★1576年(伊東崩れ)~1587年(秀吉の九州征伐)を加筆しました!!
「NHK大河ドラマ20作品戦国武将俳優比較表」をまとめて残念に思ったのは,九州・四国の武将が少なすぎる点です。東北には「独眼竜政宗」(1987年)があり(といっても南部や安東は全く出てきませんが),中国には「毛利元就」(1997年)があるのですが,九州・四国の大名が主人公になる大河ドラマがないんです。島津なんて関ヶ原の戦いの「島津の退き口」でしか出てきません。大友・龍造寺・島津がしのぎを削った「九州三国志」をテーマにした大河ドラマはないんですね。そこで「武田氏・真田氏年表」の次は「九州三国志年表」を作っていきます。
⭐️第一弾として1574年の島津義久による大隅統一まで作成しました
1526(大永6)島津氏宗家第14代当主島津忠兼(勝久),島津貴久(分家である相州家島津忠良の子)を養子に迎えて家督を譲り,隠居
※別の分家・薩州家の島津実久はこれを認めず,しばらく家督争いが続く
1529(享禄2).2.15 龍造寺周家と慶誾尼(けいぎんに)に🐻龍造寺隆信誕生(→7 歳で出家)
※龍造寺周家は大宰少弐の少弐資元・冬尚父子の家臣。系譜:龍造寺家兼-家純-周家-隆信
※龍造寺周家は分家の水ヶ江龍造寺氏。本家の村中龍造寺氏当主は龍造寺胤栄(→1548.3.22)
※慶誾尼は本家当主龍造寺胤栄の従姉
1530(享禄3)田手畷の戦い。九州に進出した大内義隆の家臣・杉興運(筑前守護代)の軍を少弐資元(龍造寺家兼・馬場頼周・鍋島清久)が破る
※小土豪であった鍋島清久,龍造寺家兼の家臣に。清久の子鍋島清房が家兼の子家純の女婿に
1533(天文2).2.9【島津四兄弟】島津貴久の子 虎寿丸(→忠良→義久→龍伯)誕生:“三州(薩摩・大隅・日向)の総大将たるの材徳自ら備わり”(島津忠良)
1533(天文2)肥前の渋川義長(九州探題),大内義隆から少弐資元に鞍替え
1534(天文2)大内義隆,渋川義長を討ち,渋川氏滅亡
1534(天文3)大友義鑑の弟菊池義武,大内義隆・相良義滋と結んで大友家から独立
1534(天文3).4 勢場ヶ原の戦い(大村山の戦い,大牟礼合戦)。大内義隆の家臣・陶興房が豊後に侵攻。大友義鑑が派遣した吉弘氏直・寒田親将(そうだ-)が戦死するも陶興房は負傷する激戦で,大内軍撤退
※陶興房は陶隆房(陶晴賢)の父。吉弘氏直は高橋紹運(吉弘鎮理)の祖父
1535(天文4).7.23【島津四兄弟】島津貴久の子,忠平(→😈義弘→惟新)誕生:“雄武英略を以て傑出し”(島津忠良)
1536(天文5)大内義隆,大宰大弐に叙任され,北九州進出の大義を得る
1536(天文5)大内義隆の家臣・陶興房の攻撃で少弐資元自害。子の少弐冬尚は肥前の蓮池城に亡命(→1540)
※少弐家臣 龍造寺家兼は大内義隆の調略を受けて動かなかったとも
1537(天文6).7.10【島津四兄弟】島津貴久の子,又六郎(歳久)誕生:“始終の利害を察するの智計並びなく”(島津忠良)
1538(天文7).3.13 鍋島清房の子,彦法師丸(孫四郎,鍋島直茂)誕生
1540(天文9)龍造寺家兼の活躍で少弐冬尚,少弐家を再興
1541(天文10)肥後の阿蘇惟豊の子阿蘇惟将と家臣甲斐宗運(甲斐親直),島津氏に内通した御船(みふね)城の御船房行を討伐し,甲斐宗運が御船城主に
1543(天文12)大友義鑑,幕府に働きかけて肥後国守護職を得る
1543(天文12).8.25 『鉄炮記』:大隅国種子島にポルトガル船が漂着。乗船していた明の儒者・五峯との筆談で意思疎通。島主種子島時堯は火縄銃二丁を購入。鉄砲の伝来
→時堯は一丁を島津氏を通じて将軍足利義晴に献上。もう一丁を鍛治職人・八板金兵衛に渡して国産化させた(1545年成功)
※種子島時堯は島津忠良(第15代当主島津貴久の父)の女婿。島津貴久の義弟である
1545(天文14)朝廷からの上使・町資将(まちすけまさ)が薩摩を訪問。島津貴久が薩摩守護として公認
1545(天文14).1 少弐冬尚の家臣馬場頼周・神代勝利が同じく家臣の龍造寺家兼の勢力拡大を嫌い,龍造寺家純・周家父子を謀殺。家純の父である家兼(出家名 剛忠)は脱出し,筑後柳川の蒲池鑑盛(かまちあきもり)に保護される。周家の子で出家していた🐻円月(後の隆信)も難を逃れる
1546(天文15).4.2 息子と孫を殺された龍造寺家兼(剛忠),鍋島清房らの助けで馬場頼周を討つ
→家兼は1454年生まれだから90歳を超えていた。円月が還俗して🐻胤信となり継ぐ
→この過程で龍造寺家兼・🐻胤信と少弐冬尚の関係も悪化(→1559.1.11)
1546(天文15)毛利元就隠居,毛利隆元が当主に。依然として元就が実権
1546(天文15)肥前の有馬晴純,龍造寺家兼の水ヶ江城を落とすが2カ月後に奪い返される(この年,龍造寺家兼死去)
1546(天文18)阿蘇惟豊の家臣甲斐宗運,島津氏に通じた隈庄城(熊本市南区)の隈庄守昌を破る(落城は1549年)
1547(天文16)【島津四兄弟】島津貴久の子,又七郎(→家久)誕生:“軍法戦術に妙を得たり”(島津忠良)
1548(天文17).3.22 龍造寺家本家・龍造寺胤栄が死去し,🐻龍造寺胤信が本家を継ぐ
1548(天文17)大内義隆と🐻龍造寺胤信が同盟
1549(天文18).5~11 島津貴久が伊集院忠朗・忠倉(ただあお)親子,樺山善久,北郷忠相(ほんごう-)らを派遣して大隅の肝付兼演を破る(1550年に降伏)
1549(天文18).8.15✝️フランシスコ・ザビエル,ヤジロウ(弥次郎)と共に鹿児島に上陸。キリスト教の伝来
1550(天文19).2.10 二階崩れの変。津久見美作,田口鑑親らが大友義鑑と三男塩市丸らを襲撃。塩市丸とその母ら死去。津久見・田口も死去
背景:大友義鑑とその寵臣・入田親誠が嫡男・義鎮(後の大友宗麟)を廃嫡して塩市丸を世継ぎにしようとし,義鎮派家臣を誅殺。身の危険を感じた津久見・田口が義鑑を襲撃
→⚡️戸次鑑連らが入田親誠を追討。親誠は肥後の阿蘇惟豊(惟豊の娘が親誠の正室であった)の下へ逃れたが,惟豊に誅殺された
1550(天文19).2.28 大友義鑑,遺言で大友義鎮に家督を譲って死去
→大友家の混乱に乗じ菊池義武が隈本城を奪取→大友義鎮は大軍で討伐,義武は島原に落ち延びる(→1554.11.20)
1550(天文19).7.19 龍造寺胤信,大内義隆より隆を貰って🐻龍造寺隆信に
1550(天文19).9 ✝️ザビエル,平戸で布教活動を始める
1550(天文19).11 ✝️ザビエル,周防山口に入る
“男色を罪とするキリスト教の教えが義隆の怒りを買い,同年12月17日に周防を発つ”
1550(天文19)島津貴久,鹿児島に🏯内城(うちじょう)を築城,本拠とする。父島津忠良は隠居したがしばらく実権を握る(1568年死去)
1551(天文20).8.28 大内氏の重臣 陶隆房が謀反→9.1 大内義隆,長門大寧寺にて自害
→それまで大内氏に属していた筑前の秋月文種は大友義鎮に属す(→1557)
→🐻龍造寺隆信は大内義隆の後ろ盾を失い,土橋栄益・神代勝利に肥前を追われ,筑後柳川の蒲池鑑盛に保護される
※蒲池鑑盛は大友義鑑の「鑑」から分かる通り大友麾下であったが義に篤い将であった。松田聖子(蒲池法子)は蒲池氏である
※筑後十五城(大友麾下の筑後国人衆):上蒲池(蒲池鑑広)・下蒲池(蒲池鑑盛)・問註所(問註所統景)・星野(星野吉実)・黒木(黒木家永)・河崎・草野・丹波・高橋(高橋鑑種)・三原・西牟田・田尻(田尻鑑種)・五条(五条鎮定)・溝口・三池
1551(天文20).9 ✝️ザビエル,豊後で大友義鎮に保護されて布教を行う
1551(天文20).11.15 ✝️ザビエル,インドに向けて日本を発つ(翌年 明で死去)
1552(天文21).2 陶隆房,大友義鎮の弟大友晴英を大内家に迎え入れ当主に据える(大内晴英)。大内義隆の隆を貰っていた陶隆房は大内晴英の晴(それは足利義晴の晴であったが)を貰い陶晴賢と改名
※因みに大内義隆や今川義元,島津義久(義辰)は足利家の通字「義」を貰うほど重視された。武田義信も武田家で初めて「義」を貰った人物だった
1552(天文21)有馬晴純,嫡男有馬義貞に家督を譲る(次男は大村純忠)
1553(天文22)春 大内晴英,足利家の「義」を貰い大内義長と改名(しかし陶晴賢の傀儡であった)
1553(天文22)島津貴久と当主争いをしていた薩州家の島津実久死去。子の島津義虎は貴久に臣従
※島津忠良・貴久は相州家(島津相模守友久が祖)で,薩州家(島津薩摩守用久が祖)も相州家も分家であった。島津宗家は奥州家(島津陸奥守氏久が祖)。日向飫肥を領したのは豊州家(島津豊後守季久が祖)
※島津義虎は後に島津義久の長女・御平(於平)を娶っている
1553(天文22)🐻龍造寺隆信,蒲池鑑盛の援助で筑後柳川から挙兵,旧領を奪還
1554(天文23).11.20 菊池義武,⚡️戸次鑑連らに攻められ自害。名門菊池氏の滅亡。隈本城には大友家臣城親冬が入った
1554(天文23).9 島津氏に従っていた大隅・加治木城の肝付兼盛(兼演の子)が蒲生範清・祁答院良重(けどういん-)らに攻められる。島津貴久は薩摩にあった祁答院氏の岩剣城を攻め蒲生・祁答院軍を撃破
※伊集院忠朗の進言で初めて鉄砲を本格的に使ったという
1555(天文24).8.12 肥後の相良晴広死去,萬満丸(相良義陽)が12歳で継ぐ(人吉城主)。祖父の上村頼興が実権(→1557.2.21)
1555(天文24).10.1 厳島の戦いで毛利元就が陶晴賢を討つ
※この年の10.23に「弘治」と改元
1556(弘治2).5 姓氏対立事件。大友義鎮が同紋衆を贔屓したことで他紋衆の小原鑑元らが反乱→田北紹鉄(鑑重)・高橋鑑種が鎮圧
“紹鉄は豊後の領主中最も強く,策略ありと認められし人”
※大分出身の田北真樹子は田北氏の末裔であろうか
※高橋鑑種はもと一萬田氏。武勇に優れ,筑後高橋氏を継いだ
※他紋衆の佐伯惟教も追討を受け伊予に逃亡(→1569)
1556(弘治2)【龍造寺後家】慶誾尼(龍造寺隆信の母:龍造寺周家の未亡人),鍋島清房の継室に→慶誾尼が鍋島直茂の義母となり,直茂は🐻龍造寺隆信の義弟に
1557(弘治3).2.21 肥後相良家の上村頼興死去。頼興の子(相良義陽のおじ)上村頼孝・上村頼堅・稲留長蔵が義陽に対し反乱を起こすが鎮圧
1557(弘治3).4.3 大内義長,毛利元就に攻められ自害。大内氏滅亡
※なお一族の大内輝弘が大友義鎮の客将として豊後にいた(→1569.10)
1557(弘治3)大友氏に属していた秋月文種が調略で毛利氏に鞍替え
1557(弘治3).7 ⚡️戸次鑑連・臼杵鑑速・一萬田鑑実・高橋鑑種らが秋月文種を討伐。文種・晴種父子自害
→晴種の弟・種実は毛利元就の下へ落ち延びる。秋月家臣の深江美濃守が所領の一部を維持
1558(永禄元)門司城の戦い。毛利家の小早川隆景が門司城を奪取→10月,大友軍(田原親宏・臼杵鑑速・吉弘鑑理・斎藤鎮実・⚡️戸次鑑連)が門司城を奪還
1558(永禄元)伊集院忠倉が島津家の筆頭家老に
1559(永禄2).1.11 少弐冬尚と弟の千葉胤頼,🐻龍造寺隆信に攻められ自害,少弐家滅亡
→二人の弟の少弐政興が再興に向け戦うが果たせず
1559(永禄2).6.26 大友義鎮,豊前・筑前・筑後守護に
1559(永禄2).9 門司城の戦い。毛利家の調略で挙兵した門司城を大友軍(田原親宏・田原親賢・佐田隆居)が攻撃・奪取
1559(永禄2).11.7 肥後の阿蘇惟豊死去,阿蘇惟将が継ぐ。甲斐親直(甲斐宗運)を重用し,大友氏と結んで独立を保った
1559(永禄2)秋月種実,忠臣深江美濃守と毛利氏の支援で旧領を回復,大友氏に抵抗
1559(永禄2)✝️日本人修道士ロレンソ了斎と平戸の西禅寺住職との宗教論争
→平戸の松浦党・松浦隆信がガスパル・ド・ヴィレラ神父を追放するも禁教はせず
1560(永禄3).10 大友義鎮,伊予の石城を攻め,高橋鑑種が西園寺家臣・土居清宗を討つ
1560(永禄3).12 門司城の戦い。毛利方仁保隆慰,門司城を奇襲占領
1561(永禄4).4 日向の伊東義祐,豊州島津家の飫肥(宮崎県日南市)に侵攻(第七次)
1561(永禄4).7 大友軍,毛利方の香春岳(かわらだけ)城を奪取
1561(永禄4).7.13 島津貴久の弟島津忠将,大隅の肝付兼続との戦いで戦死(廻城めぐりじょうの戦い,廻坂の合戦)
1561(永禄4).8 門司城の戦い。大友軍1.5万(吉岡長増・臼杵鑑速・田原親宏・志賀親度・朽網鑑康・吉弘鎮信・⚡️戸次鑑連・田北鑑生・高橋鑑種)が門司城を包囲。毛利軍1.8万(毛利隆元・小早川隆景・宍戸隆家・三村家親・乃美宗勝・児玉就方・村上元吉)が門司城に後詰
→大友軍敗北して11月に撤退。田北鑑生(田北紹鉄・田北鎮周の兄)は戦傷死
1561(永禄4).9.13 川上峡合戦で🐻龍造寺隆信,神代勝利を破る
1561(永禄4)✝️平戸で宮ノ前事件。ポルトガル商人と日本人が喧嘩を起こして刃傷沙汰
→ポルトガルは平戸での交易を断念(→1562)
1562(永禄5).5 毛利軍,香春岳城を奪還
1562(永禄5)大友義鎮出家して大友宗麟に。⚡️戸次鑑連は戸次道雪に
1562(永禄5).6 島津歳久,北原兼正(薩摩横川城)を討つ
1562(永禄5).7 大友軍,香春岳城を奪取
1562(永禄5).7 門司城の戦い。大友軍(⚡️戸次道雪・吉弘鎮理・由布惟信)が門司城を攻め冷泉元豊(冷泉隆豊の子)らを討ち取るが落とせず
1562(永禄5).7 高橋鑑種,調略で毛利家に寝返る(1567年頃まで目立った動きなし)
1562(永禄5)✝️ポルトガルのアルメイダ神父,大村純忠(有馬晴純の次男)が提供した横瀬浦(佐世保湾)で交易再開
1562(永禄5)大隅の肝付兼続,日向の志布志城を落とし,肝付氏の最大版図
※志布志市は鹿児島県であるが,当時日向国諸県郡(もろかたぐん)であった
1563(永禄6).8.4 毛利隆元,父元就に先立って死去。隆元の子幸鶴丸(輝元)が11歳で家督を継ぐ。実権は元就
1563(永禄6)有馬義貞と大村純忠の兄弟,🐻龍造寺隆信の勢力伸長を恐れて連合して攻め込むが,隆信と千葉胤連(鍋島直茂の養父)に敗退
1563(永禄6)✝️大村純忠,洗礼を受け日本初のキリシタン大名に(ドン・バルトロメオ)
→仏教を弾圧するほど過激なものとなった
1563(永禄6)島津歳久,薩摩吉田城(松尾城)主に
1564(永禄7).2.11 島津氏による薩摩の相良領侵攻始まる。相良家臣赤池長任が防戦
1564(永禄7).7 大友氏と毛利氏が休戦
1564(永禄7)大友家臣の立花鑑載(立花山城)が反乱
1564(永禄7)有馬義貞,隠居した父有馬晴純(1566死去)に追放される
1565(永禄8).5 吉弘鑑理と⚡️戸次道雪が立花鑑載の反乱を鎮圧
↓福岡市東区にある
1566(永禄9).1.15,薩摩虎居城の祁答院良重,妻 虎姫に暗殺される
→祁答院氏の領地は入来院重嗣(いりきいん-)が受け継ぐ(→1569.12.28)
1566(永禄9)島津義久・😈島津義弘・島津歳久が伊東氏の小林城を攻め,伊東方米良重方・米良矩重兄弟が奮戦して撃退
1567(永禄10)高橋鑑種・秋月種実,結託して大友宗麟に対し挙兵。筑紫惟門も加勢
1567(永禄10).7 大友宗麟,⚡️戸次道雪らの軍で高橋鑑種を追討,降伏させる
※吉弘鎮理(後の高橋紹運)も父吉弘鑑理,兄吉弘鎮信と共に活躍
※蒲池鑑盛も筑後柳川から参加
1567(永禄10).8.14 大友宗麟,⚡️戸次道雪・吉弘鑑理・臼杵鑑速ら2万で秋月領に侵攻させる
1567(永禄10).8.18 吉弘鎮理(高橋紹運)の長男,千熊丸誕生(立花宗茂)
1567(永禄10).9.3 休松の戦い。秋月種実が大友軍を急襲。秋月方問註所鑑景が十時惟忠(とときこれただ)を討ち取る。翌日 秋月軍が夜襲。⚡️戸次道雪は異母弟の鑑方ら多くの親族を失った
→筑前の宗像氏貞,原田隆種(原田了栄)も秋月に加勢。🐻龍造寺隆信も大友に対抗
1568(永禄11).1.9 日向の伊東義祐,2万の軍で豊州家島津忠親の飫肥城を落とす(第九次飫肥役)。伊東氏最盛期(伊東四十八城)
1568(永禄11).1.20 島津氏が薩摩の相良領に侵攻。相良家臣赤池長任が撃退。島津家臣川上久朗はこの時の負傷が原因で死去
1568(永禄11)立花鑑載,毛利元就の調略で二度目の反乱→⚡️戸次道雪らによって鎮圧,自害
→8月 ⚡️戸次道雪,原田隆種ら筑前の反大友勢力を撃破→秋月氏・宗像氏ら降伏
1568(永禄11).12.13 島津貴久の父,島津忠良(日新斎)死去
1568(永禄11)平戸の松浦隆信,子の松浦鎮信に家督を譲る(大友義鎮の鎮)
1569(永禄12).1 大友宗麟,5万で肥前侵攻→🐻龍造寺隆信は毛利氏に援軍要請
1569(永禄12).4 毛利元就,九州侵攻開始。筑前立花山城を攻略→大友宗麟は🐻と講和し肥前侵攻を中断
1569(永禄12).5 島津氏が薩摩の相良領を攻め,相良家臣丸目長恵(剣豪)の判断ミスで相良軍は島津家久に大敗→9月 薩摩大口城開城し相良氏は薩摩の領土を失う(→1569.12.28)
1569(永禄12).5~11 毛利元就対大友宗麟の多々良浜の戦い(多々良川の戦い:福岡市東区)
“⚡️道雪自ら陣頭に立って先に鉄砲800挺を2隊に分け,自分が発案した「早込(早合)」を用いて二段射撃して後は槍隊を繰り出して突進,続いて自分が率いて騎馬隊は馬を乗出し敵の中へ縦横に突て廻りける「長尾懸かり」というかけ合い戦法で毛利方の主力である小早川勢を撃破したが”
1569(永禄12).8.13 ⚡️戸次道雪の娘,誾千代誕生
1569(永禄12).10.11 大友宗麟,毛利元就の背後を突くため客将の大内輝弘を2千の兵で周防に上陸させる(吉岡長増の献策)→大内遺臣も加わり6千人に。大内家再興の機会(大内輝弘の乱)
→北九州攻略中の毛利元就は長府に撤退。吉川元春と福原貞俊を派遣→10.25 大内輝弘自害
→大友宗麟が大内輝弘を捨て駒に毛利元就を九州から引かせた形となった。ただ輝弘は1520年に豊後で生まれ,食客・客将として50年近くも大友家の恩を受けたと言える
1569(永禄12)薩摩大口城の菱刈隆秋と鶴千代,島津氏に敗れ降伏
1569(永禄12).12.28(今の暦では1570年)薩摩の東郷重尚と入来院重嗣が島津氏に降伏,家臣に。島津氏による薩摩統一成る
1569(永禄12)吉弘鎮理,高橋氏の名跡を継ぎ高橋鎮種に(高橋紹運)
1569(永禄12)伊予に逃亡していた佐伯惟教が帰参
?(永禄年間)隈本城の大友家臣城親冬,城親賢に家督を譲る
※大分出身の城達也は城氏の末裔であろうか
1570(元亀元).3~8 今山合戦。大友宗麟(⚡️戸次道雪・吉弘鑑理・臼杵鑑速)が再び肥前に侵攻。8.20 鍋島信生(鍋島直茂)の献策で夜襲をかけ,成松信勝が大友親貞を討ち取る
※夜襲策に関して “龍造寺陣営は初め無謀だとして否定的だったが,隆信の生母・慶誾尼が檄を飛ばしたことで奇襲策が容れられ”
1570(元亀元).10.1 🐻龍造寺隆信,異母弟龍造寺信周を人質に大友宗麟と講和
1570(元亀元)✝️大村純忠,後藤貴明によって焼き払われた横瀬浦の代わりに長崎を提供
※大村純前が有馬晴純の子を養子に迎えて跡を継がせた(大村純忠)あと,庶子・又八郎が生まれた。又八郎は後藤家に養子に出された(後藤貴明)。大村純忠のキリスト教政策を嫌って貴明に就く者も少なくなかった。貴明は大友氏と結んで大村氏・有馬氏・龍造寺氏と争った
1571(元亀2).6.14 毛利元就死去 6.23 島津貴久死去
1571(元亀2)有馬義純死去,実弟の有馬鎮純(有馬晴信)が5歳で継ぐ
1571(元亀2)立花の名跡を戸次道雪が継ぐ(⚡️立花道雪)。筑前守護代に
1572(元亀3).5.4 木崎原の戦い(現宮崎県えびの市)。伊東祐安(日向の伊東義祐の家臣)らの3000の兵を😈島津義弘・鎌田政年・五代友喜らの300の兵が破る。伊東祐安・祐次父子,伊東祐信,落合兼置,米良重方ら戦死
※なお伊東義祐は1560年に息子の伊東義益に家督を譲っているが,1569年に義益に先立たれている
1572(元亀3)伊予の西園寺公広が土佐の一条兼定を攻めると,大友宗麟は佐伯惟教らを派遣して西園寺公広を破る
※一条兼定の母は大友義鑑の娘。兼定の継室は大友宗麟の長女・ジュスタ
1573(天正元)島津義久,大隅国人禰寝重長(ねじめ-)を帰順させる
1574(天正2)島津義久,大隅の肝付兼亮・伊地知重興を帰順させ大隅統一
1574(天正2).2 土佐の一条兼定,長宗我部元親に追放され大友宗麟に保護される
1575(天正3)⚡️立花道雪,7歳の娘立花誾千代に家督を譲る。誾千代は立花城の城督に
■ここから新規追加
1576(天正4).1~2月頃 大友宗麟隠居し,大友義統が家督を継ぐ(実権は宗麟)
1576(天正4)8.23 島津義久,3万の兵で*高原城(*は伊東四十八城)を攻め降伏させる
→翌日,米良矩重(木崎原で戦死した米良重方の弟)が島津に寝返り,小林城・*須木城が島津領に
→近隣の*三ツ山城・*野首城・岩牟礼城も島津に帰順(伊東崩れ始まる)
1577(天正5).2 後藤貴明(大村純前の子),🐻龍造寺隆信に従属
1577(天正5).6 島津忠長(島津貴久の弟尚久の子)日向櫛間城を攻略
1577(天正5).8 伊東義祐,孫の伊東義賢に家督を譲る(義賢の父伊東義益は1569年に死去している)
1577(天正5).12.7 *野尻城の福永祐友が島津に寝返り→*内山城・*紙屋城も島津に寝返り
1577(天正5).12.9 伊東義祐,日向を捨て大友宗麟の下に落ち延びることを決断(豊後落ち)→島津義久の薩摩・大隈・日向三州統一成る
※伊東義祐の孫,8歳の伊東祐益(伊東マンショ)は家臣の田中国広(堀川国広)に背負われて移動
→大友宗麟は伊東義祐を受け入れ,日向を✝️キリスト教国にするという野望を持って3〜4万の軍を起こす
1578(天正6).2.21 大友軍先鋒が日向*門川城入り
→伊東家臣の長倉祐政・山田宗昌は島津領内に入り*石城(石ノ城)で挙兵
1578(天正6).4.15 大友軍,日向の独立勢力土持親成を滅ぼす
※大友軍は神社仏閣を破壊していったという
1578(天正6).6 島津義久,従弟島津忠長・島津以久(征久)・伊集院忠棟ら7千を日向に派遣,*石城を攻めさせる
1578(天正6).7.6 石城合戦。守る長倉祐政・山田宗昌は600の兵で島津忠長軍500名を討ち取り撃退
1578(天正6).7 大友宗麟✝️洗礼を受ける(ドン・フランシスコ,府蘭)
1578(天正6).9.15 石城合戦。島津以久・島津忠長・伊集院忠棟・平田光宗・上井覚兼ら1万の兵で*石城を攻め開城させる(9.29)。長倉祐政・山田宗昌は*門川城に撤退
1578(天正6).10 島津軍が占拠していた*高城を大友軍が包囲。山田有信・島津家久が防戦
1578(天正6).10.24 島津義久,3万の軍で鹿児島を出陣
→日向の島津兵と併せ4万に
1578(天正6).11.9 😈島津義弘・島津以久・伊集院忠棟・上井覚兼が*財部城に入って軍議
※大友軍は主戦派(田北鎮周)と講和派(田原親賢(田原紹忍)・角隈石宗)が対立
“大友軍は宗麟がいないこともあり,団結力に欠けていた”(総大将は田原紹忍)
1578(天正6).11.12 耳川の戦い。田北鎮周が島津軍を攻撃してなし崩し的に戦闘が始まる。島津軍は伏兵(釣り野伏せ)で大友軍を包囲,撤退する大友軍を耳川まで追撃。大友軍は多数の溺死者・戦死者
※佐伯宗天(佐伯惟教)・佐伯惟真(惟教の子)・田北鎮周・角隈石宗・吉弘鎮信(高橋紹運の兄)・斎藤鎮実・吉岡鎮興・蒲池鑑盛らが討死
→耳川敗戦後,いづらくなった伊東義祐は孫の伊東義賢・伊東祐勝を大友宗麟の下に残し,息子の伊東祐兵らと共に河野一族を頼って伊予に移動。義賢・祐勝の兄弟は宗麟の影響で✝️洗礼。伊東祐益も✝️洗礼を受け(伊東マンショ)司祭を目指したので義祐には同行せず
→耳川敗戦後,筑後の蒲池鎮漣(しげなみ)(鎮並・鎮竝:蒲池鑑盛の子)は龍造寺氏に接近し,肥後の名和顕孝・城親賢は島津氏に誼を通じる。肥後の阿蘇惟将(家老甲斐宗運)は大友氏との同盟を維持
→筑前でも筑紫広門・宗像氏貞・原田隆種・秋月種実が離反し,⚡️立花道雪・高橋紹運・問註所統景・五条鎮定は鎮圧に努める
1580(天正8).3 龍造寺氏に通じた隈部親永ら,島津氏に通じた名和顕孝・城親賢らが阿蘇氏を攻めるが甲斐宗運・甲斐親英父子らが8千の兵で撃退(且過瀬の戦い,旦過瀬の戦い)
1580(天正8)大友家臣田原親貫・田北紹鉄が反乱(田原紹忍による讒言とも)
1580(天正8).4.13 田北紹鉄,秋月種実の下に逃れる途中大友軍に討たれる
1580(天正8).4 🐻龍造寺隆信,嫡男の龍造寺政家に家督を譲る(実権は握り続ける)
1580(天正8)島津義久と織田信長が交渉開始。義久は信長を上様と認め,大友氏との和睦に同意するが,間もなく信長が横死して立ち消えに
1581(天正9)春 阿蘇惟将(家老甲斐宗運),大友氏に見切りをつけ,🐻龍造寺隆信に就く
1581(天正9)🐻龍造寺隆信,島津に接近しようとした蒲池鎮漣を謀殺し柳川を奪う
※龍造寺四天王の百武賢兼(ひゃくたけともかね)は “「こたびの鎮漣ご成敗はお家を滅ぼすであろう」と答えて涙を流し”
※“鎮漣の妻・玉鶴姫は父隆信が夫を殺害したことを知ると,実家の龍造寺家には戻らず……自害している”
1581(天正9).9 肥後の相良義陽,島津義久に水俣城を包囲され降伏→肥後が龍造寺(阿蘇)と島津(相良)の勢力争いの場に
1581(天正9).9 肥後の相良義陽,阿蘇惟将を攻めるが甲斐宗運が奇襲で勝利し義陽は戦死(響野原の戦い)
義陽は島津の先兵にされ,島津氏と阿蘇氏の板挟みとなった。“義陽は宗運と誓詞を交わした盟友であった” “味方の島津義弘も敵の甲斐宗運も義陽の討死の報を受け,悲嘆したとされている”
→義陽のあとは子の忠房が継ぐが1585年に14歳で病死,弟の相良頼房(のちの長毎)が12歳で継ぐ。頼房は家老の深水長智(宗方),犬童頼安(休矣)に補佐されて島津氏の九州平定に活躍した
1581(天正9)⚡️立花道雪,高橋紹運に強引に頼み込んで長男の高橋統虎を誾千代の婿に貰い受ける(戸次統虎:後の立花宗茂)→高橋紹運は次男の高橋統増を世継ぎに
1582(天正10).1.28 ✝️天正遣欧少年使節,長崎港を出港(1584.7.5 リスボン着)
1582(天正10)伊東義祐・伊東祐兵父子,播磨に渡り,羽柴家臣伊東祐時の伝で羽柴秀吉の扶持を得る
1582(天正10).6.13 山崎の合戦。羽柴秀吉に仕えていた伊東祐兵も従軍して活躍(翌年の賤ヶ岳の戦いにも従軍)
1583(天正11).7.5 阿蘇家家老甲斐宗運死去(1585年説もあり) 11月,阿蘇惟将死去,弟の惟種が継ぐが翌1584年に死去,惟種の子惟光が2歳で継ぐ
→宗運の跡を継いだ甲斐親英は「天下人が現れるまで守勢に徹すべし」という宗運の遺言を守らず島津氏の城を攻めたため反撃され,主家の阿蘇氏(阿蘇惟光)も島津氏に降伏
1584(天正12).3 有馬晴信が🐻龍造寺隆信から離反し島津氏に通じる
1584(天正12).3.19 🐻龍造寺隆信,有馬討伐の軍を起こす(2万5千〜6万)。有馬晴信,島津へ援軍要請→島津家久・頴娃久虎(えいひさとら)・新納忠元・猿渡信光・伊集院忠棟・川上忠智ら3千を派遣,有馬勢と併せ8千
1584(天正12).3.24 沖田畷の戦い。島津・有馬軍は湿地・深田という地形と釣り野伏せ戦法を利用して龍造寺軍を混乱させ,川上忠智の子川上忠堅(またはその従者)が🐻龍造寺隆信を討ち取る
→龍造寺康房・小河信俊(共に直茂の弟)・百武賢兼・成松信勝・円城寺信胤・江里口信常が戦死
→秋月種実も島津氏に従属し,大友領を侵食して領土を拡大し最盛期を築く
※山田芳裕『へうげもの』において,秀吉の九州征伐時の三勢力は島津・大友・秋月とされる
1585(天正13).2-4.23 筒川合戦・久留米合戦。龍造寺政家・龍造寺家晴・鍋島直茂・秋月種実・筑紫広門・問註所鑑景・城井鎮房ら3万 対 ⚡️立花道雪・高橋紹運・朽網鑑康ら1万で大友方善戦
1586(天正14).4.5 大友宗麟,大坂城で羽柴秀吉に謁見,豊臣傘下に入って援軍を要請
1586(天正14).4.15 羽柴秀吉,毛利輝元に九州への先導役を命じる
1586(天正14).6.18 島津義久,九州平定に向け鹿児島を出陣
1586(天正14).7.14~27 岩屋城の戦い。島津忠長・伊集院忠棟・秋月種実ら2~5万,高橋紹運が籠る岩屋城を攻め落城させる。高橋紹運自害
1586(天正14).8.6 島津軍,宝満山城を開城させ,高橋統増(高橋紹運の子)は捕虜に
1586(天正14).8.16 毛利輝元・小早川隆景・吉川元春ら九州に向け出陣
1586(天正14).8 立花山城の戦い。立花宗茂(高橋紹運の子),島津軍から立花山城を守る(毛利軍の接近も効果あり)
1586(天正14).10.22 😈島津義弘軍3万,肥後から豊後に侵攻。入田義実(入田親誠の子)と志賀親度(志賀親守の子)が寝返って案内役に
→親度の弟(で養子)の志賀親次は岡城に籠って抗戦
※島津家久も日向から豊後に侵攻
1586(天正14).11.4 堅田合戦。栂牟礼城主佐伯惟定(佐伯惟教の孫)と伊東家臣で客将の山田宗昌,島津家久が差し向けた土持親信(土持親成の子)らを破る
1586(天正14).11.15 吉川元春,九州攻めの陣中で死去
1586(天正14).12 毛利軍,豊前の高橋元種(秋月種実次男)を降伏させほぼ豊前を制圧
1586(天正14).12 新納忠元ら豊後の山野城を攻める。朽網鑑康病死し,子の朽網鎮則は降伏
1586(天正14)妙林尼(吉岡鎮興の未亡人),鶴崎城に押し寄せた島津軍を16回撃退したのちに開城
※SEGA の「天下人」に吉岡林として登場する人物
1586(天正14).12.12 戸次川の戦い。豊臣方の仙石秀久・長宗我部元親・長宗我部信親・大友義統・十河存保らを島津家久軍が破り長宗我部信親・十河存保が戦死
→大友宗麟は丹生島城に籠城して持ちこたえる
1587(天正15).2.10 豊臣秀長出陣。3.1 豊臣秀吉出陣
→島津軍は豊後戦線を維持できず日向に撤退
1587(天正15).3.20 島津義久・😈島津義弘・島津家久,日向都於郡城(とのこおり-)(宮崎県西都市)で軍議
1587(天正15).3.25 豊臣秀吉,赤間関(山口県下関市)に着
→豊臣秀長は豊後→日向→大隅→薩摩ルート,豊臣秀吉は筑前→筑後→肥後→薩摩ルートと決定
1587(天正15).4.1 豊臣秀吉軍の豊臣秀勝・蒲生氏郷・前田利長,秋月種実の豊前岩石城を1日で落とす
1587(天正15).4.3 秋月種実降伏:“種実は剃髪し,楢柴肩衝と国俊の刀を秀吉に献上し,娘の竜子を人質に出したことにより秋月氏は存続を許されたが,秀吉の命令で日向国財部(後の高鍋)3万石に減移封された”
※この楢柴肩衝(天下三大肩衝)は秋月種実が博多の島井宗室から(大豆百俵という全く不釣り合いな安価で)強引に召し上げたものであった(山田芳裕『へうげもの』でも語られるエピソード)
→家督は嫡男の秋月種長に
“秋月種実が3日にして降伏したことは,抜群の宣伝効果をともなって戦況に決定的な影響をあたえる”
1587(天正15).4.17 日向根白坂の戦い。豊臣秀長ら8万,島津義久・😈島津義弘・島津家久軍3.5万を破る。島津忠隣(島津義虎と御平の子)・猿渡信光ら戦死
1587(天正15).4.21 島津義久,豊臣秀長に和睦を申し入れる
1587(天正15).4.27 豊臣秀吉軍,薩摩に侵入→島津忠辰(薩州家島津義虎の子),島津忠長(島津義久の従兄弟)が降伏
1587(天正15).4.28 薩摩平佐城桂忠詮(ただのり)が城兵と共に激しく抵抗
1587(天正15).4.29 島津義久降伏の報を受けて日向高城山田有信,薩摩平佐城桂忠詮が降伏開城
1587(天正15).4 大友義統,黒田孝高(ドン・シメオン)の勧めで✝️受洗(コンスタンチノ)
1587(天正15).5.3 豊臣秀吉,薩摩泰平寺(川内市)に入り本陣とする
“桂忠詮は泰平寺で秀吉に拝謁してその武勇を賞され,名刀宝寿を下賜された”
1587(天正15).5.6 島津義久出家(龍伯)→5.8 泰平寺の秀吉に降伏し赦免される→5.18 秀吉泰平寺を発つ
※最後まで恭順しなかったのは島津歳久であった
1587(天正15).5.23 大友宗麟死去:“日向一国を隠居料にという秀吉の提案を固辞し”
※嫡男信親を失った長宗我部元親は大隅一国を与えるという提案を固辞
1587(天正15).5.30 豊臣秀吉,九州征伐での功により佐々成政に肥後一国を与える
→甲斐親英は佐々成政の下で御船を安堵される
→佐々成政が隈本に入ったため城久基(城親賢の子)は隈本を明け渡し,大坂へ
1587(天正15).6.7 豊臣秀吉,筑前筥崎に着,博多を直轄市に
→島津龍伯に薩摩,😈島津義弘に大隅,島津家久の子島津豊久に日向の一部を安堵。大友義統に豊後を安堵。龍造寺政家・鍋島直茂・有馬晴信・大村喜前(大村純忠はこの年死去)・松浦鎮信に肥前の所領を安堵。宗義智に対馬を安堵
※伊集院忠棟は大隅のうち肝付一郡を与えられる
→小早川隆景に筑前・筑後・肥前1郡の37万石,黒田孝高に豊前6郡の12.5万石,立花宗茂に筑後柳川13.2万石,毛利勝信に豊前小倉6万石
→肥後(佐々成政)のうち人吉地方は相良頼房(長毎)に与えられた
→秋月種実と次男高橋元種は日向に移封。秀吉の家臣となっていた伊東祐兵は日向に所領を与えられる→“伊東祐兵や高橋元種といった新領主は,島津家の家臣が立ち退かないと豊臣秀長に訴え出ている”
※1576年に伊東から島津に寝返った米良矩重は祐兵の下に赴いて切腹を申し出るが,許されて伊東家臣に
1587(天正15).6.15 豊臣秀吉,対馬宗義智に対し,朝鮮国王(李氏朝鮮の宣祖)を上洛させる使者を出すよう命じる
1587(天正15).6.19 豊臣秀吉による✝️バテレン追放令
→大友義統は棄教
1587(天正15).6.25 阿蘇惟光(5歳)肥後国内に三百町を与えられる
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↓絶対「怖く描いてくれ」と頼まれたね
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以下は草稿です
1587(天正15).7.10 肥後国人一揆(肥後国衆一揆)。佐々成政が豊臣秀吉の助言に反して肥後の領国化を急ぎ,検地を実施したため隈部親永(と子の隈部親泰)・甲斐親英・和仁親実(と弟の和仁親宗)・菊池武国・名和顕輝ら肥後の国人衆が反乱(総勢3.5万)。佐々成政は自力で鎮圧できず
→豊臣秀吉は九州・四国の大名を動員して6万で鎮圧させる
↓和仁氏の田中城(和仁城)
※島津氏からも援軍が送られるが,これを自分への攻撃と勘違いした佐々成政の命令で相良頼房(長毎)が援軍を妨害してしまうという失態を犯す
→家老深水長智の釈明で改易を逃れる
1587(天正15).12.26 肥後国人一揆鎮圧完了。多くが討死・自害・処断。一揆に加わらなかった名和顕孝(名和顕輝の兄)は小早川隆景の家臣に。名和氏の宇土支配終焉
1588(天正16).2 大友義統,豊臣秀吉に謁見,吉を貰い大友吉統に
1588(天正16).4 長崎が✝️教会から没収され直轄地に
1588(天正16).閏5.14 佐々成政,失政の責任を取らされ切腹
→肥後北半国が加藤清正(せいしょこさん),南半国が小西行長に
※大友吉統も参陣
1590(天正18).6.20 ✝️天正遣欧少年使節,長崎に帰港
1591(天正19).8.23 豊臣秀吉,朝鮮出兵の意志を諸大名に伝える
※真っ先に賛意を示した宇喜多秀家は総大将に
※前線基地として🏯名護屋城(佐賀県唐津市),🏯風本城(壱岐)を築城させる
1591(天正19).12.27 豊臣秀吉,関白を豊臣秀次に譲って太閤に
1592(天正20).2 大友吉統,朝鮮出兵を前に長男大友義乗に家督を譲る
1592(天正20).4.13 文禄の役始まる(一番隊の上陸は4.12で交戦が4.13)
一番隊:宗義智・小西行長・松浦鎮信・有馬晴信・大村喜前・五島純玄
三番隊:黒田長政・大友吉統
四番隊:毛利勝信・😈島津義弘・島津豊久・高橋元種・秋月種長・伊東祐兵・山田宗昌
六番隊:小早川隆景・毛利秀包・立花宗茂・高橋統増・筑紫広門・毛利輝元
(九州勢以外は略。総大将宇喜多秀家は七番隊)
“文禄の役で動員された25~30万の兵数は,日本の総兵力の約半分程であった”
1592(天正20).4.13 釜山鎮を制圧 4.14 多大鎮を制圧 4.15 東萊城を制圧
1592(天正20).4.17 二番隊~四番隊(島津隊は遅参)が釜山上陸。一番隊が鵲院関の戦い(じゃくいんかん-)で勝利
1592(天正20).4.18 小西行長が密陽,加藤清正が梁山に到達
1592(天正20).4.19 六番隊小早川隆景が釜山上陸。 三番隊黒田長政・大友吉統が金海城の戦いに勝利
1592(天正20).4.20 加藤清正・鍋島直茂が慶州城の戦い(慶尚北道)に勝利。小西行長が大邱城を占領
1592(天正20).4.24 一番隊小西行長らが尚州の戦い(慶尚北道)に勝利。三番隊黒田長政が星州(慶尚北道)に到達
1592(天正20).4.28 一番隊小西行長らが忠州の戦い(忠清北道)に勝利
1592(天正20).4.29 二番隊加藤清正らが忠州で一番隊と合流。1日遅れたことを悔しがる。軍議では小西行長と加藤清正の確執が浮き彫りに
1592(天正20).4.29 宣祖,首都漢城府から平壌に向かって移動開始
1592(天正20).5.2 二番隊加藤清正ら,首都漢城府を占領(開戦から3週間)。七番隊宇喜多秀家が釜山上陸
1592(天正20).5.3 三番隊黒田長政が清州(忠清北道)を占領
1592(天正20).5.7~8 玉浦海戦で李舜臣ら朝鮮水軍が藤堂高虎ら日本水軍に勝利
1592(天正20).5.16 豊臣秀吉,漢城府占領と宣祖逃亡の報告を受ける
1592(天正20).5.16 臨津江の戦い(イムジンガン-)で二番隊加藤清正が勝利
1592(天正20).5.27 一番隊と二番隊,開城を占領
→制圧目標「八道国割」を決める:一番隊(小西行長)は平安道(最北西の道),二番隊(加藤清正)は咸鏡道(最北東の道),三番隊(黒田長政)は黄海道,四番隊(毛利勝信)は江原道,五番隊(福島正則)は忠清道,六番隊(小早川隆景)は全羅道,七番隊(毛利輝元)は慶尚道,八番隊(宇喜多秀家)は京畿道
1592(天正20).6.4 脇坂安治が龍仁の戦いで龍仁城を防衛
1592(天正20).6.15 梅北一揆。島津家臣梅北国兼が朝鮮出兵に向かう途中で肥後の佐敷城を占拠。3日(15日説あり)で鎮圧される
→島津家は “島津義弘もってして「日本一の遅陣」と言わしめるほどの失態に繋がった”
→豊臣秀吉に反抗的であった島津歳久が黒幕とみなされて島津龍伯に追討され自害(1592.7.18 享年56)
→家臣が一揆に加わったとして阿蘇惟光(12歳)が秀吉の命により自害させられる
『花の慶次』には水沢隆広という,子どもながら自害させられる九州の大名が出てくるが,阿蘇惟光がモデルではないだろうか
1593(文禄2)平壌城の戦いで小西行長が戦死したという誤報を信じた大友吉統が援軍を送らず撤退したことが豊臣秀吉の逆鱗に触れる
1593(文禄2).5.1 大友吉統,豊臣秀吉により改易される。家督を譲られていた大友義乗は加藤清正の配下に
1602(慶長7)島津忠恒により内城廃城され大龍寺に(現在は大龍小学校)。島津氏の本城は鹿児島城(鶴丸城)に
2008(平成20).11.24 殉教者中浦ジュリアン,ベネディクト16世により列福される
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作業メモ
大友義統:改易まで
大友義乗:改易まで
島津義久:降伏まで
伊東祐兵:日向に返り咲きまで
相良頼房:人吉安堵まで
伊集院忠棟