあったのです。よって東のほうが北斉ですので,東魏北斉です。北周は逆(西魏)と覚えましょう。

次に高氏(高歓・高澄・高洋)・宇文氏(宇文泰・宇文護・宇文覚)の区別ですが,これには高氏の出自が有効でしょう。高肇は本貫が渤海郡にあり,高句麗の血が流れているそうです。高歓と高肇の関係は不明ですが,高歓も本貫は渤海なのです。ということで高歓からは渤海郡を連想しましょう。渤海郡は渤海(湾)の近くです。満州のあたりにあった渤海(国)とは全然別の場所ですが,いずれにしてもです。実は初代王の大祚榮が唐に朝貢して渤海郡王の称号をもらったので,場所は満州にありながら渤海という国号にしたようです。ということで本来の渤海の位置は渤海湾のところです。

ja.wikipedia.org

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さて後は隋の楊堅(文帝)北斉北周,そして南朝を滅ぼして中華統一する所までを語れば南北朝史は終了ですが,次回に回す代わりに隋の滅亡までくらいを調べてみようと思います。ということは煬帝聖徳太子の時代までやるということですね! 次回をお楽しみに!

 

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