Wikipediaの知識のみで三国時代の小説を書いてみようという試みです。
第一弾として三國志の於夫羅(於扶羅,オフラ)とその子孫たちを取り上げます。
なお★の付いた人物は『真・三國無双シリーズ』(第8作目までに)で固有グラフィックを持つプレイアブルな人物なので,それだけ有名だと思って下さい。
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戦国時代には趙の李牧が匈奴の侵攻から国境を守り,秦統一(前221年)後,始皇帝は蒙恬を派遣して匈奴を討伐(前215年),また長城の建設を始めます(前214年)
前209年には冒頓単于が父を殺して立ちました。彼は降伏した韓王信と共に漢の劉邦の軍を白登山で破り(前200年),その結果漢は毎年貢物を贈ることになります。
漢の武帝の時代,衛青は甥の
後漢の時代になって,呼韓邪単于の孫,比は単于になれなかったことから匈奴から自立,自らも呼韓邪単于を名乗りました。これは南匈奴と呼ばれ,元の匈奴(北匈奴)との戦いの中で南匈奴は後漢に服属,長城の内側の雲中・西河・朔方・五原・定襄・雁門(以上并州)・北地(涼州)・代(幽州)の諸郡に住むようになります。南匈奴は漢とともに北匈奴を衰退させますが,代わりに北方には鮮卑が隆盛,後漢の桓帝・霊帝の頃には
(2)羌渠・於夫羅・呼廚泉
179年,後漢の霊帝の時代の光和二年,南匈奴では
羌渠を殺した武将たちは別の単于を立てたため,於夫羅は洛陽に赴いて朝廷に訴えようとします。しかし宦官の専横など政治が乱れている時でもあり,訴えは受け入れられず,また戻ることも叶わず,於夫羅は司隸(首都圏一帯)の河東郡に留まりました。関羽★は河東郡解県の生まれですが,この頃は劉備★に従って転戦しています。
黄巾の乱後,朝廷では袁紹★による宦官の粛清など政治は乱れ,やがて軍事力を背景とした董卓★の専横が始まります。これに対し190年(初平元年),反董卓連合軍が結成され,於夫羅は連合軍盟主の元司隷校尉・渤海太守袁紹に付き従いました。董卓は翌191年,洛陽を捨て長安に遷都することになりますが,同年,於夫羅は袁紹に対して反乱を起こし,袁紹配下の精強な
200年(建安五年),華北では曹操と袁紹との間で一大決戦である官渡の戦いが起こります。袁紹は破れ,202年に病没。袁家は長男の袁譚派と末子の袁尚派に分かれて争いを始めてしまいます。袁紹の甥の高幹は袁尚に付き,河東太守郭援,西方の馬騰・韓遂,そして呼廚泉と結んで数万の勢力となりました。司隷校尉として関中を任されていたのは書家としても名が高い
建安というのは長い時代で,元年の196年から二十六年の221年まで続きます。呼廚泉は216年(建安二十一年)入朝し,官位を与えられて鄴に留まることになり,代わりに叔父去卑が匈奴の地を治めることになります。なお曹操は匈奴を弱体化・分割支配のためか,左部・右部・中部・北部・南部の五部に分けたと言われています(五部匈奴)。南部は司隸,他は并州にありました。
その後呼廚泉は実に277年(西晋の時代)まで記録があります。195年に単于になったのが仮に10歳だったとしても,92歳ということになります。
(3)劉豹と蔡琰
ここで於夫羅の子,
於夫羅の後に単于となった呼廚泉は於夫羅の弟でしたが,劉豹は於夫羅の子です。叔父の呼廚泉が単于になると,劉豹は左賢王になりました。劉姓を名乗ったのは漢室の一員というアピールでしょう。
先にも述べましたが195年(興平二年),董卓の残党の李傕・郭汜が反乱を起こします。呂布★と組んで董卓を殺した王允に滅ぼされそうになった二人が,賈詡★の進言を受けて逆に長安に攻め込んだのです。王允は敗北して殺され,呂布は落ち延びました。この混乱の中で匈奴の兵に拉致されてしまったのが蔡琰(文姫)★です。父の蔡邕(伯喈)は高名な儒学者で,董卓の招聘を断れず祭酒となり,1年ほどで左中郎将にまで昇進しました。蔡邕の進言が董卓に受け入れられなかったりして逃亡も考えましたが,董卓が殺されるとその死を嘆いたため,王允に言いがかりをつけられ,獄中死してしまいます。蔡琰は父を亡くした数年後に匈奴兵に拉致されてしまったわけです。蔡琰は劉豹の側室にされ,12年を匈奴の地で過ごしました。ただし遠いモンゴルの地は鮮卑の領土であり,匈奴の地とは長城以南の并州の地であったのでしょう。
蔡琰は琴の弦が切れると何番目の弦が切れたかを言い当て,また父の蔵書を諳んじていたそうです。曹操はその才を惜しみ,劉豹に財宝を送って蔡琰を帰国させました。二人の子は劉豹の元に留め置かれたため,子と別れる悲しみを歌ったのが『悲憤詩』です。帰国ののち蔡琰は父を失った甥の
なお蔡琰は字を昭姫と言いましたが,司馬昭★の昭を避けて文姫と記録され,そのまま伝わったそうです。
(4)劉淵と劉宣
劉豹は279年(晋の咸寧五年)に亡くなりました。孫呉が羊祜の後任,
280年に呉を滅ぼして天下を統一した司馬炎(晋を樹立)は,その後女色に耽るなど政治を疎かにし,これが遠因となって晋は寿命を縮めます。290年,司馬炎(武帝)は崩御,
楊駿の誅殺後晋の政治は更に乱れました。司馬亮(汝南王,司馬懿★の3男)と衛瓘が実権を握りますが賈南風はこれも謀殺。賈南風は甥の賈謐らに実権を握らせ,また皇太子を謀略で殺害。専横の限りを尽くしますが,司馬倫(司馬懿の末子)が決起,賈謐は殺され賈南風は自害させられ賈氏の専横時代は終わりました(300年)
賈一族を取り除いた晋室でしたが,ここまで賈南風の専横を許した司馬衷より自分が皇帝になった方がましと考えたのか,今度は司馬倫自身が帝位簒奪の野心を起こします。皇弟司馬允(淮南王)が司馬倫を嫌ってこれを除こうと攻撃するも裏切りにあって敗死。翌301年司馬倫は司馬衷(恵帝)に禅譲させ帝位を奪いました。
そのころ斉王(
この後,司馬冏が専横して
於夫羅・呼廚泉の弟劉宣は漢の文化に興味を持ち学問に励んだ人物です。推挙されて司馬炎に謁見するとその態度を司馬炎に絶賛されたと言います。その後左賢王になりました。劉宣は司馬一族の血で血を洗う争い(八王の乱)を絶好の機会と捉え,「魏晋によって乱れた世を正し,漢室を再興する」という大義を掲げ,兄の孫に当たる劉淵を推戴して天下を窺う策を劉淵に伝えました。その頃司馬穎は司馬騰や王浚と争っていましたが,劉淵は「私が匈奴の二部の兵で司馬騰を討ち,残る三部で王浚を討ちます」と司馬穎を説得して鄴を脱出,并州へ帰還し五万の兵で漢の再興を宣言しました。劉宣は丞相になります。劉淵は約束通り司馬穎を援けることも考えましたが,劉宣から「司馬穎と協力するくらいなら鮮卑・烏桓と結ぶべき」と説得され援助をやめました。のち司馬穎は失脚し,再起を図るも最後は殺されました。司馬炎の第16子,28歳でした。司馬越が実権を握ります。
并州刺史司馬騰は鮮卑拓跋部と結んで劉淵討伐の兵を起こしました。劉淵は勝敗を繰り返しましたが,東萊(山東省)で反乱を起こしていた漢族の
長男劉和は猜疑心が強く,弟たちを除こうとしたため1ヶ月で殺され,三男の劉聡が皇帝となります。劉聡は310年洛陽を攻略,316年には長安を落として西晋は滅亡。西晋の滅亡に至る一連の異民族の反乱を永嘉の乱と呼びます。
しかしそんな中,力をつけた石勒が王弥と対立して勝手に暗殺してしまいます。しかし石勒の離反を恐れ劉聡は彼を罰することができませんでした。劉聡は318年に崩御し,次男の劉粲が皇帝となります。劉粲は酒と女に溺れて政治を顧みなかったので
この他,晋に尽くして匈奴の漢と戦った張軌からは前涼が起こります。この他成漢,前燕,前秦,後燕,後秦,西秦,後涼,南涼,北涼,南燕,西涼,夏,北燕といった国々が興亡しました。これが五胡十六国時代です。五胡とは匈奴・鮮卑・羯・羌・氐ですが漢民族の国もありました。中でも夏は去卑の孫(劉虎)の孫(劉衛辰)の子,劉勃勃(
十六国に数えられない小さな国もありました。漢族の
また鮮卑拓跋部が建てた代という国も重要です。代は拓跋什翼犍の時に滅びますが,この孫,
中国南部では司馬睿が東晋を建てました。のち華北を統一した前秦(氐族の国)第3代皇帝符堅は中華統一を掛けて東晋討伐の兵を起こすが大敗,統一はなりませんでした(383年淝水の戦い)
420年,東晋は劉裕に滅ぼされて宋となります。夏は宋と連携して北魏に対抗するも431年滅亡しました。北魏は442年に華北を統一(夏の後残った北燕,北涼,仇池を滅ぼす),南北朝時代となります。西晋が316年に匈奴の漢に滅ぼされ,隋が589年に南北朝時代を終わらせるまで270年ほど,更に184年の黄巾の乱に始まる群雄割拠・三国時代を含めると約400年間,中国は分裂時代が続くのです。
「天下大勢,分久必合,合久必分」──羅貫中
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小説と言いながら日誌のようになってしまいました……
物語を書くのは難しいですね。
また書きたいネタがあったら書いてみたいと思います。
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(2020/10/12追記)
三國志を読まない人にとっては「鍾毓・鍾会のいとこと言われても……」となりますので,簡単な人名辞典を付けていきます。
韓王信:有名な韓信(劉邦の功臣)ではなく,戦国時代に滅んだ韓の王族の末裔。劉邦により匈奴への備えとして太原郡のあたりに置かれたが,匈奴に投降。最後は漢の柴武に敗れ斬られた
麴義:袁紹の配下。涼州出身で兵は精強だったという。於夫羅や公孫瓚との戦いで活躍するが,易京が落とせず,傲慢な性格も祟って袁紹に疎まれ殺されたと言う。『三国志演義』では当時公孫瓚配下だった趙雲に討ち取られた。『蒼天航路』でそのシーンが華々しく描かれている
袁術(公路):袁紹の従弟または異母弟。197年,皇帝を僭称,国号を「仲」としたが国勢は全く振るわず。後は従弟の袁胤が継いだが孫策の勢力に吸収された
鍾毓(稚叔):鍾繇の子,鍾会の兄。青州刺史,後将軍などそれなりに活躍したが,三國志の世界ではほぼ無名
鍾会(士季)★:鍾繇の子,鍾毓の弟。兄より優秀だったようで,鄧艾と争う形で蜀漢を滅ぼす(劉禅が降伏したのは鄧艾)。鄧艾を讒訴して追い落とし,野心を起こして姜維とともに魏に反乱,敗死
龐徳(令明)★:涼州出身で,馬騰・馬超の配下。馬超が曹操に敗れると漢中の五斗米道教主・張魯に従った。馬超は劉備のもとへ行ったが,龐徳は張魯が曹操に降伏した際に曹操の配下に。のち関羽が荊州を攻めた際捕らえられ,馬超や従兄の龐柔が劉備に仕えていることからも降伏を勧められるが,魏に忠節を貫いて殺された
羊祜(叔子):上党太守羊衜の子で,15歳の時父を失い,おばの蔡琰に養育される。司馬昭の招聘により仕官,司馬炎に重用された。都督荊州諸軍事に任命され,対呉征伐の大任に当たるが,陸抗に一度敗れる。いよいよという時の上奏が却下され,呉の滅亡を見ることなく死去。後任の杜預が王濬らとともに呉を滅ぼした。敵の陸抗との交誼は「羊陸之交」と呼ばれた
賈充(公閭)★:河東太守郭援の乱にも対抗し,魏に尽くした賈逵(梁道)の子。魏の臣下だが司馬一族のブレーンとなり,司馬氏が魏を滅ぼすのに一役買った。娘賈南風が司馬炎の子,司馬衷(晋の第2代皇帝)の后となった
文鴦★:本名は文俶(文淑)で,鴦は幼名。毌丘倹(仲恭)と共に魏に対して反乱を起こし,呉に亡命した文欽(仲若)の子。文欽が呉の諸葛誕に殺されてしまったため晋に降伏。涼州を荒らした鮮卑を討伐するなど活躍した。諸葛誕の娘の子,司馬繇が文鴦を恐れ(諸葛誕が文欽を殺したので),文鴦を讒訴したため文鴦は殺された