フレイニャのブログ

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アメリカ史年表1945年4月-1963年11月22日:ローズベルトの死からケネディ暗殺まで

アメリカ史年表1901年-1945年4月12日」の続きです。「トルーマン」「アイゼンハワー」「JFK」の記事を統合しました。フランクリン・ローズベルト大統領の死去からケネディ大統領暗殺までの年表です。“引用” は特に明記がない限りウィキペディアからの引用です。

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1945年4月12日,ローズベルト大統領の急死に伴い副大統領トルーマンが大統領に昇格(第33代)

1945年4月30日,ヒトラーと妻エーファ自決

1945年5月8日,ドイツ降伏に伴い,アイゼンハワーがドイツのアメリカ占領区域軍政府長官に(~11月10日)

1945年6月21日,米軍,沖縄を占領(沖縄本島上陸は4月1日)

1945年6月26日,サンフランシスコ会議で国際連合憲章を51か国が署名

1945年7月3日,ジェームズ・バーンズ国務長官

対日強硬派で日本への原爆使用を強く進言

1945年7月8日,ユタ州サライナの捕虜収容所で看守がナチス・ドイツの捕虜29名を死傷させる「真夜中の虐殺」発生

1945年7月16日,トリニティ実験(人類最初の核実験)

1945年7月17日~8月2日,ポツダム会談(米英ソ)

ポツダムは現在ドイツのブランデンブルク州都。当時はソ連占領下

:ドイツ占領統治問題,ポーランド問題,賠償問題,対日降伏勧告など様々

1945年7月17日,「シラードの請願」 日本に(国体護持など)降伏の条件を示して降伏を迫ることなしに原爆を投下することの無いよう,シラードら科学者が請願。しかし請願書は大統領の手に渡ることはなかった

1945年7月21日,トルーマン大統領,原爆使用を承認

1945年7月25日の大統領の日記「原爆の投下場所は軍事基地のみに限る」

マンハッタン計画の責任者だったグローヴス(Groves)准将は京都を原爆投下の候補としたが,陸軍長官スティムソンはこれを却下し,大統領にも京都を候補から外すよう進言した。しかしトルーマンは広島を純粋な軍事基地と思って(思わされて)おり,候補から外すことはなかった

共和党員は軒並み原爆使用に反対

↓映画『オッペンハイマー』ではマット・デイモンがグローヴスを演じた

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1945年7月26日,ポツダム宣言(日本への降伏要求の最終宣言)発表(米英中:ソ連は事後報告を受け追認)

1945年7月28日,エンパイアステートビルにB-25爆撃機が衝突する事故(死者14名)

1945年8月6日8時15分,広島に原子爆弾投下(ウラン,リトルボーイ

1945年8月9日未明,ソ連軍が満州に侵攻,対日参戦開始

:日ソ中立条約は5年間(1946年4月25日まで)有効だったが,モロトフは1945年4月5日に条約の廃棄を通告

1945年8月9日11時2分,長崎に原子爆弾投下プルトニウム,ファットマン)

1945年8月15日,日本,ポツダム宣言受諾を発表(決断は14日)

1945年8月18日,トルーマン大統領,スターリンに対しソ連軍の北海道占領を拒否する回答(北海道を攻めたらモスクワに原爆を落とすとの脅しも)

1945年9月2日,戦艦ミズーリ上で日本が降伏文書に調印

1945年10月24日,国際連合発足(本部ニューヨーク)

1945年11月19日,アイゼンハワー,陸軍参謀総長に(前任はジョージ・マーシャル)(~1948年2月)

1946年3月5日,英首相チャーチル鉄のカーテン」演説(訪米講演時)

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1946年3月30日,ギリシア内戦開始(王党派 vs 共産主義派)

:勝敗によってはギリシア共産化の危機→トルーマン・ドクトリンに繋がる

ギリシアとトルコはエーゲ海黒海から地中海に出るときの通過水域)を擁していたので両国が共産圏にならないことは地政学的に極めて重要であった

1946年5月3日,東京裁判極東国際軍事裁判)開廷(~1948.11.12)

1946年7月1日,ビキニ環礁で核実験(エイブル実験)

1946年7月25日,ビキニ環礁で核実験(ベイカー実験)

1946年7月25日,ムアーズフォード橋のリンチ事件(白人群衆が黒人カップルを射殺)

→大統領公民権委員会を設置

1946年12月12日,大統領首席補佐官を創設。初代はジョン・スティールマンSteelman(~1953.1.20で任期最長)

1947年1月21日,バーンズ国務長官解任,ジョージ・マーシャル国務長官(→6月5日)

:バーンズは原爆を外交カードに使う姿勢を危険視された

:マーシャルは1943年と1947年の,バーンズは1946年の『タイム』誌「マン・オブ・ザ・イヤー」(トルーマンは1945年と1948年,アイゼンハワーは1944年)

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1947年3月11日,GHQ により1ドル15円→50円に

1947年3月12日,トルーマン・ドクトリン発表共産主義封じ込め政策)

トルーマンは,もしギリシャとトルコが必要とする援助を受けなければヨーロッパの各地で共産主義ドミノ現象が起こるだろうと主張した”ウィキペディアトルーマン・ドクトリン」より)

1947年4月11日,チャップリン『殺人狂時代』公開

チャップリンは『殺人狂時代』で再び政治的姿勢を主張し,資本主義や戦争における大量破壊兵器の使用を批判した。そのため1947年4月に公開されると物議を醸した”ウィキペディアチャップリン」より)

1947年5月3日,日本国憲法施行(公布は半年前の1946.11.3)

1947年5月4日,日本で片山哲社会党内閣発足

1947年5月9日,ジョージ・ケナン国務省内に創設される政策企画本部の長に就任(~1949年5月31日)

:「共産主義封じ込め」政策に影響を与えた人物と言われる

1947年6月5日,国務長官ジョージ・マーシャルによるマーシャル・プラン(ヨーロッパ復興計画)発表

:ヨーロッパが復興せず貧しいままだと共産主義革命の危険性があった。“援助資金は毎年議会の議決を経て予算化され,3年3か月間の予算として125億3490万ドルが計上された”ウィキペディア「マーシャル・プラン」より)

ジョージ・マーシャルはこれにより1953年12月ノーベル平和賞受賞(ノーベル平和賞を受賞した軍人)

1947年6月23日,タフト=ハートリー法(1947年労使関係法)成立

:タフトはタフト元大統領の息子。タフトもハートリーも共和党

労働組合の活動と勢力を監視する米国連邦法” トルーマン大統領はタフト=ハートリー法への拒否権を行使したが,議会は彼の拒否権を覆した。 両党の多くは同法に賛成票を投じたのである”ウィキペディア「タフト=ハートリー法」より)

1947年7月2日,ロズウェルUFO事件

1947年9月18日,国防総省(ペンダゴン)と中央情報局(CIA)が発足

1947年,トルーマン,現職大統領として初めて,全米有色人種地位向上委員会(NAACP:1909年設立)に対し演説

1948年1月1日,GATT(関税及び貿易に関する一般協定)発効

ブロック経済が発達した結果,ブロック同士の戦争となったという反省に立ち,経済がブロック化せぬように自由貿易を推進する

1948年3月10日,日本で芦田均民主党)内閣発足

1948年5月14日,イスラエル独立宣言

1948年5月15日,第一次中東戦争勃発レバノン,シリア,トランスヨルダン,イラク,エジプトがイスラエルに宣戦布告)

1948年6月24日,ソ連によるベルリン封鎖

英米軍が「ベルリン大空輸」でベルリン市民を支援

1948年10月15日,日本で第2次吉田茂民主自由党)内閣発足

:よく漫画などで自民党を暗に意味する政権与党「民自党」が登場するが,過去に民自党(民主自由党)は存在した

1948年11月2日,大統領選挙でトルーマン共和党デューイ(検事→ニューヨーク州知事),州権民主党サーモンドに303対189対39選挙人で勝利(得票率49.6%対45.1%対2.4%)。昇格大統領だったトルーマンは選挙でも信任された

:ローズベルトのニューディールの精神(社会政策)を受け継ぐフェアディール政策を標榜。国民健康保険の計画もあったが,激論の末に廃案となった

↓デューイ検事はマフィアのルチアーノを刑務所に送り正義のヒーローとなっていた。ドナルド・ダックの姉の子デューイ・ダックは彼に因む

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:「シカゴ・トリビューン」紙は「デューイ勝利」の誤報を打った

:サーモンド(1902年生)は2003年まで生き,100歳の時点でも上院議員であった

1948年12月1日,中米のコスタリカ常備軍を廃止,非武装国に

1949年4月4日,北大西洋条約調印,NATO発足

1949年5月12日,ベルリン封鎖解除

1949年10月1日,中華人民共和国設立蒋介石中華民国)は台湾へ

1950年2月9日,マッカーシー共和党上院議員国務省で250名の共産党員が影響を及ぼしている旨の発言→マッカーシズム赤狩り

:1938年から存在していた下院非米活動委員会(House Committee on Un-American Activities)が主な摘発の舞台となった。マッカーシー上院議員はその告発対象をアメリカ陸軍やマスコミ関係者,ハリウッドの映画俳優などアメリカ映画関係者や学者にまで広げた”ウィキペディアマッカーシズム」より)

共産党非合法化はアイゼンハワー政権時の1954年8月24日

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1950年5月3日,キーフォーヴァー委員会の開催が決まる

:組織犯罪に関する調査委員会で,フランク・コステロらが呼ばれた

:キーフォーヴァーは民主党下院議員→上院議員。1956年の大統領選挙の副大統領候補(敗北)。キーフォーヴァーという語は『ゴッドファーザー Part II』でも語られる

1950年6月25日,朝鮮戦争勃発(6.28,ソウル陥落)

朝鮮人民軍は破竹の勢いで韓米軍は釜山まで後退

1950年8月10日,日本の警察予備隊創設(→1952.10.15)

1950年9月15日,仁川上陸作戦(クロマイト作戦)

1950年9月29日,国連軍,ソウルをほぼ奪還

1950年10月19日,中国義勇軍(抗美援朝義勇軍鴨緑江を渡り参戦

1950年10月20日,国連軍,平壌を制圧

1950年10月26日,韓国軍が鴨緑江(中朝国境)にまで到達

:捕虜から中国軍の参戦を知る

1950年11月1日,中国義勇軍の大攻勢開始,国連軍の敗退始まる

1950年11月1日【プエルトリコ独立運動プエルトリコのトレソーラ(Torresola)によるトルーマン大統領暗殺未遂事件。トレソーラと警察官1名が死亡(→1952.7.25)

1951年1月4日,中朝軍,ソウルを再奪回

1951年3月14日,国連軍,ソウルを再奪回(その後,膠着状態に)

1951年4月,アイゼンハワーNATO欧州連合軍最高司令官に

1951年4月5日,ローゼンバーグ夫妻がスパイ容疑で死刑判決

:世界の著名人が夫妻の死刑反対を訴えたが1953年に執行された

1951年4月11日,マッカーサー,国連総司令官を解任される

満州の工業地帯に原爆を落としてでも中国を屈服させ,朝鮮半島を武力統一することを主張し,トルーマンと対立。“これは後に「シビリアン・コントロールの模範例」として称賛されることもあったが,結果的にトルーマンの支持率に大きく影響した。(中略)再選の可能性がわずかになったことを悟ったトルーマンは次の大統領選挙の不出馬を決定”ウィキペディアトルーマン」より)

1951年7月16日,サリンジャーの青春小説『ライ麦畑でつかまえて

1951年9月1日,軍事同盟ANZUS設立(豪州・ニュージーランド・米国)

1951年9月8日,サンフランシスコ講和条約(日本国との平和条約)署名

1952年2月4日,トカラ列島(吐噶喇列島)を日本に返還

1952年4月28日,サンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)発効

:日本の主権回復。旧安保条約,日米行政協定も発効

1952年7月25日,プエルトリコアメリカの自治領に

米西戦争でスペインからアメリカの植民地になっていた

1952年9月17日,チャップリン,イギリスに向け出発。2日後,国外追放(再入国には審問が必要)処分に

1952年10月15日,日本の警察予備隊が保安隊(~1954.7.1)に改組

1952年11月1日,アメリカが世界初の水爆実験(アイビー作戦,マイク実験)

1952年11月6日,大統領選挙で共和党アイゼンハワー民主党ティーブンソンに442-89(得票率55.2%対44.3%)で勝利。副大統領はニクソンアイゼンハワーの次ケネディの次ジョンソンの次の大統領)

“1936年以来積極的にアメリカ共和党大統領候補としての指名を求めていたマッカーサーと異なり,当人は政治にほとんど関心が無く選挙で投票したことも無かったので,支持政党が共和党民主党かも知られていなかった” アイゼンハワーは「民主党が20年間大統領を輩出し,その変更を国が必要としたので共和党を選んだ」と語った”ウィキペディアアイゼンハワー」より)

トルーマン・ドクトリン(共産主義封じ込め)やチャーチルの「鉄のカーテン」演説,マッカーシズム赤狩り)といった反共の雰囲気の中,共和党陣営は民主党を「共産主義に寛大」と攻撃

アイゼンハワー共和党の指名をめぐって最大のライバルはタフト元大統領の子,ロバート・タフト(タフト=ハートリー法のタフト)。1回目投票ではアイゼンハワー545,タフト450だった

1953年1月7日,水素爆弾の開発を発表

1953年1月20日アイゼンハワー政権発足(副大統領はニクソン国務長官はダレス)

1953年1月,JFKマサチューセッツ州選出上院議員に(~1960年12月)

1953年,メリーランド州にある保養地「シャングリラ」(サーモント海軍支援施設)の名前が大袈裟だとして「キャンプ・デービッド(デイヴィッド)」に改名させる

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1953年3月5日,スターリン死去ソ連最高指導者はマレンコフ(暫定)を経てフルシチョフ

1953年6月4日,映画『ジュリアス・シーザー』でマーロン・ブランドアントニウスを演じた(主演男優賞にノミネートされたが受賞はウィリアム・ホールデン

1953年7月27日,朝鮮戦争休戦協定

1953年8月,イランで国王派のクーデター

:パーレビ国王(パフラヴィー2世)派を米(CIA)英(MI6)が支援してモサッデク首相失脚(米英の関与は後の機密文書公開で発覚)

:モサッデク首相はソ連に接近し,石油国有化政策を取っていた

:この「パーレビ国王」(と日本では呼ばれた)は欧米に接近し近代化・世俗化(女性のヒジャブの着用を禁止するなど)を進めたが,1979年にホメイニ革命で打倒され亡命

1953年10月1日,米韓相互防衛条約署名(1954年11月17日発効)

1953年11月,ディエンビエンフーの戦いでベトミン(ベトナム独立同盟)がフランスに勝利

:米国は仏を支援していたが,小型原爆の使用やB-29による爆撃をアイゼンハワー大統領は却下

1953年12月8日【核の平和利用】アイゼンハワー大統領,ニューヨークの国連総会で「平和のための原子力 Atoms for Peace」演説

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1954年1月14日,マリリン・モンロージョー・ディマジオと結婚(初婚はハリウッドデビュー前の16歳の時)→同年10月離婚

1954年3月1日,ビキニ環礁の水爆実験で第五福竜丸が被曝

:船員の久保山愛吉が半年後に40歳で死去

1954年4月11日【アイゼンハワーの内政】保健教育福祉省設置(1980年に教育省が分離して保健福祉省に)

1954年5月17日,ブラウン判決。黒人と白人の学生の分離は不平等と判決(→1957年9月)

:ブラウンは原告であった父親(アフリカ系アメリカ人)。首席判事のアール・ウォーレンはトルーマンがデューイ検事を大統領選で破った時のデューイ側の副大統領候補

1954年7月1日,日本の保安隊が自衛隊に改組

1954年7月21日,ジュネーヴ協定でベトナムカンボジアラオスがフランスから独立

北ベトナムホー・チ・ミン)と南ベトナム(ゴ・ディン・ジエム)に分かれる

1954年8月24日【赤狩り共産党が非合法化

1954年9月5日,反共軍事同盟「東南アジア条約機構(SEATO)」結成(1977年6月30日解散)

:米英仏豪新比(フィリピン)泰(タイ)巴(パキスタン

:1954年タイム誌「マン・オブ・ザ・イヤー」はダレス

1954年9月30日,世界初の原子力潜水艦ノーチラス就役(→12.30)

1954年11月2日,中間選挙共和党は上院(203/435)・下院(47/96)とも過半数を割る敗北

:1950年代のマッカーシズムの行き過ぎへの批判もあったか

1954年12月2日,台湾の中華民国と米華相互防衛条約署名(1955年3月3日発効,有効期限は1980年1月1日までだったが「台湾関係法」が事実上引継ぎ)

1954年12月,「赤狩り」を進めたマッカーシー上院議員の譴責決議が65-22で採択

JFK 上院議員は手術を理由に棄権。父ジョセフはマッカーシーと親交があった

1954年12月30日,原潜ノーチラスの原子炉が臨界に達す

1955年1月17日【本艦は原子力にて航行中】原潜ノーチラスが原子力を使った運転に成功

1955年4月18-24日,バンドン会議アジア・アフリカ会議

:米国側にもソ連側にも属さない第三世界を標榜

:日米同盟を結んでいた日本は首相ではなく経済企画庁の前身である経済審議庁長官(国務大臣)らが参加

1955年7月17日,カリフォルニア州アナハイムディズニーランド開園

1955年9月30日,ジェームズ・ディーン,ポルシェ 550 で事故死

1955年12月1日【公民権運動の母】アラバマ州で白人に席を譲らなかった黒人のローザ・パークスが逮捕される事件→キング牧師らによるバス・ボイコット(→1956.11)

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1956年2月14日,ソ連共産党第20回大会(スターリン死後初の大会)

:個人独裁から集団指導へ,平和共存路線の外交,暴力革命と異なる平和革命の可能性

:2月25日にはフルシチョフによるスターリン批判の秘密報告。内容はまず東側諸国の共産党指導者に公開され,6月4日には米国国務省が公開

ポーランドで恐怖政治を敷いたボレスワフ・ビェルトがモスクワで客死したのは スターリン批判にショックを受けたことによる心臓発作だったと言われる”ウィキペディア「ボレスワフ・ビェルト」より)

毛沢東スターリンの評価を「七分功,三分過」としてスターリン批判を批判。1960年代の中ソ対立に繋がっていく

1956年6月29日【アイゼンハワーの内政】連邦補助高速道路法施行で州間高速道路網を整備

1956年7月26日,エジプトのナーセル大統領がスエズ運河を国有化

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1956年10月29日,第二次中東戦争勃発

スエズ運河国有化に反発した英仏がイスラエルを誘ってエジプトに軍事介入

米ソが協調して英仏・イスラエルに停戦を受け入れさせ,英国の威信が傷つく

1956年11月6日,大統領選挙アイゼンハワーニクソンのコンビがスティーブンソンとキーフォーヴァーのコンビに457対73選挙人(得票率57.4%対42%)で勝利,アイゼンハワー2選

1956年11月,バス車内の人種分離を違憲とする最高裁判決

1956年12月18日,日本,国際連合に加盟

1956年,ケネディProfiles in Courage『勇気ある人々』を出版,ピューリッツァー賞受賞

1957年5月2日,マッカーシー上院議員病死(48歳)

1957年6月25日,日本飲料工業株式会社設立(→翌年日本コカ・コーラ株式会社に)

1957年9月の新学期に,アーカンソー州リトルロック・セントラル高校が9名のアフリカ系アメリカ人の生徒を入学させようとしたところ,州知事が州兵を派遣してこれを阻止しようとするリトルロック高校事件が発生。リトルロック市長がアイゼンハワー大統領に軍の派遣を要請。大統領は第101空挺師団を派遣して9名を護衛して登校させる

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1957年10月4日,スプートニク・ショック

ソ連人工衛星スプートニク1号の打ち上げ成功により,米国が科学においてソ連の後塵を拝したというショック。フルシチョフは1957年のタイムズ誌マン・オブ・ザ・イヤー

1957年10月17日,エリザベス女王が訪米(1959年にはアイゼンハワーが訪英)

スエズ危機・第二次中東戦争で米英関係が悪化していた

1958年1月31日,米国の人工衛星エクスプローラー1号打ち上げ成功

1958年2月1日,エジプトとシリアが合邦しアラブ連合共和国

:飛び地国家。1961年にはシリアが脱退

1958年2月14日,イラク王国ヨルダン王国アラブ連邦を結成

:同年7月にイラク王国が革命で倒れ,連邦は解消

1958年11月4日,中間選挙アイゼンハワー共和党は大敗,両院とも民主党過半数に。2期やった大統領は6年目くらいで飽きられるという「6年目の倦怠期(six-year itch)」)

1959年1月1日,キューバ革命バティスタ政権崩壊,社会主義政権に

:『ゴッドファーザーPart II』でも描かれる。確かに元日であった。「フィデル万歳」といった語が叫ばれるが,カストロのこと

カストロキューバ革命時点で社会主義者ではなく,米国との対立ゆえにソ連と接近した結果,社会主義路線を取ったという

1959年1月3日,アラスカ準州アラスカ州に(49番目の州)

1959年5月24日,国務長官ダレス死去(後任は4月22日からハーター)

1959年8月21日,ハワイ準州ハワイ州に(50番目の州)

1959年9月,フルシチョフ訪米,キャンプ・デービッドで大統領と会談

1959.11.18,映画『ベン・ハー』公開

1959年,リー・ハーヴェイ・オズワルド,ソ連に亡命

1960年1月1日【アフリカの年】カメルーンがフランスから独立

1960年1月,カストロキューバユナイテッド・フルーツの農地を接収

1960年2月13日【公民権運動】ナッシュビル座り込み始まる(テネシー州

:飲食店で白人席と有色人種席を分けることに反対

1960年5月1日,アメリカの偵察機ロッキードU-2がソ連上空で撃墜される。米ソ関係悪化(パリでの首脳会談中止)

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1960年6月23日,日米安保条約発効(署名は1月19日)

:6月19日予定のアイゼンハワー訪日に向け,日本で安保闘争が激化。6月10日,先んじて来日した大統領報道官ハガティHagertyが羽田空港に詰めかけたデモ隊から海兵隊ヘリで脱出する事件。6月15日,デモに参加していた東大生樺美智子が事故死。6月19日,大統領来日は延期(中止)となる(アメリカ施政下の沖縄を訪問)。6月23日,岸内閣総辞職表明(7月15日総辞職)

1960年6月30日【アフリカの年】ベルギー領コンゴが独立(→7月11日)

1960年6月,カストロユナイテッド・フルーツや銀行の国有化を開始

1960年7月11日【コンゴ動乱の始まり】コンゴからカタンガ国が分離独立,ベルギーが軍事支援

1960年7月13日,ケネディ民主党大統領候補に選ばれる(JFK 806票,リンドン・ジョンソン409票,空軍長官経験者のサイミントン86票,スティーブンソン79.5票)

1960年7月15日,ケネディのニューフロンティア演説

:米国の辺境(フロンティア)はもう無くなっているが,科学技術(ソ連との宇宙開発競争)や国民を豊かにする(社会保障の拡充)などの新しい辺境を開拓せねばならない

1960年9月14日,OPEC石油輸出国機構)創設

1960年9月,アイゼンハワー政権,米国にあるキューバの資産を差し押さえ

1960年9月26日,大統領選挙に出馬表明しているケネディニクソンがテレビ討論(米史上初)

:現職副大統領のニクソンの方が知名度があったが,テレビ映えの良かったJFKに有利に働く

1960年9月26日,カストロ,国連総会で約4時間半の演説ぶち上げ

1960年11月8日,大統領選挙で民主党ケネディ共和党ニクソンに303対219選挙人(得票率49.7%対49.6%の大接戦。勝利地域は22-26でニクソンの方が多かった)で勝利。副大統領はリンドン・ジョンソン

:得票数は約12万票差で,投票所の数が約12万か所であったため,1か所当たり約1票の差だったという

ニクソンは接戦で敗れたが,1968年の大統領選挙で勝利した。1972年の大統領選挙でも再選されたが,ウォーターゲート事件で辞任した(1974年)

:大統領選でアイゼンハワーに2度敗れた民主党ティーブンソンはケネディ政権下で国連大使となった

1961年1月3日,米国,キューバとの国交断絶を通告

1961年1月17日【ディープステート?】アイゼンハワー,大統領退任演説で軍産複合体に触れる

1961年1月17日【コンゴ動乱コンゴの初代首相ルムンバ殺害される

1961年1月20日ケネディ政権発足

・副大統領リンドン・ジョンソン

国務長官ディーン・ラスク(~1969)

・国防長官ロバート・マクナマラ(~1968)

・司法長官ロバート・ケネディJFK実弟;~1964)

・CIA長官アレン・ダレス(1953.2~1961.11)

最高裁判所長官アール・ウォーレン(1953.10~1969.6)

1961年3月1日,平和部隊創設を決定する大統領令に署名(青年海外協力隊の米国版)

1961年4月11日,エルサレムアイヒマン裁判始まる

1961年4月12日,ガガーリン,宇宙飛行に成功(ボストーク1号

1961年4月15日-19日,ピッグス湾事件(CIA が訓練した亡命キューバ人部隊がカストロ政権打倒に失敗)

アイゼンハワー政権が発案したもので,計画を聞かされたケネディは驚いたという

1961年5月5日,米国初の有人宇宙飛行(アラン・シェパード,フリーダム7ことマーキュリー・レッドストーン3号)

1961年5月25日,「10年以内にアメリカは人間を月に送り,無事帰還させる」と述べる(アポロ計画

1961年6月3日-4日,ウィーン会談(ケネディ=フルシチョフ会談)

:大した成果を上げられなかった

1961年8月10日【ベトナム戦争枯葉剤実験散布(→11月30日)

1961年8月13日,ベルリンの壁建設(ベルリン危機)

:この日から往来が不可能となって家族が離れ離れになる悲劇も

1961年8月20日,米陸軍の精鋭部隊1600人が西ベルリンに到着・駐留

1961年9月30日,OEEC(欧州経済協力機構)が OECD経済協力開発機構)に改組

1961年10月30日,ソ連がノヴァヤゼムリャで水爆ツァーリ・ボンバの爆発実験

1961年11月30日【ベトナム戦争ケネディ枯葉剤の散布を決定(ランチハンド作戦)

1961年11月30日,ビルマミャンマー)人のウ・タント国連事務総長

:前任のダグ・ハマーショルドが9月に飛行機事故死していた

1961年12月15日,アイヒマンに死刑判決(62年6月1日執行)

1962年1月1日,米海軍特殊部隊(Navy SEALs)結成

1962年2月8日【ベトナム戦争南ベトナム軍事援助司令部設立(軍事介入戦闘部隊)

1962年2月20日,ジョン・ハーシェル・グレン・ジュニア,フレンドシップ7(マーキュリー・アトラス6号)で宇宙飛行に成功(地球を3周)

1962年6月11日,ジェームズ・メレディス,初めてのアフリカ系アメリカ人学生としてミシシッピ大学入学

1962年7月,ラウル・カストロカストロの弟)訪ソ

1962年8月4日,マリリン・モンロー死去(36歳)

1962年8月,ゲバラ訪ソ

1962年9月30日,メレディス事件(The Ole Miss riot of 1962)

メレディスミシシッピ大学入学に反対した隔離主義者(segregationists)が暴動,ケネディは3万名以上を動員して鎮圧(ジャーナリストを含む2名死亡)

1962年10月5日,ビートルズデビュー(Love Me Do/P.S. I Love You)

1962年10月14日【キューバ危機】U-2偵察機キューバで核ミサイルサイロが建設中であるのを撮影(写真の解析は15日)

:当時,米ソが互いの本土に届くミサイルを持っていなかったのがポイント。米国はトルコにミサイルを配備したので,ソ連は米国に届くキューバに配備しようとした

1962年10月16日,キューバのミサイル基地建設の情報がケネディに入る。以降連日対応を協議

1962年10月20日ケネディ海上封鎖を決定

1962年10月22日19時,ケネディキューバ危機と海上封鎖措置に関してテレビ・ラジオ演説

:米軍の警戒態勢はデフコン3に

1962年10月23日,米州機構キューバは同年1月31日に除名),米国の海上封鎖措置を容認する決議を採択

1962年10月23日,海上封鎖を非難するフルシチョフからの書簡

:当時はまだホットラインはなく,キューバ危機の反省からホットラインが設置されることになる

1962年10月24日,海上封鎖発効

1962年10月25日【イエスかノーでお答え下さい】スティーヴンソン国連大使が緊急安全保障理事会で,キューバにミサイル基地があるかどうかソ連国連大使を追及

:1952年と1956年の大統領選挙でアイゼンハワーに2連敗した民主党候補

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1962年10月26日,フルシチョフからの書簡が届く

:米国がキューバに侵攻しなければミサイルを撤去する

1962年10月26日20時,ケネディからフルシチョフへの返答公表

:ミサイル基地建設中止,ミサイル撤去,国連査察受け入れを条件に海上封鎖を解除,またキューバを攻撃しないと約束

1962年10月26日22時,米軍の警戒態勢がデフコン3からデフコン2に上がる

弾道ミサイル発射準備態勢。米国民が水・食料を求めてスーパーに殺到

1962年10月27日,フルシチョフからの書簡が届く

ソ連からの条件としてトルコのミサイル基地撤去が加わる

1962年10月27日昼,U-2偵察機キューバ上空で撃墜されルドルフ・アンダーソン・ジュニア少佐が死亡

1962年10月27日昼,カリブ海を航行中の核ミサイル搭載のソ連の潜水艦に対し米海軍が攻撃

:潜水艦副艦長ヴァシーリイ・アルヒーポフが反対したため核ミサイル発射は中止された(このことは2002年に公表された)。最も核戦争に近かった瞬間

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1962年10月27日午後,ケネディは27日の書簡(トルコのミサイル撤去要求)には答えず,26日の書簡(キューバに侵攻しない)に答えることに決定

1962年10月27日20時,米国側,キューバのミサイルを撤去すれば海上封鎖を解き,キューバに侵攻しないと公表

:しかし極秘裏にロバート・ケネディがドブルイニン駐米ソ連大使と会って,トルコのジュピターミサイルを撤去する用意もあると伝えたという

1962年10月28日9時,米国首脳はモスクワ放送のラジオニュースでフルシチョフからの返答を知る:キューバに侵攻しないことを条件にミサイルを撤去することに同意

1962年11月1日,キューバのミサイル撤去開始

1962年11月6日,中間選挙民主党は上院4増下院1減。両院とも過半数は変わらず

1962年11月20日海上封鎖解除

1962年,リー・ハーヴェイ・オズワルド,妻・娘と米国に帰国

1963年春【公民権運動】バーミングハム運動

:人種隔離政策を取る企業のボイコット。シットイン(座り込み)とデモ行進で大量の逮捕者。世界の注目を浴びキング牧師の名声高まる

1963年4月10日,リー・ハーヴェイ・オズワルド,保守・反共主義者エドウィン・ウォーカー将軍の暗殺を企て失敗

:30mの距離から発砲したが外れた。当時はオズワルドの犯行だと分からなかったので逮捕されなかった

1963年4月,トルコに配備されたNATO軍のジュピターミサイル撤去完了

1963年6月10日,ケネディ「平和のための戦略」演説

1963年6月26日,ケネディ西ベルリンを訪問(独首相アーデナウアー,西ベルリン市長ブラント)

1963年8月5日,米英ソ間で部分的核実験禁止条約(Partial Test Ban Treaty,PTBT)締結

“この条約で大気圏内,大気圏外,海中における核実験は禁止された”ウィキペディアケネディ」より)

1963年8月28日【公民権運動】ワシントン大行進(人種差別撤廃を求めるデモ,参加者20万人)

キング牧師I have a dream 演説

1963年10月19日,リー・ハーヴェイ・オズワルド,テキサス教科書倉庫に就職

1963年11月2日,南ベトナム初代大統領ゴ・ディン・ジエムと弟で大統領顧問のゴ・ディン・ヌー,クーデターで殺害される

ケネディ政権と対立していた

1963年11月22日12時30分,ケネディ,ダラスで暗殺される

:オズワルドは職務質問してきたティピット巡査を射殺

:オズワルドが容疑者として逮捕される

1963年11月22日,副大統領リンドン・ジョンソンが自動的に昇格しジョンソン政権発足

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また2~3人「アメリカ歴代大統領」の記事が書けたら年表を延長したいと思います。

↓この記事のアイキャッチ画像は以下の記事にあります

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(以下は草稿です)

1963年11月24日,リー・ハーヴェイ・オズワルド,ジャック・ルビーに暗殺される

1963年11月29日,ケネディ暗殺事件を検証するためのウォーレン委員会設置

カリフォルニア州知事1943-53年。1948年大統領選挙における共和党デューイ候補の伴走候補。民主党トルーマンとバークリーに敗れた。1953年から69年まで,4代の大統領に亘って最高裁判所長官を務めた

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1964年7月2日,公民権法制定

1964年9月3日,ロバート・ケネディ司法長官辞任(上院議員選出馬のため)

1964年11月,ロバート・ケネディ上院議員に当選

:それまで連邦議会議員ではなかった

1965年2月21日,マルコムX暗殺さる

1967年1月3日,ジャック・ルビー死去

1968年3月16日,ロバート・ケネディ,大統領選への出馬を表明

1968年4月4日,キング牧師暗殺テネシー州メンフィス)

1968年6月5日,ロバート・ケネディ銃撃され翌日死去(ロサンゼルス)

1968年11月5日,大統領選挙共和党ニクソン民主党ハンフリーを301選挙人対191選挙人(得票率43.2%対42.7%)で破って勝利

ロバート・ケネディが出馬していたらどうなっていただろうか

1969年7月21日,アポロ11号,月面着陸に成功(アームストロングとオルドリン)