フレイニャのブログ

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Wikipedia世界史(5) 南北朝時代(中国)続き

Wikipedia世界史(4) 南北朝時代(中国)続き」の続きです。楊堅(文帝)による隋の統一から隋の滅亡までやり,「南北朝時代」は今回で終了となります。

(14)楊忠(507-568):楊堅の父

楊堅の父楊忠北魏の将軍楊禎の子で,北海王元顥に亡命して爾朱一族に対抗するも敗死),のち爾朱兆宇文泰西魏を建てる)に付き,東魏の攻撃を耐えかねてに亡命,のち西魏に帰還,宇文泰のもとで猛将として活躍(身長七尺八寸,容貌魁偉,美髯),北周で対北斉戦に活躍して柱国大将軍,大司空,元帥にまでなり,突厥と共に北斉を大いに攻めました。また隋国公に封じられています(559年)。568年,62歳で亡くなりました。なお楊忠漢民族ではなく北方異民族の出身という説も根強くあります。

楊堅は16歳で驃騎大将軍になるなどエリート街道を進みました。父楊忠の死後隋国公を継ぎます。

(15)北周武帝(543-578;在位560-578)

前回,宇文護宇文覚を皇帝(北周では天王と言った)に擁立して北周が成立する話をしましたが,宇文覚は従兄宇文護の傀儡に過ぎませんでした。宇文覚は果敢な性格で宇文護の排除に立ち上がりますが失敗し殺されます。しかし宇文覚の弟宇文邕(うぶん よう)宇文泰の四男)が宇文護を誅殺することに成功,親政を始めました。これが武帝です。北周武帝は「Wikipedia世界史(2)」で紹介した「三武一宗の法難」の2つ目を行った人物です。道教・仏教共に廃止し,寺院の破壊と財産没収,僧侶の還俗を行いましたが,通道観という研究機関を設立しました。おそらく宗教を完全に消滅させるのではなく,勝手を許さず国家の管理に置こうとしたのでしょうね。

武帝南朝の攻撃や内紛で北斉が弱っていると見,575年から本格的に攻撃,577年に滅亡させました。北周による,北魏以来の華北統一です。武帝突厥の征伐も考えましたが,享年36で亡くなりました(578年)

(16)楊堅(541-604;在位581-604)

武帝の後は長男(宣帝)が継ぎました。宣帝は廃仏を緩和しましたが,父のような才能はなく,なんと在位1年で7歳の長男(静帝)に譲位して遊興に耽り,政治を皇后(楊麗華)の父だった楊堅に一任しました。というより楊堅は娘を皇帝の后に送り込むほど実力を持っていたわけですね。宣帝は580年に僅か22歳で死去,楊堅静帝の下で左大丞相になり実権を掌握します。静帝は国を治められず楊堅禅譲北周は滅びました(581年)。隋の建国です。静帝は他の皇族とともに殺されてしまいました(享年9)。北周武帝は有能だったのに宣帝が残念すぎましたね。

楊堅文帝)は587年に後梁を,589年にを滅ぼして中華を再統一します。の最後の皇帝は陳叔宝後主)で,余りに暗愚すぎて楊堅に殺されず,余生を過ごせたそうです。暗愚だったという意味で「煬公)」と諡されました。楊堅はまさか自分の息子(楊広)も「煬帝)」と諡されるとは思わなかったでしょうね。

598年には30万で高句麗遠征を行いますが撤退しました。仏教振興,中央集権化,科挙制導入,府兵制・均田制など内政にも力を注ぎました。

楊堅の長男は楊勇と言いましたが,讒言もあって廃嫡され,次男の楊広が後を継ぎました。これが煬帝です。

(17)煬帝(569-618;在位604-618)

楊広は即位前は質素倹約であったようですが,即位すると奢侈を好むようになりました。100万人(女性含む)を動員して大運河を造らせ暴政と非難されました。ただ大運河は経済で優越していた南を北と繋ぎ,経済効果は大きかったようです。また吐谷渾ベトナム林邑(チャンパ)を攻撃するなど対外遠征も盛んで,612年には父楊堅と同様に高句麗遠征を行いました(楊堅吐谷渾も攻撃している)。100万を超える軍勢でしたが高句麗の将軍乙支文徳(いつしぶんとく,ウルチムンドク)は隋軍の兵糧が乏しいことを利用して補給線が伸びるような戦いを続け,最後は疲労と兵糧不足に陥った隋軍に勝利しました。翌613年にも遠征しますが楊玄感の反乱が起こって中止,更に翌614年にも遠征すると高句麗楊玄感と仲が良く,高句麗に走っていた降将の斛斯政を差し出して和議,朝貢することになりました。しかし煬帝突厥も攻撃して敗れ,616年には反乱が相次ぎ,李密(魏)王世充(鄭)竇建徳(夏)李淵(唐)宇文化及(許)などの群雄割拠時代になりました。

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煬帝は現実逃避に陥って国政を顧みなくなり,宇文化及宇文智及の兄弟に殺されました(618年4月)。 宇文化及魏県の辺りにという国を作りますが,楽寿を興した竇建徳に滅ぼされます。竇建徳は621年(618年の唐建国後),李世民を建国した李淵の子)に滅ぼされました。なお李淵太原で挙兵して長安を落とし,煬帝存命中の617年に煬帝の孫(恭帝)を擁立していましたが,煬帝が死ぬと恭帝禅譲させは滅亡,(618-907)が建国されました。建国時はまだ宇文化及竇建徳王世充など群雄が割拠していたんですね。彼らは李淵の長男の李建成,次男の李世民に平定されていきます。皇太子は李建成でしたが,李世民が活躍しすぎたのを恐れ,除こうとして逆に李世民に殺されました(626年)。李淵高祖)はこれを受け入れ,同年李世民太宗)に譲位,635年に71で亡くなりました。

(18) 遣隋使(600-618)

600年に阿毎多利思比孤(あめのたらしひこ)(多利思北孤)が遣いを送ってきたと『隋書』にあります。まだ文帝楊堅の時代で,日本では推古天皇8年です。阿毎多利思比孤が誰かは諸説あるそうです。

有名なのが608年(推古天皇15年)に小野妹子が派遣されたものです。楊堅は604年に亡くなっており,煬帝の時代です。これも『隋書』では阿毎多利思比孤が派遣したとあります。小野妹子は答礼使の裴世清李世民の世を避けて裴清とも)と共に帰国しました。

翌608年(推古天皇16年)にも小野妹子が派遣され,学者の高向玄理(たかむこのくろまろ),学僧の南淵請安(みなぶちのしょうあん),学僧の(みん)ら留学生が学問のため同行しました。

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610年(推古天皇18年),614年(同22年)にも派遣されました。この第5回は犬上御田鍬が派遣されています。犬上御田鍬は翌年に帰国しましたが,留学していた高向玄理たちは実に640年まで滞在し,隋の滅亡・唐の建国(618年)を経験しています。留学32年間て半端ないですね。その間,第1回遣唐使も派遣されています(630年,犬上御田鍬)。太宗李世民の時ですが,倭が遠くて来るのが大変だということで,毎年の入貢は不要とされたそうです。実際第2回(653)では第2船が遭難して120名中100余名が死亡・行方不明者という惨事となっています。鑑真(688-763)は逆に唐から日本に来ようとした人ですが,来るまでに大変な思いをしていますからね。

↓淡々としたWikipediaの記述でも涙が止まらない鑑真の渡海

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最後はやや脱線しましたが隋による中華統一から滅亡まで概説できました。次に何をやるかは決めていませんが,やりたいものが見つかったらまたまとめてみたいと思います。

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