フレイニャのブログ

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Wikipedia戦国史(2) 甲越同盟と御館の乱

Wikipediaで歴史シリーズです。日本の戦国時代は「Wikipedia戦国史(1) 二階堂阿南」に続き2つ目です。
なおこれは『NHK大河ドラマ真田丸』をやっていた2016年にまとめたノートの掘り起こしです。個人的には池波正太郎『真田太平記』を読み,そのNHKドラマ化も見ました。真田昌幸丹波哲郎真田幸村草刈正雄が演じました。真田丸では真田昌幸草刈正雄真田幸村堺雅人が演じます。
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武田信玄上杉謙信宿敵ですが,息子達の代で同盟します。
織田が強大になりすぎたというのが大きいですが,直接のきっかけは御館(お たて)の乱」です。
これは「上杉謙信の後継者争い」です。
謙信は生涯独身だったため,養子を取りました。
(1)村上義清の子,国清山浦国清
(2)畠山義続の子,義春畠山義春
(3)長尾政景の子,顕景(あきかげ)
(4)北条氏康の子,三郎
長尾顕景以外は他大名の子から養子を取っているのが特徴的で,(3)と(4)が謙信の後継者争いをするのが御館の乱です。
長尾顕景の父政景は,謙信「三条長尾家」と違う「上田長尾家」の当主ですが,謙信の姉綾御前)を娶っており謙信より4歳上の義兄でした。
謙信と兄晴景の争いでは晴景を支持したり,謙信家督を継ぐと反乱を起こしたりとやりたい放題ですが,仏のように優しい謙信によって許され本拠春日山の留守を任されるほど重用されます。
ところが政景は1564年,38歳で宇佐美定満とともに謎の溺死をします。
(a)酒に酔って二人とも舟から落ちた。
(b)謙信が定満に命じて殺させた。
(c)定満が独断で政景を殺した。
の3説がありますが,謙信の命令があったかどうかは別として,70を過ぎていた定満は,優しすぎる謙信のために危険な政景を除いておこうと考えたのかもしれません。主君の義兄を殺すのであれば,自らも死ぬ必要があるのでしょう。
いずれにしても政景は死ぬのですが,謙信はその子,顕景を養子にします。かわいそうだと思ったのでしょうか笑
謙信は実子がいなかったわけですし,自分の死後誰が家督を継ごうがどうでも良かったのかもしれません。
これが「上杉景勝」です。さらに5年後の1569年,謙信北条氏康の七男(三郎)を養子に取ります。こちらは同盟のためです。
上杉北条も,実は宿敵でした。
なぜなら北条家関東管領上杉憲政を追い出し,憲政越後長尾家を頼ったからです。
長尾景虎憲政から関東管領を受け継いで上杉氏を名乗ったのです。
だから謙信関東管領の名を使って関東の諸氏をまとめ上げ,鎌倉まで落として小田原城を10万人で囲みます(1561年)
第四次川中島できつつき戦法を見破った時手取川で織田軍を破った時,に並ぶ,「三大謙信の絶頂期」(怒り新党的な)でしょう。
しかし1ヶ月かけて落とせませんでした。北条と同盟していた信玄の動きも気になっていました(1560年海津城築城など)
武田・今川・北条の三国同盟」 vs 「上杉+関東諸氏」という構図が崩れたのが,信玄の駿河侵攻(1568年)です。
信玄今川氏との同盟を破って侵攻したため,武田北条も手切れとなりました。
早速1569年に信玄は2万で出陣し小田原を囲んだりしますが,4日で引き上げます。甲斐へ帰還する武田軍北条軍が襲って行われたのが三増峠の戦いです。
その結果,北条家武田家を共通の敵とする上杉家越相同盟を結びます。その際氏康の七男三郎上杉家へ送られ謙信の養子になりました。これが「上杉景虎」です。
実は越相同盟は2年で解消,北条信玄と再び同盟を結ぶのですが,北条氏康の子が謙信の養子になったのは大きなことで,上杉景虎家督を継げば,ある意味「上杉家が北条家のものになった」ようです。景虎を名乗らせてもらうほどですから,可能性はあったでしょう。
実際に謙信の死後,景勝派景虎が争います(1578年)
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景虎上杉景虎北条氏康の子,景勝の姉の夫),上杉景信(一門),上杉憲政(前関東管領),北条(きたじょう)高広景広親子(厩橋),北条家武田家(北条の同盟国)・伊達家蘆名家など。
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景勝派上杉景勝長尾政景の子),上条政繁(景勝の妹の夫),山浦国清(謙信の養子),斎藤朝信本庄繁長樋口(直江)兼続など。
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上杉憲政北条家に追い出されたのに,景虎についていますね。
北条高広は対北条最前線とも言える上野厩橋を任されるほど謙信に重用されましたが,北条家の調略で一度寝返ってまた帰参したりしています。名前がややこしいので喜多条と表記することもあったようです。越後北条氏は大江毛利氏の家系で,「広」は大江広元の「広」です(多分)。息子の景広は「景広さえ討ち取れば景虎方は怖くない」と景勝が言ったほど武勇に優れていたそうです(『信長の野望』シリーズの数値は芳しくないような……)
中でも大きな役割を果たしたのが武田家でした。北条と再同盟していた武田家氏政の要請を受け2万の軍で越後に迫るのですが,景勝派の工作(領土の一部割譲や金品の贈呈)によって景勝派に寝返るのです。勝頼は異母妹の菊姫を上杉家に差し出し,景勝正室とします。
勝頼北条家と同盟だったこともあって,景勝景虎の調停を試みるも失敗し,敗れた景虎は自害します。上杉景信山浦国清と戦って戦死,上杉憲政景勝景虎を和解させようとするも討死に(御館憲政の居館の名でここに景虎がこもった),北条景広厩橋から越後に進軍して景虎を助けますが討死し,父の高広武田家に走った(1579.8)ため厩橋は一時武田領になりました。
勝頼景勝側について上杉と同盟を結び,結果として景虎を死なせたことで,武田家は再び北条家と断絶します。武田家は北が安全になり上野侵攻が活発化した反面,南は織田徳川北条と敵だらけになってしまいました。御館の乱の4年後の1582年,信長甲州征伐が起こり武田家は滅びるのです。
こうした背景のもと『真田丸』第1回を見れば,勝頼にとって昌幸の勧める上野岩櫃へ行くことが無謀な策ではなく,比較的安全な選択肢でありえたということが分かるのではないでしょうか。
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以上がその時まとめたノートですが,以下では「1582年当時の武田家にとって上野(今の群馬県がどれほど安全であったか」を調べます。真田昌幸「甲斐岩殿ではなく上野岩櫃(いわびつ)へ」と説得するのですが,結局勝頼甲斐岩殿へ行って小山田信茂に裏切られ,自刃して昌幸は悔しがるわけです。
真田幸綱信濃小県郡滋野一族海野氏の出身で,1541(天文10)年5月に海野平合戦で一族は武田信虎に敗れ,上野に亡命したり武田家に仕えたりしました。信虎は1ヶ月後の1541年6月に晴信信玄)に追放されます。幸綱武田家への帰順は天文15年説があります。晴信は1550年に村上義清砥石(戸石)城を攻めて横田高松らを失う敗北(砥石崩れ)を喫しますが幸綱は翌年に調略で砥石城を奪いました。
なお小県郡は現在では小さいですが,元々上田市を含んでいたので当時はかなり大きかった郡です。
晴信の西上野攻略は名将長野業政業正)により阻まれますが,1561(永禄4)年に業政が死去,業盛に変わると,攻略が活発化します。1561年に国峯城群馬県甘楽(かんら)郡),1562年に安中城群馬県安中市),1564年松井田城(同市),1566年に箕輪城群馬県高崎市)を落とし,長野業盛は自刃しました(享年23)
真田幸綱もこの上野攻略に功があったとされ箕輪城を任されたと言います。1567年幸綱は隠居(当主は信綱に),次の箕輪城浅利信種は上述の三増峠で戦死,次の城代内藤昌豊昌秀)は1575年長篠の戦いで戦死,養子の内藤昌月(槍弾正こと保科正俊の三男)が城代になりました(武田家滅亡まで)
Wikepediaで箕輪城を見ると地図があり,結構食い込んだ位置にあることが分かります。武田領はここまで伸び,滅亡時もここは武田領だったわけですね。
真田昌幸の活躍
真田家を継いだ信綱と,その弟昌輝は1575年の長篠の戦いで戦死します。その弟で,武藤家を継いでいた武藤喜兵衛真田家に戻って当主となりました。真田昌幸です。信玄は若い頃の曽根昌世真田昌幸を「我が両眼のよう」と評価していたと言われます。昌幸も叔父(幸綱の弟)矢沢頼綱らと共に上野攻略に活躍します。岩櫃城群馬県吾妻郡),名胡桃城群馬県みなかみ町),そして1580(天正7)年には沼田城群馬県沼田市)を落としました。長篠の戦いの後の武田家は,甲越同盟のお蔭もあって少なくとも上野では版図を拡大したのです。
北条高広の帰順
北条高広長尾家に付いたり武田家に付いたり後北条家に付いたりしましたが,御館の乱では上杉景虎北条三郎)に付き,景虎が敗れ,越後の本拠北条城新潟県柏崎市)を失うと武田家に帰参しました。武田家の滅亡後,厩橋滝川一益に明け渡したと言います。
ということはどうでしょう?武田滅亡時点で,岩櫃・沼田真田家が押さえ,箕輪内藤昌月厩橋北条高広が持っていたことになります。厩橋はこの地図の位置群馬県前橋市)ですから,かなり上野武田家にとって安全だったのではないでしょうか。南は敵となった北条家ですが,北は同盟国の上杉家です。上杉景勝正室は上述した通り武田勝頼の妹です。だから先ずは昌幸の言う通り岩櫃に逃れ上野で頑張っていれば,信長が先に本能寺で死んだかもしれないのです(ただ武田が滅ばなければ信長の帰還がずれ,本能寺が起こるか分からなくなりますが)。上杉家長宗我部家ももう少しで信長に滅ぼされるところで本能寺の変で助かっています(上杉家越中魚津まで落とされていた)。
まあでも結果論ですかね。何より勝頼甲斐を離れたくなかったのでしょう。あまり上野の地に馴染んでいなかったのかもしれませんね。私は上野で粘り,最後は上杉家に保護されてでも武田家の延命を図る道もあったのではないかと思うのですが,勝頼はたとえ滅んででも甲斐を離れぬ道を選んだわけですね。昌幸が悔しがる気持ちが分かる気がしました。
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いかがでしたでしょうか。やっぱり戦国時代はある程度の予備知識があるので楽しいですね。Wikipediaでまとめるというまるで子どものレポートですが,多少の参考にはなれればと思います。