フレイニャのブログ

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イギリス史・アイルランド史年表~1453年

⭐️1330~1453年を新規追加❗️

 

アメリカ史年表1755-1900」「アメリカ史年表1900-1945」「日本の政治史年表1980-」に引き続き,「イギリス・アイルランド史年表」を作っていきます。ブリテン島とアイルランド島の歴史ですので,ウェールズスコットランドも含みます。

中田敦彦さんが動画『イギリス史①』で「地獄でした」と仰っているように,イギリス史はアメリカ史と比べてかなり複雑で大変です。だからかなり苦労すると思いますが,時間をかけて少しずつ作っていこうと思います。「こんな出来事もあるよ」という情報のお持ちの方は是非コメント欄で教えて下さい。なおウィキペディア情報で作っていきます。

 

凡例 愛……アイルランド 蘇……スコットランド 威……ウェールズ

 

???【伝説】トロイのブルータス(ブルートゥス)と英雄コリネウス,アルビオン(イギリス)に上陸。ブルータスは島をブリテンと名付ける。コリネウスはコーンウォールの巨人ゴグマゴグを倒す

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???【伝説】ブルータス,テムズ川岸にトロイア・ノヴァ(Troia Nova)を建設,トリノヴァントゥム(Trinovantum)と呼ばれるように(ロンドンの源)

???【伝説】ブルータスの死後,息子のロクリヌスはイングランドを,カンベルはウェールズを(カンブリアはウェールズの古称),アルバナクトゥスはスコットランドを(アルバはスコットランドの古称)相続。コリネウスの娘グウェンドリン(グエンドレナ)はロクリヌスと結婚

???【伝説】コリネウスの死後,ロクリヌスはグウェンドリンと別れ,ドイツの王女エストリルディスと結婚。グウェンドリンはロクリヌスを敗死させ,15年間ブリテンの王に

???【伝説】グウェンドリンの後,息子のマッダンが王位を継ぐ

紀元前55,カエサルによる第一次ブリタンニア侵攻

紀元前54,カエサルによる第二次ブリタンニア侵攻

:カッシウェラウヌス(カッシベラヌス,カスワッラウン)がカエサルにゲリラ戦術で対抗。最後は降伏するが,カエサルは大した戦利品を得ることはなかった

紀元前50頃【伝説・愛】コナル・ケルナハ誕生(アルスター伝説)

クー・フーリンの物語はこの辺か

30頃【伝説・愛】コンホヴァル・マク・ネサ,キリストの磔刑を聞いて憤死

30頃,アリマタヤのヨセフ,イエスの血を受けた聖杯を持ってイギリスに渡る

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~ローマの時代始まる~

43,ローマ皇帝クラウディウスによるイングランドブリタンニア)遠征(-44)

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59,ローマ帝国のガイウス・スエトニウス・パウリヌスがブリタンニア総督に

60/61,ケルト人イケニ族のブーディカ女王がローマに反乱。ワトリング街道の戦いでガイウスがブーディカを破り鎮圧

↓写真はチャリオットに乗るブーディカ

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71,ローマ帝国のクイントゥス・ペティリウス・ケリアリスがブリタンニア総督に

78,ローマ帝国のグナエウス・ユリウス・アグリコラブリタンニア総督に(-85)。北ウェールズカレドニアスコットランド)に遠征

タキトゥス(56頃-120頃)の妻はアグリコラの娘であり,タキトゥスアグリコラについての本を書いている

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83/84【蘇】アグリコラ,グラウピウス山の戦い(モンス・グラウピウスの戦い)でカルガクス率いるカレドニア人(ピクト人)を破る

↓画像は演説するカルガクス

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117,ローマ皇帝ハドリアヌス即位(-138)※五賢帝

122,ハドリアヌスの長城建設開始。10年後完成

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138,ローマ皇帝アントニヌス・ピウス即位(-161)※五賢帝

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142-144,アントニヌスの長城建設

↓の地図に載っている北側がアントニヌス,南側がハドリアヌスの長城

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164,ローマ,アントニヌスの長城を放棄,ハドリアヌスの長城まで撤退

193,ローマ皇帝セプティミウス・セウェルス即位(-211)。セウェルスはブリタンニア遠征を行い,ハドリアヌスの長城を補修。遠征中エボラクム(現ヨーク)で死去

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:セプティミウス軍はマレー湾にまで到達した

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313,ローマ帝国でミラノ勅令。キリスト教を含む信教の自由が認められたとされる

375,フン族に押されてゴート族が南下,ローマ帝国領に侵入

395,ローマ帝国の東西分裂とされる年

4世紀末【愛】ニーアルアイルランドの北半分を治めた

5世紀,ユトランド半島のジュート人・アングル人,北から到来したデーン人の侵攻を受ける

5世紀,アングル人,サクソン人(ザクセン人),ジュート人,イングランドに侵入

406,ヴァンダル族ガリアに侵入

409,西ローマの暗君ホノリウス,ブリタンニアを放棄

432【蘇】スコットランドキリスト教を布教した聖ニニアン死去

434,アッティラ(エツェル)が兄ブレダと共にフン族の王となる

445頃,アッティラフン族の単独の王となる。以降,ヨーロッパに侵入

アングロ・サクソンの時代始まる~

449(447?),ブリトン人(ローマ化したケルト人)の上王ヴォーティガーン,スコット人・ピクト人に対抗するため,サクソン人傭兵らをブリテン島に招き入れる。「アーサー王伝説」にも登場

450頃【威】ウェールズグウィネズ(Gwynedd)王国建国(-1216)(開祖 Cunedda)401年建国とも

5世紀【威】ウェールズにポーウィス(Powys)王国建国(-1160)

5世紀【蘇】スコットランドにストラスクライド(Strathclyde)王国建国(-1030)

5世紀?【蘇】スコットランドにゴドヅィン(Gododdin)王国建国(-8世紀後半)

:上記建国ブームはローマの影響力が弱まったためか(409年の出来事参照)

451,アッティラガリアに侵入。カタラウヌムで西ローマ帝国テオドリック1世がアッティラを撤退させる

452,アッティライタリア半島に侵入

453,アッティラ急死

455,ヴァンダル族のガイセリック,ローマを占領

???,長いナイフの陰謀。ヴォーティガーン,ヘンギストに屈服

ヒトラーがレーム一派を粛清した「長いナイフの夜」はこれに由来する

455,アイルズフォートの戦い。ヘンギストとホルサの兄弟がブリトン人(ヴォーティガーン?)と戦う。弟ホルサが戦死

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455,ジュート人のヘンギスト,ケント王国を建国七王国;ケント州カンタベリーの辺り)

↓ケント,ウェセックスエセックスサセックスマーシアイーストアングリアノーサンブリア(バーニシアとデイラ),ウェールズ,ストラスクライドの位置が分かりやすく描かれている

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457,ヘンギストと息子エシュ(オイスク),ブリトン人を破り,ブリトン人はケントを諦める

476,西ローマの軍人オドアケル西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを退位させる

477,サクソン人の👑エール👑サセックス王国建国七王国

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:👑の付いた王は「アングロサクソン年代記」で覇王となったと言われる王

500頃,ベイドン山の戦いでブリトン人勢力がサクソン人に勝利し,アングロサクソンの勢力拡大は50年ほど遅れる。ブリトン人側にアーサー王がいたとされるようになった

519,サクソン人チェルディッチ,ウェセックス王国建国七王国

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527,アングル人のイチェル,マーシア王国建国七王国

527,サクソン人のエシュウィネ,エセックス王国建国七王国

:南のケント王国と良好な関係を築いた

534,ウェセックス王チェルディッチ没し息子のキュンリッチ(シンリック)が継ぐ

537,カムランの戦い

全訳中のアーサー王伝説のネタバレとなるため今は詳細を伏せます

550頃-590,レゲド Rheged 王国(スコットランド南部からイングランド北部にかけての国)を Urien 王が治めた時代:アーサー王伝説の Urien 王のモデル

560,ウェセックス王👑チェウリン👑即位

577,デオルハムの戦いでウェセックス王チェウリンブリトン人からグロスター,サイレンスター,バースを奪取

580/590年代,ケント王👑エゼルベルト👑(エゼルベルフト)即位(-616)。ケント王国台頭。エゼルベルトはキリスト教に改宗した最初のアングロサクソン王とも

585,イチェルの曾孫クレオマーシア

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592,ウェセックス王チェウリン追放され,チェオル即位

593,ピュバマーシア

597,ウェセックス王チェオル没。チェオルウルフ即位

6世紀【蘇】スコットランドにピクト人のアルバ王国建国

6世紀【蘇】アイルランドから渡ってきたスコット人,スコットランドダルリアダ王国建国

:先住ピクト人のアルバとスコット人のダルリアダが抗争した

6世紀,アングル人を中心とするイースト・アングリア王国建国七王国

:場所は東に丸く突き出ているノーフォーク,サフォークの辺り

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599-624,👑レドワルド👑の下でイースト・アングリア王隆盛

604頃,バーニシア王国のアゼルヴリス,デイラ王国を合併(ノーサンブリア王国の元)

606/615,ピュバの親族チェルルがマーシア

611,ウェセックス王チェオルウルフ没。キュネイルス即位

614,ウェセックスキュネイルスバンプトンでウェールズ人を破る

616,👑エドウィン👑,アゼルヴリスを破り,バーニシア王

626,ピュバの息子ペンダマーシアに。ペンダはキリスト教に改宗せず異教徒であった

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627,バーニシア王エドウィンキリスト教に改宗

628,ウェセックスキュネイルス,サイレンスターでマーシア王ペンダと戦う(ペンダの勝利か)

633.10,ハットフィールド・チェイス(Hatfield Chase)の戦いでバーニシア王エドウィンマーシア王ペンダに敗死。再びバーニシアとデイラに分裂

633,アゼルヴリスの子オスワルドがバーニシア王

642.8.5,マザーフィールド(Maserfield)の戦いでバーニシア王オスワルドマーシア王ペンダに敗死。アゼルヴリスの子オスウィ(Oswiu)がバーニシア王

643?,ウェセックス王チェンワルフ即位

651,バーニシア王👑オスウィ👑エドウィンの子だったデイラ王オスウィン(Oswine of Deira)を殺害

653(654),オスウィ,アングル人のノーサンブリア王国建国七王国;800年頃にはエディンバラからヨークの辺りに及んだ)

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655,ウィンウェド(Winwaed)の戦いでノーサンブリア王オスウィマーシア王ペンダを敗死させ国力回復。マーシア王はペアダ(ペーダ)が継ぐ

マーシアは7000ハイドの北と5000ハイドの南に分けられ北はオスウィが支配,ペアダは南を与えられた

656,マーシア王ペアダ,王妃に裏切られ殺害される

658,マーシアペンダの遺児ウルフヘレマーシアの貴族に擁立され即位。マーシア隆盛す

670,マーシアの宿敵,ノーサンブリア王オスウィ

673,ウェセックス王チェンワルフ死去,妻のサクスブルフが女王に

674,ウェセックス女王サクスブルフからエシュウィネに王位が移る

675,ウェセックス王エシュウィネマーシア王ウルフヘレを破る。ウルフヘレ没

676,ウェセックス王エシュウィネ死去,チェントウィネが王に

679,トレント川の戦いでノーサンブリア王国マーシア王国に敗北

685,ウェセックス王チェントウィネ死去,キャドワラが王に

ウェセックス,ワイト島に侵攻,領土を広げる

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688,ウェセックス王キャドワラ退位,イネが王に

:ドゥムノニア(コーンウォール半島を含む地域)に領土を広げる

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マーシア隆盛の81年間始まる~

716,マーシア王エゼルバルド即位(-757)。ペンダやウルフヘレの時代のような隆盛

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726,ウェセックス王イネ退位,エゼルヘルドが王に

730,この頃までにレゲド王国はノーサンブリア王国に併合される

731,ベーダ・ヴェネラビリス,『イングランド教会史』を校了

733,マーシア王エゼルバルドウェセックスに遠征,サマトンの荘園を手に入れる

739/740/741,ウェセックス王クスレッド即位

756,ウェセックス王シゲベルト即位。暗君であったらしい

757,ウェセックス王シゲベルト廃位されキュネウルフ即位

757,マーシア王エゼルバルド,衛兵に暗殺される。オッファ(オファ)即位(-796)

エゼルバルドとオッファが治めた81年(716-796)はマーシア王国の最盛期。オッファはノーサンブリアを除く5国を従属させた

:オッファはカール大帝とも対等に通商

:オッファはウェールズとの間に「オッファの防塁(Offa's Dyke)」を建設

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758,ウェセックス王キュネウルフマーシアからバークシャーを奪う

779,ベンジングトン(Bensington)の戦いでウェセックス王キュネウルフマーシア王オッファに敗れバークシャーを失う

786,ウェセックス王キュネウルフ没。オッファの介入でべオルトリッチ即位

787(789),オッファの娘エアドブルフ,ウェセックスべオルトリッチの妻になる

792,オッファの娘エルフレダ,ノーサンブリア王エゼルレッド1世の妻になり,両国は軍事同盟

ヴァイキング襲撃開始~

793,ヴァイキングノーサンブリア王国海岸のリンディスファーン修道院を襲撃

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794,マーシア王オッファイースト・アングリア王エゼルベルトを処刑,同国を従属させる

795,ヴァイキングヘブリディーズ諸島のアイオナ修道院を襲撃

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796.7.29,マーシア王オッファ没。マーシア隆盛の時代終わるエグフリス即位

796.12,マーシア王エグフリス病死。コエンウルフ即位(-821)

ウェセックス隆盛の時代始まる~

802,ウェセックス王ベルトリッチ没。👑エグバート👑即位

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823,マーシア王ベオルンウルフ即位

825,マーシア王ベオルンウルフウェセックスに侵攻するもエランダン(Ellendun)の戦いでウェセックスエグバートに敗北

???,ウェセックスエグバートの子エゼルウルフ(アルフレッド大王の父),親マーシアケント王バルドレドを追放

825,マーシア王ベオルンウルフ

825,ウェセックス王エグバートサセックス王国を従属させる

:覇権がマーシアからウェセックスに移行

827,ウェセックス王エグバート,ブレトワルダ(上王)に

“827年,この年,冬の中間の日のミサの夜に皆既日食あり。そして同年エグバート王マーシア王国を征服,ハンバー川より南を平らげ,ブリテン島の全ての上に立つ”アングロサクソン年代記

839,ウェセックス王エグバート没。息子のエゼルウルフ(=アルフレッド大王の父)即位

839【蘇】ケネス・マカルピンダルリアダ王国の王に

841頃【愛】ヴァイキング,今のダブリンに入植

843【蘇】ケネス・マカルピンダルリアダ王国アルバ王国を統合。最初のスコットランド王と言われる(ケネス1世

845,ヴァイキングによるパリ包囲戦(レギンヘルスあるいはラグナル)

:包囲の指揮者がハルフダン・ラグナルソンら兄弟の父ラグナル・ロズブロークだったという説も

851,ウェセックスエゼルウルフヴァイキングを破る

852,マーシア王バーグレッド即位

:『アサシンクリード・ヴァルハラ』で主人公たちに退位させられる王

バーグレッド

アサシンクリード・ヴァルハラ』のバーグレッド

858,ウェセックス王エゼルバルド即位(エゼルウルフの子)

860,ウェセックス王エゼルベルト即位(エゼルウルフの子)

865,ウェセックス王エゼルレッド即位(エゼルウルフの子)

ヴァイキングの大異教軍,進軍開始~

865,ヴァイキングのハルフダン・ラグナルソン率いる大異教軍(Great Heathen Army),イースト・アングリア王に侵攻開始

866,ヴァイキングの大異教軍,ノーサンブリア王国に侵攻,ヨークなどを奪う

867,ヴァイキングの大異教軍,ノーサンブリア王エグバート1世を傀儡として擁立

867,ヴァイキングの大異教軍,マーシア王国に侵攻。マーシア王バーグレットの要請でウェセックスのアルフレッド,兄王エゼルレッドに従って初陣,ヴァイキングと戦う。大異教軍はヨークに戻る

:バーグレットはアルフレッドの義兄にあたるという

アルフレッド大王

アサシンクリード・ヴァルハラに登場するアルフレッド

869,ヴァイキングイースト・アングリア王を征服,エドマンド王(殉教王)を殺害

エドマンドは異教徒に殺害された王として列聖されている

870,ヴァイキングの大異教軍,ウェセックス王国に侵攻

871,アッシュダウンの戦い(ウェセックスのエゼルレッドとアルフレッド対ヴァイキングのハルフダン・ラグナルソン率いる大異教軍)

ハルフダン・ラグナルソン

アサシンクリード・ヴァルハラに登場するハルフダン・ラグナルソン

871,上の戦いでウェセックス王エゼルレッド戦死し,弟のルフレッド即位(エゼルウルフの末子,−899)

ヴァイキングの侵攻に対抗しルフレッド大王と呼ばれた

872,大異教軍はロンドンに侵攻

874,ヴァイキングによりマーシア王バーグレッド追放されチェオルウルフ2世即位(-883)

:チェオルウルフ(チェオウルフ)は『アサシンクリード・ヴァルハラ』で主人公たちが担ぎ上げる王

ウィキペディアにはバーグレッドマーシア最後の王という記述もある(一方918年に滅亡という記述もある)。チェオルウルフヴァイキングの傀儡であるため実質的な滅亡ということだろうか

:この後ヴァイキングは二手に分かれ,グスルムが対ウェセックスを担当。ハルフダンは北に進撃した

グスルム

アサシンクリード・ヴァルハラのグスルム

877,ヴァイキングのハルフダン・ラグナルソンアイルランドで戦死

“サガで伝えられるところでは,彼はラグナル・ロズブロークの息子の一人で,剛勇のビョルン,骨なしのイーヴァル,蛇の目のシグルズ,ウッバの兄弟であった”

骨なしのアイヴァー

アサシンクリード・ヴァルハラに登場する骨なしアイヴァー(イーヴァル,Ivar)

878.5,エディントンの戦いでウェセックス王アルフレッドヴァイキングのグスルムを破る

~デーンロウ成立~

878,ウェドモーア(Wedmore)の和議。ルフレッドグスルムとの間で,「イングランドの南西部はウェセックス王国,北東部はヴァイキング(デーン人)の支配域(デーンロウ)」と定められた

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885-886,ヴァイキングによるパリ包囲戦(シーフリズ,シンリク,ロロ)

「アサシンクリード・ヴァルハラ」パリDLCの舞台。フランス側はシャルル肥満王

シグフレッド

↑このシグフレッドがシーフリズのことと思われる(パリDLCより)

899.10,ウェセックス王アルフレッド死去,エドワード(長兄王)即位

911,「徒歩王」ロロ,ノルマンディー公に叙される

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917,「マーシアの貴婦人」エセルフリーダ(アルフレッドの長女),デーンロウの五大都市の一つダービーを攻撃しデーン人を破る

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918,ウェセックスエドワードイースト・アングリア王を征服。同国は滅亡

920【威】ウェールズのデハイバルス(Deheubarth)王国建国(-1197)

924,ウェセックスエドワード死去,アゼルスタン即位

934,ノルウェーのエイリーク1世(血斧王),ノルウェーを追われブリテン島へ

:エイリーク1世は「アサシンクリード・ヴァルハラ」に登場するハーラル美髪王の子。グリーンランドに入植した赤毛のエイリークとは別人

939,ウェセックス王(イングランド王)アゼルスタン死去,エドマンド1世即位

946,ウェセックス王(イングランド王)エドマンド1世死去,弟エドレッド即位

947,エイリーク,ノーサンブリア

954,エイリーク退位。ウェセックス王国ノーサンブリア王国を併合

:これがデーンロウの終焉と言われる

955,イングランドエドレッド死去,エドマンド1世の子エドウィ即位

959,イングランドエドウィ死去,弟エドガー(平和王)即位

975,エドガー平和王死去,子のエドワード(殉教王)即位

978,エドワードの異母弟エゼルレッドを王につけたい継母がエドワードを暗殺。エゼルレッド2世(無策王)即位

:デーン人が侵攻する度に退去料を払ったり,一方でデーン人を虐殺するなど右往左往した

978【愛】ブライアン・ボルがマンスター王に。のちレンスターを征服

↓マンスターはここ

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1002【愛】ブライアン・ボルがイー・ネール一族のアイルランド上王独占を終わらせ,アイルランド上王に

1005【蘇】スコットランド王マルカム2世(破壊王)即位(-1034)

1012【愛】レンスターのモール・モルダ,ブライアン・ボルに反旗

1013,デンマーク王スヴェン1世,エゼルレッド2世を破りイングランド王に

1014,スヴェン1世急逝,エゼルレッド2世がイングランド王に復位。スヴェン1世の息子クヌートイングランドとの戦いを続ける

1014.4.23【愛】クロンターフの戦いでブライアン・ボル,レンスター王モール・モルダ,ダブリン王らの連合軍に敗死

1016.4.23,エゼルレッド2世死去,エドマンド2世(剛勇王)即位

:クヌートの軍と戦ったため剛勇(Ironside)と呼ばれた

1016.10.18,Assandunの戦いでエドマンド2世クヌートに敗れ,ウェセックス以外をクヌートが支配するという和議を結ばされた

1016.11.30,エドマンド2世死去。クヌートイングランド王に

1018,クヌートの兄であるデンマーク王ハーラル2世が死去したためクヌートがデンマーク王も兼ねる

1018【蘇】スコットランド王マルカム2世,ロージアン王国を併合

↓この辺です

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1028,クヌート,ノルウェー王も兼ねる。3国の王となったクヌート大王の北海帝国成立

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1030【蘇】スコットランドストラスクライド王国を併合

1034.11.25【蘇】スコットランド王マルカム2世死去,孫ダンカン1世即位(-1040)

1035.11.12,クヌート大王死去。子のハロルド1世即位

:本来はハロルドの異母弟ハーザクヌート(ハーデクヌーズ)が正統な後継だったが,ノルウェー王を継いだマグヌス1世が妨害したためイングランドに渡れず,ハロルドがイングランド王になった

1040.3.17,ハロルド1世死去。異母弟ハーザクヌート即位

GODIVAのロゴの由来となったゴダイヴァ夫人の逸話はこの頃。但し “コヴェントリーの街を裸で馬に乗って行進したという有名な伝説は事実ではないというのが歴史家の見解である”

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:生涯独身で子がいなかったハーザクヌートは異父兄エドワードを後継者に指名

1040.3.17,ハーザクヌート死去。エドワード(懺悔王・証聖王)即位

:無策王の子で,剛勇王の異母弟にあたる

1040【蘇】スコットランド王ダンカン1世,従弟のマクベス(マクベタッド・マク・フィンレック)に殺害される。マクベス即位(-1057)

マクベスは統治能力に優れた人物と言われ,17年と当時としては長期間在位した”

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1057【蘇】スクーンの戦いでマクベス王,マルカム・カンモー(ダンカン1世の子)に敗死

1058.3.17【蘇】スコットランド王マルカム3世(マルカム・カンモー)即位

1064,“懺悔王の義兄でイングランド王家と連なるハロルド・ゴドウィンソン(後のハロルド2世)がフランスに渡ろうとして嵐で難破,ノルマンディーに漂着した。ギヨームはハロルドを歓待,ハロルドもギヨームに臣従の礼を取り,懺悔王亡き後のギヨームの王位継承を支持することも約束した。しかし,ハロルドはイングランド帰国後にこの約束を破ることになる”

1066.1.4,エドワード懺悔王死去。エドワードの妃の兄のハロルド2世即位

:これにハロルドの弟トスティ,ノルウェー王ハーラル3世,ノルマンディー公ギヨーム2世が反発

1066.9,トスティがハーラル3世の後ろ盾を受け侵攻,ヨークシャーを制圧

1066.9.20,フルフォード(Fulford)の戦い。トスティとハーラル3世の軍がハロルド2世に与するノーサンブリア伯モーカー(Morcar)とマーシアエドウィンの軍を破る

1066.9.25,スタンフォード・ブリッジの戦い。ハロルド2世がトスティとハーラル3世を敗死させ,イングランドからヴァイキングを追放する歴史的勝利。ところが……

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1066.9.28,ノルマンディー公ギヨーム2世が7000人でイースサセックスのペヴァンズィ(Pevensey)に上陸

1066.10.14,ヘイスティングスの戦い。ハロルド2世,ギヨーム2世に敗死。エドガー・アシリング(エドマンド剛勇王の孫)が擁立され抵抗を続けるがギヨームに敵わなかった

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1066.11-12,エドガー,ギヨームに降伏。ギヨームはエドガーを丁重に扱った

1066.12.25,ノルマンディー公ギヨーム2世,イングランドウィリアム1世として即位(征服王)。ノルマン・コンクエスト

“フランス出身であり,彼自身も周囲の人もフランス語を使っていた”

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1068,エドガー・アシリングを擁立するノーサンブリア伯モーカーとマーシアエドウィンウィリアム1世に対し反乱,しかし敗れる。エドガーは逃亡中難破,スコットランド王マルカム3世に匿われる

1069【蘇】マルカム3世(1065年に妻を亡くしていた),エドガー・アシリングと共に保護した姉のマーガレット・オブ・ウェセックスと結婚

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1069,エドガーを擁立するスコットランド王マルカム3世とデンマーク王スヴェン2世の連合軍,ヨークを占領するが,攻め寄せたウィリアム1世に敗れる

1074,エドガー,ウィリアム1世と和解

1085,ウィリアム1世,検地を行い,土地台帳ドゥームズデイ・ブックを作成

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1087.9.9,ウィリアム1世死去,ウィリアム2世(赤顔王)即位(ウィリアム1世の3男)

:長男ロベールは本領のノルマンディー公国を相続。次男は1070年頃死去

1091,ロベール(ノルマンディー公ロベール2世)と弟ウィリアム2世が戦う。エドガー・アシリングはロベールにつく

1093.11.13【蘇】スコットランド王マルカム3世,イングランドを攻めて戦死。1097年まで後継者争い

1096.8,第1回十字軍遠征。ノルマンディー公ロベール2世,エドガー・アシリングも参戦

1097【蘇】スコットランド王マルカム3世の六男エドガー(エドガー・アシリングの姉マーガレットの子)が即位

1100.8.2,ウィリアム2世死去,ヘンリー1世碩学王)即位(ウィリアム征服王の4男)

:ヘンリー1世の妻マティルダ・オブ・スコットランドはマルカム3世とマーガレット・オブ・ウェセックスの娘,つまりエドガー・アシリングの姪である

1106.9.28,ロベール(ノルマンディー公ロベール2世)と弟ヘンリー1世が戦うタンシュブレーの戦い。ロベールと,ロベールに就いたエドガー・アシリング捕虜となる。エドガーは(ヘンリー1世の妻マティルダの叔父ということで?)赦免され,ロベールは捕虜のまま亡くなった(-1134)。ノルマンディー公はヘンリー1世がアンリ1世として兼ねる

1120,ヘンリー1世の嫡男ウィリアム死去。嫡子は神聖ローマ皇帝に嫁いでいた娘マティルダのみとなる(ヘンリー1世の妻マティルダと同じ名前)

↓マルカム3世とマーガレットの娘であり,ヘンリー1世の妻

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↓ヘンリー1世とマティルダの娘であり,神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の妻

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1125,ヘンリー1世の娘マティルダの夫である神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世死去

1126,1127,ヘンリー1世は貴族達に,娘マティルダを後継者として認めるよう誓約させる

1135,ヘンリー1世死去。甥のエティエンヌ・ド・ブロワが誓約を破って王位に就く(ブロワ朝イングランド王スティーヴン)。国内はマティルダ領とスティーヴン領に分裂

1153,スティーヴンとマティルダが和議。スティーヴンを王と認める代わり,後継者はマティルダの息子アンリに定められた。マティルダは政略結婚でフランスのアンジュー伯と再婚しておりアンリを産んでいた

1153【蘇】スコットランド王マルカム4世即位

1154.10.25,イングランド王スティーブン死去。ブロワ朝は1代で終わった

1154.12.19,アンリがヘンリー2世として即位(ノルマンディー公とアンジュー伯も兼ねる) ※プランタジネット朝アンジュー朝開始

:ヘンリー2世は領土拡大に熱心で「アンジュー帝国」と呼ばれるものを築いた

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1157,ヘンリー2世スコットランド王マルカム4世を屈服させノーサンバーランドなど3州を割譲させる

1157-1165,ヘンリー2世ウェールズ遠征。大きな成果はなかった

1165【蘇】スコットランド王マルカム4世が23歳で病死。子がおらず弟のウィリアム1世即位(-1214)。ウィリアム1世はマルカム4世が奪われた3州の奪還を目標としフランスに接近

スコットランドウィリアム1世は77歳の長寿で在位は49年に及んだ

1166,ヘンリー2世ブルターニュ公国に侵入。ブルターニュ公コナン4世を廃位

1169,ヘンリー2世,次男ヘンリーを後継者に(長男は早世),三男リチャード(後の獅子心王)にアキテーヌ,四男ジェフリーにブルターニュを分配。五男ジョンは2歳だったため土地を与えられず「欠地王」と呼ばれる

1169【愛】ヘンリー2世軍のアイルランド侵攻(→1171)

:レンスター王ダーモット・マクマローが王国から追放されたため,王国奪還のためにヘンリー2世に援軍要請した

1170,ヘンリー2世の次男ヘンリー,父との共同君主に(ヘンリー若王Henry the Young King,実権はなし)

1171【愛】ヘンリー2世アイルランド親征

1171.11【愛】ヘンリー2世,ダブリンでアイルランド諸王の降伏を受け入れる

→ヘンリー2世は息子ジョンをLord of Ireland(アイルランド卿)に任命

1173.6,ヘンリー若王,弟リチャード,ジェフリーと共にヘンリー2世に対し反乱。フランス王ルイ7世,スコットランドウィリアム1世などが加勢するも翌年敗れる

1174.7.13,アニック(Alnwick)の戦い。スコットランドウィリアム1世ノーサンバーランドに攻め込んでイングランドに敗北

1174.12,ファレーズ条約(ヘンリー2世スコットランドウィリアム1世

ウィリアム1世イングランド王に臣下の礼を取る。エディンバラスターリングなどにイングランド兵が駐留。貢納金も(→15年後の1189)

1175【愛】ヘンリー2世アイルランド上王の称号を得る

1180【仏】フランス王ルイ7世死去,フィリップ2世(尊厳王)即位

1183,ヘンリー若王,28歳で病死

1188.11,リチャード,仏王フィリップ2世に臣従の礼を取り公然と父ヘンリー2世に敵対

1187.10.2,サラディンアイユーブ朝の祖)によりエルサレム王国一旦滅亡

教皇グレゴリウス8世,第3回十字軍を呼びかけ(仏王フィリップ2世と敵対したりしていたヘンリー2世は参戦せず)

1189.7.6,息子やかつての臣下達に攻められ,失意の中ヘンリー2世死去,三男リチャード1世獅子心王Richard the Lionheart)即位

:英王として,仏王フィリップ2世とは関係が悪化していく

1189,カンタベリー条約。軍資金が欲しかったリチャード1世,1万ポンドを貰ってスコットランドとの主従関係を解消

1191,リチャード1世第3回十字軍に参加しパレスチナ

1191,リチャード1世キプロス島を制圧

1191.7.12,第3回十字軍,アッコン(アッコ,アクレ)を陥落させる

→この後仲間割れが起こり,オーストリア公レオポルト5世(掲げた旗をリチャードの側近が落としたため激怒),仏王フィリップが帰国してしまうがリチャード1世は残る

1191.9.7,アルスフの戦いでリチャード1世テンプル騎士団ら十字軍がサラディンを破る

1191.9.10,十字軍,ヤッファを占領→エルサレムは奪還できず

1192.9.2,リチャード1世サラディンが休戦,第3回十字軍終了

エルサレムイスラム勢力が統治するが,幾つかの港をエルサレム王国が管理

・非武装キリスト教徒のエルサレム巡礼は認める

リチャード1世,帰国中にレオポルト5世の手勢に捕らえられ幽閉される

“この時ジョンはリチャードが死んだものとして王位に即こうとしたが,諸侯の支持を得られず断念した”

“この事件は,後世大きく脚色されてさまざまな物語が作られ,ロビン・フッド伝説にも取り入れられた”

1193,リチャード1世の身柄がレオポルト5世から神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世に引き渡される

1194.2,リチャード1世,10万ポンドの身代金で解放される

→帰国したリチャードはジョンを屈服させ,フランスでフィリップ2世と戦う

1199.4.6,リチャード1世,矢傷が元で死亡(41歳),弟ジョン(欠地王)即位

→ジョンは間もなく仏王フィリップ2世と敵対,ガスコーニュを除くフランスの領土を全て失う(欠地王の由来はこれではなく,1169年のヘンリー2世の裁定を参照)

1209,ローマ教皇インノケンティウス3世,ジョンを破門(カンタベリー司教を誰にするかで教皇と対立したため)

1214.7.27,ブーヴィーヌの戦い。仏王フィリップ2世が神聖ローマ皇帝オットー4世,英王ジョンらを破る

“ブーヴィーヌの惨敗でイングランドに戻ったジョンを待っていたのは,国内諸侯の反発だった” →内戦のような状態に

1214.12.4【蘇】スコットランドウィリアム1世死去,アレグザンダー2世即位

1215.6.15,マグナ・カルタ(大憲章)制定

教会の国王からの自由(第1条),国王の徴税権の制限(第12条)など,イングランド国王の権限を制限したことで憲法史の草分けとなった”

→ジョンはこれを不服として再び内戦状態に

1215,第一次バロン戦争(第一次侯伯戦争)

マグナ・カルタを認めようとしないジョンと造反諸侯達の内戦。仏王太子ルイ(後のルイ8世)が諸侯を支持

1216.5,仏王太子ルイの派遣した軍がケントに上陸

→ルイがイングランド王位を宣言,諸侯やスコットランド王アレグザンダー2世がこれに従う

1216.6.14,仏王太子ルイの軍がウィンチェスターを攻略

1216.7.19,仏王太子ルイの軍がドーバー包囲,攻略できず(1216.10.14)

1216.10.18,ジョン死去,子のヘンリー3世即位(当時9歳)

1219【蘇】スコットランド王アレグザンダー2世がヘンリー3世の妹ジョーンと結婚,友好関係を築く(→1238)

12237.14,仏王フィリップ2世死去,王太子ルイが即位(ルイ8世)

:フィリップ2世はフランス王国最初の偉大な王と評価され,初代ローマ皇帝アウグストゥスにちなんで尊厳王(Auguste)と称される”

1226.11.8,仏王ルイ8世が39歳で死去,子のルイ9世が12歳で即位

イングランドにおけるフランスの脅威は弱まる

ルイ9世は1270年まで在位し,聖王ルイ(サン=ルイ)と称され,これがミズーリ州セントルイスの語源。列聖されたのは十字軍に熱心で最期は陣没したため

1227,ヘンリー3世の親政始まる

:フランス人を側近に重用してイングランド諸侯の反発を喰らう

1229,ヘンリー3世,フランス侵攻に失敗

1238【蘇】スコットランド王妃ジョーン死去(27歳)。アレグザンダー2世がフランス貴族の娘と再婚したことでイングランドと一時険悪に

1241.4.9,ワールシュタット(リーグニッツ,レグニツァ)の戦いでポーランド・ドイツ連合軍がモンゴル軍に大敗

1242,ヘンリー3世,フランス侵攻に失敗

1249.7.8【蘇】スコットランド王アレグザンダー2世死去,アレグザンダー3世即位(7歳)

1251.12.26,ヘンリー3世の娘マーガレットがスコットランド王アレグザンダー3世の王妃に

:ヘンリー3世の押し付けであったが,両国関係は安定しスコットランドは平和であった

1255【蘇】スコットランド王アレグザンダー3世の親政始まる

1258【威】サウェリン・アプ・グリフィズ(Llywelun ap Gruffydd),ウェールズ大公(プリンス・オブ・ウェールズ)に

:Lながら「サ」と表記されているが,“LL”はLとSの中間音である。まずLの舌を作る(舌先を口の中の天井に付け,舌の裏を相手に見せる)。その状態でSを言おうとして息を出す。ウェールズにはPwll「プス」という地名もあります

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1261【蘇】スコットランド王アレグザンダー3世,ヘブリディーズ諸島ノルウェーから奪還

1264-67,第二次バロン戦争(第二次侯伯戦争)

:第6代レスター伯シモン・ド・モンフォールら諸侯が反乱

1265【威】政権を握ったシモン・ド・モンフォールがサウェリン・アプ・グリフィズのプリンス・オブ・ウェールズの称号を承認

1264.5.14,ルイスの戦い。諸侯軍が勝利しヘンリー3世らが捕虜に

1265.8.4,イーヴシャムの戦い。シモン・ド・モンフォール父子,王太子エドワード(後の長脛王)に敗死

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1266.12.13,ケニルワースの包囲戦で諸侯側降伏

1267【威】ヘンリー3世もサウェリン・アプ・グリフィズのプリンス・オブ・ウェールズの称号を承認

1272.11.16,ヘンリー3世死去

1272.11.17,エドワード1世(長脛王)即位

1275【威】サウェリン・アプ・グリフィズ,シモン・ド・モンフォールの遺児エリナと結婚しようとするが,エドワード1世は反発

1278【威】サウェリン・アプ・グリフィズ,エリナと結婚

1282【威】エリナ病死。同年12月,サウェリンもイングランドに敗死(→1301)

“13世紀頃,イングランドウェールズに侵攻した際にウェールズ弓兵は侵略者にたいしてこの武器を用いて大きな損害を与えた。その被害者であったイングランドは,ウェールズ公国の併合後,この強力な武器を素早く自軍に取り入れたウィキペディア「ロングボウ」)

1286.3.19【蘇】スコットランド王アレグザンダー3世事故死(44歳)。孫娘でノルウェー王の娘のマーガレットが女王に

1290【蘇】スコットランド女王マーガレット病死(7歳)→13人が王位継承を争う混乱状態となり,エドワード長脛王の介入を招く

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1292【蘇】エドワード長脛王の介入でジョン・ベイリャルスコットランド王に

1295【蘇】スコットランドジョン・ベイリャル,仏王フィリップ4世と同盟

:仏蘇同盟は,俗に「古い同盟」と言われる

1296,スコットランドジョン・ベイリャルイングランドへの臣従を拒否

1296.3.26,第一次スコットランド独立戦争始まる

↓画像はバノックバーンの戦いにおけるロバート・ザ・ブルース(→1314)

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1296.4.27,ダンバーの戦いでジョン・ベイリャルエドワード長脛王に大敗

1296.7.10,ジョン・ベイリャル降伏,退位。スコットランドは王位不在に

1297.5【蘇】ウィリアム・ウォレスの抵抗運動始まる

1297.9.11,スターリング・ブリッジの戦いでウィリアム・ウォレスら,スコットランド総督軍を破る

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1297【蘇】ウィリアム・ウォレス,スコットランド守護官に

1298.1,エドワード長脛王,仏王フィリップ4世と和解しイングランドに帰還

1298.7.22,フォルカークの戦いでウィリアム・ウォレス,エドワード長脛王に敗北

スターリング・ブリッジの戦いとフォルカークの戦いは映画『ブレイブハート』で描かれている。ウィリアム・ウォレス役はメル・ギブソン

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1298-1303,ウィリアム・ウォレスは援助を求めにフランスやローマを訪れたと言われる

1301,エドワード長脛王王太子エドワードにウェールズ大公(プリンス・オブ・ウェールズ)の称号を与える→皇太子をプリンス・オブ・ウェールズと呼ぶ伝統の起源

1304,ウィリアム・ウォレスを除くスコットランド諸侯がイングランドに降伏

1305.8.5,ウィリアム・ウォレス捕えられ,8.23,処刑される

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1306.3.25【蘇】ロバート・ザ・ブルース,スコットランド王位に就く(ロバート1世)

:映画『ブレイブハート』でアンガス・マクファーデンが演じた

1306.6.19,メスヴェンの戦いでロバート1世,イングランドのペンブローク伯軍に敗北

1307.5.10,ラウドン・ヒルの戦いでロバート1世,イングランドのペンブローク伯軍に勝利

1307.7.7,エドワード長脛王死去,エドワード2世即位

:同世代のピアーズ・キャヴィストンを寵愛

1308.1,エドワード2世,仏王フィリップ4世の娘イザベラと結婚

1308,イングランド諸侯,キャヴィストン追放を要求(彼の追放はエドワード長脛王の遺言だったのに守っていなかった)→アイルランド総督に任じるが,翌年呼び戻す

1310,イングランド諸侯,政治改革を要求

1310,ロバート1世,リンリスゴーをイングランドから奪取

1311,イングランド諸侯の要求で改革勅令(キャヴィストンの永久追放を含む)

1311,ロバート1世,ダンバートンイングランドから奪取

1312,エドワード2世,キャヴィストンの永久追放を解除→激怒したイングランド諸侯が独断でキャヴィストンを処刑→代わりにディスペンサー父子が寵臣に

1312,ロバート1世,パースをイングランドから奪取

1314春,ロバート1世の弟エドワード・ブルースがスターリング城を包囲

1314春,ロバート1世の甥トマス・ランドルフエディンバラ城を攻略

1314.6.24,バノックバーンの戦いでロバート1世,エドワード2世を破る

↓非株式会社いつかやるによる解説動画。熱い戦いです❗️

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1315【愛】ロバート1世,アイルランドイングランドから解放し,味方につけるためアイルランドに侵攻

1316【愛】ロバート1世の弟エドワード・ブルースがアイルランド上王に

1322.3.16,ディスペンサー父子の追放を求めて挙兵したランカスター伯がバラブリッジの戦いで国王派に敗れる

1324.9,ディスペンサー父子の専横極まり,王妃イザベラの所領を没収,敵対関係に

1326【蘇】コルベイユ条約で仏蘇同盟更新

1326.9,王妃イザベラのクーデター。ディスペンサー父子は処刑され,エドワード2世は幽閉される

:イザベラはヨーロッパ一の美貌と謳われたが,フランスの雌狼(She-Wolf of France)と恐れられた。愛人ロジャー・モーティマーと実権を握った

:映画『ブレイブハート』でソフィ・マルソーが演じた

1327.1.25,エドワード2世の子エドワード3世即位(15歳)

→英王が若いと見たロバート1世はイングランド北部に侵攻開始→イザベラは講和を決断

1328,エディンバラノーサンプトン条約でエドワード3世スコットランドの独立とロバート1世の王位を承認。エドワード3世の妹ジョーン(イザベラの娘)とロバート1世の長男デイヴィッドが結婚

1328【仏】カペー朝最後の王シャルル4世死去し,従兄弟のヴァロワ伯フィリップが即位(ヴァロワ朝フィリップ6世)

:シャルル4世死去の段階で女子しかいなかった(男子はみな夭折)

エドワード3世イザベラの子であり,イザベラは仏王フィリップ4世の娘であったため,フィリップ4世の孫としてカペー朝の王位継承権が自分にあると考えた。しかし翌年,一旦フィリップ6世の王位を認め,アキテーヌのギュイエンヌ公を兼ねていたエドワード3世はフィリップ6世に臣下の礼を取る

1329.6.7【蘇】スコットランド王ロバート1世死去,デイヴィッド2世即位(5歳)

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最後の方はウォレスとロバート・ザ・ブルースのスコットランド独立戦争の話に終始していますが,観ていない方は是非メル・ギブソンの『ブレイブハート』の鑑賞をお勧めします。卑見ではこの映画の真の主人公はウォレス(メル・ギブソン)よりもむしろロバート(アンガス・マクファーデン)だと思うんです。イングランドと戦うという点においてウォレスは全く迷いがなく,聖人のように描かれており,その意味で英雄なのですが,映画の中のロバートは妥協派の父親の存在もあり,どう進んでいくべきか分からず,ウォレスに味方してみたり,裏切ってみたり,狂ったように悩むんですね。しかし最後の最後でやっぱりウォレスの道に進みたいから一緒に戦ってくれとスコットランドの民衆に頼む時,めちゃめちゃ泣けるんです。アンガス・マクファーデンがめちゃいい演技しています。この映画を観る時には彼の視点も楽しんでください。

angusmacfadyen.com

 

~ ここから新規追加 ~

1330.10,エドワード3世のクーデター。国政を牛耳っていた母イザベラと愛人モーティマーに対し,モーティマーを逮捕

1330.11.29,モーティマー処刑さる

1332,イザベラ幽閉から解放される。年金を貰って裕福な生活を送った(1358死去)

1332.8【蘇】ジョン・ベイリャルの子エドワード・ベイリャル,デイヴィッド2世に対し反乱→エドワード3世エドワード・ベイリャルを支援

1332.8.11【蘇】ダプリン・ムーアの戦いでエドワード・ベイリャルがデイヴィッド2世派を破る

:この戦いで長弓兵が活躍したとあるので,長弓兵を活用する「ダプリン戦術」の由来になったと思われる

1332.9.24【蘇】エドワード・ベイリャル戴冠式スコットランド王位を宣言

:しかし英王エドワード3世に領土を割譲するなど服従する構えを見せたので諸侯の支持を得られず,反乱が起こるとイングランドへ逃走

1333,エドワード3世スコットランドへ侵攻し,エドワード・ベイリャルを王位に戻す

:しかし支持されていないので政権は安定せず

1334【蘇】ブルース派(デイヴィッド2世派)が勢い付きエドワード・ベイリャル再びイングランドへ逃走

1337.5.24,仏王フィリップ6世,エドワード3世に対しギュイエンヌ公領(アキテーヌ)の没収を宣言

1337.10.7,エドワード3世,仏王に対する臣下の礼の撤回と,仏王位の継承を宣言

1337.11.1,エドワード3世,フィリップ6世に挑戦状を送付

英仏百年戦争

1338,フランス,ガスコーニュを攻撃

アキテーヌ公の所領を表す語として,アキテーヌ,ギュイエンヌ,ガスコーニュの語が使われるが,この3つは厳密な使い分けが必ずしもなされていない。ギュイエンヌはアキテーヌのうちポワトゥーを除く北西部を,ガスコーニュは南西部を示すことが多い

1338.8【蘇】フランス軍に呼応し,スコットランド軍,パースを奪回

1340.1.26,エドワード3世,フランス王の称号を使い始める

1340.6.24,スロイスの海戦(約200隻同士の大海戦)でイングランド勝利,ドーヴァー海峡制海権を握る

イングランドの長弓がフランスのクロスボウを圧倒した

1340.7.26,サン・トメールの戦いでフランドル伯軍とイングランド軍がフランスに敗れる

1341,ブルターニュ継承戦争(-1365)。ブルターニュ公の継承者争いに英仏が介入,代理戦争に

1343~1345,英仏両国の疲弊によってこの間休戦

1346.7.5,エドワード3世,フランスに侵攻開始。16歳のエドワード黒太子も同行

1346.7.12,エドワード3世,ノルマンディーに上陸

1346.7.26,ノルマンディーでのカーンの戦いでイングランド勝利,住民数千が虐殺

1346.8.24,ブランシュタックの戦いでイングランド勝利。戦後に食糧を調達できたことが2日後のクレシーの勝利につながったとも

1346.8.26,クレシーの戦いでイングランド軍12000がフランス,神聖ローマ帝国ボヘミアなど),ジェノヴァ人傭兵隊ら3~4万に勝利

:低い山に陣取ることでイングランド軍の長弓が大活躍

:フランスにとって「いとも大いなる,且ついとも恐るべき」敗北(ウィキペディア「フィリップ6世」)

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1346.9.4,エドワード3世によるカレー包囲戦始まる(→1347.8.3)

1346.10.6【蘇】百年戦争に乗じてデイヴィッド2世,イングランドに侵攻

1346.10.17【蘇】ダラム近郊のネヴィルズ・クロスの戦いでデイヴィッド2世,イングランド軍に敗れ捕虜に。妻ジョーンがエドワード3世の妹であったことで比較的裕福に暮らす(1357年まで)

1347,黒死病(ペスト)がヨーロッパに入ってくる

1347.8.3,エドワード3世,カレーを開城させる

“フランス側では,カレー開城の際に6人の市民代表がエドワード3世の元に出頭して市民を救ったという以下のような話が広く信じられており,ロダンはこれを元に彫像「カレーの市民」を作成し,現在もカレー市内に設置されている。(中略)王は彼らの処刑を命じたが,王妃フィリッパの涙ながらの取りなしにより,彼らの命を助けた”

:カレーは百年戦争におけるイングランドの敗北後,唯一の大陸におけるイングランド領だった(→1558.1.8)

1347,教皇クレメンス6世の仲裁で1355年まで休戦

1348,フランスで黒死病(ペスト)流行

1348.8,エドワード3世ガーター騎士団を創設,エドワード黒太子も参加

1349,イングランドでも黒死病(ペスト)流行

1351.3.26,ブルターニュ継承戦争の30人の戦い

:フランス側のブロワ家とイングランド側のモンフォール家が30人ずつ騎士を出し合ってブロワ家が勝利

1350.8.22,フランスのフィリップ6世死去。長子のジャン2世(善良王,ル・ボン)即位

1350.8.29,ウィンチェルシーの海戦でエドワード3世親子イングランド軍がカスティーリャ王国ジェノヴァ共和国軍に勝利

エドワード3世が乗る旗艦もカスティーリャ艦の体当たりを受けてたちまち海底に沈み,王や近衛兵はかろうじて体当たりしてきた敵艦に乗り移って難を逃れたという

1354.4.10【怪傑ゲクラン】フランスのベルトラン・デュ・ゲクラン,騎士に叙任される

:まずはブルターニュ継承戦争でフランス側で活躍

1354,アヴィニョンの和平会議でエドワード3世は広大な領土を要求,ジャン2世は拒否

1355,エドワード黒太子アキテーヌボルドーに派遣される

1356.8.8【暗黒騎士】エドワード黒太子26歳,アキテーヌから侵攻開始,騎行戦術を取りつつ北上

1356.9.19,ポワティエの戦いでエドワード黒太子約8千,ジャン2世(と息子シャルル,ルイ,フィリップ)12000~18000の軍に勝利。ジャン2世が捕虜に

王太子シャルルが摂政として治める

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1358.5月末【農民反乱】フランスでジャックリーの乱

1359.10.28,エドワード3世侵攻開始,しかしフランス軍は決戦を避ける(→1360.10.24)

1359.12,従軍していたジェフリー・チョーサー,ランスにて捕虜となる

エドワード3世は彼の身代金16ポンドを支払った

1360.10.24,ブレティニー条約(カレー条約)

:身代金支払いによるジャン2世の解放,イングランドの領土拡大(下の地図のピンク色)

:ジャン2世の身代わりに息子の1人ルイが人質に

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1363,ジャン2世の身代わりに人質になっていたルイが脱走。騎士道精神溢れるジャン2世は自ら人質になるためイングランドに赴く(善良王の由来? 翌年死去)

1364.4.8,ジャン2世の子シャルルが即位(賢明王シャルル5世)

1364.5.16,コシュレルの戦い。ナバラ王国イングランドと組んでノルマンディーに攻め込んだが,ゲクラン率いるフランス軍が勝利

1364.9.29,オーレの戦い(ブルターニュ継承戦争)。イングランドが加勢したモンフォール派が,フランスが加勢したブロワ派に勝利。シャルル・ド・ブロワは戦死しゲクランは捕虜に

1365,ブルターニュ継承戦争終結。ジャン・ド・モンフォールがジャン4世としてブルターニュ公に

1366,ジェフリー・チョーサーエドワード3世の妃フィリパの侍女,フィリパと結婚

:詩人チョーサーは廷臣であった

百年戦争スペイン戦線

1367.4.3,ナヘラの戦い(第一次カスティーリャ継承戦争)。エドワード黒太子が加勢したペドロ1世が,フランスが加勢したエンリケに勝利。ゲクランは捕虜になり身代金で解放

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1369.3.14,モンティエルの戦い(第一次カスティーリャ継承戦争)。ゲクランが加勢したエンリケがペドロ1世に勝利。ペドロ1世は捕らえられ殺害された

エンリケエンリケ2世としてカスティーリャ王に即位,強力な艦隊を有しフランスの同盟国に

フランスの反攻

1370.12.4,ポンヴァランの戦い。ゲクラン率いるフランス王国ブルターニュ公国がイングランドに勝利。分散していたイングランド軍をゲクランは強行軍で各個撃破・殲滅

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1371【蘇】デイヴィッド2世の甥のロバートがロバート2世としてスコットランド王に(ステュアート朝)。同年ヴァンセンヌエディンバラ条約で仏蘇同盟更新

1372.6.22,ラ・ロシェルの海戦でカスティーリャ王国とフランスがイングランドに勝利,エドワード3世の親征を暫く遅らせる

1374,ジェフリー・チョーサー,ロンドン税関に(年俸10ポンド)

1375.7.1,2年間の休戦協定

初期の指導者達の死

1376.6.8,エドワード黒太子死去(45歳)

1377.6.21,エドワード3世死去,エドワード黒太子の子のリチャード2世が10歳で即位

1380.7.13,ゲクラン死去

1380.9.16,シャルル5世賢明王死去,シャルル6世が11歳で即位

休戦協定と英仏両国内の内紛

1381.5,和平交渉始まる

1381.5.30【農民反乱】イングランドでワット・タイラーの乱(~11月)

:戦費調達の為の人頭税などが原因。大法官や財務長官が殺害されたが鎮圧された

1383,リチャード2世が親政開始するも専制的で貴族の反感を買う

1384.1,休戦協定

1385,リチャード2世スコットランドに遠征するも成果なし

1389,3年間の休戦協定

1392,英仏両王がアミアンで会見

1392,この頃よりシャルル6世が精神異常をきたし始める

:フランスはブルゴーニュ派とアルマニャック派に分かれて抗争

1394,リチャード2世アイルランド遠征(~1395)

1396.3.11,28年間(1398年~1426年)の休戦を発表

1396.11【婚姻同盟】シャルル6世の娘イザベラが6歳でリチャード2世の妃に

:リチャード2世は1367年,イザベラは1389年生まれ。28歳と6歳の結婚であったがこれで平和になると思われた。しかしリチャード2世と貴族達の対立は収まらず……

1399.5,リチャード2世,2度目のアイルランド遠征

1399.8,リチャード2世アイルランド遠征からの帰途にヘンリー・ボリングブルックの軍に捕らえられ幽閉される

1399.9.29,リチャード2世廃位され(1400獄死),ヘンリー・ボリングブルックがヘンリー4世として即位(プランタジネット朝アンジュー朝の滅亡,ランカスター朝の開始)

:この後,諸侯の反乱が1405年まで続く

1400.10.25,ジェフリー・チョーサー死去

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1413.3.20,ヘンリー4世死去,息子のヘンリー5世即位

ヘンリー5世による戦争の再開

1415.8.12,ヘンリー5世,1万ほどでノルマンディーへ侵攻

1415.9.22,ヘンリー5世,ハーフルール(アルフルール)を1か月以上包囲して落とすも7千ほどの兵力になる

1415.10.25,アジャンクール(アジンコート)の戦い

:長弓隊が活躍して7千のイングランド軍が2万のフランス軍に勝利

:フランスは多くの貴族が戦死するか捕虜になった

:アルテュール・ド・リッシュモンも捕虜となった。彼の母はヘンリー4世の2番目の妻であり,ヘンリー5世の継母であった

:アルテュールは「アーサー」,リッシュモンは「リッチモンド」に相当。なお,❌リュッシモンではないので注意。リッシュモンをリュッシモンと間違ってしまうのはシミュレーションをシュミレーションと間違ってしまうのと同じ理由と思われる。リッシュモンかリュッシモンか分からなくなったら「リッチモンド」→「リッシュモン(ド)」→「リッシュモン」と変化させれば良い。

:オウエン・テューダーはこの戦いで戦功があり,従騎士に昇進

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1415.11,ヘンリー5世,ロンドンに凱旋

1417.8,ヘンリー5世,再びノルマンディーに侵攻,カーンなどを占領

1418.7.29,ヘンリー5世,ノルマンディーのルーアンを包囲(→1419.1.19)

1418.7,ブルゴーニュ公ジャン1世,パリを奪取し,フランス内で主導権を握る

1418.9,シェルブール陥落

1419.1.19,ルーアン陥落

1419【蘇】仏蘇同盟に基づきスコットランド軍がフランスに派遣される

:ボージェ(1421),ヴェルヌイユ(1424),ニシンとオルレアン(1429)を戦う

1419.8,ヘンリー5世,パリ城外に達す

:脅威を感じた王太子シャルルとブルゴーニュ公は和解に動き始めるが,次項に

1419.9.10,フランスのブルゴーニュ公ジャン1世がフランス王太子派に暗殺される

↓暗殺されたブルゴーニュ公ジャン1世(無怖公)。何か顔が好き

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1419.12.2,ジャン1世の跡を継いだブルゴーニュ公フィリップ3世がイングランドと同盟

1420.5.21,トロワ条約でシャルル6世の死後にヘンリー5世とその子孫が王位を継ぐことに。またシャルル6世の娘カトリーヌがヘンリー5世に嫁ぐことに

:シャルル6世(狂気王)は1392年頃からガラス妄想という精神病にかかっていた

1420.6,ヘンリー5世とカトリーヌ(シャルル6世の娘)が結婚

1421,ヘンリー5世,弟のトマスにフランスを任せて一旦帰国

1421.3.22,ボージェの戦い。フランス・スコットランド連合軍がイングランドに勝利。ヘンリー5世の弟トマスが戦死(32歳)

1421.6.10,ヘンリー5世,カレーに上陸

1421.10.6,ヘンリー5世がモーを包囲するモー包囲戦始まる(~1422.5.10)

1421.12.6,ヘンリー5世とカトリーヌ(キャサリン)の間にヘンリー誕生。この報せはモー包囲中のヘンリー5世にも届く

1422.5.10,モー降伏。しかしヘンリー5世赤痢にかかってしまう

1422.8.31,ヘンリー5世,34歳で死去。息子のヘンリー6世が0歳9か月で即位

:シャルル6世が死んだらヘンリー5世とその子孫がフランス王を継ぐというのがトロワ条約であったが,ヘンリー5世が先に死んでしまった。しかしヘンリー6世は「ヘンリー5世の子孫」なので,トロワ条約に従えばヘンリー6世がイングランド・フランスの王である(イングランド・フランス二重王国)。ただしフランス王ヘンリー6世(アンリ2世)を認めたのはイングランドブルゴーニュ公国だけであった

:ヘンリー6世はシャルル6世の孫ということになる

:ヘンリー5世や,ボージェで戦死したトマスの弟であるベッドフォード公ジョンがフランスにおけるイングランド領の摂政に

1422.10.21,シャルル6世死去。息子のシャルル7世即位(→1429.7.17)

1423.7.31,クラヴァンの戦い。ソールズベリー伯トマス・モンタキュート率いるイングランドブルゴーニュ連合軍がフランス・スコットランドブルターニュの連合軍に勝利

1424.8.24,ヴェルヌイユの戦い。ベッドフォード公ジョンとソールズベリー伯トマス・モンタキュート率いるイングランドブルゴーニュ連合軍がフランス・スコットランド連合軍に勝利。フランス側はスコットランド兵4千を含む7千名以上が戦死

:のちにジャンヌ・ダルクの戦友となるアランソン公ジャン2世も捕虜となる

1425.3.7,リッシュモン,元帥に

:しかしリッシュモンはシャルル7世から疎まれていた。リッシュモンはシャルル7世の寵臣を処刑するなどして対立は深まる

1428,シャルル7世の寵臣ラ・トレモイユがリッシュモンを宮廷から排除

1428.10.12,オルレアン包囲戦始まる(~1429.5.8)

1429.2.12,ニシンの戦い。オルレアンを包囲するイングランド軍にニシン等の食糧を届ける輜重隊をルヴレでフランス,スコットランド軍が襲い,ジョン・ファストルフ率いる護衛部隊に敗れる

:ルヴレでの敗戦を予言していたジャンヌ・ダルク王太子に会わせることにヴォークルールの守備隊長ボードリクールが同意

ジャンヌ・ダルクの活躍

1429.3.9,ジャンヌ・ダルク王太子に謁見

1429.4.29,ジャンヌ・ダルク,オルレアンに入城

1429.5.4,オルレアンの部隊がイングランド軍のサン・ルー砦を陥落させる

1429.5.6,オルレアンの部隊がイングランド軍のオーガスティン砦を陥落させる。ジャンヌは足を負傷

1429.5.7,オルレアンの部隊がイングランド軍のトゥーレル砦を陥落させる

1429.5.8,オルレアン包囲のイングランド軍が撤退,オルレアン包囲戦終結

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1429.6.11,ジャルジョーの戦い。ジャンヌ・ダルク,アランソン公ジャン2世率いるフランス軍がオルレアン東方のジャルジョーを奪取,サフォーク伯ウィリアムを捕虜に取る

:アランソン公ジャン2世はリッシュモンの甥(姉の子)でジャンヌ・ダルクの戦友

1429.6.15,モン=シュル=ロワールの戦い。ジャンヌ・ダルク,アランソン公ジャン2世率いるフランス軍がオルレアン西方のモン=シュル=ロワールを奪取

1429.6.16,ボージャンシーの戦い。ジャンヌ・ダルク,アランソン公ジャン2世率いるフランス軍がオルレアン西方のボージャンシーを奪取。ジャンヌとリッシュモン合流

1429.6.18,パテーの戦い。リッシュモン,ジャンヌ・ダルク,アランソン公ジャン2世,ラ・イル,ジル・ド・レら1500騎がジョン・ファストルフ率いるイングランド軍5000に勝利

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1429.7.16,フランス軍,ランスに到達

1429.7.17,ランスのノートルダム大聖堂でシャルル7世の戴冠式(勝利王)

:ジャンヌは同行したが国王に疎まれていたリッシュモンは同行できず

1429.8.26,ジャンヌ・ダルクとアランソン公ジャン2世,パリ北部郊外のサン=ドニを占領

1429.9.3,パリ包囲戦。ジャンヌ・ダルクとアランソン公ジャン2世,ラ・イル,ジル・ド・レら,パリを攻撃するが失敗

:パリ市民はシャルル7世を嫌い,イングランドの統治を受け入れていたためフランス軍に抵抗した

1430頃,ヘンリー5世の未亡人(ヘンリー6世の母)キャサリン・オブ・ヴァロワと密通していたオウエン・テューダーの子,エドマンド・テューダー誕生

:実際にオウエンが「テューダー」を名乗ったのはもう少し後のことらしい

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1430.5.23,コンピエーニュ包囲戦。フランスに降ったコンピエーニュをブルゴーニュイングランド連合軍が包囲。フランスはコンピエーニュを守り切るがジャンヌ・ダルクが捕らえられる

1431.5.30,ジャンヌ・ダルク火刑に処される

1431.12.17,パリのノートルダム大聖堂でヘンリー6世のフランス王としての戴冠式

1432.2.20,フランス,シャルトルを奪還

リッシュモンの軍事・外交における活躍

1433,ヨランド・ダラゴン(シャルル7世の妃の母)とリッシュモンがクーデターでラ・トレモイユを排除,リッシュモン復権を果たす

:ダラゴンは「de アラゴン」→「d'アラゴン」のこと。他に「de アンジュー」→「d'アンジュー」→「ダンジュー」

1435.9.14,ベッドフォード公ジョン死去

1435.9.21,リッシュモンの働きでアラスの和約。かつてシャルル7世の支持者がブルゴーニュ公ジャン1世を暗殺したこと(ブルゴーニュイングランドと同盟するきっかけ)をシャルル7世がブルゴーニュ公フィリップ3世に謝罪し,一部の土地をフィリップ3世に割譲して,イングランドと同盟していたブルゴーニュ公国を味方につける。ブルゴーニュ公国はトロワ条約の内容,ヘンリー6世がフランス王であるという見解を破棄,シャルル7世が王と認める

1436.4.13,リッシュモン,パリをイングランドから解放。1441までにパリを中心とするイル=ド=フランスはフランスが奪還

1437.1.3,ヘンリー6世の母キャサリン・オブ・ヴァロワ死去

:キャサリンと密通していたオウエン・テューダー投獄されるがのち釈放される

:オウエンの子エドマンド,ジャスパーと,ヘンリー6世は義兄弟ということになるが,仲は悪くなかったという(→1452)

1437,ヘンリー6世の親政開始

1444.5.22,トゥール条約で2年間の休戦。メーヌとアンジューをイングランドが割譲する(次項のマルグリットの父ルネ・ダンジューに返す)というイングランドにとって不利な条約。サフォーク伯(1429ジャルジョーで捕虜になり,1431解放)が取りまとめ,彼はサフォーク侯に昇進

1445.4.23,ヘンリー6世とマーガレット・オブ・アンジュー(マルグリット・ダンジュー)(ヨランド・ダラゴンの孫)が結婚

1446,リッシュモン,ブルターニュ公フランソワ1世をフランスに臣従させフランスの味方につけることに成功

ブルゴーニュに続いてブルターニュもフランスの味方になったことで百年戦争はフランスの有利に

1447,メーヌとアンジューを割譲するというトゥール条約の条件が公表されてイングランドの抗戦派は怒る

1447.7.30【愛】ヨーク公リチャード,アイルランド総督に任命される

:リチャードはエドワード3世の曾孫にあたり王位継承権があったが,ヘンリー6世はこれを認めず,彼をアイルランドに送った

1448,サフォーク侯,サフォーク公に昇進

1449.3,ノルマンディーのイングランド軍がフージェールを奪う

1449.11.4,フランスがルーアンを奪回

1450.4.15,フォルミニーの戦い。リッシュモン率いるフランス軍イングランド軍に勝利

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:大砲2門が登場。“大砲が野戦に使われた嚆矢とも言えるが,有効に活用されたとは言えず,砲兵隊が重要な位置を占めるのは3年後のカスティヨンの戦いまで待たねばならなかった”

1450.5.2,サフォーク公ウィリアム暗殺される

1450.7.1,フランス,カーンを奪回

1450.8.12,フランス,シェルブールを奪回

:これにてフランス,ノルマンディーを平定。あとはボルドー周辺のアキテーヌとカレーだけに

1451.6.19,フランス,ボルドーを奪回

1452,オウエン・テューダーの子エドマンドがリッチモンド伯,ジャスパーがペンブルック伯に叙爵される

1452.10,イングランドボルドーを奪う

1453.7.17,カスティヨンの戦い。フランス,ブルターニュ連合軍がイングランド軍に勝利

ヘンリー6世はこの後精神錯乱に陥る。フランス王シャルル6世(狂気王)の孫に当たるため,隔世遺伝ではないかとも言われる

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1453.10.19,フランス軍ボルドーを再奪回し百年戦争終結

:フランスにおけるイングランドの領土はカレーだけに

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コーエーの『ブレイドストーム百年戦争』を遊んだ以外,百年戦争の予備知識がなかったため大変でしたが,非株式会社いつかやるの動画を見て楽しみながら取り敢えず書き上げることができました。何か書き忘れていることがあったら書き足していきたいと思います。

次は薔薇戦争というのが始まるようですね。全然知らない😸💦

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