フレイニャのブログ

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Wikipedia世界史(2) 南北朝時代(中国)続き

「Wikipedia世界史(1) 南北朝時代(中国)」の続きです。前回は五胡十六国真っ只中で終わりました。

(3)鮮卑慕容部と前燕後燕──続き

■淝水の歴史的敗戦と前秦の瓦解,ときどき鳩摩羅什

鮮卑慕容部前燕慕容暐の時代に前秦苻堅氐族)に滅ぼされます(慕容暐は降伏し将軍に)。苻堅華北統一後,中華統一を目論んで東晋征伐の兵を起こしますが淝水で大敗を喫します(383年) なお功臣の王猛は既に375年に亡くなっていたようですね。

淝水の戦いについては東晋の説明の時にやろうと思います)

淝水敗戦後の前秦では離反が相次ぎ瓦解の様相を呈します。多くの国が独立するので番号をつけます。前燕から亡命してきた慕容垂(ぼようすい)は,苻堅の世継苻丕に疎んじられたため離反,滅んだ前燕)の再興を宣言しました。後燕(1)です。慕容垂丁零烏桓の兵も動員してを猛攻撃しますが苻丕は1年以上粘り,苻丕自らを放棄するまで落とさせませんでした。苻丕王永王猛の子)や王騰,「万人の敵」と讃えられた宦官で猛将の張蚝(ちょうこう)に援けられて晋陽に入りましたが,その間,父は離反した羌族姚萇(ようちょう)に殺されていました。姚萇が建てたのは後秦(2)です(386年長安を奪取)

私はこのWikipedia南北朝史を書いて苻堅が結構優しかった(甘かった)ことを感じました。前燕から亡命してきた慕容垂を受け入れたり,滅ぼした前燕慕容暐を将軍に取り立てたり,慕容垂に求められたにもかかわらず慕容評を殺さなかったり(慕容垂慕容評に嫌われたため前燕から苻堅の下へ亡命した)。漢人の功臣王猛慕容垂を危険視していたという話は前回しましたが,実は慕容垂慕容部の再興を胸に秘めており,苻堅東晋征伐を言い出した際も皆反対する中で慕容垂苻堅を持ち上げて賛成,開戦に踏み切らせるのです。王猛は生前,東晋は攻めるなと遺言しており,慕容垂苻堅に危ない橋を渡らせようとしたのですね。苻堅はこのようなお人好しに映るのですが,氐族鮮卑匈奴よりも少数派だったこともあるのでしょうか。少しでも人材を集めるためには寛容でなければならなかったのではということです。人材に寛容であったり,中華統一を目論んで大敗するところなど曹操にも通ずる所を感じますが,懐の深い苻堅姚萇が殺害したのは意外な感じがしました。姚萇苻堅にかわいがられていたはずです。調べてみると,苻堅姚萇に囚われた後,その裏切りに怒り狂い,余りにも姚萇を罵るので殺さざるを得なかったみたいなことが書いてありますね。

ところで姚萇が離反したきっかけは慕容暐の弟慕容泓(ぼようおう)の反乱でした。慕容暐淝水の戦いの翌年,の暗殺に失敗して誅殺されますが,同年慕容泓は叔父慕容垂の離反を知って自立します。更に弟慕容沖も加わりました。慕容泓は燕王に就きませんでしたが歴史家は西燕(3)と呼びます。西燕五胡十六国に数えられない,鮮卑族が建てた国です(拓跋部も同様)

苻堅は子の苻叡苻丕の弟)に姚萇を付けて5万の兵で慕容泓を攻撃させ,破りますが,「鮮卑人は故郷に帰りたがっているのだから,窮鼠猫を噛ませるより追い払えば良い」という姚萇の進言を無視し追撃したため戦死してしまいました。子の1人を失った苻堅は激怒,姚萇は恐れて逃亡しました。するとそこに様々な人材が結集し,推されて自立,秦王に付きました。これが後秦です。姚萇は父(羌族の酋長姚弋仲(ようよくちゅう))も兄(姚襄)も有能で,自身も苻堅の部下として勇名を馳せていたので,瓦解した前秦から多くの人材が糾合したのでしょう。姚襄の有能さはWikipedia「姚襄」を引きます。

“姚襄は17歳になると身長は八尺五寸に達し、腕を垂らせば膝下に届くほど長かった。勇健にして威武を有し、知謀にも長けていた。また、物事の本質を見抜くことができ、難民を受け入れてはよく安撫していた。そのため、士民問わずみな彼を敬愛し、姚弋仲へ姚襄を後継に立てるよう求めた。姚弋仲は姚襄が長男でないことから認めなかったが、この請願が1日に数千を超えるほどとなると、姚襄に兵を授けるようになった”

なお,姚萇苻堅を殺して後秦を建てると,鮮卑乞伏部乞伏国仁(きつぶくこくじん)も離反・独立しました(385年)。西秦(4)です。西秦は400年に一旦後秦に吸収され滅亡,後秦が衰退し始めると409年に独立,431年まで存続しました。後秦の方が早く,417年に東晋劉裕に滅ぼされています。西秦の方が辺境だったこともあるでしょう。

さらに,苻堅の死を知り,配下の呂光氐族)も独立します(386年)。呂光はかつて上述の張蚝を負傷させ生け捕らせたほどの猛将で,苻堅の命で西域を平定,捕らえられた鳩摩羅什(くまらじゅう)を保護しました。鳩摩羅什の進言もあって(彼も仏教を東方に広めたかったのでしょう)西域に留まらず東へ帰還し,苻堅の死を知って涼州後涼(5)を建てます(396年)。しかし呂光は翌年西秦乞伏国仁の弟乞伏乾帰に代わっていた)征伐の軍を起こし失敗,その混乱の中で鮮卑禿髪部禿髪烏孤(とくはつう こ )が分離独立して南涼(6)を建国し,また同年北涼(7)も建国されました。後涼南涼北涼に挟まれ403年に滅亡しました。当時の後涼南涼北涼,また西秦の位置は以下のWikipediaの地図を見て下さい。なお,北涼からは400年に西涼(8)が分離独立し,敦煌酒泉を支配しました(400-421) 一説ではありますが,唐の詩人李白西涼の建国者李暠(りこう)の子孫です。なお,南涼は414年に西秦に滅ぼされるのですが,生き残りの禿髪破羌北魏で将軍になります。北魏武帝(後述)に「禿髪拓跋は源は同じだ」と言われ源賀と名乗りました。源賀は奸臣宗愛(後述)を討つなど活躍します。嵯峨天皇の子女が多すぎて財政上の問題から皇族の一部を臣にする改革を行った時,この故事に倣って「源は皇族と同じ」と「源」氏と名付けました。

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西燕慕容泓の方はというと,弟の慕容沖の方が支配者に相応しいと考えた臣下に殺されてしまいました。慕容沖は美少年での寵童だったようです。結局大した善政も敷けず,部下に殺されました。この後もグダグダで,結局慕容垂後燕に滅ぼされました(394年)。最初から後燕に合流すればよかったと思うのですが,中原に留まる派と鮮卑の故郷に帰る派が争ったのが悪かったようです。394年滅亡ですので,後涼から南涼北涼が分離独立する397年には存在していません。以下のような場所です。

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その後慕容垂後燕東晋に奪われていた山東半島を奪回(386年),前燕の版図を上回りましたが,その頃には北魏が興っていました。華北北魏鮮卑拓跋部拓跋珪建国),後燕鮮卑慕容部慕容垂建国),後秦羌族姚萇建国)の争いになります。なお鳩摩羅什は401年,姚萇から子の姚興に代わった後秦に迎え入れられ国師となります。姚興は仏教を厚く保護し国民のほとんどが仏教徒になったそうです。鳩摩羅什は多数の仏典を漢訳した功績で三蔵法師と呼ばれました。

いよいよ北魏に入りましょう。

(4)北魏華北統一,五胡十六国時代の終了

鮮卑拓跋部拓跋什翼犍(たくばつじゅうよくけん)の時に滅びますが,北魏を建てるのは孫の拓跋珪(たくばつけい)です。父拓跋寔(たくばつしょく)の母は慕容皝の娘です。拓跋部慕容部で通婚・修好していたのでしょう。

が滅ぶと(拓跋什翼犍は内紛で死んだがを吸収したのは前秦),拓跋珪は親族に庇護され,386年盛楽内モンゴルにあった)というところでを建国します。北魏です。395年には慕容垂後燕の辺境を荒らし始めます。慕容垂北魏討伐の兵を起こしますが皇太子慕容宝参合陂の戦い(395.11)で拓跋珪に破れ,翌年慕容垂拓跋虔拓跋珪のいとこ)を討ち取って報復しましたが,この年に亡くなります。慕容宝が継ぎました。

参合陂の戦い

慕容宝は父ほど有能ではなかったようで北魏に敗退を続け,領土は南北に分断,南では慕容皝の子慕容徳が自立して燕王に就きました(398年,南燕)。南燕はほぼ山東半島だけの国でしたが慕容徳は戸籍を整備,東晋から流れた民で人口も増えました。しかし第2代慕容超東晋を攻めるという無茶をして逆に東晋劉裕に攻め滅ぼされました(410年。この時点で東晋の版図は山東半島まであったことになります)。後燕は407年,将軍の漢人馮跋(ふうばつ)に皇帝が廃位され滅亡,馮跋北燕を建てました(遼西地方)。

後燕(384-407)と南燕(398-410)が滅んだことで鮮卑慕容部の国家勢力は消滅したことになるのでしょうか……。実は鮮卑慕容部から分かれた吐谷渾(と よくこん)がありました。慕容廆(嫡長子だった)の兄の慕容吐谷渾(庶長子だった)が馬のことで慕容廆と喧嘩,半ば追放という形で出奔し,遼東半島のあたりからはるばる甘粛省の辺りまで民族移動して国を建てました。彼の名のまま吐谷渾という国です。なお慕容廆は後悔して兄を追慕する歌を作ったそうです。吐谷渾吐蕃チベット族)に滅ぼされる663年まで存続しました(の時代)

さて,北魏拓跋珪柔然拓跋部から自立してモンゴル高原で勢力を拡大),高車丁零),匈奴の劉衛辰(のちを建てる赫連勃勃の父)を破って華北をほぼ平定,398年には平城で帝位につきました。

拓跋珪漢民族の文化を積極的に取り入れる漢化政策を取り仏教も取り入れました。しかし不運なことに次男拓跋紹の素行が悪すぎ,拓跋珪はその母の賀夫人を罰として幽閉,母が殺されると思った拓跋紹は夜中に拓跋珪を殺害してしまいます(409年,享年39)。太祖道武帝と諡されました。

まもなくの異母兄の拓跋嗣(母は匈奴出身の劉夫人)がを討ち即位しました。勢力拡大と漢化政策を進め,423年亡くなりました(元帝)。次は武帝拓跋燾)です。武帝は427年に(407年に赫連勃勃後秦から独立して建国)を,436年に馮氏北燕を,439年に北涼(397年に呂光後涼から独立)を滅ぼし華北を統一(仇池だけ442まで存続),五胡十六国時代を終わらせました。南北朝時代の開始です。

(5)太武帝の仏教弾圧

武帝(在位423-452)は長江を渡りこそしなかったものの南朝(420年に劉裕東晋を滅ぼして建国していた)を攻撃して衰退させます。

北魏漢化政策を取ったわけですが,漢人宰相の崔浩や,道教寇謙之(こうけんし)の進言で仏教を弾圧します。「三武一宗の法難」の1つ目です。「三武一宗の法難」を確認しておきましょう。

北魏武帝(在位423-452)南北朝時代道教寇謙之の影響

北周武帝(在位560-578)南北朝時代。574年,道教・仏教を廃止

唐の武宗(在位840-846)道教に傾倒し,仏教と,景教など外来宗教を弾圧

後周の世宗(在位954-959)五代十国時代

漢化政策を強力に進め,さらには南朝的な貴族制への移行も急ごうとした崔浩は支配階級である鮮卑族の反発を招き,国史編纂で鮮卑の風俗を馬鹿にしたとの言いがかりをつけられ誅殺されてしまいました(450年)

武帝の皇太子は拓跋晃といい,父からも信頼されましたが宦官の宗愛と対立,宗愛は様々な嫌がらせをして拓跋晃は24歳で死んでしまいます。が死ぬと武帝が嘆き悲しんだため宗愛は罪に問われることを恐れ,武帝を殺害しました(452年)。宗愛武帝の末子拓跋余を擁立,拓跋余は浪費がひどく政治を疎かにし,やがて宗愛とも対立,宗愛に殺されました。しかし忠臣達が宗愛を誅殺,早逝した拓跋晃の子,拓跋濬が帝位につきます。文成帝です(在位452-465)。

(6)文成帝の仏教保護──“皇帝即如来

文成帝(即位した時は12歳ほどですが)は富国に努め,また祖父の仏教弾圧から仏教保護に転じます。世界遺産雲崗石窟(雲岡石窟)を僧曇曜(どんよう)に命じて造らせたのは文成帝です。大仏を歴代皇帝に似せて造らせました(皇帝即如来)。文成帝は仏教を利用して皇帝のカリスマを高め,求心力を得ようとしたのでしょう。

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(7)馮太后の実権掌握,孝文帝の漢化政策と改姓

武帝に滅ぼされた北燕(建国者は馮跋)の生き残り馮朗北魏に仕えましたが,罪を得て誅殺されました。その娘は身寄りをなくして後宮に入ります。実は叔母の馮氏後宮にいて,しかも武帝の昭儀(皇后に次ぐ位)になっていました。馮朗の娘も文成帝の側室,やがて皇后(馮皇后)になりました。

文成帝が亡くなると子の献文帝が継ぎ(在位465-471),馮皇后は皇太后太后)になります。献文帝の実母は太后ではなく李夫人です。美少女と言われ,文成帝に迫られ献文帝を身籠りました。実は拓跋氏には「後宮で生まれた子が世継になると母は死を賜る」という風習があり,李夫人も死を賜っています(元帝の母劉夫人も同様) そういうことも崔浩はあからさまに書いて,皇族に嫌がられたのでしょうか。

ということで献文帝太后は実の母子ではなく,仲違いします。471年,太后献文帝に譲位させて子の孝文帝拓跋宏,在位471-499)に代わらせ(孝文帝はまだ5歳),さらに譲位した献文帝を毒殺(476年)して実権を握りました。太后はこのように権力欲の強い女性でしたが,為政者としては有能で,漢化路線の政治改革で北魏の全盛期を築いたそうです。

太后は490年に亡くなり,孝文帝の親政が始まります。なお余りに太后の死を嘆き悲しむので,孝文帝太后の子ではないかという噂も立ちました(この場合太后は義理の子の献文帝と結ばれて孝文帝を生んだことになる。ただこの場合はなぜ太后献文帝に譲位させたり毒殺するほど仲が悪かったのかということになる)

孝文帝漢化政策を更に進め,姓を鮮卑風から漢風の姓に変えさせ,自らも拓跋宏から元宏に改名し,南朝風の貴族制を成立させました。こうした動きに鮮卑族の一部は反発,息子の元恂までもが背きます(15歳で賜死) 499年孝文帝は亡くなり,次男の元恪が継ぎました(武帝)。武帝外戚高肇(こうちょう)を重用し,高肇は反乱を防ぐ意味で王族を抑えたためこれを嫌って弟の元愉が反乱しますが鎮圧されます。武帝は515年,33年で亡くなりました。次男の孝明帝(在位515-528)が継ぎますが僅か5歳ほどであり,実母の太后が実権を握りました。前述した「後宮で生まれた子が世継になると母は死を賜る」習慣は先代の武帝の時に廃止されたため太后は賜死を免れます。しかし彼女が実権を握り,他の臣下との権力争いになったため,あの悪習も意味があったのではないかということになってしまいました。孝明帝太后の力を抑えようとしましたが, 逆に殺されてしまいました。この後太后も殺され,北魏は混乱,一気に衰退していきます。

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そろそろ北魏が滅亡し,東魏西魏に分かれるのですが,長くなったので一旦切り,次回は一旦南朝を見ます。北魏孝明帝が亡くなった528年時点で南朝(420-479)のあとの(479-502)のあとの(502-557)にまで代わっています。日本史で重要な「倭の五王」は南朝の時代(遣宋使)ですよ!

 

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