Wikipediaで歴史シリーズです。日本の戦国時代は「Wikipedia戦国史(1) 二階堂阿南」に続き2つ目です。
なおこれは『NHK大河ドラマ真田丸』をやっていた2016年にまとめたノートの掘り起こしです。個人的には池波正太郎『真田太平記』を読み,そのNHKドラマ化も見ました。真田昌幸を丹波哲郎,真田幸村を草刈正雄が演じました。『真田丸』では真田昌幸を草刈正雄,真田幸村を堺雅人が演じます。
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織田が強大になりすぎたというのが大きいですが,直接のきっかけは「御館 の乱」です。
これは「上杉謙信の後継者争い」です。
謙信は生涯独身だったため,養子を取りました。
長尾顕景の父政景は,謙信の「三条長尾家」と違う「上田長尾家」の当主ですが,謙信の姉(綾御前)を娶っており謙信より4歳上の義兄でした。
の3説がありますが,謙信の命令があったかどうかは別として,70を過ぎていた定満は,優しすぎる謙信のために危険な政景を除いておこうと考えたのかもしれません。主君の義兄を殺すのであれば,自らも死ぬ必要があるのでしょう。
いずれにしても政景は死ぬのですが,謙信はその子,顕景を養子にします。かわいそうだと思ったのでしょうか笑
謙信は実子がいなかったわけですし,自分の死後誰が家督を継ごうがどうでも良かったのかもしれません。
上杉と北条も,実は宿敵でした。
信玄が今川氏との同盟を破って侵攻したため,武田・北条も手切れとなりました。
実は越相同盟は2年で解消,北条は信玄と再び同盟を結ぶのですが,北条氏康の子が謙信の養子になったのは大きなことで,上杉景虎が家督を継げば,ある意味「上杉家が北条家のものになった」ようです。景虎を名乗らせてもらうほどですから,可能性はあったでしょう。
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以上がその時まとめたノートですが,以下では「1582年当時の武田家にとって上野(今の群馬県)がどれほど安全であったか」を調べます。真田昌幸は「甲斐岩殿ではなく上野岩櫃 へ」と説得するのですが,結局勝頼は甲斐岩殿へ行って小山田信茂に裏切られ,自刃して昌幸は悔しがるわけです。
真田幸綱は信濃小県郡の滋野一族の海野氏の出身で,1541(天文10)年5月に海野平合戦で一族は武田信虎に敗れ,上野に亡命したり武田家に仕えたりしました。信虎は1ヶ月後の1541年6月に晴信(信玄)に追放されます。幸綱の武田家への帰順は天文15年説があります。晴信は1550年に村上義清の砥石(戸石)城を攻めて横田高松らを失う敗北(砥石崩れ)を喫しますが幸綱は翌年に調略で砥石城を奪いました。
晴信の西上野攻略は名将長野業政(業正)により阻まれますが,1561(永禄4)年に業政が死去,業盛に変わると,攻略が活発化します。1561年に国峯城(群馬県甘楽 郡),1562年に安中城(群馬県安中市),1564年松井田城(同市),1566年に箕輪城(群馬県高崎市)を落とし,長野業盛は自刃しました(享年23)
真田幸綱もこの上野攻略に功があったとされ箕輪城代を任されたと言います。1567年幸綱は隠居(当主は信綱に),次の箕輪城代浅利信種は上述の三増峠で戦死,次の城代内藤昌豊(昌秀)は1575年長篠の戦いで戦死,養子の内藤昌月(槍弾正こと保科正俊の三男)が城代になりました(武田家滅亡まで)
真田昌幸の活躍
真田家を継いだ信綱と,その弟昌輝は1575年の長篠の戦いで戦死します。その弟で,武藤家を継いでいた武藤喜兵衛が真田家に戻って当主となりました。真田昌幸です。信玄は若い頃の曽根昌世と真田昌幸を「我が両眼のよう」と評価していたと言われます。昌幸も叔父(幸綱の弟)矢沢頼綱らと共に上野攻略に活躍します。岩櫃城(群馬県吾妻郡),名胡桃城(群馬県みなかみ町),そして1580(天正7)年には沼田城(群馬県沼田市)を落としました。長篠の戦いの後の武田家は,甲越同盟のお蔭もあって少なくとも上野では版図を拡大したのです。
北条高広の帰順
北条高広は長尾家に付いたり武田家に付いたり後北条家に付いたりしましたが,御館の乱では上杉景虎(北条三郎)に付き,景虎が敗れ,越後の本拠北条城(新潟県柏崎市)を失うと武田家に帰参しました。武田家の滅亡後,厩橋城を滝川一益に明け渡したと言います。
ということはどうでしょう?武田滅亡時点で,岩櫃・沼田は真田家が押さえ,箕輪は内藤昌月,厩橋は北条高広が持っていたことになります。厩橋はこの地図の位置(群馬県前橋市)ですから,かなり上野は武田家にとって安全だったのではないでしょうか。南は敵となった北条家ですが,北は同盟国の上杉家です。上杉景勝の正室は上述した通り武田勝頼の妹です。だから先ずは昌幸の言う通り岩櫃に逃れ上野で頑張っていれば,信長が先に本能寺で死んだかもしれないのです(ただ武田が滅ばなければ信長の帰還がずれ,本能寺が起こるか分からなくなりますが)。上杉家・長宗我部家ももう少しで信長に滅ぼされるところで本能寺の変で助かっています(上杉家は越中の魚津まで落とされていた)。
まあでも結果論ですかね。何より勝頼は甲斐を離れたくなかったのでしょう。あまり上野の地に馴染んでいなかったのかもしれませんね。私は上野で粘り,最後は上杉家に保護されてでも武田家の延命を図る道もあったのではないかと思うのですが,勝頼はたとえ滅んででも甲斐を離れぬ道を選んだわけですね。昌幸が悔しがる気持ちが分かる気がしました。
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いかがでしたでしょうか。やっぱり戦国時代はある程度の予備知識があるので楽しいですね。Wikipediaでまとめるというまるで子どものレポートですが,多少の参考にはなれればと思います。