ヨーロッパに限定して第一次世界大戦,戦間期,第二次世界大戦の年表を作っていきます。両大戦だけでなく戦間期も扱い,ロシア革命,ヴァイマル共和国,世界恐慌などにも触れますので膨大な年表になると思います。但し欧州に限りますので東はロシア,トルコ辺りまで,南は地中海沿岸の北アフリカまでです。
~前史~
:1299~1922年なので覚え易い
1795,第三次ポーランド分割(ポーランド・リトアニア共和国がオーストリア,プロイセン,ロシアに分割される。ポーランドは1916年まで消滅)
1861年,🇮🇹イタリア王国建国(ヴィットリオ・エマヌエーレ2世)
1867,🇦🇹🇭🇺オーストリア=ハンガリー帝国(オーストリア=ハンガリー二重帝国)成立
1870,🇫🇷フランス第三共和政成立
1871,ドイツ帝国(ドイツ第二帝国)建国(ヴィルヘルム1世/宰相ビスマルク)
1873,独墺露三帝同盟
1877.4.24,露土戦争。🇷🇺ロシア,ルーマニア公国,ブルガリア公国,セルビア公国,モンテネグロ公国が🇹🇷オスマン帝国に勝利→サン・ステファノ条約
1878.3.3,サン・ステファノ条約。オスマン帝国がルーマニア,セルビア,モンテネグロの三公国の独立を承認。広大な領域を持つブルガリア公国成立
:独立三国やブルガリアのバックにロシアがいたため英・墺などが警戒→ビスマルクが仲介してベルリン会議→ベルリン条約
1878.7.13,ベルリン条約(サン・ステファノ条約の修正)。ブルガリア公国が三分割。セルビア,モンテネグロはトルコに領土の一部を返還。オーストリアはボスニア・ヘルツェゴビナの行政権を獲得
:不満なロシアは独墺露三帝同盟から脱退
~前夜~
1882,独墺伊三国同盟
1888.6.15,ヴィルヘルム2世即位
:英国のヴィクトリア女王の長女ヴィクトリアはドイツ皇帝フリードリヒ3世に嫁ぎ,ヴィルヘルム2世を産んだ。ヴィクトリア女王はヴィルヘルム2世の母方の祖母である
1889,パリで第二インターナショナル(国際社会主義者大会)設立
1894【三国協商】露仏同盟
1904【三国協商】英仏協商
1905,シュリーフェン計画立案
↓西部右翼は無理な進軍速度を強いられる
1906.1.1,シュリーフェン,ドイツ陸軍参謀総長退任。小モルトケが継ぐ
1907【三国協商】英露協商
1908.4.7,アスキス,🇬🇧英首相に(~1916.12.7)
:英王はエドワード7世→1910年からジョージ5世(~1936.1.20)
1908,オスマン帝国に従属していたブルガリア公国が独立,🇧🇬ブルガリア王国(第三次ブルガリア帝国)に
1909.7.14,フォン・ベートマン・ホルヴェーク,ドイツ帝国宰相に(~1917.7.13)
1908,オスマン帝国に従属していたモンテネグロ公国が独立,モンテネグロ王国に
1908.10,オーストリア=ハンガリー帝国,ボスニア・ヘルツェゴビナを併合
:セルビア王国や他のスラヴ系民族は反発
1911.9.29~1912.10.18,伊土戦争で🇮🇹イタリアが🇹🇷トルコに勝利してリビアを得る
“イタリア王国軍が陸海戦でオスマン帝国軍を圧倒する様子は,オスマン帝国の支配下から脱したばかりのバルカン半島諸国に大きな勇気を与えた”
1912.10.8,第一次バルカン戦争。バルカン同盟(ブルガリア,ギリシア,モンテネグロ,セルビア)がロシアの援助を受け,オーストリア・ハンガリーの援助を受けたオスマン帝国に勝利(→ロンドン条約)
1913.3.4,🇺🇸ウィルソン,米大統領に就任(~1921.3.4)
1913.5.30,ロンドン条約。オスマン帝国は🇦🇱アルバニアの独立承認,戦勝国に領土割譲
1913.6.29,第二次バルカン戦争。第一次バルカン戦争での取り分に不満を持った🇧🇬ブルガリアがセルビアとギリシアを攻撃。2国がブルガリアの攻撃を撃退し反攻を始めるとルーマニアとトルコが参戦してブルガリアが敗北→ブカレスト条約
1913.8.10,ブカレスト条約。🇧🇬ブルガリアは戦勝国に領土を割譲したが,第一次バルカン戦争以前よりは領土が16%増えた状態で終わった。第一次バルカン戦争以前と比べルーマニアは5%増,モンテネグロは約1.6倍,ギリシアは約1.7倍,セルビアは約2倍に
~1914年~
1914.6.28,ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボでサラエボ事件。オーストリア=ハンガリー二重帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナンド大公夫妻をボスニア系セルビア人青年が暗殺
:「セルビアのサラエボ」は誤りなので注意。セルビアの首都はベオグラード
↓銃撃に使われたFN ブローニングM1910 は峰不二子も使っている銃
1914.7.28,🇦🇹🇭🇺オーストリア=ハンガリー帝国,セルビアに宣戦布告
1914.7.30,🇷🇺ロシア,総動員
1914.8.1,ドイツ,ロシアに宣戦布告
1914.8.1,🇫🇷フランス,総動員
1914.8.2,ドイツ,ルクセンブルクを攻撃
1914.8.3,ドイツ,フランスに宣戦布告
1914.8.4,ドイツの戦時公債発行に社会民主党は反対せず→党内左派は反発,スパルタクス団(ドイツ共産党の前身)の結成に繋がる
1914.8.4,ドイツ第1軍,第2軍,ベルギーに侵攻
1914.8.4,🇬🇧イギリス,ドイツに宣戦布告
:イギリスはジョン・フレンチ陸軍元帥の下,イギリス海外派遣軍(BEF)を編成
↓フレンチという名のイギリス元帥
1914.8.4~8.10,ゲーベン追跡戦。独の巡洋戦艦ゲーベンと軽巡洋艦ブレスラウが🇬🇧英海軍に追跡され🇹🇷オスマン帝国のコンスタンティノープルに逃げ込む。オスマン帝国は2艦を購入して船員ごと自国海軍に編入
1914.8.4,🇦🇹🇭🇺オーストリア=ハンガリー帝国,総動員
:以降「墺洪」と略記
1914.8.5~8.16,リエージュの戦い(ベルギー)でドイツ,リエージュ要塞を攻略
:ルーデンドルフが参謀として活躍
:クルップ社の攻城砲「ディッケ・ベルタ」が活躍
:ベルギーでは1914.8〜10の間に民間人6500人が犠牲になった
1914.8.7,仏,アルザスのミュルーズを占領
:仏は普仏戦争で奪われたアルザス=ロレーヌ(エルザス=ロートリンゲン)地方を狙った
1914.8.9,独,アルザスのミュルーズを奪還
1914.8.12,🇦🇹🇭🇺オーストリア=ハンガリー帝国,セルビアに侵攻。8月のツェルの戦い,11~12月のコルバラの戦いでセルビアが勝利
“セルビアがオーストリア=ハンガリーの侵攻を撃退したことは20世紀の戦闘における番狂わせの一つと言われた”
1914.8.20,仏,ロレーヌとザールルイに侵攻開始
:ザール川とルイ14世に因む都市
:仏の第1~4軍は独の第4~7軍に敗れ,左翼の第5軍と英軍も敗北
:仏軍は8.20~8.23の間に4万人の戦死者(主に機関銃による)
:ドイツ第5軍(ヴィルヘルム・フォン・プロイセン/ヴィルヘルム2世の皇太子)
:ドイツ第6軍(ルプレヒト・フォン・バイエルン/バイエルン王太子)
:ドイツ第7軍(ヨシアス・フォン・へーリンゲン/元陸相)
1914.8.20,独第1軍(フォン・クルック),ブリュッセルを占領
“前線が拡大するにつれて,ドイツの攻勢の奇襲性が失われ,ドイツ軍右翼が伸び切ったためその数的優位も失われた。ドイツ軍が進軍するにつれて,ドイツ軍の連絡線が伸び,フランス軍の連絡線が縮んだのだった”
:ドイツ第2軍(カール・フォン・ビューロウ/1846年生で普墺・普仏戦争に従軍)
:ドイツ第3軍(マックス・フォン・ハウゼン/1846年生でザクセン王国軍事相)
:ドイツ第3軍(1914.9.9にカール・フォン・アイネムと交代)
:ドイツ第1~3軍は北仏に侵入するが第1軍は疲弊,また側面を突かれる危険性も
1914.8.20【東部戦線】グンビンネンの戦い
:露第1軍(レンネンカンプ)対 独第8軍(フォン・プリットヴィッツ)で露軍勝利
:プリットヴィッツ解任されヒンデンブルクが第8軍司令官に(のちフォン・べロウに)
:若くて(1865年生)司令官資格がなかったルーデンドルフは参謀に
:小モルトケは東部戦線のために西部戦線第1軍・第2軍から一部を引き抜いてしまう
1914.8.17~9.2【東部戦線】タンネンベルクの戦い
:露第1軍(20万+/レンネンカンプ)+第2軍(20万+/サムソノフ)対 独第8軍(15万/フォン・プリットヴィッツ→フォン・ヒンデンブルク)で独軍勝利
“ロシア軍の兵力はドイツ軍の2倍以上であったが,ロシア軍は無線による指令文に暗号を用いなかったため,ドイツ軍はロシア軍の無線の内容を傍受した”
“この戦いで注目すべきは,ドイツ軍が鉄道を利用して素早く大量の兵力を移動させ,ドイツの1個軍が,それぞれ自軍の兵力を上回るロシアの2個軍の各個撃破に成功したことである”
“ロシア軍は多数のコサックと騎兵を展開したが,馬は1頭あたり10人の兵に対する補給物資が必要であった”
:サムソノフは第2軍壊滅の責任をとって自決(8.29)。レンネンカンプについては→1918.4.1
1914.8.23,🇯🇵日本,ドイツに宣戦布告
1914.8.23~9.11【東部戦線】ガリツィアの戦いで露が墺洪に勝利,ガリツィア・ロドメリア王国(現在のポーランドとウクライナに跨る。首都レンベルクは現在のリヴィウ)を占領
1914.8.26~9.1【東部戦線】レンベルクの戦いで墺洪,レンベルク奪還に失敗
1914.8.30,独,パリの包囲計画を放棄
1914.9.6~9.12,第一次マルヌ会戦
:仏軍はタクシー630台で4000人を援兵。仏英軍100万の中では0.4%だが象徴的存在に
:英軍が独第1軍・第2軍の間隙を突き独第1軍包囲される
:独軍撤退,これによりシュリーフェン計画失敗
“あらかじめ次善の策を用意していなかった両陣営は,泥沼の塹壕戦に突き進んでいくことになる”
1914.9.13~10.19,海への競争(Race to the Sea)
:先に北海に到達することで相手を包囲しようとする競争
:互いに決定打を打てず前線が広がっただけに終わった
1914.9.14,マルヌの敗戦の責任を取り小モルトケ,参謀総長を辞任。後任はフォン・ファルケンハイン(1916.8.29)
1914.9.16,第一次エーヌ会戦
:独軍が塹壕を掘って踏み留まったため塹壕戦への移行のきっかけに
1914.9.19【東部戦線】ブレスラウでドイツ第9軍創設(最初の司令官はヒンデンブルク)
:東部戦線の南部を担当。露に劣勢だった墺洪軍の左側面を守る
:ワルシャワ占領を目指しヴィスワ川に達するも露軍の抵抗で失敗
:露軍は勢いづきシュレージエンやハンガリーを窺う(→1914.12.6)
1914.9.24【東部戦線】第一次プシェムィシル包囲戦で露軍がプシェムィシルを包囲するも墺洪軍が解囲(10.11)
:現在はポーランドのほぼ南東端にある
1914.9.27,🇹🇷オスマン帝国,ダーダネルス海峡を封鎖
:黒海からエーゲ海に抜ける際の,エーゲ海に近い方の海峡。黒海に近い方(イスタンブールがある方)はボスポラス海峡。ダーダネルス海峡にはガリポリ(ゲリボル)がある
:輸入の3割が黒海経由だった🇷🇺ロシアは経済的打撃
1914.10.19~11.22,第一次イーペル(イープル)会戦
:ベルギー西部にある
:両軍共に10万内外の損害を出したが勝敗つかず
“行軍の競争は第一次イーペル会戦とともに終結した。(中略)戦闘は塹壕戦に移行した”
1914.10.29【東部戦線】🇹🇷オスマン帝国海軍,🇷🇺黒海沿岸を襲撃
1914.11.初,🇬🇧英🇫🇷仏🇷🇺露,🇹🇷オスマン帝国に宣戦布告
1914.11.6【中東】アル=ファオ上陸戦。🇬🇧英軍がペルシア湾の🇹🇷ファオ半島に上陸成功
1914.11.9【東部戦線】第二次プシェムィシル包囲戦始まる(→1915.3.22)
1914.11.18,ファルケンハイン,ベートマン=ホルヴェーク宰相に外交を通じた終戦を提案
:ヒンデンブルク,ルーデンドルフ,小モルトケは外交による終結に反対
ファルケインハインは“ルーデンドルフには「犯罪者」呼ばわりされたうえ,1915年1月にはプロイセン王国陸軍相を解任された”(参謀総長には留まる)
1914.11,イギリスによる海上封鎖(ドイツ封鎖)
:ドイツ民衆は生活に苦しみ,飢饉も発生(1916~1917年のカブラの冬)
“イギリス海軍のこの行動は1856年のパリ宣言に反するものだった”
“ドイツは第一次世界大戦開戦当時,食料の1/3を輸入に依存していたと言われている”
1914.11.23,🇬🇧英軍,🇹🇷バスラ(現イラク)を占領
1914.12.5〜12.17【東部戦線】ロシアによるクラクフ(ポーランド)進軍を墺洪軍が防ぐ
1914.12.6【東部戦線】独第9軍,ロッヅ(ウッチ,ウージ)を占領
:これにより露軍のシュレージエン侵入の危険性はなくなる
1914.12.20~1915.3.17,第一次シャンパーニュ会戦(独対仏,勝敗つかず)
1914.12.22~1915.1.17【カフカス戦役】サリカミシュの戦いで🇹🇷オスマン帝国が🇷🇺ロシアに敗北
1914.12.24~12.25,西部戦線の一部でクリスマス休戦🎄
:国が定めたものではなく,現場指揮官の判断で行われたため,休戦が行われなかった所もある一方で,元日まで休戦した所も
:翌年からは禁止された
↓両陣営の将校で記念撮影までしている
~1915年~
1915.2.7~2.22【東部戦線】第二次マズーリ湖攻勢で独第8軍,第10軍が露第10軍,第12軍に勝利
1915.2.18,独,潜水艦作戦を開始(同年2.4に公表)
1915.2.19~1916.1.9【東部戦線】ガリポリの戦いで🇹🇷オスマン帝国が🇬🇧🇫🇷協商軍を撤退させる
(敗戦の結果)“アスキス首相が辞任して,ロイド・ジョージが新首相に就任した。ウィンストン・チャーチルはこの作戦の立案者であったため失脚した”
1915.3.22【東部戦線】墺洪のプシェムィシルの守備隊,露に降伏(←1914.11.9)(→1915.6.4)
1915.3,独軍第1軍司令官のフォン・クルック負傷,フォン・ファベックと交代
1915.4.19~5.17,ヴァン攻囲戦。🇹🇷オスマン帝国のアルメニア人弾圧に対しヴァン県のアルメニア人が反乱。ロシア軍の接近によりオスマン帝国軍が撤退
1915.4.22~5.25,第二次イーペル会戦で独軍勝利,イーペルを占領
:毒ガス(塩素ガス)が使われた(ハーグ陸戦条約に違反)
:英仏軍はガスマスクで対応するようになった
1915.4.26,ロンドン条約(ロンドン密約)
:🇮🇹イタリアは三国同盟に属していたにも拘らず,未回収のイタリアの割譲を約束されて,🇬🇧🇫🇷🇷🇺協商側で戦うことを約束(→1915.5.23)
1915.5.2~7.22【東部戦線】ゴルリツェ=タルヌフ攻勢で独第11軍と墺洪軍が露に勝利(→1915.7~9)
:共に現在はポーランドにある
1915.5.7,独潜水艦U-20,英船籍の旅客船🚢ルシタニア号を撃沈,🇺🇸アメリカ人128名を含む1198名死亡
1915.5.9~6.18,第二次アルトワ会戦。英仏軍は10万以上,独軍は7万以上の死傷者
1915.5.23,🇮🇹イタリア,墺洪に宣戦布告
“ベニート・ムッソリーニは1914年10月以降参戦を訴えて,イタリア社会党から除名処分を受けていた”
(伊参戦の結果)“オーストリア=ハンガリーは三正面作戦(セルビア,ロシア,イタリア)を強いられ,中央同盟国の情勢がさらに厳しくなった”
1915.6.4【東部戦線】独軍と墺洪軍,プシェムィシル奪還
1915.6.23~7.7【イタリア戦線】第一次イゾンツォの戦いで🇮🇹イタリアが墺洪に辛勝
:イゾンツォ川は現在のイタリア・スロヴェニア国境付近を南北に流れアドリア海に注ぐ川
1915.7.18~8.3【イタリア戦線】第二次イゾンツォの戦いで🇮🇹イタリアが墺洪に辛勝
1915.7~,フォッカーの懲罰。フォッカーの単葉戦闘機が英仏軍の偵察機を一掃
1915.7~9【東部戦線】🇷🇺露軍の大撤退
1915.8.25【東部戦線】独軍,ブレスト=リトフスクを占領
1915.9.19【東部戦線】独軍,リトアニアの首都ヴィルニュスを占領
1915.9.25~10.8,ローの戦い。英軍は約6万,独軍は約2.6万の死傷者。独軍勝利
1915.9.25~11.4,第三次アルトワ会戦。英仏軍は10万以上,独軍は約5万の死傷者
1915.9.25~11.6,第二次シャンパーニュ会戦。仏軍は14万以上,独軍は7万以上の死傷者。独軍勝利
1915.9.末【東部戦線】独軍のミンスク(現ベラルーシ首都)進軍,墺洪軍のリウネ(現ウクライナ)進軍は失敗
1915.10.14,🇧🇬ブルガリアが中央同盟国側で参戦,セルビアに宣戦布告
“セルビアは数的には劣勢に”
“ギリシアは1913年6月1日にセルビアと相互援助条約を締結したが,連合国軍の支援が不足しているとして参戦を拒否した”
1915.10.18~11.3【イタリア戦線】第三次イゾンツォの戦いで墺洪が🇮🇹イタリアに勝利
1915.10.24,🇬🇧マクマホンから🇹🇷メッカ太守フサイン・イブン・アリーへの第二の書簡(フサイン・マクマホン協定)
:マクマホンはフサインに,オスマン帝国に反乱を起こせば戦後アラブ人の国を保証すると約束(→1916.7.10)
1915.11.5【東部戦線】セルビアのニシュ陥落
“セルビア軍は(中略)山岳地帯に撤退”
“占領されたセルビアはオーストリア=ハンガリーとブルガリアの間で分割された”
1915.11.10~12.2【イタリア戦線】第四次イゾンツォの戦いで🇮🇹イタリアが墺洪に辛勝
1915.11.22~11.25【メソポタミア戦役】クテシフォンの戦いで🇹🇷オスマン帝国軍が🇬🇧英軍の進軍を阻止
1915.11.30,ベルリンで女性58人のデモ(食糧不足による)
:農村では闇市が隆盛
~1916年~
1916.1.4~1.23,墺洪,モンテネグロ王国に侵攻。ニコラ1世降伏し仏に亡命
“アルバニア王国も約3分の2の領土をオーストリア=ハンガリー軍に占領された”
1916.2.21~12.19【地獄すら生ぬるい】ヴェルダンの戦いで🇫🇷仏が独に勝利。死者は両軍で25万以上,死傷者は両軍で70万以上
:仏軍に損害を強いるのが目的だったが独軍にも同程度の損害。ファルケンハインは責任をとって陸軍参謀総長を辞任(1916.8.29/後任はヒンデンブルク)
:この戦いで🇫🇷ド・ゴールは独軍の捕虜となり,バイエルンのインゴルシュタット城などに収容された。終戦までに5度脱獄を試み失敗した
1916.3.9~3.17【イタリア戦線】第五次イゾンツォの戦いは引き分け
1916.3.24,独潜水艦UB29,🛳客船サセックスを雷撃,死者50名以上
:失敗した独立運動(→1921.1.21)
1916.5.16,サイクス・ピコ協定(🇬🇧サイクス,🇫🇷ピコ,🇷🇺外相サゾノフ)
:戦後のオスマン帝国領からの英仏露各国の取り分を取り決め
1916.5.31~6.1,ユトランド沖海戦(英151隻 対 独99隻)
:英はインディファティガブル,クイーン・メリー,インヴィンシブルなど,独はリュッツオウ(自沈),ポンメルンなどが沈没
:独海軍は自軍以上の損害を英海軍に与えたが,海上封鎖は解除できず,独臣民の生活困窮は続く
1916.6.4~9.20,ブルシーロフ攻勢で🇷🇺露が墺洪+独軍に勝利
:舞台はガリツィア・ロドメリアの辺り
:露の死傷者は44万,中央同盟国の死傷者は55万~90万+捕虜40万
1916.6.10,🇹🇷オスマン帝国領でアラブ人の反乱。フサイン・イブン・アリー,紅海東岸にアラブ人国家ヒジャーズ王国を建国(←1915.10.24)
:🇬🇧トマス・エドワード・ロレンス(アラビアのロレンス)が協力
1916.7.1~11.18,ソンムの戦い。英仏軍の損害は65万,独軍の損害は40~50万
:英軍は初日で1.9万人が戦死
:終盤には戦車も登場
:英首相アスキスの長男が戦死。ヒトラーも負傷して戦傷章を受章
1916.7,レーニン,スイスで『帝国主義論(資本主義の最高の段階としての帝国主義)』を書き上げる(刊行は1917年)
:レーニンの予言:資本主義が最高に発達すると帝国主義になる(商品を売り捌く市場が必要となるため)。いずれ革命が起こって社会主義が到来。ロシアでは実現したが,ドイツでは革命は起こったものの,社会民主党によって資本主義が維持された。また肥前栄一によると,そもそもロシアは資本主義が高度に発達した国だったのかという疑問がある(『ドイツとロシア』)
1916.8.6~8.17【イタリア戦線】第六次イゾンツォの戦いは🇮🇹イタリアの勝利
1916.8.27,🇷🇴ルーマニア,墺洪に宣戦布告
1916.8.28,🇮🇹イタリア,独に宣戦布告
1916.8.29,ファルケンハイン,陸軍参謀総長を解任される。後任はヒンデンブルク
:ファルケンハインはルーマニア戦線で活躍(→1916.9.26)
1916.9.14~9.17【イタリア戦線】第七次イゾンツォの戦いは墺洪の勝利
1916.9.26~9.29【東部戦線】シビウの戦いで独第9軍(ファルケンハイン)が🇷🇴ルーマニア軍に勝利
1916.10.8【東部戦線】墺洪,ルーマニアのクロンシュタット(ブラショヴ)を占領
1916.10.10~10.12【イタリア戦線】第八次イゾンツォの戦いは墺洪の勝利
1916.11.1~11.4【イタリア戦線】第九次イゾンツォの戦いは墺洪の勝利
1916.11.5,独と墺洪の提案で🇵🇱ポーランド摂政王国建国
:通貨はポーランド・マルクでドイツの傀儡国家。ポーランド国防軍も創設されたが5000人しか集まらなかった
1916.12.6【東部戦線】中央同盟国,🇷🇴ルーマニアのブカレストを陥落させる
:ルーマニアは背後のロシアしか味方がおらず,ドイツ,墺洪,ブルガリア,オスマン帝国に囲まれ敗退した
:ルーマニアのフェルディナンド1世は北東部のヤシ(現在のモルドバのすぐそば)に撤退
1916.12.6,🇬🇧英首相アスキス辞任(12.5)。ロイド・ジョージ英首相に(~1922.10.19)
:12.10からは元首相バルフォアが外相に
1916.12.12,中央同盟国によるルーマニアへの講和案を🇷🇴ルーマニアは拒否
1916.冬,ドイツでカブラの冬
:海上封鎖の上,ジャガイモの凶作があり,ルタバガ(カブラ)で飢えをしのぐ事態に
“第一次世界大戦中のヨーロッパ大陸では,他の食物が底をついたあと最後に食べるものとされ,食物としては不評だった”
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取り敢えず1914~1916年の3年分を作りました。次は1917~1919年くらいを頑張ってみようと思います。
(以下は草稿です)
~1917年~
1917.1.16,ツィンメルマン(ツィマーマン)電報事件
:独外相ツィンメルマンがメキシコに対し,もしアメリカと戦ったらドイツは援助すると申し出。🇬🇧イギリスが傍受解読して🇺🇸米に通報。メキシコも断る(→1917.3.1)
1917.2,ドイツで毎日の食料配給が1000キロカロリー分まで下がる
1917.2.1,独,無制限潜水艦作戦を再開
1917.2.2,🇺🇸米,ドイツと断交
1917.3.1,🇺🇸『ニューヨーク・タイムズ』がツィンメルマン電報事件を公表,米世論悪化
1917.3.8~3.12(旧暦2.23~2.27)【ロシア二月革命】国際婦人デーに🇷🇺首都ペトログラードで食料配給の改善をめぐるデモ→デモに警官隊が発砲→兵が反乱
:(結成された)“ソビエトの執行委員会は主にメンシェヴィキと社会革命党で構成された”
1917.3.15,🇷🇺ニコライ2世退位
1917.3.16,🇷🇺ロシア臨時政府成立
:“ロシア民衆の大半が望んだのと違い,臨時政府は戦争継続を決定”
1917.4.3,レーニンらボリシェヴィキ約30人,🇷🇺ロシアに帰国
:レーニンはスイスにいた。“ドイツ政府はレーニンのような反体制分子は敵国ロシアに混乱をもたらすと判断し、彼とその妻を含む32名のロシア人が封印列車に乗り込み、ドイツ領内を通過して母国へと向かうことを許可した”
1917.4.4,🇷🇺レーニンの四月テーゼ(戦争継続反対,臨時政府を認めない,権限をソヴィエトに)
1917.4.6,🇺🇸米,ドイツに宣戦布告
1917.4.13,🇯🇵第二特務艦隊(旗艦明石),マルタに着
:輸送船団の護衛任務。788隻を護衛,75万人の人員を運んだ
1917.5.4,🇯🇵第二特務艦隊の駆逐艦松と榊,U-63に雷撃されたマルセイユ発の輸送船トランシルヴァニア(412名死亡)の生存者救助活動
1917.6.11,🇯🇵榊,Uボートの雷撃を受け艦長以下59名戦死
1917.7.1~7.19,🇷🇺ケレンスキー攻勢でロシア,独墺軍に敗北
1917.7.13,フォン・ベートマン・ホルヴェーク宰相辞任。後任はミヒャエリス
1917.7.16〜7.20,🇷🇺で兵士や労働者の蜂起が失敗(七月蜂起)
1917.7.21,🇷🇺ケレンスキー内閣成立(第二次連立内閣)
:社会革命党(SRエスエル),メンシェヴィキ,立憲民主党(カデット)など
1917.11.1,独のミヒャエリス宰相辞任。後任はフォン・ヘルトリング
1917.11.2,🇬🇧バルフォア宣言(英外相バルフォアのウォルター・ロスチャイルドへの書簡)
1917.11.7(旧暦10.25)🇷🇺十月革命(ボリシェヴィキ革命)
:臨時政府メンバーは逮捕される。ケレンスキーは脱出し,首都ペトログラード奪還を目論むが,失敗しフランスに亡命(1970年,ニューヨークで死去)
1917.11.8,ソヴィエト政権による「土地に関する布告」
:地主制の廃止。普通の農民と普通のカザック以外の土地を没収
1917.11.9,ソヴィエト社会主義ロシア共和国成立
:ソヴィエト社会主義共和国連邦は1922年
1917.11.9,ソヴィエト政権による「平和に関する布告」
:「無賠償」「無併合」「民族自決」。🇺🇸ウィルソンにも影響を与えた
1917.11.22,ウクライナ人民共和国成立
1917.12.6,フィンランド王国,ロシアから独立(→1918.12.14)
1917.12,ロシア共和国の赤軍がウクライナに侵攻(ソヴィエト・ウクライナ戦争)
1917.12,🇺🇸米,墺洪に宣戦布告
1917.12.25,ロシア赤軍,ウクライナ人民共和国(ソヴィエト派)をハルキウ(ハリコフ)に樹立
:ウクライナの中央ラーダ(中央議会),キーウを脱出
1918.2.9,中央同盟国とウクライナ人民共和国(ラーダ)がブレスト=リトフスク条約で講和
1918.2.16,ウクライナ人民共和国(ラーダ)軍,ドイツ軍と共にキーウ入城
1918.2.16,オーストリア軍,キーウ入城
1918.2.16,リトアニア共和国,ロシアから独立
1918.2.24,エストニア共和国,ラトビア共和国,ロシアから独立
1918.3.3,ブレスト=リトフスク条約によりロシア共和国が中央同盟国と講和,第一次世界大戦から離脱
:ロシアはフィンランド,バルト三国,ポーランド,ウクライナなどの地域の権利を放棄
1918.4.1,レンネンカンプ,赤軍により銃殺される(赤軍の指揮を取るのを断った)
1918.7.17,ニコライ2世とその家族銃殺さる
:白軍(反革命軍)に奪還されることをソヴィエト委員会が恐れたため
1918.7.22,🇯🇵米騒動(~9.12)
1918.8.12,🇯🇵日本軍(寺内正毅内閣)ウラジオストク上陸(シベリア出兵)
:合計7.3万を派兵した(当初の米との取り決めは8千名)。撤兵決定は1922年
1918.12.14,フィンランド王国がフィンランド共和国に
1918.12.20,ロシア赤軍,ウクライナに侵攻(ソヴィエト・ウクライナ戦争)
1919.1.21~1921.7.11,🇮🇪アイルランド独立戦争(→1922.12.6)
1919.2.5,ロシア赤軍,キーウを占領(→8.31)
1919.8.31,ウクライナ軍,ロシア赤軍からキーウを解放
1921.3.4,🇺🇸ハーディング,米大統領に就任(~1923.8.2)
1921.4.25,🇯🇵皇太子(後の昭和天皇)マルタ島で第二特務艦隊の戦死者の慰霊
1922.12.6,🇮🇪アイルランド自由国建国(1921.12.6 英愛条約に基づく)
:プロテスタントの多い北アイルランドは自由国から離脱して🇬🇧英国に留まる
1923.8.2,🇺🇸クーリッジ,米大統領に就任(~1929.3.4)
1929.2.11,🇮🇹イタリア王国(ファシスト政権下)とローマ教皇庁のラテラノ条約
1929.3.4,🇺🇸フーヴァー,米大統領に就任(~1933.3.4)
1933.3.4,🇺🇸ローズヴェルト,米大統領に就任(~1945.4.12)
1933.7.20,ナチス・ドイツとバチカンのライヒスコンコルダート
:カトリック系の中央党は7月に解党