本当は日本の戦後史年表(1945-)を作りたかったのですが,余りに膨大なので1980年から作っていきます。
・政治は選挙結果含め詳しく
・経済・社会・文化は少し
といった按配でやっていきます。引用(“”)は特に明記されていない場合,ウィキペディアからの引用です。
2000年以降は以下をご覧下さい。
★は初入閣を示す。
(1976.12.24から福田赳夫内閣。外相鳩山威一郎。環境庁長官石原慎太郎初入閣)
1977.1.20(昭和52)米国民主党カーター政権発足(前任は共和党フォード)
↓2017就役,就役中
1977.1.27,ロッキード事件の裁判開始(丸紅ルート)(→1983.10.12)
:ロッキード社が自社開発の航空機「トライスター」を売るため各国の要人に賄賂をばらまいたという疑惑。丸紅はロッキード社の販売代理店
1977.2.17,百里基地訴訟で水戸地裁が自衛隊を合憲判決
1977.4.21,ブロードウェイで「アニー」初演
1977.4.24,革新自由連合結成
:代表はタレントの中山千夏(じゃりン子チエの主人公声優など)。横山ノック,青島幸男,愛川欽也,永六輔,田原総一朗,美輪明宏らのタレント・文化人が参加。7月10日の参院選で横山ノックが全国区当選
1977.5.7,ロンドンサミット(第3回先進国首脳会議)
1977.5.25,社会市民連合結成(→1978.3.26)
1977.6.30,軍事同盟SEATO(東南アジア条約機構)解散
1977.7.10,第11回参院選(改選126;76の地方区と50の全国区)→自124(福田赳夫),社56(成田知巳),公25(竹入義勝),共16(宮本顕治),民社11(春日一幸),新自由3(河野洋平),社民連1(江田三郎)など
:初当選は扇千景,藤井裕久,熊谷弘(以上自),宮本顕治(共),横山ノック(革新自由連合)ら
1977.9.5,王貞治(37歳,台湾国籍)が国民栄誉賞受賞(9月3日に756号本塁打達成)
1977.9.28,日本赤軍によるダッカ日航機ハイジャック事件
:「超法規的措置」で収監中のメンバーを釈放
1977.10.15,長崎の西肥自動車バスジャック事件(犯人2人のうち1人射殺。乗客は全員無事)
:1964年生で当時13歳(中学1年)
1977.11.19,エジプトのサーダート(サダト)大統領がイスラエル訪問
1977.11.28,福田改造内閣発足。外相園田
(1977年の日経ダウ平均株価大納会終値:4865.60円)
1978.1.19(昭和53)TBS「ザ・ベストテン」放送開始(黒柳徹子・久米宏)
:木曜夜9時。初回1位は1977.12.5リリースのUFO
1978.3.26,社会民主連合(社民連)結成(社会市民連合+社会クラブ)
1978.4.6,サンシャイン60開業(239.7m)
:1990に東京都庁舎に抜かれるまで日本一高い建物
1978.4.20,大韓航空機銃撃事件(ソ連機による,死者2名)
:1983の大韓航空機撃墜事件とは別
1978.4.27,アフガニスタンで四月革命→4.30,社会主義のアフガニスタン民主共和国建国(1987にアフガニスタン共和国に改称)
:反政府ゲリラと対立し,ソ連が共和国を支援するため介入(→1979アフガニスタン侵攻)
1978.5.20,新東京国際空港(成田国際空港の前身)開港
1978.6.25,サザンオールスターズメジャーデビュー(勝手にシンドバッド)
1978.7.16,ボンサミット(第4回先進国首脳会議)
1978.8.12,日中平和友好条約署名(10.23発効)
:日中国交正常化は1972年9月,田中角栄内閣(外相大平正芳)の時
1978.10.4,ヤクルトが初優勝(広岡達朗監督)→10.22,阪急を下し日本一
1978.11.26,自民党総裁選。予備選で大平が福田に勝利し,福田が本選を辞退
1978.12.7【讃岐の鈍牛/宏池会】第一次大平正芳内閣発足。外相園田直。★橋本龍太郎が厚相
(1978年の日経ダウ平均株価大納会終値:6001.85円)
1979.1.1(昭和54)国際児童年
:4.1にゴダイゴ「ビューティフル・ネーム」リリース
1979.1.1,米国が台湾と国交断絶し中華人民共和国と国交樹立
:日台は1972年の日中国交正常化を契機に断交
:追われたポルポトらはジャングルで抵抗
1979.1.13,初の共通一次試験(1990年からセンター試験)
1979.1.24,福田赳夫を中心に清和会結成(→1986.7.14)
1979.2.1,ホメイニによるイラン革命
:1.16に「パーレビ国王」と日本で呼ばれたモハンマド・レザー・シャー・パフラヴィーが亡命しパフラヴィー朝滅亡
:第二次オイルショックの引き金(第一次は1973.10の第四次中東戦争)
1979.2.17,中越戦争(~3.16)
:ベトナムがポル・ポト政権のカンボジアを攻めたため,後者を支援する中国がベトナムに侵攻し撃退される。中ソ対立によりソ連はベトナムを支援
1979.3.5,読売テレビ「2時のワイドショー」スタート(~1992.10.2)
1979.3.25「いとしのエリー」リリース
1979.3.26,エジプト・イスラエル平和条約
:サーダートとベギン(共に1978年10月にノーベル平和賞)。カーター大統領が仲介。サーダートは1981年10月,イスラム過激派により暗殺
1979.3.28,スリーマイル島原子力発電所事故
1979.4,安倍晋三,留学先の米国加州から帰国し神戸製鋼所に入社
1979.4.7「機動戦士ガンダム」放映開始
1979.4.8,東京都知事選で鈴木俊一が当選(1995.4まで4期16年)
:前任は美濃部亮吉(天皇機関説で有名な美濃部達吉の子,社共推薦,1967~1979)
1979.4.10【戦略的あいまいさ】米国,台湾関係法制定
1979.5.4【鉄の女】保守党マーガレット・サッチャーが英首相に
1979.5.30,釘宮理恵誕生
1979.6.28,東京サミット(第5回先進国首脳会議)
1979.7.16,サッダーム・フセインがイラク大統領に
1979.7.29,うまい棒発売
1979.9.7,大平首相,衆院解散(→10.7)
:1975年から赤字国債を発行しており,大平は財政健全化のため消費税導入を図った
1979.10.1,久保田早紀「異邦人」
1979.10.7【一般消費税解散】第35回衆院選(改選511中選挙区制)→自248(大平),社107(飛鳥田一雄),公57(竹入義勝),共39(宮本顕治),民社35(佐々木良作),新自由4(河野洋平),社民連2(田英夫)など
:消費税は嫌ということで自民党過半数割れ,保守系無所属を加えて政権維持
:京都・大阪は共産,公明が強く,36当選者のうち10人が共,9人が公,8人が自
:初当選は麻生太郎,亀井静香,岸田文武,小里貞利,丹羽雄哉(以上自)ら
:三木・福田・中曽根らが大平の退陣要求。四十日抗争始まる(→11.6)。田中が大平を支持しており角福戦争の一環
1979.10.26【朴槿恵の父】
:1974年には文世光による朴正熙暗殺未遂事件で朴正熙夫人が殺害されている
1979.11.6,首班指名選挙で大平と福田が共に立つ異常事態。決選投票で大平が勝利
1979.11.9,第二次大平内閣。外相★大来佐武郎(民間)。蔵相竹下登。★小渕恵三が総理府総務長官・沖縄開発庁長官
1979.12.12【粛軍クーデター】全斗煥陸軍少将によるクーデター(→1980.9.1)
1979.12.24【ソ連のベトナム戦争】ソ連,アフガニスタンに侵攻(撤収は1989年)
:「ランボー3/怒りのアフガン」は1988年公開
(1979年の日経ダウ平均株価大納会終値:6569.47円)
1980.1.10(昭和55)社会党と公明党の「社公合意」。共産党排除で社共共闘崩れる
1980.1.25,第91回通常国会(→5.16,5.19解散)
1980.3.14,全飴協の働きかけにより「ホワイトデー」の習慣始まる
:1978.3.14以降は「マシュマロデー」があった
1980.4.1,大塚製薬「ポカリスエット」発売。松田聖子歌手デビュー(裸足の季節)
1980.4.10,ハマコーこと浜田幸一,辞職願提出(ラスベガス事件;翌日辞職)
:1980.6の衆院選は出馬できず,1983.12の衆院選で返り咲き
1980.4.21,もんた&ブラザーズ「ダンシング・オールナイト」
:もんたよしのり自身の予想を裏切ってヒットし「ザ・ベストテン」で7週連続1位
1980.4.28,任天堂「ゲーム&ウォッチ」発売(ボール)
1980.5.16,第二次大平内閣への内閣不信任決議可決(→5.19解散)
:社会党,公明党,民社党,共産党が賛成。自民党反主流派の三木(武夫)派,福田(赳夫)派,中川(一郎)グループから69人が欠席したため243-187で可決。1953年「バカヤロー解散」以来の可決。“野党は不信任案が可決されることを予測しておらず,自民党内の反主流派も戦略なく行き当たりばったりで本会議を欠席し,結果として解散に至ったため,「ハプニング解散」と呼ばれる”
“反主流派ながら党幹部として不信任案反対の意向であった安倍晋太郎政調会長は,森喜朗等若手議員に羽交い絞めにされるようにして会議途中に退席した”
:中曽根派も反主流派であったが,不信任に反対投票して大平に接近
1980.5.18,韓国で光州事件(軍事クーデターを起こした全斗煥陸軍少将への反発,金大中逮捕への抗議など,民主化要求デモを弾圧,死者150名以上)
1980.5,第5代経団連会長に稲山嘉寛(新日鐵)(→1986.5)※第4代は土光敏夫(東芝)
1980.5.30,参院選公示。選挙戦始まる
1980.6.12,大平首相急死,弔い選挙となる。総理大臣臨時代理は伊東正義
1980.6.22,ヴェネツィアサミット(第6回先進国首脳会議):大平首相急死により大来外相が出席
1980.6.22,ハプニング解散を受けた史上初の衆参同日選挙
:第12回参院選(改選126;76の地方区と50の全国区;比例代表制は1983年の第13回から)→自135(西村英一総裁代行),社47(飛鳥田一雄),公26(竹入義勝),共12(宮本顕治),民社11(佐々木良作),新自由3(田川誠一),社民連2(田英夫)など
:初当選は森山眞弓(自民:東大法→労働省官僚),中山千夏(革新自由連合),美濃部亮吉(東京都知事1967-1979),中村鋭一(朝日放送アナウンサー)ら
:第36回衆院選(改選511)→自284,社107,公33,民社32,共29,新自由12,社民連3など
:自民党は258→284と大勝し単独過半数。社会党は107のまま。公は58→33,共は41→29と大敗
:初当選は古賀誠,平沼赳夫,太田誠一,高村正彦(以上自),菅直人(社民連)ら
:東京6区山口シヅエが落選して自民党女性衆院議員がいなくなり,1993年に野田聖子が当選するまで不在となる。参院では山東昭子,李香蘭こと山口淑子,初当選の森山眞弓がいた
1980.7.15,鈴木善幸が宏池会代表に “大平の後継を巡り宮澤喜一と田中六助の間に「一六戦争」と呼ばれる抗争が繰り広げられていたため,鈴木の代表就任は決着がつくまでの当面のつなぎという性格も強かった”
1980.7.15【西村裁定】西村英一副総裁の指名で鈴木が総裁に
1980.7.17【角影内閣/宏池会】鈴木善幸内閣発足(-1981.11.30)外相伊東正義
:1947年に初当選した時,鈴木は日本社会党であった
:1979年の四十日抗争やその挙句の果てのハプニング解散への反省から「和」をモットーとした。麻生太郎の妻は善幸の娘であり,財務大臣(2021.10.4-)の鈴木俊一は善幸の息子である(東京都知事の鈴木俊一とは別人)
1980.7.18,広末涼子高知で誕生
1980.7.19,モスクワオリンピック開幕
:アフガニスタン侵攻(1979.12)の影響で米,加,西独,中(中ソ対立),日,韓,トルコ,イラン,エジプト,サウジアラビア,パキスタンなど多数の国がボイコット。共産圏のほか英仏などの西欧の多くは参加
↓女子400m金メダリスト,コッホ(東独)
1980.8.22,横浜が早稲田実業を下し初優勝。早実は荒木大輔(1年)
1980.9.1,韓国全斗煥大統領政権発足(-1988.2)
1980.9.22,イラン=イラク戦争勃発(-1988.8.20)
:イランはホメイニ(1979-1989最高指導者),イラクはフセイン(1979-2003大統領)。米ソ仏中などはイラクを支援。イスラエルはイランを支援してイラクの建設中の原発を空爆し非難を浴びる
1980.10.5,山口百恵引退コンサート(11.19三浦友和と結婚)
1980.10.12,王貞治868号本塁打(11.4現役引退)
1980.11.4,米大統領選挙でレーガンが現職カーターを破る。カーター2選ならず
1980.11.21,鈴木首相,金大中の死刑判決を憂慮する旨を韓国側に伝える
1980.12.1,神戸市生田区と葺合区が合併し中央区に
1980.12.8,ジョン・レノン NY で暗殺される
(1980年の日経ダウ平均株価大納会終値:7116.38円)
1981.1.20(昭和56)米国共和党レーガン政権発足(-1989.1.20)
1981.1.26,第94回通常国会(~6.6)
:宇野重吉(寺尾信夫)の長男
1981.3.2,初めて中国残留孤児が来日(47名)
:1982-1988の間「ニュースセンター9時」のキャスターを務めた宮崎緑は中国残留孤児を紹介するコーナーの中で涙を流した
1981.3.20,神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア'81,1610万人)
:1983.6に堀井雄二の「ポートピア連続殺人事件」発売
1981.3.31,ピンク・レディー解散コンサート
1981.4.1,千葉県浦安町,四街道町,福岡県宗像町が市に
1981.4.6,日本テレビ「ザ・トップテン」放送開始。初回1位は「ルビーの指環」(→1986.4.7)
1981.4.9,日昇丸米原潜当て逃げ事件(日昇丸の2名が犠牲に)
1981.5 “当時の首相である鈴木善幸は,初めて『シーレーン千海里防衛術』を公表するが,渡米の帰りの機中で「日米安保条約には軍事的協力は含まれない」と発言し,帰国後には「日米同盟に軍事的側面はない」と語って,共同声明に対する不満を表明してしまい,アメリカの世論を怒らせた”
1981.5.18,外相が伊東正義から園田直に異動
“日米同盟は当然に軍事同盟の性格もあるとする伊東と,日米同盟は軍事同盟ではないとする鈴木首相のそれぞれの国会答弁が齟齬をきたす”
1981.5.29,京都初の地下鉄,京都市営地下鉄烏丸線(京都〜北大路)開業
1981.7.21,オタワサミット(第7回先進国首脳会議)
1981.8.21,報徳学園が京都商を下し初優勝
1981.9.16,石破茂の父石破二朗死去(鳥取県知事1958~1974)
→2年後の1983年,石破茂は三井銀行を退職し政治家を志す(→1986.7.6)
1981.10.5,ロッテ「雪見だいふく」発売
1981.10.16,北夕張新炭鉱の事故で93名が犠牲に
1981.10.17,映画「典子は、今」公開(サリドマイド薬害被害者)
1981.11.18,三浦夫妻銃撃される→ロス疑惑
1981.11.30,鈴木善幸改造内閣発足(-1982.11.27)外相櫻内義雄
1981.12,PC-8801発売
1981.12.19【星泉】角川映画『セーラー服と機関銃』公開
(1981年の日経ダウ平均株価大納会終値:7681.84円)
1982.1.25(昭和57)第96回通常国会(会期延長し8.21まで)
:参院選に比例代表制を導入することを審議(→1983.6.26)
1982.2.8,ホテルニュージャパン火災で犠牲者33人
1982.4,片山(朝長)さつき大蔵省入省(~2005.8)
1982.6.4,ヴェルサイユサミット(第8回先進国首脳会議)
1982.6.23,東北新幹線開通(大宮~盛岡)
1982.7.14,レフチェンコ(1979年にソ連から米国に亡命)が米国下院情報特別委員会の秘密聴聞会で対日積極工作を暴露
“政界や財界,マスコミ関係者と接触し,北方領土問題を抱え米国と同盟関係にある日本の世論や政策が親ソ的なものとなるように仕向け,最終的には日米関係を損なわせること(離間工作)などを目的に,懐柔した日本人協力者を利用して様々な謀略活動を行っていた”
1982.10.4「笑っていいとも!」放送開始(-2014.3.31)
1982.10.12,鈴木首相,総裁選不出馬(退陣)表明
“伊東の後任で外相に就いた園田直の日米同盟関係見直し姿勢もあって対米関係が著しく悪化したため,岸信介らの親米派により倒閣の動きが起こっていた”
1982.11.10,ブレジネフソ連書記長死去。後任はアンドロポフ
1982.11.15,上越新幹線開通(大宮~新潟)
1982.11.24,中曽根康弘,総裁選予備選(一般党員票)で河本敏夫,中川一郎,安倍晋太郎に圧勝。本戦は行われず
1982.11.27【直角内閣,田中曽根内閣】第一次中曽根内閣発足(-1983.12.27)外相安倍晋太郎
:息子に弘文(1986初当選),孫に康隆(2017初当選)
:安倍晋三は父晋太郎の強い要請により神戸製鋼所を退社,父の大臣秘書官に(~1986.7.22)
1982.12,レフチェンコ証言が日本に伝えられる
“時の総理中曽根康弘の口からは「スパイ天国」の言葉が突いて出たという”
(1982年の日経ダウ平均株価大納会終値:8016.67円)
1983.1.6(昭和58)「北海のヒグマ」中川一郎死去(中川昭一の父)
1983.1,中曽根訪米
“訪米中に中曽根が語ったとされる「日米は運命共同体」発言,「日本列島不沈空母化」および「三海峡(千島・津軽・対馬)封鎖発言」により,アメリカとの信頼関係を取り戻し,ロナルド・レーガン大統領との間に愛称で呼び合うほどの“個人的に親密な”関係(「ロン・ヤス」関係)を築くことにも成功して日米安全保障体制を強化した”
1983.1.11,中曽根訪韓(現職首相として初)(→1984.9.6)
1983.1.24,第98回通常国会(~5.26)
1983.2.15,ドラマ「積木くずし」スタート(原作は1982)
:高部知子,前田吟,小川真由美。関東地区の最終回視聴率45.3%
1983.3.24,大阪府枚方市に「蔦屋書店枚方駅前店」開店。TSUTAYAの1号店
1983.4.1「アクエリアス」「カロリーメイト」「G-SHOCK」発売
1983.4.4「おしん」放送開始
1983.4.15,東京ディズニーランド開園
1983.5.28,ウィリアムズバーグサミット(第9回先進国首脳会議)
:ソ連に対抗してパーシング II準中距離弾道ミサイルを欧州に配備するというレーガン大統領を支持 “これらは1984年1月から西ドイツで最初に配備された。1985年後半までに合計108の発射機のヨーロッパへの配備が完了した”
1983.6.26,第13回参院選(改選126,うち50は拘束名簿式比例代表制)→自137(中曽根),社44(飛鳥田一雄),公27(竹入義勝),共14(不破哲三),民社11(佐々木良作),新自由クラブ民主連合3(田川誠一・田英夫),サラリーマン新党2(青木茂)など
:社会党は改選22議席を維持したが飛鳥田委員長が辞任,石橋政嗣委員長に
1983.6.27,MSX規格発表。秋から製品が出始める
1983.7.15,任天堂「ファミリーコンピュータ」発売
:MSXの苦戦が予感される
1983.7.16,角川映画『探偵物語』『時をかける少女』公開(併映)
1983.8.7,衆院旧京都2区の補欠選挙で谷垣禎一(父谷垣専一の地盤)と野中広務が共に初当選(2人擁立して当選させたのは総務局長小沢一郎の功績と言われる)。3位落選した有田光雄は有田芳生の父
1983.8.21,PL学園優勝(桑田・清原1年生)
1983.8.21,国民に人気があり,マルコス政権から睨まれていたフィリピンのベニグノ・アキノ(ニノイ・アキノ)が暗殺される(→1986.2.25)
:韓国人105名,米国人62名,日本人28名など269名が犠牲に
1983.10.9,ラングーン事件(ビルマのラングーンを訪れていた全斗煥大統領を狙って北朝鮮工作員が爆破テロを起こし徐錫俊副総理らが死亡)
1983.10.12,ロッキード事件の裁判で田中角栄元首相に懲役4年の有罪判決
:田中は控訴するが'87.7.29に棄却。上告するも'93.12.16に逝去
1983.11.28,衆院解散(田中判決解散)
1983.12.1,尾崎豊「15の夜」
1983.12.18,第37回衆院選(改選511)→自250(中曽根),社112(石橋政嗣),公58,民社38,共26,新自由8,社民連3など
:自民はロッキード事件の影響か286→250と単独過半数割れ。麻生太郎はこの回が唯一の落選。二階堂進幹事長辞任。公明党が33→58と躍進
:田中角栄は引退を拒否し新潟3区でトップ当選。野坂昭如は参院議員を辞め,同区で田中に挑戦したが落選(5人枠の中選挙区で6位)
:初当選は伊吹文明,大島理森,自見庄三郎(自見英子の父),中川昭一(中川一郎の子),二階俊博(和歌山県議会議員),町村信孝,北川正恭,神崎武法(そうはいかんざき),甘利明(新自由クラブ),鈴木宗男ら
1983.12.27,第二次中曽根内閣発足(-1984.11.1)外相安倍晋太郎。★森喜朗が文部相
:過半数割れを受けて新自由クラブと連立。★田川誠一(新自由クラブ初代代表河野洋平の従兄)が自治相に
(1983年の日経ダウ平均株価大納会終値:9893.82円)
1984.1.9(昭和59)日経ダウ平均株価が1万円を超える
1984.2.6,第101回特別国会(~8.8)
:1月開会予定の常会は前年11.28の田中解散により流れた
1984.2.9,ソ連のアンドロポフ書記長死去。後任はチェルネンコ
1984.3.18,グリコ・森永事件(江崎社長の誘拐)
1984.4.1,第三セクター(半官半民)の鉄道として三陸鉄道が開業(会社設立は1981)
1984.4.21,岡田有希子歌手デビュー(菊池桃子も同月デビュー)
1984.5,FM-77発売
1984.6.7,ロンドンサミット(第10回先進国首脳会議)
1984.6.25,SAS「ミス・ブランニュー・デイ」
1984.7.28,ロサンゼルス五輪開幕
:モスクワ五輪ボイコットの報復としてソ連など東側諸国が不参加(ユーゴスラビア,ルーマニアは参加)
:カール・ルイスが100m,200m,4×100mリレー,走り幅跳びで金メダル
1984.10,鈴木善幸らの二階堂擁立構想は失敗(田中角栄が反対)
“鈴木の狙いは,田中と中曽根の間を分断し,二階堂暫定政権の後に自派の宮澤を総裁にすることにあったと言われる”
1984.11.1,第二次中曽根第一次改造内閣(-1985.12.28)外相安倍晋太郎
1984.11.1,新紙幣発行。1万円札が聖徳太子から諭吉さんに
(1984年の日経ダウ平均株価大納会終値:11542.60円)
1985.1.21(昭和60)尾崎豊「卒業」
1985.1.25,第102回通常国会(~6.25)
1985.2.7,金丸信らにより田中派内に創政会設立(会長竹下登)。経世会の源流
:田中派121名の約3分の2である80名ほどになる勢いであったが,田中の猛烈な切り崩しにより竹下,小渕,小沢,橋龍,羽田,渡部,梶山,鳩山邦,野中ら40名となった
1985.2.21,斉藤由貴「卒業」(荒井由美「卒業写真」は1975年)
1985.3.10,ソ連のチェルネンコ書記長死去。後任はゴルバチョフ
1985.3.17,国際科学技術博覧会(つくば万博,つくば'85)開催(2033万人)
1985.3.19,イラン=イラク戦争の最中,トルコ航空の飛行機2機がイランのテヘランから日本人をトルコに救出
1985.4.1,電電公社がNTTに,専売公社がJTに民営化。フジ「夕やけニャンニャン」放送開始(-1987)
1985.4.6,桑田・清原のPL学園,準決勝で高知の伊野商に敗れる(伊野商は決勝で帝京を破り初優勝)
1985.5.2,ボンサミット(第11回先進国首脳会議)
1985.5.29,SAS「Bye Bye My Love」
1985.6.18,豊田商事会長刺殺事件
1985.7.5,おニャン子クラブ「セーラー服を脱がさないで」
1985.8.12,日航123便墜落事故(坂本九ら死者520名)
:石原慎太郎は議員時代も都知事になってからも毎年8.15に参拝
1985.9.11,夏目雅子,27歳で逝去
:ニューヨークのプラザホテルで米英仏・西独・日が会合。日本は竹下登蔵相。米はベイカー財務長官(後の国務長官)。1年で1ドル235円程度から150円程度に “とりわけ,アメリカの対日貿易赤字が顕著だったため,実質的に円高ドル安に誘導する内容だった。これがプラザ合意である”
1985.10.7,テレ朝「ニュースステーション」放送開始(-2004)(→1986.10.24)
1985.10.16,阪神タイガース38年ぶり優勝(11.2に日本一に)
1985.12.28,第二次中曽根第二次改造内閣(-1986.7.22)外相安倍晋太郎
:新自由クラブ(河野洋平が科技庁長官として入閣)と連立。田中派の★小沢一郎が自治相兼国家公安委員長,同派の★羽田孜が農水相
1985年末,米国が債務国に転落
:レーガン政権は強い米国を目指し赤字国に転落したが,他方ソ連は崩壊したという意味で米国の勝利
1986.1.27(昭和61)第104回通常国会(~5.22)
1986.2,馬場伸幸,中山太郎参院議員(のち衆院議員)の公設秘書に
1986.2.25,アキノ夫人ことコラソン・アキノがフィリピン大統領に(~1992.6.29)
:経常収支の不均衡(大幅な貿易黒字)の解決として内需拡大,市場開放,金融自由化を謳う
1986.4.7「ザ・トップテン」(3.31終了)の後継「歌のトップテン」スタート(~1990.3.26)
:前者が5年,後者が4年,計9年続いた
1986.4.8,岡田有希子逝去(18歳)
1986.5,第6代経団連会長に斎藤英四郎(新日鐵)(→1990.12)
1986.5.4,東京サミット(第12回先進国首脳会議)
1986.5.24,中曽根首相「衆議院解散は念頭にない」と発言
1986.6.2,第105回臨時国会。中曽根首相の「死んだふり解散」。史上2度目の衆参同日選挙に
:前回の衆院選は1983.12。任期を1年半残した形
1986.7.6,第38回衆院選(改選512)→自300(中曽根),社85(石橋政嗣),公56(竹入義勝),民社26(塚本三郎),共26(不破哲三),新自由6(河野洋平),社民連4(江田五月)など
:自民は250→300と大勝(追加公認含め304)。前回落選の麻生太郎はトップ当選で国政復帰(宏池会に所属)。社会党が109→85と大敗
:初当選は新井将敬,鳩山由紀夫,石破茂(鳥取全県区4位,29歳),武部勤,渡海紀三朗(渡海元三郎の子)など。鳩山由紀夫は自民党であった
1986.7.6,第14回参院選(改選126,うち50は拘束比例)→自143,社41,公24,共16,民社12,サラリーマン新党3(青木茂)など
:初当選は青木幹雄(竹下の黒子),中曽根弘文(康弘の子),西川きよしら
:源田実(1962-1986参院議員)はこれに出馬せず政界引退
1986.7.14,安倍晋太郎が清和会会長に(安倍派)(→1991.6.20)
1986.7.22,第三次中曽根内閣(-1987.11.6)外相倉成正(安倍晋太郎は自民党総務会長に)
:中曽根は選挙大勝の功績で総裁任期が1年延長
1986.9.2,日米半導体協定
“1981年,「64キロビットDRAM」のシェアでは,日本企業は合計70%を占め,米国の30%を大きく上回った” “1986年の半導体の売上ランキングにおいては,世界1位がNEC,2位が日立製作所,3位が東芝,4位がMotorola(モトローラ),5位がTI(テキサスインスツルメンツ),6位がPhilps,7位が富士通,8位が松下電器産業,9位が三菱電機,10位がIntel(インテル)となり,日本企業の多くの半導体が上位にランクインした”
→協定後もあまり変わらず “1989年の半導体の売上ランキングでは,世界1位がNEC,2位が東芝,3位が日立製作所,4位がMotorola(モトローラ),5位が富士通,6位がTI(テキサスインスツルメンツ),7位が三菱電機,8位がIntel(インテル),9位が松下電器産業,10位がPhilips,であった”→1991.6の第二次半導体協定へ
1986.10.1,神田沙也加誕生
1986.10.24【Mステ】テレ朝「ミュージックステーション」スタート
:「ニュースステーション」からの派生。タモリが司会になるのは1987.4.3から
1987.1.26(昭和62)第108回通常国会(~5.27)
1987.2,中曽根首相,売上税構想。支持率低下
1987.2,台湾に半導体メーカーのTSMC(台湾積体電路製造股份有限公司)設立
1987.4.12,都知事選で鈴木俊一3選。統一地方選で売上税構想のため自民敗北(翌月撤回)
1987.6.8,ヴェネツィアサミット(第13回先進国首脳会議)
1987.6.9,安倍晋三,森永製菓社長令嬢松崎昭恵(安倍昭恵)と挙式
:「経済」と同じく「経世済民」が由来。現在は平成研究会(茂木派)
:二階堂進,田中直紀(1969年より田中眞紀子の夫で角栄の女婿)らは田中派(木曜クラブ)に残留。“田中派と称されてきた木曜クラブは,以降,二階堂グループと呼ばれる”(1990年2月に解散)
1987.10.4,TBS「関口宏のサンデーモーニング」スタート(当初は北野大,ケント・ギルバートら)
1987.10.5,武見敬三,テレ朝「モーニングショー」(2015.9.28から羽鳥慎一が司会をしている番組)の司会に(~1988.10.7)
:飯干恵子がサブ司会の一人だった
1987.10.19,ブラックマンデー(株価大暴落):ダウ平均株価が2500程から2000程に
1987.10.20,中曽根裁定により竹下登が次期総裁に(無投票)
“事前に裁定文の1枚目が漏れ,そこに「国際関係が重要である」といった趣旨のことが書かれていたため,外交経験が少ない竹下ではなく,安倍・宮澤が有力なのではないかといった予想が飛び交った。時事通信は「安倍総理誕生」と誤報を打った。また,総裁選挙の可能性が取りざたされていた頃,『ニュースステーション』は独自の総裁選シミュレーションを行ない,安倍総務会長が竹下,宮澤を抑え第12代自民党総裁に選出すると予測したりした”
:この頃日本皇民党は街頭演説で「日本一金儲けの上手い竹下さん」とほめ殺しを行った(皇民党事件) “日本皇民党が竹下を攻撃した理由は,「闇将軍」とあだ名されていた元首相の田中角栄に叛旗を翻す形で竹下が経世会(竹下派)を旗揚げしたことに「義憤」を感じたためといわれる” “稲川会と皇民党との2度目の会談で,『竹下が田中邸に直接謝罪に行くこと』を条件にほめ殺しをやめることで両者の話し合いがついた”
1987.11.6【早大雄弁会/言語明瞭意味不明瞭】竹下登内閣発足。外相宇野宗佑
:竹下派七奉行:小渕恵三(この内閣で内閣官房長官),梶山静六(この内閣で自治相初入閣),橋本龍太郎(村山内閣で通産相),羽田孜(宮澤内閣で蔵相),渡部恒三(宮澤内閣で通産相),奥田敬和(宮澤内閣で運輸相),小沢一郎(この内閣で内閣官房副長官,第30代自民党幹事長)
1987.11.29【蜂谷真由美】大韓航空機爆破事件(金賢姫らによるテロ)
1988.1.25(昭和63)第112回通常国会(~5.25)
1988.2.6,浜田幸一,共産党宮本顕治に「人殺し」発言,12日に予算委員長を辞任
:生中継だったが騒然となり,NHKは「大草原の小さな家」に切り替えた
1988.2.25,盧泰愚が韓国大統領に就任(-1993.2.24)全斗煥→盧泰愚→金泳三
1988.3.13,青函トンネル開業(青函連絡船もこの日が最後の運行)
1988.3.18,東京ドーム開場
1988.4.25【一億円お金配り】梶山静六自治相が「ふるさと創生事業」発案
1988.6.18,リクルート事件発覚
:子会社であるリクルートコスモスの未公開株が賄賂として譲渡された
1988.7.19,トロントサミット(第14回先進国首脳会議)
1988.7.19,第113回国会(臨時会)召集(~12.28)
:消費税法が成立(12.24)した国会
1988.9.2,武村正義・鳩山由紀夫・石破茂・渡海紀三朗ら「ユートピア政治研究会」結成(新党さきがけの母体)
1988.9.17,ソウル五輪開幕(招致合戦で敗れたのは名古屋)
:ソ連が55,東独が37(うちオットーが6個),米国が36,韓国が12の金メダル。日本は斉藤仁,鈴木大地,小林孝至,佐藤満の4個のほか小谷実可子が銅など
1988.11.16,Wink「愛が止まらない ~Turn it into love~」
1988.12.12「ちびくろサンボ」絶版
1988.12.24,消費税法成立(公布12.30→1989.4.1)
:牛歩戦術の様子が以下で見られる
1988.12.27,竹下改造内閣発足。外相宇野宗佑。★小泉純一郎が厚相
1989.1.1,昭和最後の年,昭和64年
1989.1.7,昭和天皇(裕仁)崩御。新天皇(明仁)即位。小渕官房長官が新元号「平成」を発表
1989.1.8,平成元年始まる
1989.1.20,米国共和党ブッシュ政権発足(-1993.1.20)
1989.2.10,第114回通常国会(~6.22)
1989.2.26,オフコース解散
1989.2.29,Personz「Dear Friends」
1989.3.17,アジア・太平洋博覧会(よかトピア)開催
1989.4.1,消費税法により消費税導入(国税3%+地方税0%=3%)
1989.4.1,仙台市が政令指定都市に(広島市に続き11番目)
1989.4.20,朝日新聞珊瑚記事捏造事件(KY事件)
“編集局次長は「「K・Y」の文字は朝日のカメラマンによる自作自演の疑いが非常に濃い」とするダイビング組合の主張を信用せざるを得ないと判断。一方,本田は「前からあった傷をなぞっただけだ」との主張を変えなかったが,朝日は「カメラマンが無傷の状態であったサンゴに文字を刻み付けた」と結論づけた”
1989.4.21,任天堂「ゲームボーイ」発売。プリンセス プリンセス「Diamonds」(1989年度オリコン年間1位)
1989.4.25,竹下首相,内閣総辞職表明(リクルート事件の影響)
:中曽根元首相も一時離党(1991復党)
1989.4.26,青木伊平(竹下登の金庫番)自殺
1989.6,舛添要一,東大教員を退官
:宇野は学徒出陣から2年間のシベリア抑留を経験し体験談は映画化もされた。田中角栄内閣で防衛庁長官,竹下内閣で外相を務めた
1989.6.3,イラン最高指導者ホメイニ師逝去。翌日ハメネイ師が最高指導者に
1989.6.4,六四天安門事件
:宇野首相・三塚外相は第三次円借款は凍結したが,中国を孤立させない政策を取った。中曽根,鈴木善幸,竹下も対中制裁慎重派だった。
1989.6.6,宇野首相,神楽坂の芸妓との愛人スキャンダルを暴露される
1989.6.23,スポーツ平和党結成(~2006.6.18)
1989.7.1,プリンセス プリンセス「世界でいちばん熱い夏」(Diamonds に次ぎ1989年度オリコン年間2位)
1989.7.14,アルシュサミット(第15回先進国首脳会議)(パリ郊外)
1989.7.23【山が動いた】第15回参院選(改選126,うち50は拘束比例)→自109(宇野),社66(土井たか子),公21(石田幸四朗),共14(不破哲三),連合の会11(豊田稔),民社8(永末英一)など
:消費税導入,リクルート事件,首相スキャンダルの影響で自は142→109の大敗,社は42→66の大勝(マドンナ旋風)
:自民は109/252で過半数割れ。当時は自公連立はなく,参院は土井たか子を首班指名(ねじれ国会)
1989.7.24,投開票翌日,宇野首相退陣表明。「明鏡止水の心境」という名言を残した
1989.7.29「魔女の宅急便」公開
1989.8.8,自民党総裁選挙。海部俊樹279,林義郎120,石原慎太郎48
1989.8.10【早大雄弁会】海部俊樹内閣発足。外相中山太郎,環境相★森山真弓
:昭和6年生まれ。初めての昭和生まれの首相。参院で自民が負けてねじれ国会となっており衆院が海部,参院が土井を首班指名
:小沢一郎が47歳で自民党幹事長に。海部が属する河本派は中小派閥であり,経世会の金丸・竹下・小沢の
1989.8.25,環境相だった森山真弓が女性初の内閣官房長官に
1989.9.4,貿易摩擦解消のための日米構造協議始まる(~1990.6.25の第5回まで)
1989.11.9,中国共産党中央軍事委員会主席が鄧小平から江沢民に。ベルリンの壁崩壊
1989.12.3,ブッシュ大統領とゴルバチョフ書記長がマルタ会談で冷戦終結宣言
1989.12.29,日経平均株価が史上最高値の38957.44円を付ける(バブル景気)
1990.1.5(平成2)森山真弓官房長官が日本相撲協会に総理大臣杯の授与を拒否される
1990.1.13-14,初めてのセンター試験(それまでは共通一次試験)
1990.1.18,長崎市長本島等(1922-2014)右翼に銃撃され負傷
:昭和天皇の戦争責任発言を右翼が攻撃していた
1990.1.22,第117回通常国会(~1.24「消費税解散」)
1990.2.18【消費税解散】第39回衆院選(改選512)→自275(海部),社136(土井),公45(石田幸四郎),共16(不破哲三),民社14(永末英一),社民連4(江田五月),進歩党1(田川誠一)など
:自は295→275と減らすも安定多数。社が83→136と躍進(消費税の影響か)するも,公は9,共・民社は10-11減らす。自民が参院選ほどの大敗とならなかったのはソ連・東欧における民主化の動き,バブル経済などが影響か
:初当選は中谷元(高知全県区2位:1984年まで陸自二等陸尉),細田博之,岡田克也,福田康夫,小林興起,輿石東,仙谷由人,山口那津男,石原伸晃ら
1990.2.28,第二次海部内閣発足。外相中山太郎
1990.3.2,第118回特別国会(~6.26)
1990.4.1【花ずきんちゃん】🌷国際花と緑の博覧会(花博)が大阪の鶴見緑地で開催(2312万人)
1990.4.8,米米CLUB「浪漫飛行」(1990年度オリコン年間2位/1位はおどるポンポコリン)
1990.6【1.57ショック】1989年の合計特殊出生率が1966年丙午の1.58を下回る1.57であったことが判明
1990.6.29,礼宮と川嶋紀子の結婚の儀
1990.7,海部首相,天安門事件で凍結していた円借款の再開を表明
:イラク(フセイン大統領)はイラン=イラク戦争で戦時債務を抱え,原油値上げをOPECに諮ったが聞き入れられなかった。またサウジアラビアやクウェートは石油を増産して安く売り捌いたため不満を持った
1990.8.30,公定歩合,年6%に引き上げ
1990.10.3,東西ドイツ統一
1990.12.10,第120回通常国会(~1991.5.8)
1990.12,第7代経団連会長に平岩外四(東京電力)(→1994.5)
1991.1.7(平成3)「東京ラブストーリー」放送開始(→2.6)
1991.2.6,小田和正「ラブ・ストーリーは突然に」(1991年度オリコン年間1位)
1991.3~1993.10は第一次平成不況(バブル崩壊,第1次複合不況)
1991.3.21,尾崎豊「I LOVE YOU」
1991.4.1,新しい東京都庁舎開庁
1991.4.7,都知事選で鈴木俊一4選。自民党は元NHK磯村尚徳を擁立して敗れ,小沢一郎は幹事長を辞任(経世会会長代行に)。幹事長は小渕恵三に
1991.4.16,ゴルバチョフ大統領初来日
1991.5.15,ジュリアナ東京オープン(-1994.8.31)。安倍晋太郎逝去
:安倍派四天王:森喜朗,塩川正十郎(小泉内閣で財務相),加藤六月(三塚との三六戦争に敗れ新生党に→羽田内閣で農水相),三塚博(第2次橋本内閣で蔵相)
1991.6.3,雲仙普賢岳火砕流災害(死者・不明者43名)
1991.6,第二次日米半導体協定で「日本の半導体市場における外国製のシェアを20%以上にする」という「数値目標」が盛り込まれる
→1993年には米国の半導体が日本を抜き,1998年には韓国の半導体の売り上げが日本と並んだ。2020年の日本の半導体シェアは僅か6%,米国は55%である(韓国は21%)
1991.6.20,三塚博が清和会会長に(三塚派)(→1994.11.24)
:安倍派四天王の森喜朗が三塚を支持
1991.9,海部おろし始まる
1991.9.9,SMAP,CDデビュー(結成は1988)
1991.10.5,海部首相退陣(総裁選不出馬)表明
1991.10.27,自民党総裁選。宮澤喜一285,渡辺美智雄120,三塚博87
1991.11.5【宏池会】宮澤喜一内閣発足。外相渡辺美智雄
1991.12.11,橋本龍太郎の弟橋本大二郎が高知県知事に当選(-2007)
1991.12.25,ソ連崩壊
1992.1.24(平成4)第123回通常国会(~6.21)
1992.2.7,マーストリヒト条約調印(EU創設を決定🇪🇺)
1992.2.14,東京佐川急便事件。渡辺広康社長ら特別背任で逮捕
1992.2.28,国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)活動開始(~1993.9.24):明石康が特別代表に
1992.3.14,新幹線「のぞみ」運転開始
1992.4.1,千葉市が政令指定都市に(広島市,仙台市に続き12番目)
1992.4.25,尾崎豊逝去
1992.5.22,前熊本県知事(1983-1991)細川護煕,日本新党結党。当初は細川1人で,元参院議員(1971-1983)であったもののその時は議員でなかった
“政権交代の可能性がほとんどなくなっていた保守政党と革新政党の二大政党制(1.5大政党制)を捨て,政権交代可能な保守の二大政党制を打ち立てるべきだと訴えた”
1992.5.27,B'z「BLOWIN'」(1992年度オリコン年間3位/1位は米米CLUB「君がいるだけで」)
↓B'z公式YouTubeより
1992.6.19,PKO協力法公布(→同年9.17を参照)
1992.7.1,山形新幹線開業(福島~山形)(→1999.12.4)
1992.7.25,バルセロナ五輪
:岩崎恭子が14歳で200m平泳ぎ金メダル🥇
1992.7.26,第16回参院選(改選126,うち50は拘束比例)→自107(宮沢),社71(田辺誠),公24(石田幸四郎),共11(不破哲三),連合の会11(星川保松),民社9(大内啓伍),日本新党4(細川護煕/全員比例当選)など
:争点はPKO協力法の是非。自民党は単独過半数ならず,次の衆院選で自民党が負ければ政権交代の危機に。そしてそれは実現した(1993.8.9)
:社会党は前回改選22に対し46議席の躍進であったが今回は改選22に対し22議席と退潮
:初当選は浜四津敏子,小池百合子(日本新党で細川に次ぎ比例名簿順位2位),江本孟紀,森田健作ら。高市早苗は奈良選挙区2位(16万票)で落選
1992.8.25,桜田淳子,山崎浩子ら,統一教会の合同結婚式に参加(翌年4.21も参照)
1992.9.17【PKO】自衛隊をカンボジアに派遣(~1993.9.26)
1992.9.28,金丸信,政治資金規制法違反で略式起訴(東京佐川急便から5億円の献金を受けたとされる)。5万円の罰金で終わりそうになったため青島幸男参議院議員がハンスト
1992.10.14,東京佐川急便事件に関して金丸信が議員辞職届(→10.28)
1992.10.23-28【日中国交正常化20周年】天皇訪中(史上初)
1992.10.28,竹下派会長後継に小渕恵三が選出,小渕派に(→12.18)
1992.10.30「真・女神転生」発売
1992.11.1,ソニーがMDプレイヤーを発売
1992.12.12,宮澤改造内閣発足。外相渡辺美智雄。林義郎(林芳正の父)が蔵相に
1992.12.18,改革フォーラム21が小渕派を離脱,羽田派(羽田・小沢派)に
“これにより竹下派は党内第四派閥の小渕派と,第五派閥の羽田派に分裂した”
1993.1.13(平成5)「振り返れば奴がいる」放送開始
1993.1.22,第126回通常国会(~6.18「嘘つき解散」)
1993.2.10,横山輝一「Lovin' You」
1993.2.25,韓国金泳三政権発足(-1998.2.24)盧泰愚→金泳三→金大中
1993.3.3,CHAGE&ASKA「YAH YAH YAH」(1993年度オリコン年間1位)
1993.3.6,金丸信,脱税容疑で逮捕
1993.4,松川るい外務省入省(~2016)
1993.4.1,飯干晃一『われら父親は闘う ー 娘・景子を誘い込んだ統一教会の正体』発売
1993.4.7,健康不安のあった渡辺美智雄が外相辞任(翌日武藤嘉文が就任)
1993.4.8,UNTAC下カンボジアで国連ボランティア活動中だった中田厚仁さん殺害される
1993.4.12,フジ月9「ひとつ屋根の下」スタート
1993.4.23,天皇皇后両陛下の沖縄行幸(昭和天皇は果たせなかった)
1993.5.4,UNTAC下カンボジアで高田晴行警部補が襲撃され殉職
1993.5.8,八景島シーパラダイス開園
1993.5.11【PKO】自衛隊をモザンビークへ派遣(~1995.1.8)
1993.5.12,Personz「Future Star」
1993.5.18,Windows 3.1 日本語版発売
1993.5.31,宮澤首相,政治改革をやる,嘘はつかないと発言
:しかし党執行部に反対が多く法案提出を断念→6.18
1993.6.9,浩宮と小和田雅子の結婚の儀
1993.6.18,嘘つき解散。小渕派を優遇する宮澤首相への反発から羽田派が造反し,内閣不信任案が255−220で可決(1980年のハプニング解散以来)
:賛成を投じた羽田派議員:羽田孜,小沢一郎,渡部恒三,二階俊博,船田元経企庁長官,中島衛科技庁長官,岡田克也ら34人
1993.6.21,新党さきがけ結党(武村正義,田中秀征,鳩山由紀夫,園田博之,渡海紀三朗ら10名)
1993.6.23,羽田派,新生党結党
1993.6.27,東京都議会選挙で日本新党が20名当選して自公に次ぐ第3勢力に
1993.7,ハマコー(浜田幸一)政界引退→1993.7.18
1993.7.18,第40回衆院選(改選511,最後の中選挙区制)→自223(宮沢),社70(山花貞夫),新生党55(羽田孜),公51(石田幸四郎),日本新党35(細川護煕),共15(不破哲三),民社15(大内啓伍),さきがけ13(武村正義),社民連4(江田五月)など
:日本新党の細川,小池は参から衆に回って出馬する作戦を取り細川は熊本1区でトップ,小池は兵庫2区で土井に次ぎ2位当選
:社会党は前回選挙136から70と66も減らす。増えたのは日本新党0→35,新生党36→55など
:初当選は塩崎恭久,林
:安倍晋三は三塚派(清和研),岸田文雄は宏池会に。石破茂は自民党を離党し新生党から当選
:高市も田中も無所属であり,この時点で自民党女性衆院議員は野田聖子だけだった。のち田中が入党。高市の入党は1996年
1993.7.30,自民党総裁選。河野洋平(宏池会宮澤派)208。渡辺美智雄159
1993.8.4,河野洋平官房長官による河野談話(慰安婦問題に関しておわびと反省)
1993.8.9,細川連立内閣発足。55年体制の崩壊。外相羽田孜
:日本新党(首相),社会党(運輸・建設・自治),新生党(外務・大蔵・農水・通産・防衛庁),公明党(郵政・労働),民社党(厚生),さきがけ(官房長官),社民連(科技庁)など。共産党を除く野党が結集して自民党政権を阻んだ(非自民・非共産連立政権)
:“細川は自民党との連立を検討していたが、小沢から首相就任を打診されたことで非自民・非共産勢力へと傾斜”
:新生党二階俊博は運輸政務次官(影の運輸大臣),小池百合子は総務政務次官に
:新生党小沢一郎と公明党市川雄一の結びつきは「一一ライン」と呼ばれた。民社党米沢隆を入れて「ワンワンライス」という言い方も
1993.8.10,細川首相,侵略戦争発言
1993.8.11【あくまで悪魔】悪魔ちゃん命名騒動
1983.8.20,イスラエル(ラビン首相)とPLO(アラファト議長)の間でオスロ合意
:イスラエル国家とパレスチナ自治政府の共存。1994年パレスチナ自治政府設立。アラファトは大統領に。ラビンは1995年暗殺された
1993.8.29,角川春樹逮捕(麻薬取締法違反)
1993.9,冷夏による米不足により細川内閣,米の輸入を発表
1993.9.21,椿事件(反自民政権をメディアで応援しよう)
1993.10.28,ドーハの悲劇(1994W杯出場を逃す)
:イラクに2-2で引き分け,勝ち点差ではなく得失差で出場を逃した
1993.11.1,EU発足🇪🇺
1993.12.6,浜田幸一『日本をダメにした九人の政治家』出版(九人は中曽根,竹下,三塚,宮沢,小沢,梶山,社会党田辺誠,共産党宮本顕治,浜田自身)
1993.12.9,法隆寺,姫路城,屋久島,白神山地が世界遺産登録
1994.1.29(平成6)政治改革法案成立で衆院に小選挙区比例代表並立制導入(1996年の第41回から)
1994.2.3,細川首相,福祉を充実させる代わりに消費税率を3%から7%に上げる国民福祉税構想を突然発表(小沢一郎と大蔵事務次官斎藤次郎の発案という),白紙撤回に追い込まれる
:その後小沢一郎(一一ライン)と武村正義の対立や,細川の佐川急便からの借入金問題で政権運営が困難に
1994.2.8,第129回通常国会(~6.29)
1994.4,自由党(柿澤自由党)結党(1998年の小沢自由党とは別)
:高市早苗(衆)は無所属から政策集団「リベラルズ」を経てこの自由党に参加
1994.4.6,日テレ「家なき子」スタート(安達祐実。最終回視聴率37.2%)
1994.4.8,細川首相退陣表明。4.25,細川内閣総辞職
1994.4.28,羽田孜連立内閣発足。外相★柿澤弘治(柿澤自由党)
:衆院で70名ほどを擁した社会党が連立から抜け(社会党を除く統一会派「改新」を作ったことに反発),新生党,公明党,民社党,日本新党,柿澤自由党らの少数与党に
1994.5,第8代経団連会長に豊田章一郎(豊田佐吉の孫)(→1998.5)
1994.6.1,Mr.Children「innocent world」(1994年度オリコン年間1位)
↓Mr.Children公式YouTubeより
1994.6.25,羽田内閣不信任決議案提出。自・社の賛成で可決が必至に。羽田は衆院解散を選ばず(選挙をやっても自・社で過半数は取るだろうから)決議前に内閣総辞職した。羽田政権は2カ月余りで終わる
1994.6.27,松本サリン事件。通報者の河野義行氏が疑われる報道被害を受ける
:★野中広務が自治相・国家公安委員長。国家公安委員長として対オウム強硬姿勢。1995年には河野義行氏に直接謝罪
1994.7.20,村山首相,自衛隊合憲表明
1994.7,自由改革連合結成(海部代表,鳩山邦,柿澤自由党の柿澤弘治・新井将敬・高市早苗ら)
1994.8,林芳正,父義郎の秘書に
1994.10,金利自由化。銀行の金利が公定歩合に縛られなくなる
1994.11.22「セガサターン」発売
1994.11.24,清和会の後身「21世紀を考える会・新政策研究会」結成(三塚派)
:自民党下野を機に清和会は一旦解散していた
:経世会も1994年に平成政治研究会に改称。下野を機に派閥解消の機運が高まり,政策集団へと移行。1995年に平成研究会に
1994.11.25,消費税を1997年に5%に上げる法案が成立
1994.12.3「PlayStation」発売
1994.12.10,新進党結党(新生党,公明党,民社党,日本新党などが結集。高市早苗,小池百合子も参加)
:小沢は「保守党」を希望するが反対される。初代党首は海部俊樹
:公明党は一旦消滅(地方議員は「公明」に残る)
1995.1.20,第132回通常国会(~6.18)
1995.2.25,城達也逝去
1995.3.20,地下鉄サリン事件
1995.3.30,國松警察庁長官狙撃事件
1995.4.5,スピッツ「ロビンソン」
1995.4.9,地方統一選。都知事選で青島幸男,大阪府知事選で横山ノック,岩手県知事選で増田寛也,三重県知事選で北川正恭が選出(-1999)
1995.4.19,1ドル=79.75円を記録する円高
1995.5.31,青島都知事,公約通り都市博の中止を決定
:都議会は5.23に100対23で開催を決議していた
1995.5,河本派「新政策研究会」が「番町政策研究所」(番町研)に改称
1995.7.23,第17回参院選(改選126,うち50は拘束比例)→自111(河野洋平),新進党57(海部俊樹),社37(村山),共14(不破哲三),公11(藤井富雄),新党さきがけ3(武村正義)など
:社会党は改選41に対し16と大敗
:初当選は山本一太,林芳正(林義郎の子),武見敬三(日本医師会会長を務めた武見太郎の子),松あきら(元宝塚女優),筆坂秀世,馳浩ら
1995.8.9,globe「Feel Like Dance」
1995.8.10,Mr.Children「シーソーゲーム~勇敢な恋の歌~」
1995.8.15,村山談話(戦後50周年の終戦記念日にあたって)
“実はバランスの取れた「談話」案があったのに,社会党左派の(中略)官房長官が,リベラルな外務官僚(中略)を使って,左寄りの内容に変えたというのが真相のようだ。ただ悪いのは(中略)社会党との連立政権を維持したくて,この左寄りの談話を受け入れた自民党自身だ(平井文夫)”
1995.9.22,自民党総裁選。橋本龍太郎304。小泉純一郎87
:「KK戦争」で河野と対立した加藤紘一が橋本を支持
1995.10.13,TBS「未成年」スタート(いしだ壱成,桜井幸子,浜崎あゆみ)
1995.11.23,Windows 95 日本語版発売
1995.12.28,新進党第2代党首に小沢一郎(党首選で羽田孜を下す)
:羽田孜は1996.12.26に離党
1996.1.5(平成8)村山首相,突然の退陣表明
1996.1.11,村山内閣総辞職。橋本龍太郎自社さ政権発足。外相池田行彦
:池田行彦(粟根行彦)は池田勇人の次女の夫となり池田姓を名乗った
:★長尾立子が民間から女性初の法相に
1996.1.22【住専国会】第132回通常国会(~6.19)
“住宅金融専門会社の不良債権処理のために6850億円の公的資金の投入を審議したため,住専国会の通称で知られる”
1996.2.1【PKO】UNDOFの為に自衛隊をゴラン高原へ派遣(~2013.1.15)
1996.2.16,薬害エイズ事件で菅直人厚生相が原告団に謝罪
1996.3.6,華原朋美「I'm proud」
1996.7.19,アトランタ五輪
↓カレリンはグレコローマン130kg級で'88, '92, '96 と3連覇
1996.8.15,菅直人厚生相によるカイワレパフォーマンス(8.19に横山ノック府知事による同様のパフォーマンス)
1996.9.17,ドジャースの野茂英雄がノーヒットノーラン達成
1996.9.29,旧民主党結党(鳩山兄弟,菅直人ら57名)
:弟鳩山邦の要求で「自社さ」にいた武村正義は「排除」され参加できず
1996.10.20,第41回衆院選(改選500;300対200の小選挙区比例代表制導入)→自239(橋龍),新進党156(小沢),民52(菅/鳩山),共26(不破哲三),社15(土井たか子),新党さきがけ2(井出正一)など
:自民党は28増の239議席(橋龍人気)。新進党は4減,社民党は30→15と半減
:初当選は大村秀章,棚橋泰文,菅義偉,田村憲久(田村真子の父),渡辺喜美,河野太郎,新藤義孝,下村博文,下地幹郎,平沢勝栄(東大法→警察庁),土屋品子(土屋義彦の娘:無所属→2001自民党),達増拓也,原口一博(新進党),松浪健四郎,安住淳,渡辺周,辻元清美,平野博文ら
:高市早苗は奈良1区,小池百合子は兵庫6区で共に新進党から出馬して自民候補を破り当選/石破茂は新進党を離党し無所属で当選
:新進党が自民党に敗北したことで離党の動き(高市の離党,12.26の太陽党結成)
1996.11.7,第二次橋本内閣発足。外相池田行彦
“実際は社民党・新党さきがけが閣外から橋本内閣に協力していたので,3党の連立の枠組みはまだあった”
1996.11.21,ラルク アン シエル「Lies and Truth」
1996.11.23,バンダイ「たまごっち」発売
1996.12.17,ペルーの日本大使館がテログループに占拠される。当初の人質はフジモリ大統領の母を含め600人(やがて女性は全員解放→1997.4.22)
1996.12.26,小沢一郎と対立していた羽田孜が新進党を離党し太陽党結成(→1998.1.23)
1997.1.20,第140回通常国会(~6.18)
1997.1.30(平成9)「新しい歴史教科書をつくる会」発足(西尾幹二,藤岡信勝,小林よしのり)
1997.2.9,安室奈美恵「CAN YOU CELEBRATE?」
1997.2.27,教科書議連発足(中川昭一会長,安倍晋三事務局長)「つくる会」を後押し
1997.3.22,秋田新幹線(盛岡~秋田,こまち東京~秋田)開業
1997.3,石破茂(第41回衆院選前に新進党を離党し無所属で当選していた),自民党に復党
1997.4.1,消費税が3%から5%に(国税4%+地方税1%)
:1997.6~1999.1は第二次平成不況
“私は平成9年から平成10年にかけて緊縮財政をやり,国民に迷惑をかけた。私の友人も自殺した。本当に国民に申し訳なかった。これを深くお詫びしたい(橋本龍太郎)”
1997.4.1,家電業界のダイイチ,デオデオに社名変更(エディオンの前身)
1997.4.14【ギロチン】諫早湾干拓事業で設けられていた潮受け堤防の水門が閉じられる
1997.4.22,ペルーの特殊部隊突入により日本大使館占拠事件終結
1997.7頃,タイでアジア通貨危機始まる(→11.21)
1997.7.12「もののけ姫」公開。それまでの日本での興行収入1位のE.T(135億円)を抜き200億円に(→1997.12.19)
:現在は「鬼滅の刃 無限列車編」400億円が1位
1997.8.31,ダイアナ元イギリス王太子妃が事故死
1997.9.11,自民党総裁選は無投票で橋本龍太郎選出。第二次橋本改造内閣発足。外相小渕恵三。★町村信孝が文部相,★谷垣禎一が科技庁長官
1997.9.22-26,日本共産党第21回党大会で宮本顕治引退
1997.10.1,北陸新幹線高崎~長野間開業
1997.11.4,三洋証券経営破綻
1997.11.21,アジア通貨危機で韓国がIMFに救済を要請
1997.11.24,山一證券,廃業を発表
1997.12.11,COP3にて京都議定書採択
:1990年に対し,二酸化炭素排出をEUは92%,米は93%,日は94%に抑える目標
1997.12.19,金大中が韓国大統領選に勝利(1998.2.25-2003.2.24)
1997.12.19「タイタニック」日本公開。日本での興行収入260億円で「もののけ姫」を抜く
1997.12.20,伊丹十三死去
1997.12.27,新進党解散決定(手続き上の解党は12.31)
:ある意味野合であり,まとまりきらなかった
:元公明党議員は「新党平和」(衆議院)「黎明クラブ」(参議院)を経て公明党を再結成
1998.1.1(平成10)「国民の声」(新進党分裂後の新党の一つ)結党(結党大会は1.4):岡田克也,原口一博ら
1998.1.4,神崎武法が「新党平和」代表に。1.18,浜四津敏子が「公明」代表に(→11.7)
1998.1.6,自由党(小沢自由党)結党(結党時54議員)
1998.1.12,第142回通常国会(~6.18)
1998.1.18~4.27,大蔵省接待汚職事件
:大蔵省官僚・銀行・証券会社の便宜供与・贈収賄事件。俗に「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」
1998.1.23,新進党から分かれてできた太陽党,国民の声,フロム・ファイブが合流し民政党結党(→同年4月に民主党に合流)
1998.2.7,長野五輪(~2.22)
1998.2.29,証券スキャンダルに悩まされていた自民党新井将敬が自殺
1998.4.27(旧)民主党に民政党などが合流,(新)民主党に(131議員)
1998.5.2,hide逝去
1998.5,社さとの連立を完全に解消
1998.5,第9代経団連会長に今井敬(新日鐵)(→2002.5)
1998.6.14,サッカーW杯フランス大会に日本初出場。アルゼンチン,クロアチア,ジャマイカに敗れグループH最下位
1998.6.28,北海道拓殖銀行,解散決議
1998.7.8,千葉ロッテマリーンズ18連敗達成
1998.7.12,第18回参院選(改選126,うち50は拘束比例)→自103(橋龍),民主党47(菅直人),共23(不破哲三),公22(浜四津敏子),社13(土井たか子),自由党12(小沢),新党さきがけ3(武村正義)など
:この選挙から投票受付が18時までから20時までに延長。投票率は58.84%。前回参院選は44.52%
:初当選は沢たまき,福山哲郎,中村敦夫,高橋紀世子(三木武夫の長女)ら
:民主党,共産党が伸び,自民党は第二次平成不況などもあり,改選60に対し44と敗北,橋本首相は退陣を決意
:2人区の京都選挙区では1位民主福山哲郎,2位共産西山登紀子で,自民が敗れた
1998.7.24,自民党総裁選。小渕恵三(凡人)225,梶山静六(軍人)102,小泉純一郎(変人)84(田中眞紀子評)
1998.7.25,Windows 98 日本語版発売
1998.7.30【早大雄弁会】小渕恵三政権発足。外相高村正彦,蔵相宮澤喜一
:2024年現在,最後の自民党単独政権(小渕内閣の途中から自自→自自公連立,次の森内閣は自公保連立)
:★中川昭一が農水相(1978年に設置された農水相初代は中川一郎であった),★野田聖子が37歳で郵政相。高市早苗は通産政務次官。野中広務が内閣官房長官
:小渕恵三の次女優子,TBSを退社し父の私設秘書に
1998.8.7【金融国会】第143回臨時国会(~10.16)
:長銀(日本長期信用銀行)の経営危機。10.12金融再生法,10.16早期健全化法が可決成立
1998.9,三塚派から亀井系が離脱(派閥内で森系と対立していた)
1998.11.7「新党平和」と「公明」が合流し公明党再結成(神崎武法代表)
1998.11,公明党が主張する「地域振興券」を受け入れ。この頃より公明党に接近
1998.12.9,宇多田ヒカル「Automatic」
1998.12.11,森喜朗が新政策研究会(清和会の後身)の会長に(森派)
1998.12.15,新政策研究会が「清和政策研究会」に(森派)
1998.12.22,加藤紘一が宏池会会長に。これに反発した河野洋平(KK戦争),麻生太郎ら宏池会を脱退(→1999.1)
1999.1(平成11)宏池会を出た河野・麻生ら大勇会(河野グループ)を旗揚げ
“反加藤という人間関係で集まって成立した派閥である。そのため,領袖は親中派でハト派の河野であるものの,派のメンバーは麻生を筆頭に親台湾派のタカ派議員がほとんど”
1999.1.13,トヨタヴィッツ発売(2020.2.10からヤリスに改名)
1999.1.19,第145回通常国会(~8.13)
:周辺事態法,通信傍受法,国旗・国歌法が成立した国会
1999.2.28,広島県立高校校長が,国歌斉唱・国旗掲揚の問題で,文部省の通達と反対する教職員の板挟みとなり,苦悩の末自殺(→1999.8.13)
1999.3.3,日銀のゼロ金利政策スタート
1999.3.23,能登半島沖不審船事件
1999.4.11,東京15区補選で木村勉が初当選(柿澤弘治が都知事選出馬のため辞職したため)。長女木村弥生が公設秘書に
1999.4.11,都知事選(前職青島幸男)。石原慎太郎166万(~2012),鳩山邦夫85万,舛添要一83.6万,明石康69万,三上満66万,柿澤弘治63万,ドクター中松10万
:自民党は明石康を推薦。自民都連が石原,舛添,柿澤に分かれる
:石原は1975年(42歳)に中曽根幹事長の要請で都知事選に立候補し260万対230万で美濃部亮吉に敗れている
1999.4.20,コロンバイン高校銃乱射事件
1999.5.28,周辺事態法公布(成立は5.24)
:2016年に重要影響事態法となった
1999.7.14,鈴木あみ「BE TOGETHER」
1999.7.30,国会審議活性化法公布・施行(党首討論など)
:党首討論は“小沢一郎が生みの親とも言われ,小沢が自由民主党幹事長時代より党首討論を国会でも設置しようと,前向きに動いていた。イギリス議会におけるクエスチョンタイムをモデルにして,1999年7月に国家基本政策委員会を設置することを規定した国会審議活性化法が成立し”(→11.10)
1999.8.13,国旗・国歌法公布・施行(成立8.9)
:背景の一つに文部省通達と現場教職員の板挟みになった県立高校長の自殺あり
:自民・自由・公明が賛成。民主は党議拘束を外し賛否は5分5分(賛成は鳩山由,岡田克也,安住淳ら。反対は原口一博,海江田万里,河村たかしら)
1999.8.18,通信傍受法公布(成立8.12,施行2000.8.15)
:憲法21条2項は「通信の秘密は、これを侵してはならない」と定めているが,特定の組織犯罪に限って傍受を可能にした
1999.9.21,自民党総裁選。小渕恵三350,加藤紘一113,山崎拓51
1999.9.30,東海村JCO臨界事故。事故被曝により2名死亡,1名負傷
:公明党が参加し自自公連立政権に。自由党から★二階俊博運輸相,公明党から総務庁長官が入閣。★青木幹雄が内閣官房長官兼沖縄開発庁長官
1999.10.29,第146回臨時国会(~12.15)
1999.11.10,日本初の党首討論(小渕 v 鳩山→不破→土井)
1999.12.4,山形新幹線の山形~新庄間が開通
1999.12.8,倉木麻衣「Love, Day After Tomorrow」(作曲大野愛果)
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