フレイニャのブログ

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「高市」という名と奈良の関係

高市」という名と奈良の関係について,3点にまとめます

(1)高市早苗と奈良選挙区

1961年3月7日生まれ

1984年,神戸大卒業(高校は奈良県立畝傍)→松下政経塾5期生(1期生の野田佳彦に次ぐ2人目の塾出身の首相)

1989~1990,テレビキャスターとして活躍

1992年(31歳)参院奈良選挙区自民党の公認を得られず無所属で出馬,自民党候補に敗れる

1993年(32歳)衆院奈良全県区に無所属で出馬,5人の当選者中1位で当選(中選挙区制

1994年4月,柿澤弘治自由党結党時メンバー

1994年12月,柿澤自由党新進党結党に参加

1996年1月~6月,住専国会(第136回国会)。公金投入に反対して河村たかし野田佳彦新進党員と座り込み・ピケ戦術

1996年(35歳)10月,小選挙区制導入。衆院奈良1区新進党から出馬,自民党候補を破って当選(自民党239議席新進党156議席

1996年11月,新進党を離党,12月,自民党に入党(新進党は1997年末解散)

2000年(39歳)衆院比例近畿ブロック自民党から出馬し当選

2003年(42歳)衆院奈良1区に自民党から出馬,民主党馬淵澄夫惜敗率82.4%で敗れ,比例復活ならず落選

2004年(43歳)近畿大学経済学部教授。山本拓と結婚(一度離婚し再婚)

2005年(44歳)衆院奈良2区に,郵政造反組滝実(たきまこと)への刺客として送り込まれ国替え,当選(滝は自民党を離党し新党日本から比例復活)

2009年(48歳)衆院奈良2区に自民党から出馬,民主党滝実惜敗率96.1%で敗れ比例復活(民主党による政権交代選挙)

2012年,2014年,2017年,2021年,2024年,衆院奈良2区で5連勝中

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(2)奈良県高市郡

おそらく飛鳥時代大宝律令の頃から存在する由緒ある郡です。現在は高取町と明日香村(飛鳥村から改称)だけです。高取町には日本三大山城(美濃の岩村城備中松山城)の一つ,高取城があります。

藤原氏高市郡藤原に因み,藤原京もここに因むので,藤原氏藤原京は関係していますね。藤原京は現在の橿原市高市郡明日香村に跨っているそうです。ただし藤原京という呼称は後世に「藤原の地にあった京」の意味で呼ばれたものであり,当時の呼称ではないようです。

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↓この記事のアイキャッチ画像は以下の記事にあります

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(3)高市皇子(たけちのみこ)

天武天皇大海人皇子)と,豪族(宗形氏,宗像氏)の娘の子です。大海人皇子と甥の大友皇子弘文天皇)が戦った672年の壬申の乱では父のために戦って活躍しました。

異母弟に草壁皇子大津皇子(近江ではなく九州の那大津(なのおおつ)に由来)たちがいます。草壁皇子の母は鸕野讃良(うののさらら)皇后(天智天皇の娘;後の持統天皇),大津皇子の母は大田皇女(おおたのひめみこ)天智天皇の娘で鸕野讃良の姉)であったため,母が皇族ではない高市皇子は重要度において三番目でした。

しかし大津皇子は謀反の嫌疑をかけられて24歳で自害します(686年)

こうなると皇位継承者は草壁皇子なので,大津皇子の事件の裏に,草壁皇子の母である鸕野讃良皇后がいたとの説がありますね。

ところが草壁皇子も,27歳で死去してしまいます(689年)

この結果天武天皇(686年崩御)の後は,草壁皇子の子,軽皇子(後の文武天皇)が幼すぎるということで,成長するまでの繋ぎとして持統天皇が継ぎます(690年)。三人目で四代目の女帝です(皇極天皇斉明天皇が同一人物のため)

持統朝で高市皇子太政大臣となり,義母に当たる持統天皇を補佐しました。694年に藤原京遷都が起こっています。696年に高市皇子は亡くなりました(持統天皇は697年に文武天皇に譲位して初の上皇となり,703年崩御)。太政大臣は常設ではなく,次の太政大臣藤原仲麻呂(在官760~764年)のようですね。

(ここから脱線始まる)

高市皇子の長男である長屋王高市皇子より有名です。

文武天皇(697~707)の時に大納言,元明天皇(707~715)文武天皇の母)の時に右大臣であった藤原不比等中臣鎌足の子)が元正天皇(715~724)元明天皇の娘)の時に死去(720年)すると,長屋王が権勢を振るいました(右大臣→左大臣)。しかし不比等の子である藤原四兄弟武智麻呂(むちまろ)房前(ふささき)宇合(うまかい),麻呂)との権力争いになり,四兄弟の陰謀で長屋王は,聖武天皇の子の基王が1歳で夭折したのは長屋王が呪詛したからだとの嫌疑をかけられて妻子と共に自害します(729年の長屋王の変聖武天皇(724~749)の時)

長屋王が除かれたのは,藤原不比等の娘(四兄弟の妹)の光明子聖武天皇の皇后になることに長屋王が反対したためと言われます(光明子の父は不比等,母は豪族の娘であり,皇族の血が入っていなかった)。光明子は皇后となり,孝謙天皇(女帝)を産みました。孝謙天皇称徳天皇と同一人物)は道鏡を寵愛した天皇です。

長屋王の変の後,藤原四兄弟が実権を握るのですが,全員が737年の天然痘の流行で病死しました。この疫病や天災,反乱などの世の乱れに悩んだ聖武天皇が,仏教を深く信仰して奈良の大仏建立に繋がるわけですね(752年開眼供養)

長屋王の子らは全員が自害したわけでなく,長屋王藤原不比等の娘(藤原長娥子)との間に生まれた子らは生き延びています。例えば安宿(あすかべ)王は臣籍降下して高階(たかしな)氏の祖となり,その子孫の一人が百人一首54番を詠んだ高階貴子(儀同三司母(ぎどうさんしのはは)藤原道隆の妻)です。

↓儀同三司母の歌。ストレートに分かりやすい恋歌

ogurasansou.jp.net

(さらに脱線)

ここでの儀同三司とは藤原伊周(これちか)(『光る君へ』で三浦翔平が演じた)のことですが,自称であり,対して黄権(黄公衡)は239年に魏の宮廷から正式に儀同三司の地位を認められています(三公と同等の扱いを受けるという意味)

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持統天皇大津皇子自害事件についても触れている

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↓動画後半に藤原不比等,四兄弟,長屋王の話が出て来ます

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↓儀同三司母。清少納言が仕えた藤原定子の母でもありましたね

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