「Wikipedia世界史(1) 南北朝時代(中国)」の続きです。前回は五胡十六国真っ只中で終わりました。
鮮卑慕容部の前燕は慕容暐の時代に前秦の苻堅(氐族)に滅ぼされます(慕容暐は降伏し将軍に)。苻堅は華北統一後,中華統一を目論んで東晋征伐の兵を起こしますが淝水で大敗を喫します(383年) なお功臣の王猛は既に375年に亡くなっていたようですね。
(淝水の戦いについては東晋の説明の時にやろうと思います)
淝水敗戦後の前秦では離反が相次ぎ瓦解の様相を呈します。多くの国が独立するので番号をつけます。前燕から亡命してきた
私はこのWikipedia南北朝史を書いて苻堅が結構優しかった(甘かった)ことを感じました。前燕から亡命してきた慕容垂を受け入れたり,滅ぼした前燕の慕容暐を将軍に取り立てたり,慕容垂に求められたにもかかわらず慕容評を殺さなかったり(慕容垂は慕容評に嫌われたため前燕から苻堅の下へ亡命した)。漢人の功臣王猛が慕容垂を危険視していたという話は前回しましたが,実は慕容垂は慕容部の再興を胸に秘めており,苻堅が東晋征伐を言い出した際も皆反対する中で慕容垂は苻堅を持ち上げて賛成,開戦に踏み切らせるのです。王猛は生前,東晋は攻めるなと遺言しており,慕容垂は苻堅に危ない橋を渡らせようとしたのですね。苻堅はこのようなお人好しに映るのですが,氐族が鮮卑や匈奴よりも少数派だったこともあるのでしょうか。少しでも人材を集めるためには寛容でなければならなかったのではということです。人材に寛容であったり,中華統一を目論んで大敗するところなど曹操にも通ずる所を感じますが,懐の深い苻堅を姚萇が殺害したのは意外な感じがしました。姚萇も苻堅にかわいがられていたはずです。調べてみると,苻堅は姚萇に囚われた後,その裏切りに怒り狂い,余りにも姚萇を罵るので殺さざるを得なかったみたいなことが書いてありますね。
ところで姚萇が離反したきっかけは慕容暐の弟
苻堅は子の苻叡(苻丕の弟)に姚萇を付けて5万の兵で慕容泓を攻撃させ,破りますが,「鮮卑人は故郷に帰りたがっているのだから,窮鼠猫を噛ませるより追い払えば良い」という姚萇の進言を無視し追撃したため戦死してしまいました。子の1人を失った苻堅は激怒,姚萇は恐れて逃亡しました。するとそこに様々な人材が結集し,推されて自立,秦王に付きました。これが後秦です。姚萇は父(羌族の酋長
“姚襄は17歳になると身長は八尺五寸に達し、腕を垂らせば膝下に届くほど長かった。勇健にして威武を有し、知謀にも長けていた。また、物事の本質を見抜くことができ、難民を受け入れてはよく安撫していた。そのため、士民問わずみな彼を敬愛し、姚弋仲へ姚襄を後継に立てるよう求めた。姚弋仲は姚襄が長男でないことから認めなかったが、この請願が1日に数千を超えるほどとなると、姚襄に兵を授けるようになった”
なお,姚萇が苻堅を殺して後秦を建てると,鮮卑乞伏部の
さらに,苻堅の死を知り,配下の呂光(氐族)も独立します(386年)。呂光はかつて上述の張蚝を負傷させ生け捕らせたほどの猛将で,苻堅の命で西域を平定,捕らえられた
西燕の慕容泓の方はというと,弟の慕容沖の方が支配者に相応しいと考えた臣下に殺されてしまいました。慕容沖は美少年で苻堅の寵童だったようです。結局大した善政も敷けず,部下に殺されました。この後もグダグダで,結局慕容垂の後燕に滅ぼされました(394年)。最初から後燕に合流すればよかったと思うのですが,中原に留まる派と鮮卑の故郷に帰る派が争ったのが悪かったようです。394年滅亡ですので,後涼から南涼・北涼が分離独立する397年には存在していません。以下のような場所です。
その後慕容垂の後燕は東晋に奪われていた山東半島を奪回(386年),前燕の版図を上回りましたが,その頃には北魏が興っていました。華北は北魏(鮮卑拓跋部の拓跋珪建国),後燕(鮮卑慕容部の慕容垂建国),後秦(羌族の姚萇建国)の争いになります。なお鳩摩羅什は401年,姚萇から子の姚興に代わった後秦に迎え入れられ国師となります。姚興は仏教を厚く保護し国民のほとんどが仏教徒になったそうです。鳩摩羅什は多数の仏典を漢訳した功績で三蔵法師と呼ばれました。
いよいよ北魏に入りましょう。
鮮卑拓跋部の代は
代が滅ぶと(拓跋什翼犍は内紛で死んだが代を吸収したのは前秦),拓跋珪は親族に庇護され,386年盛楽(内モンゴルにあった)というところで魏を建国します。北魏です。395年には慕容垂の後燕の辺境を荒らし始めます。慕容垂は北魏討伐の兵を起こしますが皇太子慕容宝が参合陂の戦い(395.11)で拓跋珪に破れ,翌年慕容垂は拓跋虔(拓跋珪のいとこ)を討ち取って報復しましたが,この年に亡くなります。慕容宝が継ぎました。
慕容宝は父ほど有能ではなかったようで北魏に敗退を続け,領土は南北に分断,南では慕容皝の子慕容徳が自立して燕王に就きました(398年,南燕)。南燕はほぼ山東半島だけの国でしたが慕容徳は戸籍を整備,東晋から流れた民で人口も増えました。しかし第2代慕容超が東晋を攻めるという無茶をして逆に東晋の劉裕に攻め滅ぼされました(410年。この時点で東晋の版図は山東半島まであったことになります)。後燕は407年,将軍の漢人
後燕(384-407)と南燕(398-410)が滅んだことで鮮卑慕容部の国家勢力は消滅したことになるのでしょうか……。実は鮮卑慕容部から分かれた
さて,北魏の拓跋珪は柔然(拓跋部から自立してモンゴル高原で勢力を拡大),高車(丁零),匈奴の劉衛辰(のち夏を建てる赫連勃勃の父)を破って華北をほぼ平定,398年には平城で帝位につきました。
拓跋珪は漢民族の文化を積極的に取り入れる漢化政策を取り仏教も取り入れました。しかし不運なことに次男拓跋紹の素行が悪すぎ,拓跋珪はその母の賀夫人を罰として幽閉,母が殺されると思った拓跋紹は夜中に拓跋珪を殺害してしまいます(409年,享年39)。太祖道武帝と諡されました。
まもなく紹の異母兄の拓跋嗣(母は匈奴出身の劉夫人)が紹を討ち即位しました。勢力拡大と漢化政策を進め,423年亡くなりました(明元帝)。次は太武帝(拓跋燾)です。太武帝は427年に夏(407年に赫連勃勃が後秦から独立して建国)を,436年に馮氏の北燕を,439年に北涼(397年に呂光の後涼から独立)を滅ぼし華北を統一(仇池だけ442まで存続),五胡十六国時代を終わらせました。南北朝時代の開始です。
(5)太武帝の仏教弾圧
太武帝(在位423-452)は長江を渡りこそしなかったものの南朝の宋(420年に劉裕が東晋を滅ぼして建国していた)を攻撃して衰退させます。
北魏は漢化政策を取ったわけですが,漢人宰相の崔浩や,道教の
・北魏太武帝(在位423-452)南北朝時代。道教の寇謙之の影響
・北周の武帝(在位560-578)南北朝時代。574年,道教・仏教を廃止
・唐の武宗(在位840-846)道教に傾倒し,仏教と,景教など外来宗教を弾圧
・後周の世宗(在位954-959)五代十国時代
漢化政策を強力に進め,さらには南朝的な貴族制への移行も急ごうとした崔浩は支配階級である鮮卑族の反発を招き,国史編纂で鮮卑の風俗を馬鹿にしたとの言いがかりをつけられ誅殺されてしまいました(450年)
太武帝の皇太子は拓跋晃といい,父からも信頼されましたが宦官の宗愛と対立,宗愛は様々な嫌がらせをして拓跋晃は24歳で死んでしまいます。晃が死ぬと太武帝が嘆き悲しんだため宗愛は罪に問われることを恐れ,太武帝を殺害しました(452年)。宗愛は太武帝の末子拓跋余を擁立,拓跋余は浪費がひどく政治を疎かにし,やがて宗愛とも対立,宗愛に殺されました。しかし忠臣達が宗愛を誅殺,早逝した拓跋晃の子,拓跋濬が帝位につきます。文成帝です(在位452-465)。
(6)文成帝の仏教保護──“皇帝即如来”
文成帝(即位した時は12歳ほどですが)は富国に努め,また祖父の仏教弾圧から仏教保護に転じます。世界遺産の雲崗石窟(雲岡石窟)を僧
太武帝に滅ぼされた北燕(建国者は馮跋)の生き残り馮朗は北魏に仕えましたが,罪を得て誅殺されました。その娘は身寄りをなくして後宮に入ります。実は叔母の馮氏も後宮にいて,しかも太武帝の昭儀(皇后に次ぐ位)になっていました。馮朗の娘も文成帝の側室,やがて皇后(馮皇后)になりました。
文成帝が亡くなると子の献文帝が継ぎ(在位465-471),馮皇后は皇太后(馮太后)になります。献文帝の実母は馮太后ではなく李夫人です。美少女と言われ,文成帝に迫られ献文帝を身籠りました。実は拓跋氏には「後宮で生まれた子が世継になると母は死を賜る」という風習があり,李夫人も死を賜っています(明元帝の母劉夫人も同様) そういうことも崔浩はあからさまに書いて,皇族に嫌がられたのでしょうか。
ということで献文帝と馮太后は実の母子ではなく,仲違いします。471年,馮太后は献文帝に譲位させて子の孝文帝(拓跋宏,在位471-499)に代わらせ(孝文帝はまだ5歳),さらに譲位した献文帝を毒殺(476年)して実権を握りました。馮太后はこのように権力欲の強い女性でしたが,為政者としては有能で,漢化路線の政治改革で北魏の全盛期を築いたそうです。
馮太后は490年に亡くなり,孝文帝の親政が始まります。なお余りに馮太后の死を嘆き悲しむので,孝文帝は馮太后の子ではないかという噂も立ちました(この場合馮太后は義理の子の献文帝と結ばれて孝文帝を生んだことになる。ただこの場合はなぜ馮太后は献文帝に譲位させたり毒殺するほど仲が悪かったのかということになる)
孝文帝は漢化政策を更に進め,姓を鮮卑風から漢風の姓に変えさせ,自らも拓跋宏から元宏に改名し,南朝風の貴族制を成立させました。こうした動きに鮮卑族の一部は反発,息子の元恂までもが背きます(15歳で賜死) 499年孝文帝は亡くなり,次男の元恪が継ぎました(宣武帝)。宣武帝は外戚の
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そろそろ北魏が滅亡し,東魏と西魏に分かれるのですが,長くなったので一旦切り,次回は一旦南朝を見ます。北魏孝明帝が亡くなった528年時点で南朝宋(420-479)のあとの斉(479-502)のあとの梁(502-557)にまで代わっています。日本史で重要な「倭の五王」は南朝宋の時代(遣宋使)ですよ!
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