時間を掛けて「ナチス年表」を書いていきます。大変な作業になるので,以下のように作業を単純化します
ウィキペディアの「ナチ党」「ヒトラー」「ゲーリング」といった記事に絞り,そこに載っている年月日だけ拾う。その後,徐々に見る記事を増やしていく
第1弾として「ナチ党」「ヒトラー」「ゲーリング」「ルーデンドルフ」「レーム」「ヴァイマル共和政(ワイマール共和国)」で,1923年のミュンヘン一揆でヒトラーが収監されるまでを見ます
第2弾は「ゲッベルス」「ヒムラー」「シャハト」を参照記事に加えつつ,1930年の国政選挙でナチ党が第2党に大躍進するまでを見ます
第3弾は「ローゼンベルク」「ハイドリヒ」「ルドルフ・ヘス」「シュペーア」を参照記事に加えつつ,1933年のヒトラー首相就任までを見ます
第4弾は「ボルマン」「ハンス・フランク」を参照記事に加えつつ,1936年3月のラインラント進駐までを見ます
第5弾は「ロンメル」「ヴィルヘルム・カイテル」を参照記事に加えつつ,1939年9月のポーランド侵攻開始までを見ます
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1865.4.9,エーリヒ・ルーデンドルフ生まれる(ヒトラーより24歳上)
1870,カトリック系の中央党(Zentrum)結党
1877.1.22,ヤルマール・シャハト生まれる
:Hjalmar Schacht だが H は読まないらしい(ウィキペディア日本語版,英語版に発音記号あり)
1878,社会主義者鎮圧法制定(~1890)
1879.7,ルーデンドルフ,ベルリンのプロイセン陸軍士官学校に
1887.11.28,エルンスト・レーム,ミュンヘンで生まれる(ヒトラーより2歳半ほど上)
1888.6.15,皇帝ヴィルヘルム2世即位
1889.4.16,チャールズ・チャップリン,ロンドンで生まれる(ヒトラーの4日前)
1889.4.20,オーストリア=ハンガリー帝国のブラウナウ・アム・インにてアードルフ・ヒトラー生まれる。父はアロイス,母はクララ
:「アム・イン」は「イン川沿いの」という意味で,イン川沿いにはインスブルックもある
1890.3.20,ビスマルク宰相辞任
1890.9,社会主義者鎮圧法が失効
:皇帝ヴィルヘルム2世が更新に反対した
1890.10,ドイツ社会主義労働者党がドイツ社会民主党(SPD)に改称
:現在も存在する政党
1891.11.15,エルヴィン・ロンメル生まれる
1892,ヒトラー家,ドイツ帝国のバイエルン王国のパッサウに引っ越し
1893.1.12,ヘルマン・ゲーリング生まれる。父は外交官
1893.1.12,ローゼンベルク,バルト・ドイツ人としてロシア帝国領エストニアで生まれる
:ロシア語が堪能
1894.4.26,ルドルフ・ヘス,エジプトのアレクサンドリアで生まれる。父は貿易商
1896.1.21,ヒトラーの妹パウラ・ヒトラー生まれる(弟のエドムントは夭折)
1896,ヒトラーの異母兄アロイス・ジュニア(アロイスと,1884年に死去したフランツィスカの子;1882年生)が家を出ていく
1897.10.29,ヨーゼフ・ゲッベルス生まれる
1899,シャハト,経済学博士に(1903年ドレスナー銀行に入行)
1900.6.17,マルティン・ボルマン,プロイセン王国で生まれる
1900.10.7,ハインリヒ・ヒムラー,ミュンヘンで生まれる
1903.1.3,ヒトラーの父アロイス死去(ヒトラー14歳)
1904.3.7,ラインハルト・ハイドリヒ,プロイセン王国で生まれる。父は音楽学校校長
1905.3.19,アルベルト・シュペーア,マンハイムで生まれる。父は裕福な建築家
1905,ヒトラー,実業学校を退校
1905,ゲーリング,カールスルーエの陸軍幼年学校に(~1909)
1907.1.27,ヴィルヘルム2世の誕生日
:ハイドリヒの父ブルーノは皇帝の誕生日のためのオペラを作曲
1907.9,ヒトラー,ウィーン美術アカデミーを受験し不合格
:ウィーンで生活
1907.12.21,ヒトラーの母クララ死去(47歳;ヒトラー18歳)
1908.2,ヒトラー,妹のパウラを異母姉アンゲラに預ける
:ヒトラー自身は父の遺産と孤児保護の恩給(半分は妹に)で生活していた
1908,ヒトラー,再びウィーン美術アカデミーに不合格
1909,ゲーリング,ベルリンのプロイセン陸軍士官学校に(~1914)
1911,ヒトラー,孤児恩給の全額を妹に譲ることに同意(遺産があったことと,働く能力があった)
1912.12.7,ロンメル,少尉に
:オーストリアでの徴兵逃れのためとの疑いあり
1914.1.18,ヒトラー,ミュンヘン警察に逮捕されオーストリア領事館に連行される
:検査で不合格となり兵役を免除される
1914.7.28,第一次世界大戦勃発(ドイツの参戦は8.1)
:ヒトラーはバイエルン陸軍に志願,義勇兵に。伝令兵として6回受勲する活躍を見せたが低い階級のままだった
:ゲーリングは10月末から偵察機乗り,1915.9から戦闘機乗りになってエースパイロットに
:ルーデンドルフはフォン・ビューロウ率いる第2軍に所属。ベルギーのリエージュ要塞攻略に功
:ロンメルは第5軍に所属する第124歩兵連隊に所属。1915年3月,一級鉄十字章を受ける。9月に中尉に。1916年にルーマニア戦線,1917年にイタリア戦線。1918年に大尉に
:カイテルは勲章を幾つか受賞した後,1917年には参謀本部首席将校に
:レームは西部戦線で顔面に銃弾を受け負傷,また胸部に重傷
:ヘスは父の反対を押し切って従軍。伍長に昇進,2回重傷,最後は戦闘機乗りに
:ゲッベルスは左右の足の長さが違う障害のため参戦できず
:ヒムラー(1900年生)は1917年に入隊するが前線に行く前に終戦。ハイドリヒ(1904年生)は開戦時10歳程度
1914.8.17,タンネンベルクの戦い(対ロシア)始まる
1914.8.18,グンビンネンの戦い(対ロシア)
:第8軍のプリトヴィッツが解任され,ヒンデンブルクが後任となり,その参謀長にルーデンドルフが付く
1914.9.2,タンネンベルクの戦いでヒンデンブルクとルーデンドルフの第8軍が勝利
:“この戦いで注目すべきは,ドイツ軍が鉄道を利用して素早く大量の兵力を移動させ,ドイツの1個軍が,それぞれ自軍の兵力を上回るロシアの2個軍の各個撃破に成功したことである”(ウィキペディア「タンネンベルクの戦い」より)
:敗れたロシア軍指揮官の1人サムソノフは自決
1914.11,ヒンデンブルクが東部方面軍(第8軍+第9軍)司令官,ルーデンドルフが東部方面軍参謀長に
1915.5.7,ドイツのUボートによる客船ルシタニア号撃沈事件(1000名以上,うち米国人100名以上死亡)で米国世論悪化
1915.8,ドイツ,ワルシャワを落とす
1916.8.28,ファルケンハイン参謀総長解任。ヒンデンブルクが参謀総長,ルーデンドルフが参謀本部次長に
:高齢のヒンデンブルク(1847年生)はお飾りであり「ルーデンドルフ独裁」と言われる体制に
1917.2,ドイツ,無制限潜水艦作戦
1917.4,米国ウィルソン政権,連合国側に参戦
:米軍は200万人を欧州に派遣,5万が戦死,6万がスペイン風邪などで死亡。戦後,ウィルソン民主党政権からハーディング共和党政権に代わったのは参戦のためか
1917.3.8,ロシア二月革命(旧暦1917.2.23)
1917.3.15,ロシアのニコライ2世退位,ロシア帝国滅亡
:1918.7.18,ニコライ2世一家は銃殺された(反革命勢力に担ぎ上げられるのを共産党が恐れたためか)
1917,ゲッベルス,ボン大学に→のちフライブルク大学やヴュルツブルク大学,ミュンヘン大学,ハイデルベルク大学で学ぶ
1917.11.7,ロシア十月革命(旧暦1917.10.25)
:「生稲良いな」という覚え方が当時あった
1918.1,反ユダヤ主義の国粋主義的秘密結社「トゥーレ協会」設立
:シンボルマークにハーケンクロイツ(鉤十字)を使っていた
1918.3.3,ブレスト・リトフスク条約(ロシアのボリシェヴィキとドイツなど)
:これでロシアが第一次世界大戦から離脱しドイツは東方が安全になるが,米国の参戦もありドイツは敗色濃くなっていた
1918.3.21,ドイツ軍の春季攻勢(~7.17)
:西部戦線におけるドイツ軍の最後の攻勢。パリに迫るなどしたが,最終的に大きな成果を上げなかった
1918.10.26,ルーデンドルフ,参謀本部次長を解任され,翌日スウェーデンに亡命
1918.10,レーム,スペイン風邪(1918~1920頃流行)に罹患するも死を逃れる
↓世界で死者5000万~1億人と推定。日本ですら “当時の人口5500万人に対し約2380万人(人口比:約43%)が感染,約39万人が死亡したとされる”(ウィキペディア「スペインかぜ」より)
1918.11.3,ドイツのキールで水兵の反乱→ドイツ革命
:敵国に負けたというより国内の社会主義者らの裏切りによって負けさせられたとする「背後からの一突き」論(
:バイエルン王国は王政廃止されバイエルン人民国が建国。首相は独立社会民主党のクルト・アイスナー
1918.11,ローゼンベルク,ロシアからドイツへ
1918.11.9,社会民主党のシャイデマンが国会議事堂でドイツ共和国樹立宣言
1918.11.9,ヴィルヘルム2世退位。翌日オランダに亡命
1918.11.11,ドイツと連合国の休戦協定(コンピエーニュの森)
:ドイツ側の首席全権はマティアス・エルツベルガー(→1921.8.26)
1918.11.20,リベラル左派のドイツ民主党結党(シャハトも加わる)
1918.12.15,リベラル右派のドイツ人民党結党(シュトレーゼマン)
1918.12.25,ゼルテが退役軍人(在郷軍人)の組織
:反ヴァイマル共和政,帝政復活,反ヴェルサイユ条約というゴリゴリの保守派
1918.12.30~1919.1.1,ドイツ共産党結党(リープクネヒト,ローザ・ルクセンブルクら)
1919.1.5,ドイツで共産主義革命を目指すスパルタクス団の蜂起
1919.1.5,ナチ党の前身であるドイツ労働者党(DAP)結党(ドレクスラー,トゥーレ協会のハラーら)
1919.1.15,ドイツ共産党のカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルク,反革命の
:ハイドリヒも1919年にドイツ義勇軍に参加していた
1919.1.19,ドイツで国民議会選挙。エーベルトやシャイデマンの社会民主党(SPD)が165議席で第1党,カトリック系の中央党が91議席で第2党。民主党が75議席で第3党。共産党はボイコット
1919.2.11,SPDのエーベルトが大統領に(ヴァイマル共和政,ワイマール共和国;1925.2.28に54歳で死去するまで在任)
:正式国名は「ドイツ国(ドイチェス・ライヒ)」,首都はベルリン。ヴァイマル(ワイマール)は憲法が制定された都市
:シャイデマン(SPD)が首相に(SPD,中央党,民主党の連立)
1919.2.16,ヒトラー,ミュンヘンのレーテ(評議会)に参加
:「レーテ」は「ソヴィエト」のドイツ語版。ヒトラーが共産主義者であったのではなく,そういう政権がバイエルンにでき,ヒトラーは政治家を目指したから参加したということだろう
1919.2.16,ヘス,ミュンヘン大学に入学。同時期にトゥーレ協会にも参加
1919.2.21,バイエルンのクルト・アイスナー暗殺される
:右翼からも共産党からも攻撃されていた。また,ユダヤ系ドイツ人であった
1919.2.26,アイスナーの国葬パレードにヒトラーも参加
1919.4.13,バイエルンで共産党主導のバイエルン・レーテ共和国成立
:ロシア生まれのオイゲン・レヴィーネが指導者
↓めっちゃ革命家顔
:政治家を志していた
1919.5.1,ドイツ中央政府軍や(反共の)ドイツ義勇軍(レーム,ヒムラーも参加)によりバイエルン・レーテ共和国攻め滅ぼされる
:ヘスもレーテ共和国打倒に貢献
1919.6.21,グスタフ・バウアー(SPD)が第2代首相に(先代はシャイデマン)
:ドイツは領土の一部や植民地を喪失,(2010年に返済が終わるほど)多額の賠償金,陸軍兵力10万人に限定など
:将校は4000人に限定され,6人に1人しか残留できなくなったが,ロンメルやカイテルは将校に残留
:イギリスの大蔵省にいた経済学者ケインズは莫大な賠償額は禍根を残すとして寛大な賠償額を主張したが,通らなかった
1919.6,情報将校のマイヤー大尉がヒトラーを諜報員としてスカウト
1919.7.5,オイゲン・レヴィーネ処刑される(36歳)
1919.7,ヒトラーは国軍の情報提供者となり,共産主義者などを調査する仕事を請け負う
:国民主権,20歳以上の男女普通選挙など当時世界で最も民主的な憲法であった。しかし右派と(さらに革命を目指す)左派の対立,国民のヴェルサイユ体制への
1919.8,トゥーレ協会,新聞社を1つ買収し,「フェルキッシャー・ベオーバハター」と改称(→1920.12)
:beobachten(ベオーバハテン)は「観察する」の意。「フェルキッシャー・ベオーバハター」の直訳は「民族(主義)的な観察者」。のちナチ党の機関紙となった
1919.9.12,ヒトラー,ドイツ労働者党(DAP)の調査を開始
:ナショナリストのドレクスラーらが設立した政党
:ミイラ取りがミイラといった感じでヒトラーはこの党の活動にのめり込み10月に入党,演説能力で頭角を現す
:レーム(1920.1にDAP入党)やルドルフ・ヘスと知り合う
1919.10.18,ヒムラー,ミュンヘン工科大学で農学を学ぶ(~1922)
:経済的に困窮しないよう農家になることを父から勧められた。一時バイエルン人民党に入党するなど政治活動も
1919.末,ローゼンベルク,DAPに入党
1919~1921,ゲーリングは戦闘機乗りの経験を生かしてデンマークやスウェーデンで曲芸飛行士に
1920.1.5,ハラー,DAP議長を解任され,のち離党。ドレクスラーが議長に
1920.2.24,DAP,NSDAP(国民社会主義ドイツ労働者党)に改称
:「国家社会主義ドイツ労働者党」と言われることも多いが,「民族主義(ナショナリズム)」「
:ヒトラーは「社会革命党」を推したが通らず
:25カ条綱領 「大ドイツ主義」「ヴェルサイユ条約破棄」「反ユダヤ主義」「外国人の区別」「移民制限」「不労所得の撤廃」「企業の国有化」「老齢保障」「国民軍」など
:ヴァイマル共和政に反対,特にヴェルサイユ体制下でドイツ軍が軍縮され,義勇軍も解散決定が出た(ノスケ国防相)ことに反発したヴォルフガング・カップやリュトヴィッツ男爵らが起こした反乱
:政府がドレスデン,シュトゥットガルトに一時避難するほどであったが,計画不足で,また国民の支持を得られず,一揆は失敗。1920.3.17にカップは退陣し,潜伏後亡命。言わば三日天下のような感じだった
1920.3.13,左派労働者のルール蜂起
:政府は右派・左派双方から非難・攻撃され板挟みになっていた
1920.3.16,フォン・カール,バイエルン州の首相に
1920.3.27,ヘルマン・ミュラー(SPD)が第3代首相に(先代はバウアー)
1920.6.6,ヴァイマル共和政最初の国会選挙(前回は1919.1.19を参照)
:比例代表制。第1党の社会民主党(SPD)が62も減らす103議席。その分,独立社会民主党(より左派)が83議席で躍進。ドイツ国家人民党(右派)も71議席,シュトレーゼマンのドイツ人民党(実業家などが支持したリベラル右派)も65議席で議席を伸ばす。カトリック系の中央党は64議席で第2党から第5党に転落。民主党も39議席で第3党から第6党に転落
1920.6.25,フェーレンバッハ(中央党)が第4代首相に(先代はミュラー)
:SPDが連立から外れ,中央党,民主党,ドイツ人民党という中道政党の連立に
1920.8.14,アントウェルペン(アントワープ)五輪(敗戦国独墺土などは参加を認められず)
1920.12,NSDAPがトゥーレ協会から「フェルキッシャー・ベオーバハター」を買い取る
1921.3,ロンドン会議でドイツの賠償金が1320億金マルクと定められる
↓この賠償額の大きさについて触れた記事です
1921.5.10,ヴィルト(中央党)が第5代首相に(先代はフェーレンバッハ)
:中央党,SPD,民主党の連立。41歳のドイツ史上最年少の首相
1921夏,ゲーリング,ドイツに帰国(ずっと曲芸飛行士をしているわけにもいかないし,祖国ドイツの状況も気になった)。1922~1923ミュンヘン大学に在学し,ナショナリズムに傾倒
1921.7.29,ヒトラー,NSDAPの党首に(ドレクスラーは名誉党首となり実権を失う)
1921.8.12,エッカートが「フェルキッシャー・ベオーバハター」編集長に
:エッカートはローゼンベルクをヒトラーに紹介した人物
1921.8.26,財務相エルツベルガー(中央党),右翼に暗殺される
:コンピエーニュの森での休戦協定にも首席全権として参加しており攻撃の的だった
1921.9.1,フォン・カール,バイエルン州首相の地位を追われる
:バイエルン州の独立を目指したため
1922.3.30,ハイドリヒ,ドイツ海軍に入隊
1922.4.16,ラパッロ条約でソ連と国交回復
:互いに賠償金や領土の要求は行わない
1922.4.21,ゲッベルス,ハイデルベルク大学で博士号取得
:のち銀行員となるが不況で失業し挫折を味わう→反資本家・反ユダヤ人感情が芽生え?
1922.6.24,ラパッロ条約を締結したラーテナウ外相,右翼に暗殺される
:ユダヤ系であったことも攻撃された理由の一つかもしれない
1922.10.24,イタリアでファシスト党ムッソリーニのローマ進軍→10.29に政権奪取に成功。これはドイツの右翼勢力からモデルとして見られただろう
1922.11,ゲーリング,ヒトラーの演説に賛同し,感銘を受け,彼と会う
:ゲーリングは上流階級出身で,エースパイロットという大戦の英雄であったため,ヒトラーもゲーリングを重んじた
1922.11.22,クーノ(無所属)が第6代首相に(先代はヴィルト)
:エーベルト大統領が指名。中央党,ドイツ人民党,バイエルン人民党の連立
1922.12,ゲーリング,NSDAPに入党(→1923.3)
1923.1.11,フランスとベルギーによるルール占領開始。ドイツ国民憤激
:賠償金の支払いが滞ったため,「借金のかた」よろしく最重要鉱工業地帯を占領されてしまった。ドイツ側は労働者のサボタージュなどで抵抗するもドイツ産業は大打撃,不況がさらに悪化 “当時の同地方はドイツが生産する石炭の73%,鉄鋼の83%を産出する経済の中心地であった”(ウィキペディア「ルール占領」より)
1923.1.27~1.29,ミュンヘンで第1回党大会
1923.2.3,ゲーリング,カリンと結婚
1923.3,ヒトラー,クリンチュを突撃隊の最高指導者から解任し,ゲーリングに交代させる
:突撃隊(
1923.7,ボルマン,殺人容疑で逮捕される(禁固1年)
1923.8.13,シュトレーゼマン(ドイツ人民党)が第7代首相に(先代はクーノ)
:外相も兼任した
1923.9.26,フォン・カール,バイエルン州総督に
1923.10,ハンス・フランク,NSDAPに入党
:1926年には弁護士に
:バイエルン州総督フォン・カールも元々独立志向が強く,NSDAPら右翼勢力と組んで(イタリアのムッソリーニが行ったローマ進軍のような)ベルリン進軍を企図していたが,やがて日和ったためヒトラーらは不満を持った
:フォン・カールが演説予定だったビアホール「ビュルガーブロイケラー」に乗り込んで占拠したため「ビアホール一揆」とも呼ばれる
:フォン・カール,ロッソウ(第7軍管区司令官),ザイサー(州警察長官)は一旦(しぶしぶ)同調するものち離脱逃亡
:「なぜ3人の外出を許可したのか」と問い詰められたルーデンドルフの「ドイツ軍人は決して裏切らない(からきっと帰って来る)」という返答は有名。なおミュンヘン一揆の様子は水木しげるの漫画『劇画ヒットラー』が面白いです
1923.11.9,ミュンヘン一揆の一環でヒトラー,ルーデンドルフ,ゲーリングらデモ行進→鎮圧される(3名の警官を含む19名死亡)
:ゲーリングは負傷するもユダヤ人に助けられ逃亡に成功,オーストリアへ。治療に使ったモルヒネの禁断症状に苦しむことに。指名手配されて帰国できず,突撃隊の指導者はレームに移る
:エッカートは逮捕されたがローゼンベルクは逃亡し潜伏。ヘスも逃亡
:ヒムラーは末端過ぎて逮捕されず
1923.11.15,シュトレーゼマン内閣,レンテンマルクを発行し,1兆パピエルマルクを1レンテンマルクとするデノミ→インフレが鎮静化(レンテンマルクの奇跡)
:のちにNSDAPに入党するシャハトがライヒ通貨委員として貢献
:パピエルマルクは正式名称ではなく「紙(紙屑)のマルク」という意味。「50億マルク紙幣」とかがあった
1923.11.30,中央党のヴィルヘルム・マルクスが第8代首相に
:先代首相シュトレーゼマンは外相としては継続し1929.10.3に急死するまで務めた。1926年にノーベル平和賞受賞
1923.12,ドーズ委員会始まる(ドイツの賠償支払いを緩和する話し合い)
:ドイツへの報復感情が強いフランス・ベルギーなどを,それほどでもない米英がなだめるといった構図
:ドーズはのち米国副大統領に。ノーベル平和賞受賞
1923.12.26,エッカート死去
:「フェルキッシャー・ベオーバハター」の編集長はローゼンベルクに
1923.12.22,シャハト,ライヒスバンク総裁に(~1930.3)
:1926年に民主党を離党,右傾化
1924.2.26,ヒトラー,ルーデンドルフ,レームらの裁判始まる(ミュンヘン一揆)
:ルーデンドルフは(裁判で威張り散らし)無罪,ヒトラーは5年の城塞禁固刑,レームは1年3ヶ月の禁固刑のち仮釈放
:ルーデンドルフは後も国会議員となり,大統領選挙(1925年)にも出馬するが,影響力はなくなっていった
:城塞禁固刑(=要塞禁固刑)は名前が怖いが待遇が比較的良い禁固刑。“獄中は快適で待遇は極めて良く,独房は日当たりのよい清潔な部屋,食事も上質で,差し入れや面会も自由であり,ナチス党員が身の回りの世話をした”(ウィキペディア「ミュンヘン一揆」より)
1924,ドイツの通貨「ライヒスマルク」定められる
:1ライヒスマルク=1レンテンマルク=従来の1兆パピエルマルク(パピエルマルクはハイパーインフレ中に発行された紙幣)
:1924~1929はドイツ経済が安定し「黄金の20年代」と呼ばれた(1929から世界恐慌)
1924.4.1,ヒトラー,ランツベルク刑務所に収監される
:これを聞いてヘスは自首,同刑務所に収監される
:『我が闘争』を執筆(→1925.7.18出版)。ヘスは口述筆記,内容についての相談役を務める
1924.5.4,国会選挙でSPD100議席,ドイツ国家人民党95議席,中央党65議席,共産党62議席,ドイツ人民党45議席,NSFB32議席
:NSDAPはミュンヘン一揆のせいで禁止中だったため,国民社会主義自由運動(NSFB)という政党で活動(グレーフェ,シュトラッサー,ルーデンドルフ,レーム,ヒムラーら)。191万票,得票率6.55%,32議席で第6党に。レーム,フリック(1923にNSDAPに入党),ルーデンドルフらが当選(→1924.12.7)
1924.5.4,パリ五輪(敗戦国ドイツは参加を認められず)
1924.9.1,ドーズ案発効
:賠償額の総額は未定であったが支払いは緩和される(→1929.9.1)
:ドーズ案を受け10月からルール占領解除開始(1925.8.25完了)
1924.12.7,国会選挙。SPD131議席(31増),ドイツ国家人民党103議席,中央党69議席,ドイツ人民党51議席,共産党45議席
:前回191万票だったNSFBは90万票で得票率3%,14議席の第8党に後退。共産党も62→45議席と,左右両極が後退し,SPDが勝利
1924.12.20,ヒトラー釈放される
:ヘスはヒトラーの秘書となり,忠実で真面目な部下であった。ヘスは戦闘機乗りであったため宣伝飛行なども行った
1925.1.15,ハンス・ルター(当時無所属)が第9代首相に(先代はヴィルヘルム・マルクス)
:シュトレーゼマン外相は継続
1925.2.22,ゲッベルス,NSDAPに加わる(→1925.11.4)
:会ったことのなかったヒトラーより党内左派のシュトラッサーを支持した
1925.2.27,NSDAP,解禁されミュンヘンの「ビュルガーブロイケラー」で再結党大会
1925.2.28,エーベルト大統領死去(→1925.3.29)
1925.3.29,エーベルト大統領死去に伴う大統領選挙
:第1回投票ではドイツ人民党のカール・ヤレスが1位であったが得票率が半分に満たなかったため以下の決選投票に進む。なおルーデンドルフは(ナチ党も支持したが)第1回投票で僅か1.1%の最下位であり,政治的生命を失い,のちヒトラーとも険悪に
:決戦投票では右派勢力が(第1回投票には出馬していなかった)ヒンデンブルクに候補を一本化。ヒンデンブルクが48.3%,ヴィルヘルム・マルクス(元首相;中道~左派)45.3%,テールマン(共産党)6.4%でヒンデンブルクが当選
1925.5.12,ヒンデンブルクが大統領に就任
1925.5.16,ヴィルヘルム・マルクス(中央党)が第10代首相に(先代はハンス・ルター)
:2度目の首相(第8代,第10代)/シュトレーゼマン外相は継続
1925.7.18,『我が闘争』第1巻発売
1925.9.21,親衛隊(SS,
:ヒムラーは1925.8.8にSS入隊
1925.11.4,ゲッベルス,初めてヒトラーに会い魅了される
1925.12.1,ロカルノ条約調印(シュトレーゼマン外交)(→1926.9.10)
:集団安全保障など。ヨーロッパの関係安定
1926.2.14,NSDAP,バンベルク会議でヒトラーが党内独裁者に(指導者原理)
:シュトラッサーらの党内左派(社会主義に近い)敗北
↓レームが粛清された1934年の事件で共に粛清された
:やはりヒトラーではなく左派のシュトラッサーを支持。しかしヒトラーから懐柔される
1926.7.3~7.4,ヴァイマルで第2回党大会
:ヒトラー・ユーゲント設立(7.4),突撃隊再結成
:米国は議会が批准しなかったため加盟してない。またソ連も1934.9まで非加盟
1926.10.1,ハイドリヒ,海軍少尉に(1928に海軍中尉)
1926.10.末,ゲッベルス,ベルリン=ブランデンブルク大管区指導者に
:“当時のベルリンは「赤いベルリン」と揶揄されるほど共産主義者や革命主義者が多かった”(ウィキペディア「ゲッベルス」より)。ゲッベルスは彼らとの政治抗争『ベルリンの戦い』を行う
:シュトラッサー兄は党宣伝全国指導者に
1927.2,ボルマン,NSDAPに入党
1927.5.5,ゲッベルスと警察の対立により,大ベルリンでナチ党の活動が禁止される
1927.7.4,ゲッベルス,ベルリンで『デア・アングリフ』誌発刊
1927.8.19~8.21,ニュルンベルクで第3回党大会
1927.9.2,ハンス・フランク,NSDAPに再入党
:NSDAPの弁護士に
1927.秋,ドイツで政治犯の恩赦を求める請願→右派も共産党も賛成したため成立→ゲーリングの帰国が叶い,1928.春頃に党へ復帰
1927.12.20,ヘス,イルゼと結婚
1928.5.20,国会選挙でSPD153議席(22増),ドイツ国家人民党73議席,中央党61議席,共産党54議席,ドイツ人民党45議席
:NSDAPは81万票,得票率2.63%で12議席。世界恐慌前で比較的経済が安定していたこともあり,前回のNSFBの第8党から第9党に後退。ゲッベルス,ゲーリング,シュトラッサー兄,フリックらが当選。ゲーリングは大企業や貴族とのコネを築き,党の資金集めに貢献
:「ポケット戦艦」と渾名された軍艦の建造計画があり,SPDは「軍艦より給食を」という福島瑞穂のようなスローガンで戦って議席を伸ばしたという
1928.6.28,ヘルマン・ミュラー(SPD)が第11代首相に(先代はヴィルヘルム・マルクス)
:2度目の首相(第3代,第11代)/シュトレーゼマン外相は継続
1928.7.28,アムステルダム五輪(ドイツは参加を認められ金メダル10個)
1928.夏,この頃ヒトラーは『我が闘争』の続編を書いたと言われるが,1961年になって『ヒトラー第二の書』の名で出版された
1928.10,突撃隊員がユダヤ人の商店を襲撃する事件
1928.12,レーム,ボリビアへ(一時ヒトラーと関係が切れていた→1930.11.1)
1929.1.6,ヒムラー,親衛隊(SS)全国指導者に
1929.1.9,ゲッベルス,党宣伝部長(党宣伝全国指導者)(第3代)に
:“ゲッベルスは宣伝・運動の面においては左翼政党の方がはるかに優れているとの認識に立ち,彼らのやり方を手本とすることをためらわなかった”(ウィキペディア「ゲッベルス」より)
1929.2.11,ドイツの賠償緩和に関するヤング委員会始まる
1929.6.12,アンネ・フランク生まれる(アンネリーゼ→アンネリース)
1929.8.1~8.4,ニュルンベルクで第4回党大会
1929.9.1,ヤング案の遡及適用日(発効は1930.5.17)
:賠償額は358億1400万ライヒスマルクに。ドイツ国民は反発
:国家人民党(フーゲンベルク)やNSDAP,鉄兜団はヤング案反対闘争→1929.12.22に国民投票に漕ぎ着け,否決されるが大いに党の宣伝になる
1929.10,この頃ヒトラーはエーファ・ブラウン(当時17歳)と出会う
1929.10.3,シュトレーゼマン外相,激務により急死(51歳)
:米国資本の引き上げ,失業率の増加→失業保険支払いによる財政悪化
:『金融資本論』を著したマルクス経済学者。1941年,刑務所で獄死
1930.1.14,ナチ党員ホルスト・ヴェッセル,共産党員に銃撃され翌月死亡
:党の英霊的存在となり歌も作られる
1930.1.23,ヴィルヘルム・フリック,テューリンゲン州内相・教育相に
1930.3.7,シャハト,ライヒスバンク総裁を辞任
:ヤング案に反対するようヒンデンブルクに説得されて拒否。ナチ党に接近
1930.3.30,ブリューニング(中央党,陸軍少尉,経済学博士)が44歳で第12代首相に(先代はヘルマン・ミュラー)
:シュライヒャーの勧めでヒンデンブルク大統領が指名。中道~右派の連立。SPDが協力せず少数与党であり,ヒンデンブルク大統領の大統領緊急令に頼った「大統領内閣」。もはや議院内閣制ではなく大統領制とする研究家も
1930.5.26,ナチ党,建物を買い取り「褐色館,褐色の家(Braunes Haus)」と名付けて党本部に
1930.7.2,シュトラッサー弟オットー(党内左派),党から除名される
:党に留まった兄は1934年に粛清されたが,オットーはチェコなどで反ナチ運動。1974年まで生きた
1930.8.25,ボルマン,ナチ党救済基金の部長に
1930.8.30,突撃隊のシュテンネス(党内左派)が党に対し反乱
:親衛隊には押さえられず警察の強力で鎮圧
1930.9.14,国会選挙でSPD143議席(10減),NSDAP107議席(95増),共産党77議席(23増),中央党68議席,ドイツ国家人民党41議席,ドイツ人民党30議席
:NSDAPが大躍進(ヒムラー,ローゼンベルクが初当選),共産党も躍進
:ゲッベルスは「40議席にする」と宣言していたが遥かに上回った
:ブリューニング内閣は一層少数の与党となり,NSDAP,共産党の妨害をSPDの閣外協力で乗り切るという極めて脆弱な態勢となった
1930.9.25,ヒトラー,合法的手段で政権獲得を目指すと宣言
:革命志向の突撃隊員は不満を持つ
1930.11.1,レーム,ボリビアから帰国,NSDAPに再入党
1930.12,シュペーア,ベルリンのビアホールで行われたNSDAPの集会を訪れる
1930.末,失業者が400万人に
1931.1.5,レームが突撃隊幕僚長に
:当時は大学助手だったが,じきに辞めて建築家として独立
:NSDAP党の「国民社会主義自動車軍団」(自動車・オートバイの運転技術やメンテナンスを啓蒙する組織)に入団
1931.4.2,突撃隊のシュテンネス(党内左派)が党に対し再度反乱
:鎮圧後,除名により突撃隊の1万人が去る
:シュテンネスは1933年の政権掌握後亡命し,1983年まで生きた
1931.5.8,オーストリアの銀行クレジット・アンシュタルトが破綻
:ヨーロッパの不況が更に悪化(世界恐慌)→1931.6.20
1931.5.31,ハイドリヒ,海軍を不名誉除隊(女性との交際のもつれ?)
1931.6.4,ハイドリヒ,親衛隊全国指導者ヒムラーの面接を受ける
:ヒムラーは諜報組織の人材を求めていた
:1931.6.1付けでNSDAPに入党
1931.6.20,フーヴァー米国大統領,フーヴァーモラトリアム発表
:米国は欧州の債務支払いを1年猶予し,欧州はドイツの賠償支払いを1年猶予する
:しかしこの1年にドイツ経済は好転せず(→1932.6.16)
1931.7.14,ハイドリヒ,SSに入隊
1931.9.18,ヒトラーのお気に入りだった姪ゲリ・ラウバル自殺
:菜食主義者になるきっかけになったとも
1931.10,不況の悪化が進み(失業者600万人)ブリューニングは辞表を提出するもヒンデンブルク大統領は再度組閣を命じる
1931.10.10,第2次ブリューニング内閣
1931.10.11,ブリューニング内閣打倒を目指すハルツブルク戦線結成
:ハルツブルクはブラウンシュヴァイク自由州の温泉町
:ナチ党,ドイツ国家人民党,鉄兜団などの右翼でシャハトや軍部のフォン・ゼークトも参加
1931.10.17,ゲーリング夫人カリン死去(1935.4.10に再婚)
1931.10.30,フォン・シーラッハ,ナチ党全国青少年指導者に(→1932.6)
1931.12.12,ゲッベルス,マクダと結婚
1932.2.25,ヒトラー,大統領選挙に向けてドイツ国籍取得
1932.3.13,ドイツ大統領選挙(前回は1925年。任期が7年であったため)
:第1回投票で1位のヒンデンブルクが得票率49.61%(ヒトラーは2位の30%)であったため,決選投票に進む
:決選投票(4.10)は1位のヒンデンブルクが53.06%で当選,2位のヒトラーは36%,3位の共産党テールマンは10%
1932.4.14,ブリューニング首相とグレーナー国防相兼内相,突撃隊と親衛隊の禁止令を発令(→1932.6.16)
1932.4.24,プロイセン州の州議会選挙でナチ党が9→162議席の大躍進,第1党に
:突撃隊禁止令を出したブリューニング,グレーナーの打倒を話し合う。軍部出身のシュライヒャーは「政治将軍」として暗躍。ヒンデンブルク大統領に影響を与えた
1932.5.13,シュライヒャーの要求によりグレーナー国防相辞任(6月のパーペン内閣成立により内相も辞めることに)
1932.5.30,不況が収まらずブリューニング首相,辞表を提出
↓ナチス政権下で身の危険を感じて亡命したため1934年の粛清を逃れた。1970年死去
1932.6.1,フォン・パーペン(中央党,陸軍軍人)が第13代首相に(先代はブリューニング)
:フォン・シュライヒャーの推薦もあってヒンデンブルク大統領が指名。シュライヒャーは国防相に
:閣僚に貴族が多く「男爵内閣」と呼ばれた
:パーペンは大統領の組閣要請を受けないと中央党に約束していたため,カース党首からテルモピレーの戦いの裏切者エフィアルテスだと形容されて中央党を除名され,無所属に
1932.6.16,パーペン,突撃隊と親衛隊の禁止令を解除
1932.6,フォン・シーラッハ,ヒトラーユーゲント全国指導者に
1932.6.16~7.9,ローザンヌ会議(ドイツの賠償金減額について)
:残りの賠償額が30億金マルクに減額→翌年生まれたヒトラー政権は支払わず
1932.7.7,親衛隊の新しい黒い制服が制定
1932.7.9,ゲッベルス,演説でパーペン内閣の無策を批判
1932.7.19,情報部に当たるICがSD(
1932.7,シュペーア,ベルリンの党の建物の改修を任される
1932.7.30,ロス五輪(ドイツは金メダル3個)
1932.7.31,国会選挙でNSDAP230議席(123増),SPD133議席,共産党89議席,中央党75議席。NSDAPが第1党に
:ナチスは中間層を取り込むことに成功した(中間層テーゼ)
:フォン・シーラッハ初当選
:ヒンデンブルクとパーペンはヒトラーに副首相の職を提示したがヒトラーは首相職を要求
1932.8.30,投票でゲーリングが国会議長に
1932.9,国会でパーペン内閣に共産党が不信任案提出→ナチ党も賛成したため解散(→11.6の選挙)
1932.11,ベルリン市交通局のストライキで共産党とナチ党が協力。ベルリンの交通網麻痺
1932.11.6,国会選挙でNSDAP196議席(34減),SPD121議席,共産党100議席,中央党70議席。NSDAPが第1党に
:議席減の理由として4か月前にも選挙があったため資金が苦しかった,またベルリンの交通ストは支持率に悪影響を与えたとも
1932.11.19,「産業家の請願(Industrielleneingabe,Industrialists' petition)」シャハトら経済界人が,ヒトラーを首相に指名するようヒンデンブルク大統領に書簡
:シャハトは銀行家や実業家がナチスに協力することに貢献した
1932.12.1,パーペン,軍のクーデターで国会を停止して改憲する計画をヒンデンブルク大統領に提案するもシュライヒャーは反対
1932.12.2,シュライヒャー,閣議でパーペンに退陣を求める
1932.12.3,ヒンデンブルクがシュライヒャーを指名してフォン・シュライヒャー(名誉陸軍歩兵大将,国防相)が第14代首相に(先代はパーペン)
:シュライヒャーを恨んだパーペンは打倒シュライヒャーでヒトラー支持に回る
:危機を感じたシュライヒャーは大統領の緊急事態宣言でナチ党と共産党を禁止することを狙ったがヒンデンブルクは拒否(→1933.1.28)
1933.1.4,ヒトラーとパーペンが会談(1.18,1.22にも)
1933.1.15,ナチ党,リッペ州(人口10万人台の小さな州)の選挙に宣伝を兼ねて全力で戦い,圧勝
:“村の宿屋でわずか60人,70人ぐらいを相手に演説している時もあった”(ウィキペディア「ゲッベルス」より)
1933.1.26,パーペン,ドイツ国家人民党のフーゲンベルクと鉄兜団のゼルテに,ヒトラー内閣が誕生した暁には入閣することを依頼して受諾される
1933.1.28,シュライヒャー首相辞任
1933.1.30,ヒンデンブルク,ヒトラーを首相に指名。ヒトラー内閣成立
:“ヒンデンブルクはパーペンの再任を望んだが,ヒトラー首相以外ではナチスの支持を得られないと悟ったパーペンは拒否し,自ら副首相になるとして渋る大統領を説得した”(ウィキペディア「ヴァイマル共和政」より)。パーペンはヒトラーを制御できると思ったようである
・副首相 兼 プロイセン州首相パーペン
・外相ノイラート(パーペン内閣時から留任;1937年NSDAP入党)
・内相ヴィルヘルム・フリック(1932年NSDAP入党済)
・法相ギュルトナー(パーペン内閣時から留任;ドイツ国家人民党;1937年NSDAP入党)
・経済相 兼 農業食糧相フーゲンベルク(ドイツ国家人民党)
・労働相ゼルテ(鉄兜団,1933年NSDAP入党)
・無任所相 兼 プロイセン州内相ゲーリング(1922年NSDAP入党済)
・このうちフォン・クロージクとゼルテは1945年の敗戦まで務めた
・レームやゲッベルスには閣僚ポストは回らず(ナチ党関係者はヒトラー,フリック,ゲーリング)
1933.2.1,ヒトラー首相,国会解散。次の選挙を3.5とする
1933.2.1,ヒトラー首相「四カ年計画発表」
:4年で失業者を600万人から100万人に,など。1937年には失業はほぼ解消
1933.2.4,ドイツ民族保護のための大統領令
:“内務大臣ヴィルヘルム・フリックに大きな権限を与え,国民の集会の自由および報道の自由を制限する内容”(ウィキペディア「ドイツ民族保護のための大統領令」より)
1933.2,ハインリヒ・マンとトーマス・マン(1929年ノーベル文学賞受賞)の兄弟,ドイツ・アカデミーを脱退
:ナチスを批判していた。ハインリヒはフランス,トーマスはスイスに亡命。トーマスは1936年にドイツ国籍を失い,チェコスロバキア国籍を取得,1944年に米国籍を取得。なお2歳下のヘルマン・ヘッセは1924年にスイスに帰化している
1933.2.27,国会議事堂放火事件
:オランダ国籍の共産主義者ファン・デア・ルッベが逮捕される。犠牲者はおらず,従来の法では懲役刑であったが,ルッベを死刑にするために新法が制定され翌年1月にギロチンで処刑された(戦後,死刑判決を取り消す判決が出ている)
:事件を聞いたヒトラーは「どうか共産主義者の仕業でありますように」と言ったと言われる
1933.2.28,前日の事件を受けて「国民と国家を保護するための大統領令」(公民権の停止,中央政府の州政府への介入)
:共産主義者,無政府主義者,社会主義者らが次々と予防拘禁される
1933.3.5,国会選挙でNSDAP288議席(92増),SPD120議席,共産党81議席,中央党74議席,ドイツ国家人民党52議席
:NSDAPは議席の割合が44.5%で,国家人民党と併せれば過半数獲得
:ヒトラー,ルドルフ・ヘス,アウグスト・ヴィルヘルム(ヴィルヘルム2世の息子でNSDAP党員)らが初当選
:ナチス政府は各州に自主権を放棄するよう圧力をかけ始める(→1933.3.9)
1933.3.9,最後まで中央政府の介入に抵抗していたバイエルン州首相ハインリヒ・ヘルトが突撃隊の介入などにより失脚
1933.3.9,共産党が非合法化され,共産党の81議席がなくなったためNSDAP単独で過半数に
1933.3.13,国民啓蒙・宣伝省設置。ゲッベルスが大臣に
:ラジオの普及を通じてプロパガンダを推進。“1933年から1934年にかけてドイツのラジオ所有家庭数は100万を超え,1938年までには950万に達した”(ウィキペディア「ゲッベルス」より)
:シュペーア,国民啓蒙・宣伝省の建物の改修を任される
1933.3.16,シャハト再びライヒスバンク総裁に
1933.3.20,ヒムラー,バイエルン州にダッハウ強制収容所の設置を発表
1933.3.21,(焼けた国会議事堂に代わり)衛戍教会で国会開会(ポツダムの日)
1933.3.23,政府に立法権を認める全権委任法(授権法)
1933.3.27,日本,国際連盟脱退
1933.3.31,ラントとライヒの均制化に関する暫定法律
:プロイセン州を除き,州の議席配分は国会選挙の議席配分に合わせて配分される
:強制的
1933.4.1,ユダヤ人商店の不買運動(シュトライヒャー指揮)
:シュトラッサー(Strasser,ナチ党左派),シュライヒャー(Schleicher,元首相),シュトライヒャー(Streicher,ナチ党国会議員)がいてややこしい
1933.4.1,ヒムラー,バイエルン州政治警察司令官に,ハイドリヒ,バイエルン州政治警察部長に
1933.4.7,ラントとライヒの均制化に関する暫定法律の第二法律。中央政府から国家代理官(ライヒ代官,Reichsstatthalter)が州政府に送り込まれ,地方自治が停止される(強制的同一化)
1933.4.10,プロイセン州首相がパーペンからゲーリングに
:1933.4.26にプロイセン秘密国家警察局設置(ゲシュタポの始まり)。ルードルフ・ディールスが局長に
1933.4.18,ハンス・フランク,バイエルン州法相に
1933.4.21,ヘス,NSDAP副総統(総統代理)に
:ボルマンは1933.7.4からヘスの秘書に
1933.4.27,航空省設置。ゲーリングが大臣,ミルヒが次官に
1933.4,ローゼンベルク,ナチ党外務局の長に
1933.5.2,労働組合が解散に追い込まれる(→5.10)
1933.5.10,ドイツ労働戦線設立。指導者はローベルト・ライ(Ley)
:歓喜力行団(Kraft durch Freude,喜びを通じて力を)は労働者に旅行やコンサートなどの娯楽を与える仕組み
:ライは戦後ニュルンベルク裁判の被告人となったが,このことに悲観して自殺した
:「本を焼く所では,最後には人をも焼く」(ハインリヒ・ハイネ,1823年)
1933.6.1,「ドイツ経済界アドルフ・ヒトラー・基金(Die Adolf-Hitler-Spende der deutschen Wirtschaft)」創設
:経済界がナチ党に寄付するための基金で,ボルマンと,クルップ社会長のグスタフ・クルップが発案。実務能力のあったボルマンが適切に管理した
:“第二次世界大戦の間,クルップ社は軍艦・潜水艦・戦車・軍用トラック・重砲などを製造した。クルップ社が建造した80cm列車砲「シュベーレ・グスタフ」は会長であった彼の名に由来する”(ウィキペディア「グスタフ・クルップ」より)
1933.6,シャハトら,軍備費調達のための「メフォ手形」導入決定
1933.6.末,テオドール・アイケがダッハウ強制収容所所長に
1933.7.14,政党新設禁止令でNSDAP以外の政党を禁止,一党独裁に
1933.7.14,遺伝子病子孫防止法(断種法)
:米国では1907年(インディアナ州)から優生学に基づく断種法が存在。日本では1948年から1996年まで優生保護法が存在
1933.7.20,ドイツ(ヒンデンブルク大統領)とバチカンとの政教協約(コンコルダート)
:パーペンと中央党党首カースが交渉担当。中央党は7.5に自主解散
1933.8,突撃隊員が採用されていた「補助警官隊」がゲーリングらの判断によって解散させられる→失業した突撃隊員は不満を持ち,「第二革命」を求める者も(ナチ党と突撃隊の軋轢)
1933.8.30,ニュルンベルクで党大会「勝利の大会」
:レニ・リーフェンシュタールが記録映画「信念の勝利」を残す
1933.9.22,ライヒ文化院法(あらゆる文化はライヒ文化院の検閲を受ける)
:ゲッベルス啓蒙宣伝相の管轄下
1933.10.2,ハンス・フランク,ドイツ法律アカデミーの総裁に
1933.10.3,ヘス,ナチ党の国外組織(NSDAP/AO)の長に
1933.10.10,ロンメル,少佐に
1933.10.19,ドイツ,国際連盟を脱退
:ヴェルサイユ体制・軍備不平等への不満
1933.11.12,国会選挙。ナチ党の議席が100%(661議席)
:ボルマン,フリッツ・ティッセン(合同製鋼会長)らが初当選
1933.12.1,党と国家の統一を保障するための法により,ナチ党とドイツ政府が一体化
1933.12.1,レームとヘス,無任所相に
1934.1.21,前任者トロースト(Paul Troost)の死去により,シュペーアがナチ党主任建築家に
:トローストとシュペーアは総統官邸の改修も行った
1934.1.26,ドイツ・ポーランド不可侵条約(→1939.4.28)
1934.2.28,レーム(突撃隊)とブロンベルク(国防相)がヒトラーの立会いの下に会談するも両者の対立は収まらず
1934.4,カイテル,少将に
1934.4月末,ハイドリヒ,突撃隊が武装蜂起を計画しているという噂が広まるよう情報工作
1934.6.9,SD(親衛隊保安部)がNSDAP党内で唯一の諜報機関とされる
1934.6.17,ハンス・ケルル,無任所相に(→1935.7.16)
1934.6.21,ヒンデンブルク,ブロンベルク,ヒトラーが会談。突撃隊をどうにかするよう迫られる
:突撃隊はナチ党とも国防軍とも軋轢があり,“彼らは酒を飲んでは街中で暴行をふるっていたのでドイツ国民の評判も悪かった”(ウィキペディア「長いナイフの夜」より)
1934.6.30~7.2,レーム事件(長いナイフの夜)
:Wikipedia 英語版によると犠牲者は少なくとも85名。粛清はエルンスト・レームら突撃隊幹部,シュトラッサー兄(ナチ党左派)のみならず,ナチ党外にも及び,フォン・シュライヒャー元首相夫妻やフォン・カール(初めミュンヘン一揆に協力したがその後逃亡して鎮圧側に回った)も殺害された。パーペンの秘書2人も殺された
↓パーペンは生き延びたが戦後のニュルンベルク裁判にかけられることになる
1934.7.3,ゲーリング,森林長官,狩猟長官に(自然保護・動物保護に貢献)
1934.7.25,オーストリアのドルフース首相,オーストリア・ナチスに暗殺される
:独墺合邦反対派であった。後任のシュシュニックも反ナチスの立場
1934.8.2,ヒンデンブルク大統領死去
:大統領の権限を首相と合体させ「総統兼首相」に(8.19の民族投票で承認)
1934.8,クルト・シュミットに代わりシャハトが経済相に
1934.9.4,ニュルンベルクで党大会「統一と力の大会」
:シュペーアが会場を設計。レニ・リーフェンシュタールが記録映画「意志の勝利」を残す
1934.12.19,ハンス・フランク,無任所相に
1935.1.13,国際連盟管理下にあったザール地方の帰属に関する住民投票で,ドイツに復帰が91%弱,現状維持が9%弱,フランスに帰属が0.4%で,ドイツに復帰が決定
1935.1.22,ナチス式敬礼(ハイル・ヒトラー)が義務化
:戦後は処罰の対象に
1935.3.1,ロンメル,中佐に
1935.3.16,ドイツ,再軍備宣言(ヴェルサイユ条約違反)
:諸外国の対応が遅れるよう土曜日に実行
:国防相は5月から戦争省に。ブロンベルク国防相は戦争相に(→1938.1.27)
:ルートヴィヒ・ベックが陸軍参謀総長に
:徴兵制再施行。国軍は国防軍(Wehrmacht)に。兵力50万人→開戦時300万人超
1935.4.11~4.14,ドイツ再軍備宣言を受けて英仏伊がストレーザで会合(ストレーザ戦線,→1935.6.18)
1935.5.2,ドイツ再軍備宣言を受けてフランスがソ連に接近,仏ソ相互援助条約
1935.5.19,フランクフルト~ダルムシュタット間に最初のアウトバーン開通
1935.5.21,シャハト経済相が戦争経済全権に
1935.6.18,英独海軍協定
:ドイツ側代表はリッベントロップ(後の外相)
:英国の軍艦の総トン数の35%までドイツの軍艦を認める。こうした英国ボールドウィン内閣の宥和政策によってストレーザ戦線は早くも綻び
:英国は,ドイツの再軍備は絶対許さないという態度ではなかった(対ソ連の防波堤としてのドイツへの期待)
1935.6.26,ライヒ労働奉仕団創設(失業対策,アウトバーンなど道路建設,徴兵への準備として軍事訓練)
1935.7.16,宗教省設置(宗教相はハンス・ケルル)
1935.9.10,ニュルンベルクで党大会「自由の大会」
:レニ・リーフェンシュタールが記録映画「自由の日」を残す
1935.9.15,ニュルンベルク諸法(Nürnberger Gesetze,Nuremberg Laws)制定
:「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」と「ライヒ市民法」。ユダヤ人から公民権を奪う法律。“すなわちユダヤ人は二等市民に落とされたのである”(ウィキペディア「ニュルンベルク法」より)
1935.9.15,ハーケンクロイツが唯一のドイツ国旗と定められる(それまでは帝制ドイツと同じ黒・白・赤の国旗)
1935.10.3,ムッソリーニ首相のイタリア王国(ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世),エチオピアに侵攻(第二次エチオピア戦争)
:翌年イタリアがエチオピアを併合。ハイレ・セラシエ1世は英国に亡命
1935,ナチスを批判していたジャーナリストのオシエツキー,ノーベル平和賞受賞決定
:1933年~1936年(ベルリンオリンピックの前)には刑務所・強制収容所に入れられた。1938年,結核で死去
:ナチス政権は以降,ドイツ人がノーベル賞を受賞することを禁止し,1937年にはノーベル賞に対抗した「ドイツ芸術科学国家賞」を創設。ローゼンベルクやフリッツ・トート,フェルディナント・ポルシェらが受賞
1936.1,カイテル,中将に
1936.2.6~2.16,ガルミッシュ・パルテンキルヘン冬季オリンピック
:1936年は冬季五輪も夏季五輪もドイツで行われた
1936.2,ヒトラー,ブロンベルク国防相にラインラント進駐の意図を伝える
1936.3.7,ドイツ,ラインラント進駐(1925.12のロカルノ条約違反)
:オランダ,ベルギー,ルクセンブルク,フランスと接する地域
:フランスなど諸外国の対応が遅れるよう土曜日に実行
:日本の仏印進駐とは意味合いが異なり,ドイツ国内への進駐であったが,ロカルノ条約によって非武装地帯と定められていた地域であった。ヒトラーとしては「国内に進駐して何が悪いのだ」「かつてのルール占領のようにフランスに攻められるかも知れないではないか」ということであったろうが,条約違反であった。“ヒトラーは仏ソ相互援助条約発効によりロカルノ条約は失効したとして,ラインラント進駐を正当化”(ウィキペディア「アドルフ・ヒトラー」より)
:フランスが軍事行動に出るかもしれなかったのでドイツとしては賭けであったが,フランスの強硬策主張に英国は乗らなかった
~~ 第5弾ここから ~~
1936.3.29,国会選挙。ナチ党の議席が100%(741議席)
1936.6.17,ドイツ全州の警察権が中央政府に移り,ヒムラーがドイツ警察長官に
1936.6.26,保安警察(Sicherheitspolizei,SiPo,ズィポ)創設,ハイドリヒが長官に
:ゲシュタポとクリポ(刑事警察)を統合
:1939.9にライヒ保安本部に統合された
1936.7.17,スペイン内戦始まる
1936.8.1~8.16,ベルリンオリンピック
:ドイツが金メダル33個で1位。日本は前畑秀子(200m平泳ぎ)ら6個
1936.8,この頃からソ連で大粛清始まる
1936.9.9,ニュルンベルクの党大会で「第二次四カ年計画」発表
:自給自足経済(アウタルキー)を目指し,4年で戦争に耐えられる経済にする
1936.9,アウトバーンの長さが1000kmに
:ベルリンから電車で行ける距離(オラーニエンブルク)なので,ベルリン旅行した時に見に行きました
1936.10.18,ゲーリングが四カ年計画全権責任者に
:化学産業のコングロマリット,IG・ファルベンのカール・クラウフが実質的な指導者
1936.11.18,独伊,スペイン内戦でフランコ政権側を承認(→1937.4.26)
1936.11.25,日独防共協定(→1937.11.6)
1936.12.1,ヒトラーユーゲント法によりヒトラーユーゲントが国家機関に
1937.1.30,シュペーア,帝国首都建設総監に
:1939年~1950年に世界首都ゲルマニアを造ろうという計画
1937.4.26,ドイツ空軍のコンドル軍団がスペインのゲルニカ空爆
1937.5.6,硬式飛行船ヒンデンブルク号爆発事故(36名死亡)
:ドイツのフランクフルト発で,事故現場は着陸場所の米国ニュージャージー州
1937.11.6,日独伊防共協定
1937.11.27,シャハトに代わりゲーリングが経済相に
:軍事費の膨張の無理を唱えていたシャハトは無任所相になり,影響力低下
:企業の「アーリア化」(ユダヤ人の排除)
1937,ロンメル,第一次世界大戦の経験に基づいて『歩兵は攻撃する』を著しベストセラーに。ヒトラーがロンメルを重用する理由にもなった
1938.1.27,ブロンベルク戦争相罷免され,ヒトラーが国防軍を掌握
:ヒトラーの積極的な戦争計画に賛同しなかったからと言われる
1938.2.4,フォン・ノイラートに代わりフォン・リッベントロップ(Ribbentrop)が外相に
:これ以前にも1934年くらいから外務を担当していた
1938.2.4,フォン・フリッチュが陸軍総司令官を解任される。後任はフォン・ブラウヒッチュ(~1941.12.19)
:フリッチュもブロンベルク同様,ヒトラーの戦争計画に反対であった
:国防軍最高司令部(OKW)設置,最高司令官はヒトラー,最高司令部総長はカイテル
1938.2.5,ゲーリングに代わりヴァルター・フンクが経済相に
:ゲーリングは空相,四カ年計画全権は継続
:フンクはニュルンベルク裁判で終身刑となったが,1957年解放され1960年死去
1938.3.11,ドイツ国防軍がオーストリア国境に出動し,反ナチスの立場であったシュシュニック首相は退陣に追い込まれる
1938.3.12,オーストリア併合(独墺合邦,アンシュルス)
:シュシュニックの後任となったオーストリア・ナチスのザイス=インクヴァルト首相が,オーストリアをドイツの州とする合併法に署名
:ザイス=インクヴァルトはその後ポーランド副総督,オランダのライヒスコミッサール(国家弁務官,総督,民生長官)。ニュルンベルク裁判で死刑となった
1938.4.20,レニ・リーフェンシュタール『オリンピア』公開(1936ベルリン五輪の記録映画)
:リーフェンシュタールは戦後収監されるも釈放。2003年,101歳まで生きた
1938.5.20,チェコスロバキア侵攻作戦「緑作戦」策定
:民族自決の原則を利用し,チェコスロバキア内でドイツ系住民の多いズデーテン地方の併合を目論む(→1938.9.29)
1938.6.15,ドイツの画家キルヒナー自殺
:自身の絵が「退廃芸術」として1937年の「退廃芸術展」にシャガールの絵などと共に晒された
1938.7,ヘルマン・ゲーリング鉱山・製鉄がヘルマン・ゲーリング国家工場に
1938.8.31,ベック,陸軍参謀総長を辞任。後任はハルダー
:ベックらはヒトラーがチェコに侵攻した場合,クーデターを起こす計画だったとも
:ベックは1944年のヒトラー暗殺計画に連座して銃殺された(自決した)
1938.9.29~9.30,ミュンヘン会談(ヒトラー,ムッソリーニ,英チェンバレン,仏ダラディエ)
:これ以上領土拡大要求をしないことを条件に,ドイツ系住民が多いチェコスロバキアのズデーテン地方をドイツが併合することを認める(対独
:ズデーテン併合の際,ヒトラーはロンメルを自身の警護責任者にした
1938.11.7,ドイツの外交官エルンスト・フォム・ラート(Rath)がパリでユダヤ系ポーランド人ヘルシェル・グリュンシュパンにより銃撃される
1938.11.9,エルンスト・フォム・ラートが死去→ユダヤ人の居住地域やシナゴーグ(会堂)が襲撃破壊されるライヒ水晶の夜事件(11月ポグロム)
:100人規模の死者も。ユダヤ人迫害に拍車がかかるきっかけ。官製暴動の疑いもあり
1938.11,カイテル,上級大将に
1939.1.19,シャハトに代わりヴァルター・フンク経済相がライヒスバンク総裁に
:シャハトは無任所相としては継続したが,それも1943年に解任。1944年のヒトラー暗殺計画に連座して逮捕・収監。米軍に解放されるもニュルンベルク裁判で裁かれ,無罪を勝ち取る(1970年死去)
1939.3.14,チェコスロバキアからスロバキア(スロヴァキア)が独立,ドイツの傀儡国家に
1939.3.15,チェコ解体,ベーメン・メーレン(ボヘミア・モラヴィア)保護領に
:保護領総督はフォン・ノイラート元外相。傀儡の保護領大統領はハーハ。ノイラートはニュルンベルク裁判で禁固15年
1939.3.22,ドイツ,リトアニアから港湾都市メーメル(クライペダ)を取り返す
1939.3.31,英チェンバレン,ポーランドの独立保障宣言
:ドイツは自由都市ダンツィヒの編入と,ポーランド回廊の使用を要求していた
1939.3.31,ポーランド侵攻計画「白作戦(ファル・ヴァイス)」
1939.4.7,イタリア,アルバニアに侵攻。アルバニアはイタリアの保護領に
1939.4.28,ドイツ,英独海軍協定の破棄を通告
1939.4.28,ドイツ,ドイツ・ポーランド不可侵条約の破棄を通告
1939.5.11,ノモンハン事件(~1939.9.16)
1939.8.1,ロンメル,少将に
1939.8.2,アインシュタイン=シラードの手紙(米国ローズベルト大統領宛)
1939.8.23,独ソ不可侵条約(リッベントロップとモロトフ)
:バルト三国はソ連が取り,ポーランドは独ソで分けるという秘密協定付き
1939.8.25,イギリス・ポーランド相互援助条約
1939.8.29,ドイツ,ポーランドにポーランド回廊を要求する最後通牒
1939.8.30,ポーランド,駆逐艦3隻を英国に脱出させる
1939.8.31,ポーランドのラジオ局が占拠され,反独プロパガンダを流すグライヴィッツ事件(ヒムラーやハイドリヒの工作)
1939.9.1,ドイツ,ポーランドに侵攻
1939.9.2,イタリア,中立を表明
1939.9.3,英仏,ドイツに宣戦布告
1939.9.5,米国,中立を表明
1939.9,チャップリン,『独裁者』の撮影開始
1939.9.16,ノモンハン事件,ソ連の勝利に終わる(→翌日)
:英仏はソ連には宣戦布告せず
1939.9.22,フォン・フリッチュ元陸軍総司令官,ワルシャワで戦死
1939.10.5,ワルシャワでドイツ軍の戦勝祝賀式典
1939.10.6,ポーランド降伏
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次回は第二次世界大戦の時代に入ります。長くなったので,記事を分けるかもしれません。
↓この記事のアイキャッチ画像は以下の記事にあります
(以下は次回更新に向けた草稿です)
1939.9.27,ライヒ保安本部(RSHA)設立
1939.10~1940.4,まやかし戦争(奇妙な戦争)
:英仏がドイツに宣戦布告したものの,西部戦線で目立った戦闘起こらず
1939.11.30,ソ連=フィンランド戦争(冬戦争)(~1940.3.13)
:ソ連は勝利するもフィンランドの数倍の死傷者を出し大苦戦。1939.12.14にソ連は国際連盟から除名された
1940.2.15,ロンメル,第7装甲師団の師団長に(フランス侵攻を想定)
1940.2.17,マンシュタイン,アルデンヌの森を突破する「マンシュタイン計画」をヒトラーに提案,同意される
1940.3.17,フリッツ・トート(Todt)兵器・弾薬大臣(軍需大臣)に
1940.4.9,ドイツ,デンマークとノルウェーに侵攻,デンマークを無血占領
1940.5.9,フランス侵攻作戦「黄色作戦」の暗号がロンメルに届く
1940.5.10,ロンメルの第7装甲師団ら,ベルギー領へ侵攻開始
:3日間でアルデンヌの森を横断(西方電撃戦)し,ベルギーのディナンに出,5月13日にムーズ川(マース川)を渡河
1940.5.15,オランダ降伏
1940.5.16,ベルギーから連合軍がフランスへ撤退開始。ロンメルらフランスに侵入
1940.5.24~6.4,ダンケルクの戦い
:英仏は40万のうち36万人の撤退に成功(ダイナモ作戦)
1940.5.26,ロンメル,騎士鉄十字章を受章
1940.5.28,ベルギーのレオポルド3世,降伏を決定
1940.6.4,チャーチル英首相のネバーサレンダー演説("We shall fight on the beaches" 演説)
1940.6.5,ロンメルらソンム川を渡河
:突出しすぎていたため一旦北上し6.10にイギリス海峡に到達
1940.6.10,ノルウェー,ドイツに降伏
1940.6.10,フランス,パリを無防備都市宣言,ボルドーに退避→イタリア参戦
1940.6.14,ロンメル,大西洋岸のル・アーヴルを占領。同日,ドイツ軍,パリに無血入城
1940.6.19,ロンメル,コタンタン半島(ノルマンディー半島)北端のシェルブールを降伏させる。これにて対仏戦線のロンメルの役割は完了
1940.6.21~6.22,コンピエーニュの森で独仏の休戦協定(フランスの降伏)
1940.6.25,フランス全軍に戦闘中止命令が出される。“戦闘中止命令が出されたとき,ドイツ軍はフランスの領土の半分以上を占領していた”(ウィキペディア「ロンメル」より)
1940.6末,ソ連,ルーマニアからベッサラビアと北ブコヴィナを奪う
:ルーマニアの石油に興味のあるドイツは危機感(→1940.10.12)
1940.7.10~1940.10,バトル・オブ・ブリテン
:ドイツ空軍,英空軍に敗れ,イギリス本土上陸(アシカ作戦)を断念
1940.8,シーラッハに代わりアクスマンが全国青少年指導者に
:戦争により人材不足になった消防・郵便・ラジオなどの分野にヒトラーユーゲントの隊員を投入
:ヒトラーユーゲントの活動を妨害した不良少年グループも存在した(エーデルヴァイス海賊団など)
1940.9.12,イタリア領リビアのキレナイカからイタリア軍がエジプトに侵攻
:当初ムッソリーニはドイツ軍の協力の申し出を断る
1940.9.27,日独伊三国同盟
1940.10.12,ドイツ,ルーマニアのブカレストに進駐。独ソ間緊張
1940.10,チャップリン『独裁者』公開
1940.10.28,イタリアが独断でギリシアに侵攻し,バルカン半島の戦い始まる(~1941.5.29)
1940.12.18,ヒトラー,バルバロッサ作戦(ソ連侵攻作戦)を発令(→1941.6.22)
1941.1.1,ロンメル,中将に
1941.2,映画『西方における勝利』公開,ロンメルはスターに
1941.3.1,ドイツ,ブルガリアに進駐,枢軸国側に引き入れる
1941.4.6~4.17,独伊など枢軸国,ユーゴスラビア侵攻(4月戦争)
1941.6.22,ヒトラーは東プロイセンの「狼の砦(狼の巣)」に移る
1941.10,ソ連戦線で冬将軍が到来
1941.12.8,日本,真珠湾攻撃
1941.12.19,ヒトラー,ブラウヒッチュ陸軍総司令官を解任し,自らが兼任
1942.2.8,軍需大臣フリッツ・トート事故死。後任はシュペーア
1942.5.8,ポンド札を大量に偽造する「ベルンハルト」作戦(ヒトラーの贋札)