フレイニャのブログ

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Wikipedia世界史(1) 南北朝時代(五胡十六国時代)

2020/10/9の記事八王の乱五胡十六国時代に触れたので,その後の南北朝時代を物語ってみたいと思います(五胡十六国時代もやるべきですがかなり複雑なのでまたの機会に……)

南北朝時代と言えば「宋斉梁陳(そうせいりょうちん)」という南朝の順番を覚えたり,北魏が仏教を保護したということくらいしか覚えていませんので,復習になればと思います。

(1)鮮卑とは?

北魏を建てるのは鮮卑拓跋部拓跋鮮卑)の拓跋珪(たくばつけい)ですので,鮮卑から見ていきましょう。鮮卑匈奴の次に北方で隆盛した遊牧民族ですね。

内モンゴル東部から満州西部にかけて,東胡(とうこ)という遊牧民族がいました。春秋戦国時代から存在し,秦代には強大になっていました。

匈奴冒頓単于が父を殺して立つと,東胡の王は単于に馬やら后やらを要求,単于はこれに従いました。しかし王が土地を要求すると単于は激怒し,東胡に攻め込むと,弱すぎたのか匈奴が強すぎたのか東胡は滅亡してしまいました。

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東胡の生き残りが烏桓鮮卑に逃れ,それぞれ烏桓(うがん)鮮卑になりました(鮮卑族が住んだから鮮卑山と言われるようになったとの説もあるので注意)。烏桓烏丸とも書きますが,こうなると烏丸(からすま)に一致ですね。

匈奴前漢武帝時代に衛青・霍去病(かくきょへい)の討伐に遭い,東の烏桓,西の烏孫,北の丁零丁令)が力をつけ弱体化していきます。更に後漢の時代に匈奴は南北に分裂,南匈奴後漢に服属して共に(北)匈奴を討ち,匈奴は衰退,代わって力をつけた鮮卑に滅ぼされました。

鮮卑が隆盛したのは檀石槐(たんせきかい)が大人(部族長)だった時で,匈奴の版図に匹敵,後漢桓帝霊帝の時代に度々中国の北方を荒らしました。三国志の時代の北方には南匈奴(長城以南)と鮮卑烏桓らがいたことになりますね。

檀石槐の死後,鮮卑は一時グダグダしますが,軻比能(か び のう)という有能な指導者が現れます。軻比能曹操が実権を握る後漢に服属し,時に叛き,時にの策略で分裂しながらも勢力を保ちました。

このようにとの緊張関係を保った軻比能は,蜀の諸葛亮の北伐にも呼応し,にとっては悩みの種でした。明帝曹叡)は秦朗司馬懿と共に諸葛亮の北伐にも当たった人物。曹操の養子)に鮮卑を攻撃させ,また幽州刺史の王雄は配下の韓龍を使って軻比能を殺させました(235年)

創作色の強い三国志演義では,軻比能司馬懿諸葛亮を潰すために進軍させた五軍(鮮卑軻比能の十万,南蛮孟獲の十万,孫呉の十万,孟達の十万,曹真の十万)の一に数えられています。

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(2)鮮卑拓跋部と代

のちに力をつけたのは鮮卑拓跋部でした。鮮卑匈奴に匹敵する版図を持ったので,幾つかの部があったわけです。拓跋部のほか慕容(ぼ よう)宇文部段部禿髪(とくはつ)乞伏(きつぶく)賀蘭部などがありました。「宇文」という名前は覚えておくと良いでしょう。禿髪部の由来が気になりますね!

拓跋部は315年(晋の愍帝司馬鄴の時代)にという国を建国します。初代は拓跋猗盧(たくばつい ろ )で,立派な人物だったようです(Google日本語入力拓跋猗盧が変換できて驚きました)。3つに分かれてしまっていた拓跋部を再統一し,代国を建国しました。「於夫羅」編でも触れましたが,拓跋部劉淵が建てた南匈奴の漢と敵対します。拓跋猗盧劉淵の後継の劉聡,劉粲,劉曜を攻撃しました。

拓跋猗盧は立派な人物でしたが長男の拓跋六脩と対立して殺され(316年),六脩を殺した拓跋普根(第2代,1ヶ月で亡くなる),普根の子(第3代,名も伝わっていない)の次に拓跋鬱律(たくばつうつりつ)(第4代)が擁立されました(在位317-321)。鬱律は南方を征服する野心を持っていたようですが,お家騒動で殺され,拓跋賀傉(第5代),拓跋紇那(第6代・第8代)になります。紇那拓跋翳槐鬱律の長男,第7代・第9代)と抗争し,翳槐の弟,拓跋什翼犍(たくばつじゅうよくけん)(第10代)が最後の代王です(在位338-376と長い治世ですね)。什翼犍も立派な人物で,父鬱律同様南方に野心を持ち,拓跋慕容部の前燕や北の高車丁零のこの時代の呼び名)と抗争したりしましたが,西に興った苻堅氐族)の前秦にも圧迫され,多方面の戦いの中,お家騒動で一族に殺され混乱の中で代国は滅びました(376年)

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拓跋什翼犍の孫の拓跋珪が十年後に北魏を建国することになりますが,その話をする前に,鮮卑族五胡十六国時代に建てたその他の国についても見てみましょう。

(3)鮮卑慕容部と前燕後燕

慕容部は東北の遼東・遼西の辺りにあったようです。莫護跋(ばくごばつ)の時に一族を引き連れて遼西に住み着きました。238年,魏の司馬懿(仲達)公孫淵を討伐した際,莫護跋仲達に協力したため正式に遼西に住む許可を与えられました。この後も西晋に従属しますが,慕容廆(ぼ ようかい)(269-333)の父の頃より西晋を攻撃するようになりました。また西にいた鮮卑宇文部や,東の扶余と抗争しました。289年,慕容廆西晋に再び帰順するという賢明な策を取り,宇文部を攻撃,拓跋部と修好します。

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西晋洛陽南匈奴の漢前趙の前身)に落とされると中央の統制が効かなくなり,慕容廆王浚(おうしゅん)(自立色を強めた西晋の将軍)や拓跋猗盧と結んで段部鮮卑を攻撃したりしました。そして王浚段部鮮卑の統治力が低下する中,慕容廆は政を公正に行い,永嘉の乱西晋の滅亡に至る過程)を逃れてきた人材を集めて勢力を増します。

西晋が滅亡し,司馬睿東晋を建てると東晋にも帰順しました。宇文部・段部高句麗の攻撃をはねのけ,東晋から車騎将軍,遼東郡公に任じられます。石勒羯族)の建てた後趙との修好は拒絶し,中原に進出して王になりたかったようですが,志半ばで亡くなりました。子の慕容皝(ぼ ようこう)(297-348)が継ぎました。

慕容皝の兄には,庶子だったので後を継がなかった慕容翰(ぼ ようかん)がいました。慕容皝慕容翰の関係は微妙となり,慕容翰は災いを恐れて段部に出奔しました。一方慕容皝の弟で,父慕容廆に気に入られていた慕容仁の方は反乱・自立,しかも慕容皝慕容仁に一度敗退してしまいます。しかし336年に慕容皝慕容仁を滅ぼしました。

抗争を収めた後,慕容皝宇文部段部に対しても優位に立ち,337年燕王を自称(前燕),後趙との抗争を始め,338年末に段部を一旦滅ぼしました。

ところで,出奔した兄の慕容翰はその後宇文部に移りましたが,居づらくなったようで340年に帰還,弟慕容皝も歓迎し,将軍として活躍することになります。341年に慕容皝は正式に東晋から燕王に認められました。

344年,慕容皝宇文部を滅ぼします。兄慕容翰はこの戦いで活躍しましたが負傷,家に籠もって乗馬の練習を始めました。これをある者が讒訴,慕容皝は活躍する兄を危険視し始めたのか,自害を命じてしまいました。慕容翰は「(出奔して)むしろ死ぬのが遅すぎた」と言って受け入れました。なお宇文部は滅びましたが,生き残りは前燕に仕えます。宇文の名,覚えておいて下さい。

慕容皝拓跋部と修好し,国内を整備,346年には扶余の玄王を滅ぼしましたが,348年,狩りでの怪我が元で亡くなりました。慕容儁(319-360)が継ぎました。

石勒が建てた後趙は第3代石虎の死後,大混乱に陥り,石虎の養子石瞻漢人で元は冉瞻)の子・石閔が実権を握り,石閔は胡人(異民族。石勒羯族の出身)20万人を殺害(胡人と間違われて殺された漢人もいたという),李閔そして冉閔(ぜんびん)に名を戻し,を建てます(350年,冉魏,都は)。これで後趙は滅ばず石虎の子石祗が即位して襄国というところで対抗しました。将軍の劉顕冉魏を攻めさせますが敗北。劉顕襄国に戻り,石祗らを殺して冉閔に降伏しました。後趙の滅亡です(351年)

冉閔後趙を滅ぼすと満足したのか政治が乱れてしまいました。滅んでいた段部鮮卑段勤が自立して趙王を自称,また前燕慕容儁の弟慕容恪冉魏討伐の兵を起こし,352年,冉魏は滅びました。冉魏五胡十六国に数えられていません。この年,慕容儁燕王から大燕皇帝に即位します。その後も慕容儁は勢力を拡大し,前秦東晋も征伐して中華統一の野心を起こします。しかし病気になり,360年に亡くなりました。子の慕容暐が継ぎ,慕容儁の弟慕容恪がこれを支えました。慕容恪が補佐する慕容暐前燕は364年,東晋許昌・汝南・陳郡を攻略,洛陽も制圧して西の前秦苻堅)を脅かします。慕容恪は367年に亡くなり,慕容評慕容皝の弟)が慕容暐を補佐しました。慕容暐は350年生まれなのでまだ10代後半なんですね。

慕容評ですが,ちょっと問題があったようです。慕容恪慕容皝の子の慕容垂(ぼようすい)段勤を降伏させるなど活躍し呉王に封ぜられていた)を大司馬にするよう遺言していたのに,彼を嫌ってそうしなかったのです。それでも慕容垂東晋桓温(北伐を行い,311年に西晋が失った洛陽を356年に奪還する大功を立てた人)を破るなど活躍しました。こうして名声を上げる慕容垂慕容評はますます疎ましく思い,皇太后と図って除こうと考えるようになりました。危険を察知した慕容垂は,逆に彼らを除けとの進言に対し「一族が衰退するだけ」と却下,亡命を決意,369年前秦に亡命します。有能な敵将しかも皇族の帰順に,前秦の苻堅は彼の手を取って歓迎したと言います。ただ功臣の丞相王猛漢人)は慕容垂を危険視していたようです。

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苻堅はこの後,領土争いから前燕討伐を決意,王猛らが370年洛陽慕容筑を降伏させます。さらに壷関(こかん)・晋陽を落とします。また南では東晋桓温前燕から寿春を奪いました。苻堅は親征してを攻撃,370年,前燕は滅びました。降伏した慕容暐(二十歳くらい?)は新興侯に封じられ司馬にも任命されました。383年,華北を統一した苻堅東晋征伐の兵を起こすと慕容暐も従軍,寿春を落としますが,結局淝水の戦い苻堅が大敗すると逃亡・離反します。それでも苻堅慕容暐を許しましたが,その後,慕容一族が前秦から離反したことを知った慕容暐苻堅の暗殺を企て,露見して殺されました(384年)なお,慕容垂を疎んじて前秦に走らせるきっかけを作った慕容評を,慕容垂は殺すよう苻堅に進言しますが,苻堅は彼を遠ざけただけで殺しませんでした。結構優しい人だったんですかねぇ……

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さて,拓跋部・代と,慕容部・燕前燕)まで説明しましたが,ふう……なかなか大変ですね。何せ全く予備知識がないものですから,調べまくりです。しかも,気づきましたか? 「南北朝時代をやる」と宣言したのに,五胡十六国時代真っ只中です!笑 鮮卑慕容部も,まだ後燕南燕西燕が残っています。慕容廆とか慕容皝とか慕容垂とかややこしすぎて,彼らの名前と共にリュウの「波動拳」という声が聞こえてきました。

でも面白いし,少なくとも鮮卑族が建てた国はきっちりやりたいと思います。次回は後燕からですね。少しネタバレすると,後燕前燕を離反して前秦に走った慕容垂が建てる国ですよ! 次回をお楽しみに!

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