「アメリカ歴代大統領32」の続きです。前回から1年半ほど間を空けてしまいました。
(33)ハリー・S・トルーマン(1884-1972;1945.4.12-1953.1.20)
・ローズベルトの病死に伴い昇格した大統領だが,次の選挙でも勝利し2期務めた
・大学卒でない最後の大統領
1884年,ミズーリ州にて生まれる。トルーマンのミドルネーム「S」は S 一文字である(父の父 Anderson Shipp Truman と母の父 Solomon Young の共通の S を取った)
1901年,高校を卒業。大学には進学せず就職。
?年,陸軍士官学校ウェストポイントに志願するが弱視のため入れず(英語版ウィキペディアには13歳の時の写真があるが眼鏡をかけている)
1905年,ミズーリ州兵に
1917年4月6日,アメリカ,ドイツに宣戦布告。トルーマンもBattery(砲兵隊)に所属して従軍し1918年のムーズ・アルゴンヌ攻勢に参加
1919年,戦後,captain(大尉)として名誉除隊。ベス・ウォーレスと結婚(婚約は出征前)
?年,白人至上主義団体KKKに加入するもすぐに脱退
1920年,major(少佐)として予備役に
1923年,ミズーリ州の実業家・フィクサーのトム・ペンダーガスト(民主党員)の支援を受けミズーリ州ジャクソン郡(郡庁所在地インディペンデンス)のカウンティ・ジャッジ(郡判事)に
“シカゴのアル・カポネ,カンザスシティのペンダーガストと呼ばれた”
1924年2月17日,娘マーガレット・トルーマン誕生(唯一の子)
1925年,トム・ペンダーガスト,ミズーリ州カンザスシティ市会議員に
1925年,中佐(予備役)に
1931年10月,アル・カポネの脱税裁判始まる
1932年,大佐(予備役)に
1933年,禁酒法廃止
1934年,トム・ペンダーガストの支援でミズーリ州の上院議員選に当選
1935年,ミズーリ州選出上院議員に(~1945年1月まで2期)
1939年,トム・ペンダーガスト,脱税の罪で逮捕される(1945年死去)
1941年,トルーマン上院議員による「トルーマン委員会」(軍事費の不正利用を調査)で有名に
1944年11月,大統領選挙でF.D.ローズベルトの伴走候補(副大統領候補)としてデューイ検事のチームに勝利
※副大統領候補に指名されるにあたっては,現職の副大統領ヘンリー・A・ウォレス(任期1941~1945)が最大のライバルであった
※F.D.ローズベルトの伴走候補一覧
1932年の大統領選挙:ジョン・N・ガーナー
1936年の大統領選挙:ジョン・N・ガーナー
1940年の大統領選挙:ヘンリー・A・ウォレス
1944年の大統領選挙:ハリー・S・トルーマン
1945年1月20日,副大統領に就任
※ヘンリー・A・ウォレスは商務長官となった(1945.3~1946.9)
1945年4月12日,ローズベルト大統領の急死に伴い大統領に就任
1945年4月30日,ヒトラーと妻エーファ自決
1945年6月21日,米軍,沖縄を占領
1945年6月26日,サンフランシスコ会議で国際連合憲章を51か国が署名
1945年7月3日,バーンズが国務長官に
※日本への原爆使用を強く進言
1945年7月8日,ユタ州サライナの捕虜収容所で看守がナチス・ドイツの捕虜29名を死傷させる「真夜中の虐殺」発生
1945年7月16日,トリニティ実験(人類最初の核実験)
1945年7月17日~8月2日,ポツダム会談(米英ソ)に参加
※ポツダムは現在ドイツのブランデンブルク州州都。当時はソ連占領下
※ドイツ占領統治問題,ポーランド問題,賠償問題,対日降伏勧告など様々
1945年7月17日,「シラードの請願」日本に(国体護持など)降伏の条件を示して降伏を迫ることなしに原爆を投下することの無いよう,シラードら科学者が請願。しかし請願書は大統領の手に渡ることはなかった
1945年7月21日,トルーマン大統領,原爆使用を承認
1945年7月25日の日記「原爆の投下場所は軍事基地のみに限る」
※マンハッタン計画の責任者だったグローヴス(Groves)准将は京都を原爆投下の候補としたが,陸軍長官スティムソンはこれを却下し,大統領にも京都を候補から外すよう進言した。しかしトルーマンは広島を純粋な軍事基地と思って(思わされて)おり,候補から外すことはなかった。
※共和党員は軒並み原爆使用に反対
↓映画『オッペンハイマー』ではマット・デイモンがグローヴスを演じた
1945年7月26日,ポツダム宣言(日本への降伏要求の最終宣言)発表(米英中:ソ連は事後報告を受け追認)
1945年7月28日,エンパイアステートビルにB-25爆撃機が衝突する事故(死者14名)
1945年8月6日,広島に原子爆弾投下
1945年8月9日,長崎に原子爆弾投下
1945年8月15日,日本ポツダム宣言受諾を表明
1945年8月18日,トルーマン大統領,スターリンに対しソ連軍の北海道占領を拒否する回答(北海道を攻めたらモスクワに原爆を落とすとの脅しも)
1945年9月2日,戦艦ミズーリ上で日本が降伏文書に調印
※トルーマンの出身州ミズーリに由来し,命名(christen)したのは娘マーガレット・トルーマン
1945年10月24日,国際連合発足。本部はニューヨーク
1946年3月5日,英首相チャーチルによる「鉄のカーテン」演説
※訪米し講演した時になされた
1946年3月30日,ギリシア内戦開始
※王党派と共産主義派の内戦で,勝敗によってはギリシア共産化の危機→トルーマン・ドクトリンに繋がる
※ギリシアとトルコはエーゲ海(黒海から地中海に出るときの通過水域)を擁していたので両国が共産圏にならないことは地政学的に極めて重要であった
1946年5月3日,東京裁判(極東国際軍事裁判)開廷(~1948.11.12)
1946年7月25日,ムアーズフォード橋のリンチ事件(白人群衆が黒人カップルを射殺)
→大統領公民権委員会を設置
1946年12月12日,大統領首席補佐官を創設。初代はジョン・スティールマンSteelman(~1953.1.20で任期最長)
1947年1月21日,バーンズ国務長官解任,ジョージ・マーシャルが国務長官に(→6月5日)
※マーシャルは1943年と1947年の,バーンズは1946年の『タイム』誌「マン・オブ・ザ・イヤー」(トルーマンは1945年と1948年,アイゼンハワーは1944年)
1947年3月11日,GHQ により1ドル15円が1ドル50円に
1947年3月12日,トルーマン・ドクトリン発表
※共産主義封じ込め政策:“トルーマンは,もしギリシャとトルコが必要とする援助を受けなければヨーロッパの各地で共産主義のドミノ現象が起こるだろうと主張した”
1947年4月11日,チャップリン『殺人狂時代』公開
※“チャップリンは『殺人狂時代』で再び政治的姿勢を主張し,資本主義や戦争における大量破壊兵器の使用を批判した。そのため1947年4月に公開されると物議を醸した”
1947年5月3日,日本国憲法施行
1947年5月9日,ジョージ・ケナン,国務省内に創設される政策企画本部の長に就任(~1949年5月31日)
:「共産主義封じ込め」政策に影響を与えた人物と言われる
1947年6月5日,国務長官ジョージ・マーシャルによるマーシャル・プラン(ヨーロッパ復興計画)発表
※ヨーロッパが復興せず貧しいままだと共産主義革命の危険性があった
※“援助資金は毎年議会の議決を経て予算化され、3年3か月間の予算として125億3490万ドルが計上された”
1947年6月23日,タフト=ハートリー法(1947年労使関係法)成立
※このタフトはタフト元大統領の息子。タフトもハートリーも共和党員であった
※“労働組合の活動と勢力を監視する米国連邦法”
※“トルーマン大統領はタフト=ハートリー法への拒否権を行使したが,議会は彼の拒否権を覆した。 両党の多くは同法に賛成票を投じたのである”
1947年9月18日,国防総省(ペンダゴン)と中央情報局(CIA)が発足
1947年,現職大統領として初めて,全米有色人種地位向上委員会(NAACP:1909年設立)に対し演説
1948年1月1日,GATT(関税及び貿易に関する一般協定)発効
※ブロック経済が発達した結果ブロック同士の戦争となったので,経済がブロック化せぬように自由貿易を推進する必要がある
1948年5月14日,イスラエル独立宣言
1948年5月15日,第一次中東戦争勃発(レバノン,シリア,トランスヨルダン,イラク,エジプトがイスラエルに宣戦布告)
※英米軍が「ベルリン大空輸」でベルリン市民を支援
1948年10月15日,日本で(第2次)吉田茂内閣発足
1948年11月2日,大統領選挙で共和党デューイ(検事→ニューヨーク州知事),州権民主党サーモンドに303対189対39選挙人で勝利(得票率49.6%対45.1%対2.4%)
※ローズベルトのニューディールの精神(社会政策)を受け継ぐフェアディール政策を標榜。国民健康保険の計画もあったが,激論の末に廃案となった
↓マフィアのルチアーノを刑務所に送り正義のヒーローとなっていた。ドナルド・ダックの姉の子デューイ・ダックは彼に因む
※「シカゴ・トリビューン」紙は「デューイ勝利」の誤報を打った
※サーモンド(1902年生)は2003年まで生き,100歳の時点でも上院議員であった
1948年12月1日,中米のコスタリカ,常備軍を廃止,非武装国に
1949年5月12日,ベルリン封鎖解除
1950年2月9日,マッカーシー共和党上院議員,国務省で250名の共産党員が影響を及ぼしている旨の発言→マッカーシズム(赤狩り)
※1938年から存在していた下院非米活動委員会(House Committee on Un-American Activities)が主な摘発の舞台となった
※“マッカーシー上院議員はその告発対象をアメリカ陸軍やマスコミ関係者,ハリウッドの映画俳優などアメリカ映画関係者や学者にまで広げた”
※共産党非合法化は1954年8月24日で,アイゼンハワー政権時
1950年6月25日,朝鮮戦争勃発(6.28,ソウル陥落)
※朝鮮人民軍は破竹の勢いで韓米軍は釜山まで後退
1950年8月10日,日本の警察予備隊創設(→1952.10.15)
1950年9月15日,仁川上陸作戦(クロマイト作戦)
1950年9月29日,国連軍,ソウルをほぼ奪還
1950年10月19日,中国義勇軍(抗美援朝義勇軍)鴨緑江を渡り参戦
1950年10月26日,韓国軍が鴨緑江(中朝国境)にまで到達
※捕虜から中国軍の参戦を知る
1950年11月1日,中国義勇軍の大攻勢開始,国連軍の敗退始まる
1950年11月1日,プエルトリコのトレソーラによる大統領暗殺未遂事件。本人と警察官1名が死亡
1951年1月4日,中朝軍,ソウルを再奪回
1951年3月14日,国連軍,ソウルを再奪回
※その後,膠着状態に
1951年4月11日,マッカーサー,国連総司令官を解任される
※満州の工業地帯に原爆を落としてでも中国を屈服させ,朝鮮半島を武力統一することを主張し,トルーマンと対決姿勢を見せた
※“これは後に「シビリアン・コントロールの模範例」として称賛されることもあったが,結果的にトルーマンの支持率に大きく影響した。(中略)再選の可能性がわずかになったことを悟ったトルーマンは次の大統領選挙の不出馬を決定”
1952年2月4日,トカラ列島(吐噶喇列島)を日本に返還
1952年4月28日,サンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)発効。日本の主権回復(署名は1951.9.8)
※旧安保条約,日米行政協定も発効
1952年9月17日,チャップリン,イギリスに向け出発。2日後,国外追放(再入国には審問が必要)処分に
1952年10月15日,日本の警察予備隊が保安隊(~1954.7.1)に改組
1952年11月1日,アメリカが世界初の水爆実験(アイビー作戦,マイク実験)
1952年11月6日,大統領選挙で共和党アイゼンハワーが民主党のスティーブンソンに442-89(得票率55.2%対44.3%)で勝利。副大統領はニクソン(アイゼンハワーの
※タフト元大統領の息子ロバート・タフトも共和党の大統領候補を目指したがアイゼンハワーに敗れた
1953年1月7日,水素爆弾の開発を発表
1953年7月27日,朝鮮戦争休戦協定
1953年12月,ジョージ・マーシャル,ヨーロッパ復興計画(マーシャル・プラン)によりノーベル平和賞受賞(ノーベル平和賞を受賞した軍人)
1972年12月26日,死去(88歳)
1982年10月18日,妻エリザベス死去(97歳)
※最も長く生きたファーストレディ
==========
次回はアイゼンハワー(第34代)です。
↓この記事のアイキャッチ画像は以下の記事にあります
↓次回はこちら