ウィキペディアを参照しつつ武田氏・真田氏年表を作っていきます。
5️⃣は武田五名臣
1045(寛徳2)河内源氏2代目頭領源頼義の子,源義光生まれる
ここまでの系譜:清和天皇(第56代)-貞純親王-源経基-源満仲-源頼信-源頼義
1083(永保3)後三年の役始まる
1087(寛治元)新羅三郎義光(源義光:甲斐源氏初代),兄の八幡太郎義家(源義家)を助けるため陸奥に向かい,共に清原家衡・清原武衡を討ち,後三年の役終結
? 源義光,常陸の平清幹から常陸国那珂郡武田郷を譲り受ける。息子源義清(甲斐源氏2代)が武田郷を与えられ「武田冠者」を名乗る
1127(大治2)源義光死去
~甲斐国へ~
1130(大治5)源義清・清光父子,平清幹の嫡男 大掾盛幹との紛争に敗れる
1131(大治6/天承元)源義清・清光父子,甲斐に配流に
?🏯源義清,甲斐に若神子城(わかみこじょう)を築城
1145(久安元)源義清死去
1156(保元元)保元の乱
・源清光(甲斐源氏3代)は甲斐での勢力拡大に努める。🏯谷戸城(やとじょう)築城
1160(平治元)平治の乱
1168(仁安3)源清光死去
~源平合戦始まる~
・土肥実平の弟,土屋宗遠(土屋氏の祖),甲斐の武田信義のもとへ
1180.8 安田義定(源義清または清光の子)ら,波志田山合戦で平家方を破る
1180.9 武田信義53歳(甲斐源氏4代・武田氏初代),息子の一条忠頼・板垣兼信(板垣氏の祖)・石和五郎信光と共に挙兵
・逸見光長(武田信義の双子の兄),加賀美遠光(武田信義の弟または叔父)とその子の秋山光朝(秋山氏の祖)・小笠原長清(小笠原氏の祖)も挙兵
1180.10 鉢田の戦いで武田信義,平家方の橘遠茂を破る。石和信光が橘を生け捕る
1180.11 富士川の戦いで源頼朝・武田信義・安田義定ら,平維盛軍を破る
1181 武田信義,源頼朝に弓を引かないという起請文を書かされる
1184 武田信義の子一条忠頼,鎌倉で暗殺される→板垣兼信が次期棟梁と目される
1186 武田信義,隠居
1190 板垣兼信,隠岐へ配流される
1194 安田義定,謀反の疑いで処断される
・石和信光,武田氏の第2代当主に
1221(承久3)承久の乱。武田信光,小笠原長清と共に北条方に就く
・仁科盛遠(仁科氏の祖)は西面武士であったため後鳥羽上皇方に就く
・恩賞として武田信光は安芸守護に
1239 武田信光出家し,子の武田信政(第3代)が当主に(北条時政の“政”)
1265(文永2)武田信政死去,武田信時(第4代)が当主に(北条泰時の“時”)
~安芸国時代~
・武田信時(安芸守護)・時綱父子,長門の警固のため安芸に赴く
→信時の弟政綱(石和政綱)は甲斐に残り,甲斐の実権を掌握
1289(正応2)武田信時死去,武田時綱(第5代)が当主に(北条時頼の“時”)
1307(正安2)武田時綱死去,武田信宗(第6代)が当主に(北条時宗の“宗”)
・安芸守護に。安芸に🏯銀山城(佐東銀山城)を築城
・安芸守護に
・甲斐守護は石和三郎政義。
・武田信武は足利尊氏に就き,安芸や畿内で戦う。石和政義は足利尊氏に就いたのち後醍醐天皇に就く
1343(康永2)南朝方に就いた石和政義,幕府方に敗れ討死
→武田信武・信成父子,甲斐へ
1355(文和4)武田信武の子武田信成とその子信春,甲斐の南朝方を駆逐
1363(康安3)武田信武死去,武田信成(第8代)が当主に
・武田信成が甲斐守護に。信成の弟の氏信が安芸守護を継ぐ(安芸武田氏の祖)
1394(応永元)武田信武死去,武田信春(第9代)が当主に
1413(応永20)武田信春死去,武田信満(第10代)が当主に
~上杉禅秀に就き一旦滅亡~
1416(応永23)上杉禅秀の乱。前関東管領上杉禅秀(氏憲),鎌倉公方足利持氏に反乱
・武田信満は上杉禅秀に就く。京にいた弟の武田信元,信満の子の武田信重は高野山に出家
1417(応永24)上杉禅秀敗れ自害。武田信満も追討軍を受け自害
1418(応永25)武田信元,還俗して甲斐守護に
1420(応永27)武田信元死去,甲斐守護不在に
・信重は足利持氏を恐れ甲斐帰国を拒否,四国に隠棲(配流)
・足利持氏,甲斐に介入
1434(永享7)京で跡部氏が武田信重と会見,信重擁立を約束
1438(永享10)武田信重,甲斐に帰国(第11代)
1450(宝徳2)武田信重死去,武田信守(第12代)が当主に
・実権は跡部氏が握る
1455(享徳4)武田信守死去,武田信昌(第13代)が当主に
・跡部氏の排斥に成功するが,穴山氏・小山田氏・今井氏・大井氏らが台頭
1487(長享元)? 5️⃣横田高松(たかとし)誕生
※のちに近江/伊勢出身の浪人衆として武田信虎に仕える
1491(延徳3)小畠日浄盛次の子,5️⃣小畠虎盛(“鬼虎”)誕生
※子の昌盛の時に小幡昌盛を名乗ったので,小幡虎盛は誤りという
1492(明応元)武田信昌隠居,武田信縄(第14代)が当主に
・しかし信昌は信縄の弟油川信恵が当主になることを望んだため国内は混乱(兄弟争論)
1493(明応2)駿河にて5️⃣山本勘助誕生(1500年,1501年説あり)
1497(明応6)5️⃣原虎胤,下総にて生まれる
1498(明応7)明応地震を機に武田信縄と油川信恵が一時和睦
1504(永正元)飯富虎昌生まれる
1505(永正2)武田信昌死去
1506(永正3)穴山信懸の子の信風に,穴山信友誕生(穴山信君の父)
1507(永正4)武田信縄死去,武田信直(第15代)が当主に
~武田信虎の甲斐統一戦~
1508(永正5)10月,勝山城の戦いで武田信虎,夜襲にて油川信恵を討ち取って一族の混乱は収まる
1508(永正5)12月,坊ヶ峰の戦いで武田信虎,小山田弥太郎信隆を討つ
1510(永正7)武田信虎,小山田弥太郎の子,小山田越中守信有を従属させる
→武田信虎は妹を小山田信有に嫁がせる。また弟の信友を勝沼に配置(勝沼信友)
1511(永正8)高遠頼継の家臣の子として保科正俊(槍弾正)誕生
1513(永正10)穴山家当主,穴山信懸が息子の穴山清五郎に暗殺される。兄弟の信風(信綱)が清五郎を討ち当主に。信風は今川氏に従属し,今川氏の甲斐介入を招く。また大井氏も今川に就く
1513(永正10)信濃小県郡にて真田幸綱(真田一徳斎幸隆)誕生
1515(永正12)教来石景政(馬場信房)誕生(1514年説あり)
1515(永正12)飯富源四郎(山県昌景)誕生
1515(永正12)今川氏親の甲斐侵攻。武田信虎・小山田信有は今川に就いた大井信達を攻め敗北。この時戦死した飯富源四郎(か飯富道悦)が飯富虎昌・昌景兄弟の父と見られる
1517(永正14)今川と武田が和睦。大井信達は武田信虎に降伏
1517(永正17)この頃 原虎胤,甲斐へ赴き武田家臣に
1519(永正16)武田信虎,今井信是を降伏させる
1519(永正16)小山田出羽守信有誕生(小山田信茂の父)
1520(永正17)武田信虎,大井氏と和睦して大井信達の娘を正室に迎える(信玄の母)
1520(永正17)武田信虎,躑躅ヶ崎館の詰城として🏯要害山城を築城
※詰城とは本拠まで攻め込まれた時に館の代わりに籠る城
1521(大永元).8 武田信虎,穴山信風(信綱)を降伏させる
1521(大永元)大井の方に武田太郎(晴信)誕生
1522(大永2)工藤修理(内藤昌秀(昌豊))誕生
~武田信虎の対外戦争~
1524(大永4)武田信虎,両上杉氏(山内上杉・扇谷上杉)を助けるため相模の北条氏を攻める
1525(大永5)武田信虎,北条氏綱と和睦。しかしまもなく破綻
1525(大永5)大井の方に武田次郎(後の典厩信繁)誕生
1527(大永7)秋山虎繁(信友)と春日源五郎(高坂昌信)誕生
1528(享禄元)武田信虎,信濃諏訪を攻め諏訪頼満・満隆に敗退
1530(享禄3)武田信虎,前関東管領山内上杉憲房(1525年死去)の未亡人を側室に迎える
1531(享禄4).1 前年の上杉家との親交に反発した今井信元(今井信是の子),大井信業(大井信達の子),飯富虎昌,栗原信種が武田信虎に反乱,諏訪頼満も反乱軍に加担
1531(享禄4).2 武田信虎,大井信業を討ち取る
1531(享禄4).3 穴山信風死去。時期的に見て今井・大井らの反乱に加担し武田方に討たれた可能性あり。穴山家当主は穴山信友に
1531(享禄4).4 河原辺の戦いで武田信虎,諏訪・今井・飯富・栗原連合軍を破る
1532(天文元)大井の方に武田信廉誕生(1528年説もあり)
1532(天文元).9 今井信元,武田信虎に降伏。武田信虎の甲斐統一成る
1533(天文2)扇谷上杉朝興の娘(上杉の方)と武田太郎が結婚
1534(天文3)上杉の方,難産が元で亡くなる
1534(天文3)小畠虎盛の子,小畠昌盛(→小幡昌盛)誕生
1535(天文4).8 山中の戦い。北条氏綱・氏康が勝沼信友(武田信虎の弟)・小山田信有に勝利。勝沼信友が戦死
1536(天文5)武田太郎元服(武田晴信)。将軍足利義晴の “晴”
1536(天文5).3 今川氏輝死去→5月 弟の玄広恵探とその弟の義元が家督争い→6月 今川義元が勝利して当主に(花倉の乱)
1536(天文5).11 武田晴信初陣(信濃佐久郡の平賀源心(玄信)攻め)
1537(天文6).2 甲駿同盟。武田信虎の長女定恵院が今川義元の正室に(武田信虎は今川義元の舅に)
1537(天文6)真田幸綱の子,真田源太郎誕生(真田信綱)。三枝昌貞(守友)誕生
1538(天文7)武田晴信の子,武田義信誕生(母は三条夫人)
1539(天文8)? 武田信虎の子,一条信龍誕生
※他に成年不詳で河窪信実,松尾信是も武田信虎の子
1540(天文9).4 武田信虎,諏訪氏と結んで信濃佐久郡へ侵攻。板垣信方が大活躍
1540(天文9).11 武田信虎の娘・禰々が諏訪頼重の正室に(禰々御料人)
1540(天文9)全国で天文の大飢饉(武田晴信と重臣達のクーデターに影響したとの説も)
1541(天文9)武田晴信・諏訪頼重,大井貞隆の長窪城(小県郡)を落とし諏訪領とする
1541(天文10).5 海野平の戦い。武田信虎・晴信,諏訪氏・村上氏と結んで佐久郡・小県郡に侵攻。海野氏・滋野氏・真田氏・根津氏(禰津氏)を破る。海野棟綱・真田幸綱(幸隆)ら敗れた一族は上野の山内上杉家の下へ亡命。矢沢頼綱(真田幸綱の弟)は降伏。禰津元直も降伏して本領安堵(武田信廉配下)
~武田晴信のクーデター~
1541(天文10).6 武田信虎が駿河に赴いた際,武田晴信が河内路を封鎖して信虎を追放。第16代当主に。信虎は今川義元に保護される。元々甲斐にいた大井の方は甲斐に留まる
・クーデターに協力した重臣の板垣信方・甘利虎泰が最高職の「両職」に
1541(天文10)武田晴信の次男,海野信親(竜芳・竜宝)誕生(母は三条夫人)
・海野幸義の女婿となり海野氏を継ぐ
1542(天文11)禰津元直の娘が武田晴信の側室に(禰津御寮人)(→1567)
・なお,逆に武田信虎の娘が元直の子・禰津(根津)政直(常安)に嫁いだ
1542(天文11).3 瀬沢の戦い。当主交代の混乱に乗じて攻め寄せた諏訪頼重・小笠原長時を武田晴信が撃退したとされる戦い
1542(天文11).6 桑原城の戦い。武田晴信・高遠頼継(諏訪庶家)が諏訪頼重(諏訪惣領)を攻める
1542(天文11).7 武田晴信・高遠頼継が諏訪頼重と和睦。頼重は甲府へ送られる→頼重・頼高兄弟は自害させられ諏訪家滅亡
1542(天文11)諏訪家滅亡に乗じて大井貞隆が長窪城を奪回
1542(天文11).9 諏訪家滅亡後の領土配分に不満を持った高遠頼継が上原城を奪取
1542(天文11).9 宮川の戦い。武田晴信が高遠頼継・頼宗兄弟を破る。頼宗は戦死
1542(天文11)保科正俊の子,保科正直誕生
1543(天文12)武田信虎,上方を見物して回る(京・高野山・奈良)→駿河に帰国
1543(天文12)真田幸綱の子,真田徳次郎誕生(真田昌輝)
1543(天文12).9 武田晴信,大井貞隆の長窪城を落とす
1544(天文13).10 高遠合戦(~1545)高遠頼継・藤沢頼親(福与城:諏訪家支流)が信濃守護・小笠原長時の支援を受け反攻。
1544(天文13)~1546(天文15)頃 上野に亡命していた真田幸綱,武田家に臣従
※弟の矢沢頼綱はまだ村上氏の麾下にあった
1545(天文14).4 武田晴信,高遠城を奇襲して落とす。6月,藤沢頼親は和睦を申し入れ福与城は破却
1545(天文14)諏訪頼重の娘が武田晴信の側室に(諏訪御料人)(1543年説あり)
※諏訪頼重は晴信に自害させられたため反対する者が多かったが山本勘助は賛成したという話が残っている
1545(天文14)? 金丸虎義の子,金丸平八郎(土屋昌続(昌次))誕生
※“信玄は奥近習六人衆を寵愛し,それぞれに「昌」の字を与えた”:武藤喜兵衛(真田昌幸),三枝昌貞,曽根昌世,甘利昌忠,土屋昌続,長坂昌国
1545(天文14)猿楽師 大蔵信安の子,大蔵藤十郎(大久保長安)誕生
→のち大蔵信安は甲斐に流れつき,武田晴信に厚遇され,藤十郎は家臣に取り立てられ土屋昌続の与力に(土屋長安)
1546(天文15)武田晴信と諏訪御料人との間に諏訪四郎誕生(武田勝頼)
1546(天文15)教来石民部,馬場家の名跡を継ぎ馬場信房に
1547(天文16)? 真田幸綱の子,真田源五郎誕生(武藤喜兵衛=真田昌幸)
1547(天文16)真田幸綱の子,真田源次郎誕生(加津野信昌=真田信尹)
1547(天文16)小田井原の戦い。武田晴信,志賀城主笠原清繁を攻め,山内上杉憲政からの援兵も破って笠原城を攻略。板垣信方,甘利虎泰,5️⃣多田満頼が活躍
1548(天文17).2 上田原の戦い。武田晴信,葛尾城の村上義清を攻め板垣信方・甘利虎泰・才間河内守・初鹿野伝右衛門が戦死
1548(天文17).7 塩尻峠の戦い。信濃守護小笠原長時,武田晴信が上田原で敗れたのを好機と見て攻め寄せる。武田晴信は朝駆けで奇襲し小笠原軍は敗走
1548(天文17).10 武田晴信,🏯村井城を改修して林城(小笠原長時の拠点)攻略の前線基地に
1550(天文19)保科正俊の子,千次郎誕生(内藤昌月)
※小笠原長時は最後は蘆名家に客分として迎えられ,会津で死去(1583年)
1550(天文19).9 砥石崩れ。武田晴信,村上義清の砥石城を攻め敗北。横田高松戦死
1551(天文20).5 真田幸綱,調略によって砥石城を落とす
1552(天文21).1 小山田出羽守信有死去。子の小山田弥三郎信有が家督相続
1552(天文21).5 大井の方(晴信・信繁・信廉の母)死去
1552(天文21)高遠頼継,自害させられる。保科正俊は武田家臣に
1552(天文21).11 今川義元の娘嶺松院,武田義信に輿入れ(三国同盟)
~川中島の戦い始まる~
1553(天文22).4 村上義清,葛尾城を捨て越後の長尾景虎の下へ
1553(天文22).5 村上義清,葛尾城を奪還(更科八幡の戦い)
1553(天文22).8 村上義清,武田晴信に攻められ再び越後へ逃れる
→長尾家臣となり1565年,謙信により越後根知城主に据えられる。1573年死去
1553(天文22).9 長尾景虎,北信濃へ出陣。第一次川中島の戦い
1553(天文22)矢沢頼綱の子,矢沢三十郎(頼康,頼幸)誕生(真田昌幸の従兄弟)
1554(天文23)甲相駿三国同盟(善徳寺の会盟):武田・北条・今川が婚姻同盟
1554(天文23)武田晴信,南信濃に侵攻開始,伊那郡を制圧→東美濃の遠山氏が武田家に帰属
1554(天文23)長尾家の北条(喜多条)高広,武田晴信と通じて北条城で反乱を起こす→翌年降伏
1554(天文23).7 北条氏康の娘早川殿,今川氏真に輿入れ(三国同盟)
1554(天文23).12 武田信玄長女・黄梅院,北条氏政に輿入れ(三国同盟)
1555(天文24)善光寺の別当,栗田永寿が武田に寝返る→長尾景虎,善光寺奪回のため出陣。第二次川中島の戦い(犀川の戦い)
1555(天文24)南信濃の木曽義康,武田家に従属して出仕。義康の子,木曽義昌は武田晴信の娘,真理姫を娶り一門衆に
1556(弘治2)長尾景虎の出家隠遁騒ぎ
1556(弘治2).8 長尾家の大熊朝秀が反乱を起こすが敗れる(→1563)
1556(弘治2)? 金丸虎義の子,土屋昌恒誕生
1557(弘治3)武田信玄,西上野に侵攻,長野業正(業政)を瓶尻で破るが箕輪城は落とせず
1557(弘治3)第三次川中島の戦い→将軍足利義輝が和睦を仲介
1558(永禄元)武田信虎,京に移住し幕府に仕える
1559(永禄2)永禄の飢饉起こる
1559(永禄2).2 武田晴信と真田幸綱,出家し徳栄軒信玄,一徳斎幸隆に
1559(永禄2).3 武田信玄,高梨氏の高梨氏館を落とし,高梨氏は飯山城に後退
1559(永禄2)武田信玄の西上野侵攻を長野業正が阻む(若田原の戦い)
1560(永禄3)武田信虎の娘・菊が菊亭晴季(今出川晴季)の妻に(菊御料人)
※菊亭菊になったということ?
1560(永禄3).8 久留里城を包囲された里見義堯からの援軍要請に応じ長尾景虎が北条討伐に出陣
1560(永禄3).12 穴山家当主 穴山信友死去。当主は(1558年頃から)穴山信君
1561(永禄4).3 長尾景虎,関東諸将を率いて9~11万の軍で小田原城を囲む
→北条氏康は今川・武田に援軍要請
1561(永禄4).4 武田信玄,長尾景虎に属する割ヶ嶽城を落とす→原美濃守虎胤,負傷により引退。また武田は越中で一向一揆を扇動
・長尾景虎(上杉政虎)は小田原を落とせず,飢饉の影響で兵糧が不足し,無断で撤兵する将も出てきて,小田原から撤兵
1561(永禄4).8 上杉政虎,川中島の善光寺に出兵→第四次川中島の戦い(八幡原の戦い)
・武田信玄は軍を2つに分け連携挟撃しようと図る(啄木鳥戦法)が,上杉政虎は喝破して武田本隊を襲撃→武田信玄の実弟典厩信繁,室住虎光(諸角虎定),山本勘助,初鹿野源五郎忠次が戦死
1561(永禄4)保科正直の子,保科正光誕生
~武田信玄,西上野や飛騨に侵攻~
1561(永禄4)武田信玄の西上野侵攻を阻んでいた長野業正(業政)が死去
1561(永禄4).11 武田信玄,西上野甘楽郡の国峯城を落とす
1562(永禄5)上野の和田業繁,武田信玄に服属
1562(永禄5)馬場信房「美濃守」の名称を貰い馬場美濃守信春に
1563(永禄6)武田信玄,上野の安中城(安中景繁)を開城させる
1563(永禄6)大熊朝秀が武田信玄に仕え,山県昌景の与力に
1563(永禄6)〜1564(永禄7)三河一揆(どうする家康第8回)
1564(永禄7)武田信玄,上野の倉賀野城を開城させる
1564(永禄7)武田信玄,江馬時盛を支援して飛騨に介入
1564(永禄7).6 武田信玄,山県昌景・甘利昌忠を飛騨に派遣→江馬輝盛も武田に通じる
1564(永禄7).8 第五次川中島の戦いは睨み合いに終わる
1565(永禄8).1 義信事件で飯富虎昌が処断される
1565(永禄8).8 小山田弥三郎信有死去。兄弟の小山田信茂が家督相続
1565(永禄8).11 諏訪勝頼が織田信長の養女(実父は遠山直廉)龍勝院を迎える
1565(永禄8)真田昌幸の長女,村松殿誕生(信幸・信繁の姉)
1566(永禄9)武田信玄,上野の箕輪城を落とす。長野業盛は自害(享年23)
1566(永禄9)真田昌幸の子,真田源三郎(信幸=信之)誕生
1567(永禄10)真田昌幸の子,真田源次郎(信繁=幸村)誕生(1570年説あり)
1567(永禄10)東光寺に幽閉されていた武田義信死去(享年30)。義信正室嶺松院(今川義元と武田信虎長女の娘)は駿河に帰国し出家(貞春尼)
1567(永禄10).12 武田信玄四女 松姫と織田信忠の婚約が成立
1567(永禄10)武田信玄と禰津御寮人の子武田信清,法善寺に出家,玄竜と号す
1567(永禄10)真田一徳斎幸隆,隠居。真田信綱が当主に
1568(永禄11).4 越後の本庄繁長,武田氏に通じて本庄城で反乱(1569.3降伏)
1568(永禄11).7 越中の椎名康胤,武田の調略で上杉から離反。椎名康胤は武田家の越中先方衆に
1568(永禄11).12 武田信玄,駿河侵攻開始(第一次薩埵峠の戦い)
・瀬名氏詮(→信輝),葛山氏元,朝比奈政貞(→信置),三浦義鏡ら今川家臣が離反して信玄に通じる。信玄は六男信貞に葛山家を継がせた(葛山信貞)
1568(永禄11).12 馬場信春,駿府の今川館を落とし町を焼き払う(どうする家康第11回)
→今川氏真は朝比奈泰朝のいる掛川城へ。正室早川殿が乗り物にも乗れず徒歩で脱出した話を聞いた父親の北条氏康は激怒したと言う
・今川家にいた徳川家の人質 久松源三郎(松平康俊:家康の異父弟)とおふう(酒井忠次の娘)は甲斐に連行されるが,間もなく徳川家が奪還(どうする家康第16回)
1568(永禄11).12 秋山虎繁(信友),伊奈衆を率いて遠江に侵入→徳川家康が抗議
1568(永禄11).12 徳川家康,遠江の引間城を落とす(浜松城)(どうする家康第11回)。同月,高天神城の小笠原氏を味方につける
1569(永禄12).1~4 第二次薩埵峠の戦い。北条の援軍と武田軍が睨み合い
1569(永禄12).4 武田信玄が一旦甲斐に帰ると今川家臣岡部正綱が駿府を占領
1569(永禄12).5 堀江城の大沢基胤,今川氏真から許可を得た上で徳川家康に降伏
1569(永禄12).5 徳川家康,掛川城を開城させる(どうする家康第12回)。今川氏真・朝比奈泰朝は北条氏康の下へ。今川氏の滅亡
1569(永禄12)武田に敵対した北条氏康,上杉謙信と越相同盟→翌年 北条氏康の七男の北条三郎が越後に赴き上杉謙信の養子に(上杉景虎) 上杉側からは柿崎晴家が人質に
※しかし北条側からの催促にも拘らず,謙信は武田を攻めなかった
1569(永禄12).8 織田信長と将軍足利義昭の取りなしで武田・上杉が和睦(甲越和与)
1569(永禄12).10 武田信玄,2万で小田原城を囲むが4日で撤退
1569(永禄12).10 撤退する武田軍を北条軍が襲って三増峠の戦い→箕輪城代だった浅利信種が戦死(箕輪城代は内藤昌月に)
1569(永禄12).12 武田信玄,再び駿府を攻撃。岡部正綱降伏して武田家臣に
※岡部元信は一旦北条氏の下に留まったのち,武田家臣に(岡部正綱より後らしい)
1569(永禄12).12 武田信玄,駿河の蒲原城を落とす。城将北条綱重(氏信)は戦死
1570(永禄13).1 武田勝頼,武田信廉,長坂虎房,駿河の花沢城,徳一色城(田中城)を落とす
1570(永禄13)武田信玄,駿河に🏯江尻城を築城。城代は山県昌景
1570.4.23 元亀に改元
→浅井長政の裏切りにあって撤退(どうする家康第14・15回)
1570(元亀元).6 徳川家康,曳馬に移り,浜松と改名(どうする家康第15回)
1570(元亀元).6.28 姉川の戦い(どうする家康第15回)
1570(元亀元).8 武田信玄,伊豆韮山城を攻めるが落とせず
1570(元亀元)今川氏真と早川殿の間に嫡男今川範以誕生
1571(元亀2).2 武田信玄,徳川家の高天神城を攻めるが落とせず
1571(元亀2).2 武田信廉が高遠城に入り,武田勝頼は甲府へ移動
1571(元亀2).4 武田勝頼,越中・加賀一向一揆に対し,共に謙信に当たるよう要請
1571(元亀2).9 織田信長による比叡山焼き討ち→覚恕(後奈良天皇の子で正親町天皇の弟)を武田信玄が保護→信玄は権僧正に(元亀3)
1571(元亀2).9 武田勝頼正室龍勝院(織田信長の養女)死去(→1577.1)
1571(元亀2).10 北条氏康死去
~武田信玄の西上作戦と死去~
1572(元亀3).10 武田信玄,西上作戦開始。遠江犬居城主天野藤秀(景貫),武田に内応。山家三方衆(作手城の奥平定能(貞能),長篠城の菅沼正貞,田峯城の菅沼定忠)も武田に内応し,山県昌景の寄騎に
→武田・織田も手切れとなり,織田信忠と松姫(信玄四女)との婚約解消
1572(元亀3).10 一言坂の戦い(どうする家康第17回)。武田信玄の近習小杉左近,突破する本多忠勝を逃してやる
1572(元亀3).10 二俣城の戦い。武田信玄,二俣城(中根正照)を包囲開始
1572(元亀3).11 秋山虎繁,美濃岩村城を包囲,開城させる。事実上の岩村城主だったおつやの方(織田信長の叔母)が秋山虎繁の妻に
↓岩村城は備中松山城,高取城(大和)と並ぶ🏯日本三代山城である
1572(元亀3).12 二俣城開城し中根正照退去
※中根正照は降伏開城を恥として三方ヶ原で華々しく戦死したが,武田信玄の寿命のことを考えると2ヶ月も二俣城を守ったのは大きな功績だとフレイニャは考える。もっとも,信玄がまもなく死ぬだろうとは思わなかっただろうが
1572(元亀3).12 武田信玄は浜松城に向かわず西進。徳川家康は城を出て追撃(どうする家康第17回)
1572(元亀3).12.22 三方ヶ原の戦い(遠江国敷知郡)。徳川方本多忠真,中根正照,夏目広次ら,織田方の平手汎秀らが戦死(どうする家康第18回)
1573(元亀4).1 野田城の戦い。武田信玄・菅沼定忠(田峯菅沼氏)ら,三河野田城の菅沼定盈を降伏させる(2月)
1573(元亀4).4 武田信玄,病気で甲斐に引き返す途中信濃で死去(享年53)
→武田勝頼が第17代当主に(どうする家康第19回)
? 法善寺の玄竜(武田信玄と禰津御寮人の子),還俗して安田三郎信清に
1573(元亀4).6 三河長篠城の奥平貞能・貞昌,徳川に鞍替え
1573(元亀4)武田勝頼,馬場信春を普請奉行とし🏯諏訪原城を築城
1573(元亀4)このころ今川氏真は徳川家康の下(浜松城)にいた模様
1574(天正元).1 武田勝頼,3万人の兵で美濃に出兵→明知城,飯羽間城を落とす
1574(天正2)武田信虎,信濃高遠城の武田信廉を訪ねる→同年死去
1574(天正2).5 武田勝頼,2万5千人の兵で遠江高天神城を開城させる
→小笠原長忠(信興)は降伏し武田家臣に
1574(天正2)海野信親(武田信玄次男)の子,武田信道誕生
1575(天正3).3 今川氏真,父の仇織田信長と会見,蹴鞠を披露
1575(天正3).5 武田勝頼,奥平貞昌の長篠城を包囲(長篠の戦い)
→城前の設楽原の戦いで武田勝頼,織田・徳川連合軍に大敗。内藤昌秀,山県昌景,馬場信春,原昌胤(原昌俊の子),原盛胤(原虎胤の子),真田信綱(真田幸綱の子),真田昌輝(同左),土屋昌続,土屋貞綱,安中景繁,望月信永(典厩信繁の子),米倉丹後守が戦死
・鳶ノ巣山攻防戦では河窪信実(信玄の弟),三枝昌貞,五味高重,和田業繁,飯尾助友,名和重行(宗安)が戦死(徳川方では松平伊忠が戦死)。有海村待機の高坂昌澄(高坂昌信の嫡男)が戦死
・今川氏真も徳川方として参加して後詰を務めた。氏真の家臣・朝比奈泰勝が内藤昌秀を討ち取る功を上げたために,徳川家康が望んで徳川家臣に
→真田信綱・昌輝の死により武藤喜兵衛が真田家当主となる(真田昌幸)
1575(天正3)(長篠の戦いの後)織田軍,明知城を奪回。徳川軍,田峯城・武節城・作手城,光明城(天野景貫),諏訪原城を奪回(諏訪原城攻めには今川氏真も参加)
1575(天正3).11 織田信忠ら,岩村城を攻撃,開城させ,秋山虎繁とおつやの方処刑される
1575(天正3).12 徳川軍,遠江二俣城を開城させる。依田信蕃は高天神城に撤退
1576(天正3).3~1577(天正4).3 今川氏真,牧野(旧諏訪原)城主に
1576(天正4).7 徳川家康長女亀姫,奥平信昌(貞昌から改名)に嫁ぐ
1577(天正5).1 甲相同盟強化のため北条夫人(北条氏康の娘)が武田勝頼の継室に
1577(天正5).9 上杉謙信,能登七尾城を落とす。加賀手取川の戦いで柴田勝家らを破る
1578(天正6).3 上杉謙信死去。後継者争いの御館の乱が起こる:上杉景勝(長尾政景の子)vs 上杉景虎(北条氏康の子)
1578(天正6).5 春日虎綱(高坂昌信),海津城にて死去。高坂昌元(春日信達)が継ぐ
1578(天正6)徳川家康,大須賀康高に命じ,高天神城攻撃のための付城として🏯横須賀城を築城
1579(天正7).2 上杉景虎に就いた北条景広(北条高広の子)襲撃され死去
→武田勝頼は甲相同盟に従い上杉景虎に就くが,上杉景勝に鞍替え
→武田勝頼の妹菊姫が上杉景勝の正室に(甲斐御寮人)。甲越同盟成る
→北条との甲相同盟が破綻。北の上杉との同盟により上野進出が活発化(真田昌幸が活躍)する一方,南が全て敵(徳川・北条)に
1579(天正7).8 御館の乱に敗れた北条高広,武田氏の傘下に
~沼田領の獲得,そして武田滅亡へ~
1579(天正7).9 武田勝頼の命により真田昌幸・矢沢頼綱,沼田領に侵攻。名胡桃城・小川城を調略で手に入れる。沼田城は落とせず
・吾妻郡の岩櫃城も攻略
・真田昌幸,勝頼から「安房守」の名乗りを許される(官位でなく私称)
1580(天正8).8 北条氏政隠居し北条氏直(氏政と信玄長女黄梅院の子)が当主に
※北条氏政は軍事・外交の一部権限を有し続ける
1580(天正8)武田勝頼,駿河持船城を奪回(朝比奈信置が入る)。また東上野の膳城を落とす
※膳城攻めの際,軍令違反を犯して切腹となった柳沢信兼の代わりに横手源七郎が柳沢の名跡を継ぐ→柳沢信俊に(柳沢吉保の祖父)
1581(天正9).3 徳川家康,遠江高天神城を落とす。岡部元信は戦死。横田尹松(横田高松の女婿横田康景の子)は脱出
1581(天正9).6 御館の乱の恩賞に不満を持った新発田重家,🏯新潟城を築城し上杉景勝から自立(新発田重家の乱)。蘆名家も重家を支援。織田信長にとっても上杉家を攻める好機
1582(天正10).2 駿河の穴山信君が離反,徳川に通じる。岡部正綱・曽根昌世も徳川家臣に
※大河ドラマ「真田丸」で真田昌幸が「浅間山が噴火でもしない限り武田は滅びない」と言った直後に浅間山が噴火するシーンがある
1582(天正10).3 織田信忠,高遠城を落とし,仁科盛信(武田信玄五男)自害
1582(天正10).3 武田勝頼,未完成の新府城を破却,小山田信茂の岩殿城を目指す
1582(天正10).3 小山田信茂に裏切られ,武田勝頼・北条夫人・武田信勝・跡部勝資・土屋昌恒ら自害,武田家滅亡
※大河ドラマ「真田丸」では真田昌幸が武田勝頼に対し「我が岩櫃へ」と進言するシーンがある。岩櫃城,更に沼田城に行けばそのまま越後に赴き,妹菊姫の嫁ぎ先,上杉景勝に保護されていたかもしれない(今川氏真は北条家に保護され寿命を全うしている)。岩櫃に行かなかった理由としては,(1)外様の真田昌幸より譜代の小山田信茂を信頼した,(2)父祖伝来の甲斐を離れられなかった,が考えられる
・保科正俊・保科正直は箕輪城の内藤昌月(保科正俊の子)の下へ。正直の子,保科正光は徳川家康に従い高遠城を預かる
・安田信清(勝頼の異母弟)は高野山に逃れた後,異母姉・菊姫(上杉景勝正室)を頼って上杉景勝の下へ
・河窪信実(信玄の弟)の子河窪信俊(1564年生),また横田尹松,駒井政直(高白斎の子),武川衆の柳沢信俊も徳川家臣に
・土屋長安も徳川家臣となり,大久保忠隣の与力となって大久保長安に。土屋昌恒の遺児・土屋忠直(1582年生まれ)はのち徳川家臣に
・信玄四女の松姫は八王子に落ち延びる
・小山田有誠・小山田茂誠父子は北条氏に仕える
・森長可,信濃川中島四郡と海津城を任される。高坂昌元(高坂昌信の子),出浦昌相(盛清)は森長可麾下に
1582(天正10).4 真田昌幸,織田信長に通じ,滝川一益の麾下に
→沼田城には滝川益重(滝川一益の甥),小諸城には道家正栄(滝川一益の甥),松井田城には津田秀政(滝川一益の女婿)が入る。厩橋城の北条高広,箕輪城の内藤昌月,倉賀野城の倉賀野秀景,沼須城の藤田信吉,忍城の成田氏長も滝川一益の下に。岩付城の太田資正も通じる
1582(天正10).4 六角義定(六角義賢の子)を匿った甲斐恵林寺を織田家臣が焼き討ち。快川紹喜死去
1582(天正10).5 滝川一益,厩橋城で能興行,北条家も招かれる
・畿内にいた穴山信君は逃亡中,宇治田原で死去(殺害または自害)
・毛利長秀,森長可は尾張に退去。高坂昌元は上杉景勝の下に。出浦昌相は真田家臣に(1583年~)
・信玄四女の松姫出家(信松尼)
1582(天正10).6.3 柴田勝家により魚津城落城。三本寺景長・吉江宗信・吉江景資・中条景泰・竹俣慶綱ら玉砕(本能寺の変の翌日であった)
※上杉景勝は西の柴田と北の新発田に苦しめられたが,本能寺の変で危機を脱した
1582(天正10).6 本能寺の変を聞いた藤田信吉,上杉に通じて反乱,沼田城を攻めるが落とせず,越後に落ち延び上杉家臣に
1582(天正10).6 本能寺の変を聞いた北条氏政,5万人を動員して上野の滝川領を攻める
→神流川(かんながわ)の戦い(北条5万 vs 滝川 1.8万)
→敗れた滝川一益は厩橋城→小諸城→木曽谷→美濃→尾張→伊勢へ(7月)
→木曽谷を通る際,真田昌幸の母や真田信繁ら人質を木曽義昌に預ける。清洲会議には出席できず
→真田昌幸は滝川一益を諏訪まで送り届けた後,沼田城を奪回(6.21)
1582(天正10).6 北条軍,甲斐岩殿城を確保
1582(天正10).6.28 徳川家康,大久保忠世・石川康道・本多広孝らを甲斐に派遣
1582(天正10).7.12 北条氏直,川中島で上杉景勝と対峙するも決戦を避け甲斐へ転進
1582(天正10).7 高坂昌元,上杉から北条氏に内通するも発覚して処断される
1582(天正10).7~10 若神子対陣。甲斐若神子で徳川家康軍と北条氏直軍が対陣
・黒駒合戦で徳川軍が北条軍を撃退
・依田信蕃がゲリラ戦で徳川軍に協力
1582(天正10).9.25 真田昌幸,依田信蕃を介して徳川家康に鞍替え
1582(天正10).10 織田信雄の仲介で徳川家と北条家が和睦
・徳川家康の娘ふう(督姫)が北条氏直に嫁ぐ。甲信は徳川,上野は北条が切り取り次第とする
・鳥居元忠(甲斐都留郡),平岩親吉,岡部正綱(1584.1死去)が甲斐に入る
・依田信蕃は北条軍撤退後の小諸城を任される
・和睦条件として北条が沼田を要求。真田昌幸は反発
1583(天正11).2 依田信蕃,北条に就いた信濃岩尾城の大井行吉を攻め敗退,死去(享年36)
1583(天正11).3 信濃岩尾城の大井行吉,柴田康忠の説得で徳川に降伏
1583(天正11).9 北条氏直,北条高広(北条芳林)を降伏させ厩橋城を入手
1584(天正12).3 小牧・長久手の戦い(羽柴秀吉 vs 織田信雄+徳川家康)。羽柴方池田恒興,森長可,徳川方丹羽氏重(享年16)戦死
1584(天正12).11 羽柴秀吉,織田信雄と和睦。徳川家康も三河に帰還
→家康は次男の於義丸を秀吉の養子に差し出す(結城秀康)
1585(天正13).4 徳川家康,真田昌幸に対し沼田を北条に引き渡すよう要求→真田昌幸は拒否
1585(天正13).7 真田昌幸,次男信繁を人質に送って上杉景勝に臣従
1585(天正13).8 第一次上田合戦。真田昌幸,上田城に攻め寄せた鳥居元忠,大久保忠世,平岩親吉らを撃退
1585(天正13).11 徳川家の重臣石川数正,羽柴秀吉の下へ出奔し徳川家に激震
1585(天正13)冬 真田昌幸,豊臣秀吉に臣従。真田信繁は人質として秀吉の下へ
→真田信繁,豊臣秀吉の馬廻衆に(1万9千石)。大谷吉継の娘を正室に迎える
1586(天正14).11 豊臣秀吉の命で真田昌幸が徳川家康の与力大名に
1587(天正15).10 新発田重家,上杉景勝に敗れ自害,乱終結
1589(天正17).11 北条家臣猪俣邦憲が真田家の名胡桃城を奪取
1590(天正18)豊臣秀吉による北条討伐(小田原征伐)の軍起る
1590(天正18).3 前田利家,上杉景勝,真田昌幸,依田康国(依田信蕃の子)ら北国勢が碓氷峠に進軍,上野へ
1590(天正18).3.28 北国勢による松井田城(大道寺政繁)攻め開始
1590(天正18).3.29 討伐軍,力攻めで山中城を落とす。松田康長戦死。北条氏勝(北条綱成の孫),松田康郷(康長の弟)は脱出。攻め手側では一柳直末が戦死。中村一氏に仕えていた渡辺了(渡辺勘兵衛)が活躍
1590(天正18).4.8 小田原城の皆川広照,城を出て徳川家康に投降
1590(天正18).4.21 討伐軍,相模玉縄城(北条氏勝)を開城させる
※山中城を脱出した北条氏勝が籠っていた
1590(天正18).4.22 北国勢,松井田城を開城させる
1590(天正18)4.23 討伐軍,伊豆下田城(清水康英)を開城させる
1590(天正18)5.9 伊達政宗,小田原の豊臣秀吉の下へ出発
→北条家にとって頼れる味方がいなくなる
1590(天正18).5.22 北国勢,武蔵松山城を奪取。浅野長政ら,武蔵岩付城を落城させる
1590(天正18).5.27 堀秀政(名人久太郎)陣中で病没
※城主成田氏長は小田原におり,成田長親らが守った。石田三成は豊臣秀吉からの指示で水攻めを行うが失敗。小田原開城まで落とせなかった。『のぼうの城』の舞台
1590(天正18).6.14 北国勢,武蔵鉢形城(北条氏邦)を開城させる
1590(天正18).6.23 北国勢,力攻めで八王子城を落とす
※城主北条氏照は小田原におり,妻の比左は自害
1590(天正18).6.24 討伐軍,伊豆韮山城(北条氏規)を開城させる
※北条氏規(氏政の弟)は非開戦派であったが,3.29~6.24まで城を守った
1590(天正18).6.26 豊臣秀吉,石垣山城を完成させ,千利休,茶々,本阿弥光悦,本因坊算砂らも呼び寄せる
1590(天正18).7.5 北条氏直,豊臣秀吉に降伏を申し出る
1590(天正18).7.11 北条氏政・北条氏照切腹(8月に松田憲秀と大道寺政繁が切腹)
1590(天正18).7.13 豊臣秀吉が小田原入り。この日,徳川家康の関東移封が発表される
1590(天正18).7.16 武蔵忍城開城。成田氏長の娘 甲斐姫は豊臣秀吉の側室に
→北条家の旧領はほぼそのまま徳川領に。沼田城は真田昌幸に返還され,真田信幸の城に
1590(天正18).7〜8月 奥州仕置で蒲生氏郷が会津42万石に(翌年92万石に)
→真田信尹,曽根昌世は蒲生氏郷に仕える(石高が増え家臣の募集があったため?)
1590(天正18).12 北条滅亡後に真田家臣となった小山田茂誠,真田昌幸から小県郡村松郷を与えられる。昌幸の娘,村松殿を正室に
1591(天正19)大久保長安,八王子に8千石を与えられ,信松尼を支援
1592.12.8 文禄に改元
1592(文禄元)文禄の役:真田昌幸は肥前名護屋に在陣するも渡海はなし
1593(文禄2).8 真田昌幸,大坂に帰陣
→渡海がなかった代わりとして伏見城築城を負担
1593(文禄2).8 豊臣秀頼(拾)誕生
1594(文禄3).4 真田昌幸に従五位下安房守(私称から官位に)
1594(文禄3).11 真田信幸に従五位下伊豆守,真田信繁に従五位下左衛門佐
1595(文禄4)真田信幸と清音院殿との間に真田信吉誕生
※清音院殿の父(真田信綱)は真田信幸の父(真田昌幸)の兄のため,いとこ婚である
1595(文禄4).7 豊臣秀次自害→秀次の娘の一人隆清院は連座を逃れる
1596(文禄5)閏7.13 慶長伏見地震(この年地震多発し改元の理由に)
1596.10.27 慶長に改元
1597(慶長2).1 慶長の役
1597(慶長2)真田信幸と小松姫(本多忠勝の娘)との間に真田信政誕生
1598(慶長3)上杉景勝,越後から会津120万石に加増移封。堀秀治(堀秀政の子)が越後春日山30万石,村上義明が越後本庄(→村上)9万石,溝口秀勝が越後新発田6万石に
1598(慶長3).8.18 豊臣秀吉死去
1599(慶長4)閏3.3 五大老の一人前田利家死去→石田三成襲撃事件
1600(慶長5).2 上杉景勝,🏯神指(こうざし)城築城開始(完成には至らず)
1600(慶長5).2 越後国主堀秀治,上杉景勝が戦の準備をしていると訴え出る
1600(慶長5).3 非開戦派の藤田信吉,上杉家を出奔
1600(慶長5).4 上杉景勝,徳川家康からの召還命令を拒否(直江状)
1600(慶長5).6 徳川家康,会津征伐のため大坂城を出陣
1600(慶長5).7 石田三成ら挙兵
1600(慶長5).7 石田三成の挙兵を知った徳川家康,小山評定
1600(慶長5).7 犬伏の別れ(下野犬伏)。真田昌幸・真田信繁(大谷吉継の女婿)が西軍に,真田信幸(本多忠勝の女婿)が東軍に就く
1600(慶長5).8 西軍により伏見城落城,鳥居元忠ら戦死
1600(慶長5).9.2 東軍別働隊の徳川秀忠軍,小諸入り
1600(慶長5).9.3 真田昌幸,徳川秀忠に降伏を申し出
1600(慶長5).9.4 真田昌幸,降伏を撤回→第二次上田合戦
1600(慶長5).9.5 真田信幸,真田信繁が入っていた戸石城を接収
1600(慶長5).9.6 徳川秀忠軍の牧野康成,上田城下で稲を刈り取り→上田城兵と小競合い
1600(慶長5).9.8 徳川秀忠軍,上田城を放置し美濃へ転進→しかし関ヶ原本戦に間に合わず
1600(慶長5).9.15 関ヶ原の戦いで東軍勝利
→真田信幸は上田38000石+沼田27000石+加増30000石の95000石に
→死罪となった真田昌幸・真田信繁父子,本多忠勝の助命嘆願で高野山入りに
※真田昌幸の五女(趙州院)は滝川一積(滝川三九郎)の妻に
1600(慶長5).12 真田昌幸ら高野山へ向かう。昌幸正室は上田に残り(出家して寒松院),信繁妻子,高梨内記らは同行
→九度山にて真田信繁と正室竹林院(大谷吉継の娘)の間に真田大助(幸昌)誕生
1601(慶長6).12.19 九条兼孝が関白に(豊臣秀頼は権大納言)
1602(慶長7)西軍に就いた佐竹義宣を常陸水戸から出羽久保田に減転封
→常陸水戸には武田氏の名跡を継いだ武田信吉(徳川家康五男)が入る。家康の子とはいえ,武田氏が常陸に帰ってきた形となった
1602(慶長7)柳沢信俊の四男,柳沢安忠誕生(柳沢吉保の父)
1603(慶長8)2.12 徳川家康,征夷大将軍・右大臣・源氏長者に。江戸幕府開府
1603(慶長8).4.22 豊臣秀頼,内大臣に(徳川家康が右大臣に昇進して空いたため)
1603(慶長8).9.11 武田信吉死去。水戸藩主は家康十男の頼将(頼宣)に
1604(慶長9)真田信繁と隆清院の間に娘(直,御田姫🍢)誕生
1605(慶長10).4.13 豊臣秀頼,右大臣に。内大臣の後任は徳川秀忠
1605(慶長10).4.16 徳川家康将軍職を辞し,徳川秀忠が第二代将軍に
1607(慶長12)徳川家康,駿府へ移って大御所政治を始める
1609(慶長14).12.12 水戸藩主徳川頼将(頼宣)が駿河に転封。家康十一男の鶴松(頼房)が水戸藩主に(徳川光圀の父)
1611(慶長16).5 徳川秀忠と静の間に幸松丸誕生
1611(慶長16)浅野長政(4月),堀尾吉晴(6月),加藤清正(6月)死去
1611(慶長16).6.4 真田昌幸死去
1612(慶長17)真田信繁,出家して好白と名乗る
1613(慶長18).4 大久保長安事件
1613(慶長18).6.3 真田昌幸正室山手殿(寒松院)死去
1613(慶長18)頃 見性尼(見性院:信玄次女)と信松尼(信玄四女),八王子で幸松丸を養育
1614(慶長18)方広寺鐘銘事件(国家安康君臣豊楽)
1614(慶長18).9 片桐且元,織田信雄(常真)ら,大坂城を退去
1614(慶長18).10 豊臣家,各地に檄を飛ばし浪人を集める
→真田信繁,妻子と共に大坂城入城。瀬田で幕府軍を迎え撃つ作戦を主張するが却下され籠城戦に。信繁は出丸(真田丸)を築く
1614(慶長18).11.15 徳川家康,二条城から大坂城攻め開始(大坂冬の陣)
1614(慶長18).11.19 木津川口の戦い(幕府方が木津川口の砦を奪う)
1614(慶長18).11.26 鴫野の戦い(大和川南岸:上杉勢が鴫野の柵を占拠)
1614(慶長18).11.26 今福の戦い(大和川北岸)
1614(慶長18).11.28~29 野田・福島の戦い(幕府方が野田・福島を占拠)
1614(慶長18).11.29 博労淵の戦い(幕府方が博労淵の砦を奪う)
→豊臣方撤収,幕府方が大坂城を包囲
1614(慶長18).12.3 和平交渉開始
1614(慶長18).12.4 真田丸の戦い(幕府方,真田丸を攻めて損害を出す)
1614(慶長18).12.16 幕府方,大坂城へ一斉砲撃開始
1614(慶長18).12.17 本町橋の夜戦(塙団右衛門らが蜂須賀至鎮の陣に夜襲)
1614(慶長18).12.20 和平成立,砲撃停止
→堀の埋め立て開始
1614(慶長19).12.28 今川氏真,江戸にて死去(嫡男範以は1608年,早川殿は1613年に死去)
1615(慶長20).2 真田信尹(信繁の叔父)から信繁に内応の誘い
1615(慶長20).3 徳川方,豊臣方に浪人の解雇か豊臣家の移封を要求
1615(慶長20).4.27 豊臣方大野治房ら大和郡山城を落とし放火
1615(慶長20).4.28 豊臣方大野治胤による堺焼き討ち
1615(慶長20).4.29 樫井の戦いで大野治房ら,浅野軍に敗れ,塙団右衛門戦死
1615(慶長20).5.6 道明寺の戦い(道明寺・誉田合戦)で豊臣方連携が取れず後藤基次,薄田兼相戦死
1615(慶長20).5.6 八尾・若江の戦いで藤堂家臣桑名吉成,豊臣方増田盛次,木村重成ら戦死
1615(慶長20).5.7 天王寺・岡山の戦い(15万対5万)で本多忠朝(忠勝次男),真田信繁・高梨内記・堀田興重戦死
1615(慶長20).5.8 大坂城落城。豊臣秀頼,淀殿,大野治長ら自害。真田幸昌殉死。豊臣秀頼の正室千姫(徳川秀忠の長女)は脱出(1616年本多忠刻正室に)
→真田信繁正室・竹林院と娘あくりらは脱出。竹林院は出家して京にて死去(1649年)。あくり(あぐり)は蒲生郷喜の妻に(郷喜の息子の妻説もあり)
1615.7.13 元和に改元
1615(元和元).9.6 隆清院,京にて真田信繁の遺児・三好幸信を産む
1615(元和元)武田信道(武田信玄次男海野信親の子)とその子武田信正,伊豆大島に配流される(大久保長安事件の影響)
1617(元和3)保科正光が徳川秀忠の庶子幸松丸を養子に(保科正之:徳川家光の異母弟)
1618(元和4)【民間伝承】真田信繁は讃岐に落ち延び,この年,農民の娘との間に真田之親(石田之親)が生まれたという
1619(元和5).9.25 清音院殿(真田信吉の母)死去
1620(元和6).2.24 小松姫(真田信政の母)死去(享年48)
1620(元和6)大坂城再築工事開始(1629年完成)
1622(元和8)真田信之,信濃松代に加増移封(沼田3万石を併せ13万石)
1623(元和9).7.23 徳川家光が第三代将軍に
1627(寛永4)頃 御田姫(真田信繁の娘),岩城宣隆(佐竹義重四男で佐竹義宣の弟)の側室に
1628(寛永5)御田姫,岩城重隆を産む
1642(寛永19)真田信之に子が生まれる(19歳で出家し道鏡慧端に)
※真田信之が70代でもうけた子ということになるが……
↓道鏡慧端の庵(飯山市)。臨済宗中興の祖・白隠慧鶴は正受老人こと道鏡慧端の弟子である
1651(慶安4).8.18 徳川家綱が第四代将軍に
1656(明暦2).7.25 岩城重隆(御田姫の子:真田信繁の孫:豊臣秀次の曾孫)出羽亀田藩主に
1658(万治元).2.5 真田信政死去
→信政の子幸道と,信吉の子信直(信利)の間で松代藩の後継者争い
→真田幸道が松代藩主(10万石)として決定。真田信直は松代藩から独立した沼田藩主(3万石)に
1658(万治元).10.17 真田信之死去(享年93)
1658(万治元).12.18 柳沢安忠の子,柳沢吉保誕生(初名房安)
※第5代将軍徳川綱吉に仕え出世した
1663(寛文3)伊豆大島に配流されていた武田信正,許され江戸へ
※磐城平藩(いわきたいらはん)主内藤忠興の女婿となる(→1672)
1672(寛文12)武田信正の子,武田信冬(武田信興)誕生(→1700)
1680(延宝8).5 徳川綱吉が第五代将軍に
1680(延宝8).11 沼田藩主真田信直,治世不良により改易される
※松代藩に対抗するため無理な内政を行って領民を苦しめた
→沼田藩は天領,本多家(1703〜),黒田家(1732〜)を経て土岐家(1742〜)で幕末を迎えた
1684(貞享元)武田信正死去し,武田信冬は柳沢吉保(武川衆・横手源七郎の孫)が預かる
1700(元禄13)武田信冬(武田信興),幕府旗本に(→1738)
1727(享保12).5.27 松代藩主真田幸道死去。甥の真田信弘が継ぐ
1736(元文元).12.27 真田信弘死去。三男真田信安が継ぐ
1738(元文3).7.9 武田信興(武田信冬)死去,武田信安が継ぐ(→1779)
1752(宝暦2).4.25 真田信安死去。長男真田幸弘が継ぐ
1779(安永8)武田信安,柳沢吉保の曾孫の柳沢信明(武田信明)に家督を譲り隠居
・武田信玄の血筋から横手源七郎>>柳沢吉保の血筋(柳沢流武田家)に
1815(文化12).8.3 真田幸弘死去。男子がおらず,彦根藩主井伊直幸の九男が幸弘の娘・三千姫を娶って跡を継ぐ(真田幸専)
1828(文政11).7.27 真田幸専死去。男子がおらず,老中松平定信の庶長子が継ぐ(真田幸貫)
1841〜1843 天保年間。水野忠邦の天保の改革。真田幸貫,老中に抜擢される
1852(嘉永5).2.10 松平容保(会津藩主 松平容敬の甥で容敬の女婿となった)会津藩主に
※容保は叔父(容敬)の娘(敏姫)と結婚したので,いとこ婚ですね
1852(嘉永5).6.8 真田幸貫死去。孫の真田幸教が継ぐ
1862(文久2)閏8.1 松平容保,京都守護職に就任。12.24 京に向け出発
1866(慶応2).3.9 真田幸教,伊達宗城の子(真田幸民)に家督を譲って隠居
1868(慶応4)2月頃 真田幸民は新政府軍に就く
1868(慶応4).9.22 松平容保,新政府軍に敗れ降伏