三世一身法は元正天皇の時,墾田永年私財法は聖武天皇の時といった風に,どの天皇の時にどういう重要事件が起こったかをまとめていきます。ほとんど日本史年表になりました
522 司馬達等が来日(538年の仏教公伝前に日本で仏教を信奉)
531? 継体帝崩御
536 安閑帝崩御
28 宣化天皇(536?~539?)継体天皇の子。安閑天皇の同母弟
536?蘇我稲目が大臣に。稲目の娘2人(堅塩媛,小姉君)は欽明天皇の妃,1人(石寸名)は用明天皇の嬪に
538 百済から仏教公伝(552年説あり)蘇我稲目が賛成,物部尾輿・中臣鎌子が反対
539 宣化帝崩御
571 額田部皇女(後の推古天皇)が異母兄の
571 欽明帝崩御
30 敏達天皇(572?~585?)欽明天皇の第二皇子(宣化天皇の娘の子)
廃仏派の
581 隋の楊堅即位(文帝)
584 嶋(善信尼;司馬達等の娘で11歳),禅蔵尼,恵善尼が出家(日本初の出家者)
585 敏達帝崩御
31 用明天皇(585?~587?)欽明天皇の第四皇子(蘇我稲目の娘,堅塩媛の子)
聖徳太子の父。崇仏派。なお聖徳太子の母は欽明天皇と小姉君の娘であるから,聖徳太子の父も母も稲目の孫である
32 崇峻天皇(587?~592?)欽明天皇の第十二皇子(蘇我稲目の娘,小姉君の子)
587 廃仏派の物部守屋が蘇我氏に滅ぼされる(丁未の乱)
588 善信尼,百済に留学(~589)
589 隋が南朝の陳を滅ぼし中国統一
591 任那復興軍(二万余)を筑紫に派遣
33 推古天皇(593~628)欽明天皇と,蘇我稲目の娘(堅塩媛)の子;もと敏達天皇の后;初の女帝;飛鳥時代は593年(旧暦592年)から710年まで。飛鳥文化は大化の改新まで
593 聖徳太子が摂政に。難波に四天王寺建立(和宗の総本山)。587年の物部氏との戦いで四天王に祈って勝利したため
594 仏教興隆の詔
600 新羅征討軍
602 新羅征討軍(聖徳太子の同母弟の来目皇子;二万五千)しかし皇子が病になり翌年死去
603 来目皇子に代わり当麻皇子が新羅征討軍を率いるが,皇子の妻が死去したため中止
603 冠位十二階制定(大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智)世襲の氏姓制度から能力主義に。大徳は小野妹子(遣隋使からの帰国後)など,小徳は秦河勝など
603(or 622)広隆寺創建(秦河勝;太秦)弥勒菩薩像が有名
604 十七条憲法制定(官僚・豪族が守るべき法)
604 隋の楊広即位(煬帝)
608 隋から裴世清(裴清)が答礼使として来日
608 裴世清を乗せて第三回遣隋使。高向玄理,南淵請安,
614 最後の遣隋使(犬上御田鍬)
620 『天皇記』『国記』編纂(共に現存せず)
622 聖徳太子死去
623
626 蘇我馬子死去
626 唐の李世民即位(太宗)
628 推古女帝崩御
34 舒明天皇(629~641)敏達天皇の第一皇子と敏達天皇の娘の子(異母兄妹結婚)
蘇我蝦夷が大臣として権勢を振るう
632 第三回遣隋使で隋→唐に行っていた旻帰国(高向玄理と南淵請安は640年帰国)
641 舒明帝崩御
35 皇極天皇(642~645.7)敏達天皇の曾孫;もと舒明天皇の皇后;女帝
蘇我蝦夷・入鹿の専横
643 山背大兄王(聖徳太子と刀自古郎女の子)が蘇我入鹿の手の者に滅ぼされる
645
645 皇極女帝が孝徳天皇に譲位(初の譲位。それまではみな崩御)
36 孝徳天皇(645.7~654)敏達天皇の曾孫で,皇極天皇の同母弟
645 初の元号「大化」を定める。大化の改新(
645 阿倍内麻呂が左大臣,蘇我石川麻呂が右大臣,中臣鎌足が内臣に。隋唐で学んだ高向玄理(冠位十二階の小徳),旻が国博士に
646 改新の詔(公地公民,国郡里,班田収授,租庸調)
647 冠位十二階に代わって七色十三階冠制定(大織・小織・大繡・小繡・大紫・小紫・大錦・小錦・大青・小青・大黒・小黒・建武)
647 越国に渟足柵を築く
648 越国に磐舟柵を築く
649 七色十三階冠に代わって冠位十九階制定
649 右大臣の蘇我石川麻呂(馬子の孫)が謀反の嫌疑をかけられ自決
650 唐の李治が即位(高宗;~683)
651 摂津難波(難波長柄豊碕宮;前期難波宮;652年宮殿完成)に遷都
653【天皇置き去り事件】中大兄皇子が飛鳥への遷都を進言。孝徳帝が反対すると,皇子は帝の皇后(中大兄皇子の妹だった)ら大勢を引き連れて飛鳥に移ってしまう
中大兄皇子が実権
658 有間皇子(孝徳帝の子),中大兄皇子を除こうとしたとして誅殺される
660 唐・新羅により百済滅亡,百済復興運動起こる(→663)
661 百済復興の軍を起こそうとした斉明女帝,筑紫の朝倉宮で崩御(68歳)。中大兄皇子が暫く皇太子のまま執務(称制)
663 白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れ,百済再興に失敗(
664 冠位十九階に代わって冠位二十六階制定
667 中大兄皇子,近江大津宮に遷都(額田王はこの頃の人物)。近江時代には無文銀銭という硬貨が存在した(日本最古の貨幣?)
38
669 中臣鎌足死去。また,興福寺(藤原氏の氏寺)創建とされる年
670 庚午年籍(戸籍)
672 天智帝崩御
672 近江大津宮は廃都,都は飛鳥
40 天武天皇(673~686)舒明天皇と皇極天皇の子で天智天皇の弟。大海人皇子
683頃 和同開珎より古い富本銭が造られた
684
685 冠位二十六階に代わって冠位四十八階制定(~701)
686 天武帝と天智帝の娘の子,大津皇子,謀反の嫌疑をかけられ自害
689 天武帝と後の持統女帝の子,草壁皇子薨御。飛鳥浄御原令を頒布(律はなし)
41 持統天皇(690~697)天智天皇と蘇我石川麻呂の娘(遠智娘)の子;天武天皇の皇后;女帝
690 庚寅年籍(戸籍)→692,戸籍に基づく口分田の班給
690 唐の高宗の后(則天武后)が周を建国し,唐が一時中断(~705)
694 藤原京(奈良県橿原市と高市郡明日香村)に遷都。初めての条坊制(碁盤の目)の都で,持統・文武・元明と3代に使われた
42 文武天皇(697~707)天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子と,元明天皇の子
697 藤原不比等(中臣鎌足の子)の長女,宮子が文武帝の夫人に
701 大宝律令(唐の律令に倣う)二官(神祇官/太政官)八省(中務/式部/治部/民部/兵部/刑部/大蔵/宮内),国郡里制,班田収授法,租庸調/雑徭60日/衛士(都の防備)1年/防人(大宰府の防備)3年など。農民負担大。冠位は48階から正一位~少初位下の30階に
701 藤原不比等,大納言に
43 元明天皇(707~715)天智天皇と蘇我石川麻呂の娘(姪娘)の子;草壁皇子の妻であり文武天皇の母;女帝
文武天皇の子(元明天皇にとっては孫)の首皇子が幼いため繋ぎとして即位
708 和同開珎
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708 藤原不比等,右大臣に
710 藤原京から平城京へ遷都(
712 『古事記』編纂(稗田阿礼,太安万侶;万葉仮名+漢文,紀伝体;神代~推古女帝)※『風土記』編纂も元明女帝の時
712 出羽郡(708年設置)が出羽国に昇格。出羽柵の史料初見は709年
44 元正天皇(715~724)草壁皇子と元明天皇の娘;女帝
首皇子がまだ若いため繋ぎとして即位(元正女帝は首皇子の伯母)。政治主導権は母の元明上皇が維持
717 布教や治水などの社会事業をしていた行基が弾圧される
718 光明子が首皇子との間に阿倍内親王(後の孝謙=称徳天皇)を産む
720 『日本書紀』完成とされる年(舎人親王;漢文・編年体;神代~持統女帝)
720 藤原不比等死去→721年から長屋王(天武帝の子の高市皇子の子)と舎人親王(天武帝の六男)が実権
720 南九州で隼人の反乱(~721)大伴旅人が鎮圧
722 百万町歩開墾計画(開墾の奨励策)成果なし
723(養老7)三世一身法(人口増や困窮した農民の逃亡などで口分田が不足したため三世代まで私有を認めて開墾を奨励)(返すなんて
723 光明子(不比等の娘)が興福寺に施薬院と悲田院を設置(病人・貧民救済)
45 聖武天皇(724~749)文武天皇と藤原不比等の長女(宮子)の子。不比等の孫に当たる。天平年間は天平文化が栄える
727 渤海から使節(渤海使)が来る→728年,日本から第一回遣渤海使
729 長屋王の変(藤原不比等の子らである藤原四兄弟の陰謀?)で長屋王自決(神亀6年2月)→天平に改元→四兄弟の妹光明子が聖武帝の皇后に(光明皇后)
731(天平3)行基への弾圧が緩む。このころ山上憶良『貧窮問答歌』書かれたか
734(天平6)光明皇后が興福寺阿修羅像を造らせたとされる年?
735(天平7)吉備真備と玄昉が唐から帰国。新田部親王と舎人親王(共に天武帝の子)死去
736(天平8)南インド出身の
737(天平9)天然痘大流行し,藤原四兄弟が全員死去(長屋王の祟りと恐れられたか)→橘諸兄が権勢(738に右大臣に)
737(天平9)白壁王(後の光仁天皇)と高野新笠の間に後の桓武天皇生まれる
738(天平10)阿倍内親王が立太子。初の女性皇太子(後の孝謙女帝)
740(天平12)橘諸兄に重用された吉備真備と玄昉(法相宗)を除こうとした藤原広嗣の乱(宇合の長男;大宰府)。朝廷の勅使佐伯常人が広嗣との議論で活躍。広嗣は同年11月に斬られる
740(天平12)恭仁京に遷都(山背国相楽郡)→都を転々とする彷徨五年の始まり
741(天平13)国分寺建立の詔(各国に国分寺と国分尼寺を作る)
743(天平15)総国分寺として東大寺大仏(東大寺
743(天平15)墾田永年私財法(面積制限:一品と一位は500町~庶民は10町)→貴族や寺社が農民を使い開墾→私有地増→初期荘園(租の負担あり)(返すのはもう
745 楊玉環が貴妃に(楊貴妃)
745(天平17)
745(天平17)東大寺大仏制作開始(→752)。行基,大僧正に
749(天平勝宝元)聖武帝が娘の孝謙女帝に譲位,初の男性上皇に(出家)。行基入滅
46 孝謙天皇(749~758)聖武天皇と藤原不比等の娘(光明皇后)の娘;女帝
749(天平勝宝元)藤原仲麻呂(四兄弟の武智麻呂の子)が大納言に。橘諸兄に代わって権勢
752(天平勝宝4)東大寺大仏開眼法要(聖武上皇と娘の孝謙女帝の時代)大仏殿の正倉院(校倉造)も有名
754(天平勝宝6)【天平の甍】鑑真の来日叶う(阿倍仲麻呂はベトナムに漂流して帰れず)
757 養老律令
757 橘奈良麻呂(橘諸兄の子)の乱(藤原仲麻呂を排除しようとして敗れる)
47 淳仁天皇(758~764)舎人親王(天武天皇の子)と当麻老の娘(山背)の子
759 鑑真により唐招提寺創建(金堂,鑑真像)
760 万年通宝(萬年通寳):和同開珎(708)の次
762頃 孝謙上皇が道鏡(法相宗)を寵愛。〈孝謙上皇・道鏡〉vs〈淳仁帝・藤原仲麻呂〉
763 藤原仲麻呂に対する暗殺計画が発覚して藤原宿奈麻呂(広嗣の弟)ら捕らえられ,大伴家持は薩摩守に左遷
764 藤原仲麻呂の乱で仲麻呂斬首さる。仲麻呂と関係が良かった淳仁帝は廃位され淡路に配流。1870年に「淳仁天皇」という諡号を与えられるまで「廃帝」(淡路廃帝)と呼ばれた
48 称徳天皇(764~770)孝謙天皇と同一人物(109年ぶり重祚)
765 神功開宝(神功開寳):万年通宝(760)の次
769 道鏡に不利な神託を持ち帰った和気清麻呂が大隅に配流(宇佐八幡宮神託事件;別部穢麻呂)
770 称徳女帝崩御→道鏡は後ろ盾を失くし(下野に左遷),和気清麻呂は京に復帰
49 光仁天皇(770~781)志貴皇子(天智天皇の子)と紀諸人の娘(橡姫)の子
770 藤原宿奈麻呂が藤原良継に改名
771 藤原百川(良継の弟)が参議に
772 井上内親王が皇后を廃される(775年,子の他戸親王と共に死去;藤原百川の陰謀か)
774(宝亀5)蝦夷が桃生城(宮城県石巻市)を襲撃。38年騒乱の始まり
779 藤原百川,山部親王(桓武天皇)の即位を見ることなく死去
50 桓武天皇(781~806)光仁天皇と高野新笠(続日本紀によると百済の武寧王の子孫)の子
783(延暦2)藤原良継の娘,
784(延暦3)長岡京に遷都。大伴家持,征東将軍に(左遷?)
785(延暦4)早良親王(桓武帝の弟で皇位継承者),藤原種継(宇合の孫)暗殺に関与したとの嫌疑をかけられ,絶食して死去。死後間もない大伴家持(早良親王の東宮大夫だった)も関わったとして官籍から除名(806年復位)
788(延暦7)最澄,比叡山延暦寺を創建(延暦寺と呼ばれるようになったのは823年)
788頃から飢饉・疫病,桓武帝の后(旅子や乙牟漏),母(高野新笠)の死など相次ぎ,早良親王の祟りとされる(800年に崇道天皇と諡される)。のち和気清麻呂が遷都を進言
792(延暦11)健児の制(農民から成る軍団制→弓馬に秀でた者の選抜制;農民負担軽減)
794(延暦13)平安京に遷都(うぐいす
796(延暦15)隆平永宝(隆平永寳):神功開宝(765)の次
796(延暦15)雑徭が30日に(757年にも)
797(延暦16)坂上田村麻呂が征夷大将軍に。『続日本紀』完成(697~791の歴史)
802(延暦21)蝦夷の
805(延暦24)徳政相論(藤原緒嗣の意見で蝦夷征討と造都を中止)
805(延暦24)最澄,唐から帰国(天台宗開祖;伝教大師)(比叡山延暦寺)
※「比類なき天才(=最)」で比叡山まで覚えられる
806(延暦25)空海,唐から帰国(真言宗開祖;弘法大師)(高野山金剛峰寺)
※「真空・空高く」で高野山まで覚えられる
51 平城天皇(806~809)桓武天皇と藤原良継の娘(乙牟漏)の子
藤原薬子(種継の娘で,平城帝の皇太子時代の妃の母)を寵愛,薬子は兄の仲成と共に専横
809 病のため,薬子・仲成の反対を押し切って弟の嵯峨天皇に譲位,旧都平城京に移り住む
52 嵯峨天皇(809~823)桓武天皇と藤原乙牟漏の子。平城天皇の同母弟。嵯峨天皇の「弘仁」,清和天皇の「貞観」は弘仁・貞観文化
兄平城上皇と弟嵯峨天皇の権力争い(上皇の病が治り元気になったためとも)
810(弘仁元)平城太上天皇の変(薬子の変)。平城上皇が東国で挙兵しようとするも坂上田村麻呂に阻まれて嵯峨天皇に敗れ,出家。薬子は自害。藤原式家の力弱まる
810(弘仁元)令外官の蔵人,蔵人頭(機密文書を扱う)設置(藤原冬嗣と巨勢野足が初代)。同じく令外官の検非違使もこの頃か(令外官は律令で規定されていない官職で唐にもあり。征夷大将軍や関白も令外官)
814(弘仁5)嵯峨天皇の子らが臣籍降下して嵯峨源氏に(源信ら)
818(弘仁9)富寿神宝(富壽神󠄀寶):隆平永宝(796)の次
822(弘仁13)? 景戒の説話集『日本国現報善悪霊異記』(日本霊異記)
823(弘仁14)嵯峨天皇,東寺(796年創建)を空海に授ける(東寺真言宗)
53 淳和天皇(823~833)桓武天皇と藤原百川の長女(旅子)の子
淳和天皇の諱が「大伴」であるため臣下の大伴氏が伴氏に改名
825 藤原冬嗣(房前を祖とする北家)が左大臣に(翌年死去)
54 仁明天皇(833~850)嵯峨天皇と橘奈良麻呂の孫(嘉智子)の子
835 承和昌宝(承和昌寳):富寿神宝(818)の次
840 『日本後紀』完成(792~833の歴史)
842(承和9)嵯峨上皇崩御→承和の変。仁明天皇の皇太子恒貞親王(淳和天皇の子)廃され,伴健岑と橘逸勢失脚(藤原氏による他氏排斥事件)
848 長年大宝(長年大寳):承和昌宝(835)の次
848 藤原良房(冬嗣の子)が右大臣に
55 文徳天皇(850~858)仁明天皇と藤原冬嗣の長女(順子)の子
850 文徳帝と藤原
56 清和天皇(858~876)文徳天皇と藤原明子(良房の娘)の子
859(貞観元)饒益神宝(饒益神寳):長年大宝(848)の次
866(貞観8)応天門の変で伴善男(大納言)が失脚し伊豆へ配流
870(貞観12)貞観永宝(貞觀永寳):饒益神宝(859)の次
874 唐で黄巣の乱(~884)
883 源益が内裏で殺される事件(陽成天皇が関わったとの噂が立つ)
884 陽成天皇,満15歳(数え17歳で)退位
総継は従五位上紀伊守止まりだったが,死後,光孝天皇が即位したため正一位を追贈
884 光孝天皇は即位時55歳。藤原基経が関白に(成人天皇の補佐)
884 光孝天皇の子ら26人臣籍降下して源姓に。その1人定省王は源定省に
887 光孝天皇,重態に。源定省が皇族に復帰。光孝天皇崩御により即位(宇多天皇)
59 宇多天皇(887~897)光孝天皇と桓武天皇の孫娘の子。一時家臣(源定省)に
887(仁和3)阿衡事件で藤原基経が難癖をつけてモメる
890(寛平2)寛平大宝(寛平大寳):貞観永宝(870)の次
891(寛平3)藤原基経死去。忠平まで暫く摂関を置かず,源能有や菅原道真(蔵人頭)を重用して寛平の治。御所に滝口の武士という武士を置いて警護させる
892(寛平4)百済復興(後百済):百済と号したのは900年
894(寛平6)菅原道真が唐の衰退を理由に遣唐使廃止の意見を上奏(
60 醍醐天皇(897~930)宇多天皇と藤原高藤(冬嗣の孫)の娘の子
901~923 延喜年間(延喜の治):醍醐天皇と藤原時平・忠平兄弟(基経の子)
901(昌泰4/延喜元)昌泰の変(菅原道真左遷され,903年大宰府にて死去)
902(延喜2)延喜の荘園整理令(違法な荘園を取り締まって財政再建を図るが効果少)
905(延喜5)『古今和歌集』奏上(醍醐天皇下命,紀貫之ら4人が編纂)
907(延喜7)延喜通宝(延喜通寳):寛平大宝(890)の次
907(延喜7)朱全忠が唐を滅ぼし梁(後梁)を建国(五代十国時代~960)(紅,くれなずむ)
909(延喜9)藤原時平数え39歳で死去,菅原道真の怨霊の仕業と恐れられる
918(延喜18)王建が高麗を建国(~1392)
930 清涼殿落雷事件や醍醐天皇の崩御も菅原道真の怨霊の仕業と恐れられる
61 朱雀天皇(930~946)醍醐天皇と藤原基経の娘(穏子)の子
930 藤原忠平(基経の子で時平の弟)が朱雀天皇(数え8歳)の摂政に
931(承平元)宇多法皇崩御(子の醍醐天皇よりも後まで生きた)
932(承平2)富士山が噴火
935(承平5)平将門の乱(939年12月新皇僭称→940年に平貞盛や藤原秀郷が討伐)
936(承平6)高麗が朝鮮半島統一(新羅が935,後百済が936に滅亡)
938(天慶元)頃 空也が京で念仏信仰を広める
939(天慶2)藤原純友の乱(~941)将門の乱と併せ「承平天慶の乱」
946 朱雀天皇,24歳で同母弟の村上天皇に譲位(952年崩御)
62 村上天皇(946~967)醍醐天皇と藤原基経の娘(穏子)の子
947(天暦元)藤原実頼(忠平の子)が左大臣,師輔(実頼の弟)が右大臣に
947(天暦元)後漢建国(劉知遠)後晋は契丹(遼)により946年滅亡
949(天暦3)藤原忠平死去→天皇親政「天暦の治」(実頼・師輔は補佐)
951(天暦5)『後撰和歌集』の編纂を下命(清原元輔らが撰者)
951(天暦5)後周建国(郭威)後漢は950年滅亡
958 乾元大宝(乹元大寳):延喜通宝(907)の次。皇朝十二銭の最後。政府が銅銭を鋳造するのは江戸時代まで途絶。その間は渡来銭(宋銭・明銭など)や私鋳銭
960 趙匡胤が禅譲で後周を滅ぼし宋を建国(~1127~1279)
63 冷泉天皇(967~969)村上天皇と藤原師輔の長女(安子)の子
969 藤原氏による策謀で源高明(醍醐天皇の子)が失脚(安和の変)
:天皇の子で臣籍降下して源氏になったという点で光源氏と共通点を持つ
64 円融天皇(969~984)村上天皇と藤原師輔の長女(安子)の子
972 藤原兼通(師輔の子)が関白に
977 藤原頼忠(師輔の甥)が関白に
65 花山天皇(984~986)冷泉天皇と藤原伊尹(師輔の子)の長女の子
985 永観の荘園整理令。源信(恵心僧都)『往生要集』(念仏信仰)
986 花山天皇,19歳で出家し退位
66 一条天皇(986~1011)円融天皇と藤原兼家(師輔の子)の娘(詮子)の子
990 藤原道隆が関白,次いで摂政に
996 長徳の変(藤原道隆の子で定子の兄弟である伊周と隆家が花山法王に矢を射かける)→2人は左遷
988 尾張国郡司百姓等解文(尾張国解文)尾張国司の藤原元命が民を苦しめ私腹を肥やしていると訴えられた(翌年解任)
1000 藤原道長(道隆の弟)の娘彰子が一条天皇の中宮に(後一条天皇,御朱雀天皇の母)
1006か1007 紫式部が中宮彰子に仕える。『源氏物語』執筆はこの頃?
67 三条天皇(1011~1016)冷泉天皇と藤原兼家の娘(超子)の子
1014 三条天皇,眼病を患い,のち失明
68 後一条天皇(1016~1036)一条天皇と藤原道長の娘(彰子)の子
1017 藤原頼通(藤原道長の子)が摂政に。藤原道長が太政大臣に
1018 藤原道長の娘,威子(後一条天皇の叔母)が後一条天皇の中宮に(この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば)
1019 女真族とみられる刀伊の入寇(壱岐・対馬)藤原隆家が撃退に活躍
1019 藤原頼通が関白に(~1067)
1021 藤原道長の娘,嬉子が敦良親王(後の朱雀天皇)の東宮妃に
1025 藤原嬉子が親仁親王(後の冷泉天皇)を産むが2日後に死去
1028 藤原道長死去
1028 房総三か国で平忠常の乱(1031年源頼信に降伏)東国で源氏が力をつける契機
69 後朱雀天皇(1036~1045)一条天皇と藤原道長の娘(彰子)の子
1040 長久の荘園整理令
70 後冷泉天皇(1045~1068)御朱雀天皇と藤原道長の娘(嬉子)の子
1045 寛徳の荘園整理令
1051 前九年の役(~1062)対安倍頼時,安倍貞任。源頼義・義家父子が活躍
1051 藤原頼通の長女,寛子が皇后に(子は生まれなかったため,頼通は天皇の祖父になれず)
1052 釈迦の入滅から時が経ち過ぎ,仏教が効力を失う「末法」の到来とされる年。平等院鳳凰堂(本尊は阿弥陀如来)創建(明尊,藤原頼通)
1055 天喜の荘園整理令
1067 藤原頼通が関白を辞す。翌年,藤原教通(頼通の弟)が関白に
71 後三条天皇(1068~1073)御朱雀天皇と三条天皇の娘(禎子内親王)の子
※後朱雀天皇も禎子内親王も藤原道長の孫(禎子内親王の母が道長の娘妍子)
※頼通・教通兄弟と仲が悪く,反摂関政治を行ったと言われる
1069 延久の荘園整理令(延久の善政)記録荘園券契所(記録所)で不正荘園を摘発
72 白河天皇(1073~1087)後三条天皇と藤原公成の娘の子
1075 藤原師実(頼通の子)が関白に
1075 承保の荘園整理令
1083 後三年の役(~1087)対清原氏。源義家・義光が参加
1086 『後拾遺和歌集』完成
1087.1(1086=応徳3.11)白河天皇譲位。白河上皇の院政始まる(院庁,院司,院庁下文・院宣)
73 堀河天皇(1087~1107)白河天皇と源顕房の娘の子
1093 寛治の荘園整理令
1094 藤原師通(師実の子)が関白に
1096 白河上皇出家,白河法皇に(法皇時代に北面武士創設)
1099 藤原師通,38歳で死去
1099 康和の荘園整理令
74 鳥羽天皇(1107~1123)堀河天皇と藤原実季の娘の子
1107 藤原忠実(師通の子)が摂政に
1108 出雲で源義親の乱。平正盛(清盛の祖父)が討伐(伊勢平氏台頭の契機)
1111 天永の荘園整理令
1115 完顔阿骨打により金興る
1119 藤原璋子(待賢門院/檀れい)が後の崇徳天皇を産む(第一皇子)璋子は師輔の子孫で,北家閑院流
75 崇徳天皇(1123~1142)鳥羽天皇と藤原公実の娘(待賢門院璋子)の子
1125 金により遼滅ぶ
1127 藤原璋子が後の後白河天皇を産む(第四皇子)
1127 金により北宋滅ぶ(靖康の変)南宋が存続(~1279)
1132? 平忠盛(清盛の父)に対する殿上闇討未遂事件(銀箔の木刀)
1134 鳥羽上皇が藤原得子(美福門院/松雪泰子)を寵愛。得子は魚名の子孫で,北家末茂流
1139 藤原得子が後の近衛天皇を産む(第九皇子)
1142 崇徳天皇,鳥羽上皇によって弟の近衛天皇に譲位させられる。崇徳院は新院と呼ばれた
76 近衛天皇(1142~1155)鳥羽天皇と藤原長実の娘(美福門院得子)の子
1147 祇園闘乱事件→忠盛・清盛の配流を求めて延暦寺が強訴(罰金刑に)
1153 平忠盛死去,清盛が継ぐ
77 後白河天皇(1155~1158)鳥羽天皇と藤原公実の娘(待賢門院璋子)の子
1156.7(保元元)鳥羽法皇崩御→保元の乱起こり後白河天皇方が崇徳上皇方に勝利。崇徳院は讃岐に配流(讃岐院;1164崩御)
※崇徳院は反省の証として書いた経文を朝廷につき返されたため,「日本国の大魔縁となり,皇を取って民とし民を皇となさん」と朝廷を呪った(保元物語)。その後,平清盛が専横し,源頼朝が幕府を開き,後鳥羽院・順徳院が島流しになったので,崇徳院は大いに畏れられた
1156(保元元)保元の荘園整理令
1158(保元3)後白河天皇,息子の二条天皇に譲位,後白河院政
78 二条天皇(1158~1165)後白河天皇と藤原経実の娘(源懿子)の子
1160.1(1159=平治元年12月)平治の乱。源義朝,逃走先で斬られる。頼朝は伊豆に配流
1160(永暦元)平時子(平時信の娘で清盛の継室/深田恭子)が二条天皇の乳母に
1161 平滋子(平時信の娘で時子の妹/成海璃子)が後白河上皇との間に後の高倉天皇を産む
1165 二条天皇,数え2歳の息子,六条天皇(史上最年少即位)に譲位(翌月崩御)
79 六条天皇(1165~1168)二条天皇と伊岐致遠の娘の子
1166 平頼盛(清盛の弟)が大宰大弐となり現地赴任→南宋と日宋貿易。大宰府の外港として博多を整備。厳島神社(海神,航海安全)は平家の氏神に
1168 平清盛出家
80 高倉天皇(1168~1180)後白河上皇と平時信の娘(建春門院滋子)の子
1170 摂政,藤氏長者の藤原基房(松殿基房)が平重盛らに暴行される(殿下乗合事件)
1172 平清盛の娘,徳子(二階堂ふみ)が高倉天皇の皇后に(入内は1171)
1172 松殿基房が関白に
1173 福原の外港として大輪田泊(神戸の辺り)を拡張,日宋貿易
1177 鹿ケ谷の陰謀(鹿ケ谷事件)
1179.9 平重盛(清盛の長男)死去
1180 高倉天皇譲位して安徳天皇即位。平氏の傀儡としての高倉院政
81 安徳天皇(1180~1185)高倉天皇と平清盛の娘(建礼門院徳子)の子
1180.6 以仁王(後白河天皇の子),平氏追討の令旨を下し,源頼政と挙兵,討死
1180.6 福原遷都を強行(現在の神戸市)
1180.9 石橋山の戦いで源頼朝敗れ,安房へ逃れる。10月鎌倉入り,大倉御所建設開始
1180.11 富士川の戦いで源頼朝,武田信義ら,平維盛(重盛の子)に勝利
1180 侍所設置(和田義盛)
1180.11 僅か半年で福原から京都に還都
1181.1 平重衡(清盛の子)らによる南都焼討(東大寺・興福寺が焼討に遭い僧侶の死者多数)。重衡は平家滅亡後,南都に引き渡され斬られた
1181.3 平清盛死去。三男宗盛が棟梁に。後白河法皇の院政再開
1183.6 俱利伽羅峠の戦い(木曽義仲)→木曽義仲と源行家入京,安徳天皇は西国へ逃れる。後白河法皇の平氏追討宣旨。義仲は以仁王の遺児(北陸宮)を天皇にと主張したが,後鳥羽天皇が即位
82 後鳥羽天皇(1183.9~1198)高倉天皇と藤原信隆の娘の子
1184 宇治川の戦いで義仲が源義経に敗れる。粟津の戦いで義仲討死(源範頼ら)
1184.3 一ノ谷の戦い(摂津福原・須磨)範頼・義経(
1184.7 甲斐源氏の武田信義の長男一条忠頼,源頼朝の命で暗殺される
1185.4 壇ノ浦の戦い(長門)平氏滅亡,安徳天皇は祖母時子(二位尼)らと入水・崩御(安徳天皇の母徳子は生き延び出家)
1185 源頼朝から討伐対象となった義経は京を離れ九州を目指すが失敗
1185 文治の勅許(守護・地頭の設置を頼朝に許可)→北条時政は京都守護に
1186 源行家斬られる
1189.6 奥州衣川の戦いで源義経滅ぼされる。その後藤原泰衡も討たれる
1191 栄西(1141~1215)南宋から帰国,禅宗の臨済宗と喫茶の習慣を伝える
1193.9 源範頼殺される
1195 東大寺大仏殿再建
1198 後鳥羽天皇,第一皇子の土御門天皇に譲位して上皇に(後鳥羽院政)
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次回は鎌倉,室町,戦国まで加筆できればいいですね。
(以下は次回更新に向けた草稿です)
1199.2 源頼朝死去。頼朝と北条政子の子,頼家が第2代鎌倉殿に。十三人の合議制敷かれる
1200.2 梶原景時粛清される
1201 後鳥羽院が『新古今和歌集』の編纂を下命(撰者は定家ら;完成は1210年~)
1203.9 北条時政が執権に
1203.10 比企能員の変で比企一族粛清,源頼家が将軍の座から追われる。頼家の長男,一幡も殺される
1203.10 源実朝(頼家の同母弟)が征夷大将軍に(第3代鎌倉殿)
1204.8 源頼家死去
1205.8 牧氏事件。北条時政と牧の方が実朝を除こうとしたとして政子,義時に政権を追われ出家。北条義時が執権に
1213.5 和田義盛粛清される
1216年末 源実朝,渡宋を思い立つ
1220頃 慈円『愚管抄』(史論書;神武天皇から源実朝暗殺まで)※愚管は卑見の意
1221 承久の乱。後鳥羽上皇が北条義時を討伐しようとして敗れる。後鳥羽院は隠岐,順徳院は佐渡に配流。仲恭天皇は廃位。京都守護は六波羅探題に
1224 親鸞『顕浄土真実教行証文類』(浄土真宗の聖典)
1224.6 北条泰時が第3代執権に(~1242)
1225 評定衆を設置(最高政務機関)。また北条時房が初代連署(執権の補佐)に
1225 大倉御所から宇都宮辻子御所に移転(共に現在の鎌倉市内)
1226.2 九条頼経(源頼朝の妹坊門姫の曾孫)が鎌倉幕府第4代征夷大将軍に(第5代は子の頼嗣,第6~9代は親王)
1227 道元(1200~1253)南宋から帰国。禅宗の曹洞宗を伝える(1244年,越前に永平寺)
1230(寛喜2)寛喜の飢饉(~1231)
1232 後堀河天皇が『新勅撰和歌集』の編纂を下命。藤原定家が撰出開始
1241.9 藤原定家死去
89 後深草天皇(1246~1260)後嵯峨天皇の子/持明院統
1247(宝治元)有力御家人の三浦泰村滅ぼされる(宝治合戦)
1249 引付衆を設置(裁判の迅速化)
1256 北条長時が第6代執権となるが,時頼が実権(得宗専制政治の始まり)
90 亀山天皇(1260~1274)後嵯峨天皇の子/大覚寺統
1260 日蓮『立正安国論』を執権北条時頼に提出。法華経(妙法蓮華経)を重視(法華宗,日蓮宗)。浄土宗などを邪法と批判,外国の侵略を予言(元寇として実現)
1263 得宗の北条時頼死去。子の北条時宗が得宗に(翌年連署に)
1268.3(文永5)北条時宗が第8代執権に
1271(文永8)世祖クビライが元を興す
91 後宇多天皇(1274.3~1287)亀山天皇の子/大覚寺統
1276 石築地(元寇防塁)を築いて元に備える
1279(弘安2)元により南宋滅ぶ
1282(弘安5)鎌倉に円覚寺創建(臨済宗,南宋出身の無学祖元;舎利殿が有名)
1284(弘安7)第8代執権北条時宗,数え34歳で死去。北条貞時が第9代執権に
1285(弘安8)有力御家人の安達泰盛が北条氏の家来の平頼綱に滅ぼされる(霜月騒動,弘安合戦)平頼綱は内管領(家来筆頭)として実権を握る
92 伏見天皇(1287~1298)後深草天皇の子/持明院統
1293 鎌倉大地震の混乱に乗じて北条貞時が,権勢を振るっていた平頼綱を滅ぼす
1297(永仁5)御家人の不満対策として永仁の徳政令→徳政を警戒して貸し渋りが起こり御家人は却って困窮
93 後伏見天皇(1298~1301)伏見天皇の子/持明院統
94 後二条天皇(1301~1308)後宇多天皇の子/大覚寺統
1316 北条高時が第14代執権に
96 後醍醐天皇(1318~1339)後宇多天皇の子;南朝1/大覚寺統
1325 建長寺修復の資金集めのため貿易船を元に送る(建長寺船)
北1 光厳天皇(1331~1333)後伏見天皇の子;北朝1/持明院統
1333.7(元弘3年5月)足利高氏,六波羅探題を落とす(同年,尊氏に改称)
1333.7(元弘3年5月)新田義貞,鎌倉を落とし,北条高時ら自害。鎌倉幕府滅亡
1334(建武元)建武に改元。建武の親政開始(記録所,恩賞方,雑訴決断所,武者所,侍所;国司と守護の併置;乾坤通宝)
1335(建武2)中先代の乱(北条高時の子,時行)敗れて南朝の将に
北2 光明天皇(1336~1348)後伏見天皇の子;北朝2/持明院統
1336.1(1335=建武2年12月)箱根・竹ノ下の戦いで新田義貞が足利尊氏に敗れる
1336.1(建武3)足利尊氏,京に入り,後醍醐天皇は比叡山に逃れる
1336.7(建武3)湊川の戦いで新田義貞,楠木正成が足利尊氏に敗れる
1336.12(建武3)足利尊氏,建武式目を制定(室町幕府)→後醍醐天皇は吉野に逃れる(南北朝時代)
1338 新田義貞,越前藤島で戦死。北畠顕家,和泉石津で戦死(数え21歳)
97 後村上天皇(1339~1368)後醍醐天皇の子;南朝2/大覚寺統
1342 後醍醐天皇の菩提を弔うための天龍寺創建の資金集めに天龍寺船を元に派遣
北3 崇光天皇(1348~1351)光厳天皇の子;北朝3/持明院統
1349 足利基氏(尊氏の四男)が鎌倉府の初代鎌倉公方に(補佐役は関東執事,後の関東管領)
1351 足利直義(尊氏の弟)と対立した高師直ら一族,滅ぼされる
1351 足利直義や足利直冬(尊氏の子で直義の養子)と対立した足利尊氏が南朝に帰順。北朝の崇光天皇,南朝の後村上天皇によって廃位される(正平一統;三種の神器が南朝に渡る)
北4 後光厳天皇(1352~1371)光厳天皇の子;北朝4/持明院統
1352 守護が年貢半分の徴税権を与えられる半済令
1358 足利尊氏死去。足利義詮が室町幕府第2代征夷大将軍に
1359 筑後川の戦い。南朝懐良親王(後醍醐天皇の子)や菊池武光,北朝少弐頼尚や大友,城井氏。両軍で5千人以上の戦死者。日本三大合戦(川中島,関ヶ原)
1367 細川頼之が第2代管領に(管領は斯波・細川・畠山が独占)
1367 足利義詮死去
98 長慶天皇(1368~1383)後村上天皇の子;南朝3/大覚寺統
1368 朱元璋が元を北に追って明建国
1369 足利義満(義詮の子)が第3代将軍に
1370 このころ『太平記』完成(1318~1368年の軍記物語)
北5 後円融天皇(1371~1382)後光厳天皇の子;北朝5/持明院統
1379(康暦元)細川頼之失脚し,領国の四国に帰り出家。管領は斯波義将に
北6 後小松天皇(1382~1412)後円融天皇の子;北朝6,第100代天皇/持明院統
99 後亀山天皇(1383~1392)後村上天皇の子;南朝4/大覚寺統
1392.11 明徳の和約(南北朝合体条件)で南北朝合一。後亀山天皇が後小松天皇に三種の神器を渡す
100 後小松天皇(1382~1412)後円融天皇の子;北朝6/持明院統
1392 李成桂が李氏朝鮮を建国(
1393 この頃までに今川貞世,九州を平定
1395 足利義持(義満の子)が第4代将軍に。足利義満は太政大臣に
1402 明で第3代永楽帝即位。1411年から永楽通宝の鋳造始まる。永楽通宝は日本でも流通
1408 足利義満死去
1411 将軍足利義持が明との冊封体制を否定し日明貿易を中止(第6代義教が再開)
101 称光天皇(1412~1428)後小松天皇の子/持明院統
1416 上杉禅秀(氏憲)の乱(前関東管領で,鎌倉公方足利持氏と対立)。一時鎌倉を制圧するが討たれる
1423 足利義量(義持の子)が第5代将軍に
1425 足利義量,数え19歳で死去。法体の義持が政務
1428 足利義持,後継指名を拒否して死去
102 後花園天皇(1428~1464)崇光天皇の孫の子で後小松天皇の養子/持明院統
1428(正長元)
1429 籤引きで足利義教(義満の子;義円)が第6代将軍に。将軍の地位を望んだ鎌倉公方足利持氏は不満
1438 永享の乱。鎌倉公方足利持氏が関東管領上杉憲実を攻め,幕府軍に敗れ自害
1441(嘉吉元)将軍足利義教,赤松満祐に討たれる(嘉吉の乱)山名持豊(宗全)が満祐を討つ。嘉吉の土一揆→嘉吉の徳政令
1442 足利義勝(義教の子)が第7代将軍に
1443 足利義勝,数え10歳で死去
1449 足利義政(義教の子で義勝の弟)が第8代将軍に(1453年まで義成)
1449 足利成氏(持氏の子)が第5代鎌倉公方に(鎌倉府再興)
1457 足利政知(義政の異母兄),鎌倉公方として東下するも,鎌倉に入れず伊豆堀越で堀越公方に
1457 コシャマインの戦い(北海道
1465 足利義政と日野富子の間に義尚誕生。それまで義政は弟の義視を後継指名していたため後継問題発生
1467(応仁元)応仁の乱起こる(東軍細川勝元・足利義政・義尚・斯波義敏,畠山政長,西軍山名宗全・足利義視・斯波義廉,畠山義就・大内政弘)
1471(文明3)斯波氏家臣朝倉孝景(朝倉宗滴の父)が西軍から東軍に寝返り東軍優位に。孝景は越前平定に乗り出す(下剋上)
1473(文明5)山名宗全(70歳)と細川勝元(44歳)死去
1474(文明6)足利義尚(義政と日野富子の子)が第9代将軍に。実権を握り続ける義政との確執
1483 足利義政,東山に移り住む(1485出家)
1488 加賀一向一揆により富樫政親自害。1580年まで「百姓の持ちたる国」に
1490 足利義政死去。銀閣寺(東山慈照禅寺)創建(夢窓疎石)
1490 足利義材(義視の子)が第10代将軍に
1493 明応の政変。細川政元が将軍足利義材を廃し清晃(足利義澄)を擁立すると発表→畠山政長攻められ自害,足利義材降伏→京で幽閉され,脱出し越中で反撃の狼煙
1494 トルデシリャス条約(西経46度37分以西をスペイン,以東をポルトガルで分ける;前年の教皇子午線より若干西に移動しポに有利に)
1495 足利義澄(足利政知の子で義政の甥)が第11第将軍に
1498 足利義材が足利義尹と改名,越前へ
1499 足利義尹,大内義興を頼って周防へ
1507 細川政元暗殺される→後継争い(澄元と高国)
1508 足利義尹勢力が足利義澄を京から追い落とす
1508 足利義尹(足利義稙;第10代将軍義材と同一人物)が将軍に復帰(第10代と数える)。義澄は抵抗を続けるが1511年死去
1509 細川澄元・晴元父子と細川高国の争い(両細川の乱~1532)
1510
1521 細川隆国と対立した将軍足利義稙が京を出奔(1523年阿波で死去)
1522 足利義晴(義澄の子)が第12代将軍に
1526 今川氏親,分国法『仮名目録』制定
1531 細川高国敗れ自害
1536 伊達稙宗,分国法『塵芥集』制定
1543(天文12)種子島に鉄砲伝来(
1547.1 足利義晴,長男足利義輝(第13代)に将軍位を譲る
1549(天文18)ザビエルによりキリスト教伝来(
1560(永禄3)桶狭間の戦い
1563(永禄6)高山右近受洗(ジュスト)
1565(永禄8)永禄の変で三好・松永により将軍足利義輝討たれる
1567(永禄10)織田信長の美濃平定
1568(永禄11)足利義栄が第14代将軍に
1568(永禄11)織田信長が上洛作戦開始
1568(永禄11)将軍足利義栄死去。足利義昭が第15代将軍に
1573(元亀4)槇島城の戦いで足利義昭敗れ,室町幕府事実上滅亡(将軍職返上は1588)
1582.2(天正10)天正遣欧少年使節,長崎を出発(1585年ローマに着)伊東マンショ,千々岩ミゲル,中浦ジュリアン,原マルティノ
1582.6(天正10)本能寺の変→山崎の戦い(天王山の戦い)
1583.6(天正11)賤ヶ岳の戦い(羽柴秀吉 対 柴田勝家)
1584(天正12)小牧・長久手の戦い(羽柴秀吉 対 徳川家康・織田信雄)
1585(天正13)羽柴秀吉,関白に(1586年に豊臣姓に)
1586(天正14)正親町帝の嫡男誠仁親王死去。誠仁親王の子後陽成天皇に譲位
1587(天正15)島津義久降伏(九州平定),バテレン追放令
1588(天正16)将軍足利義昭,豊臣秀吉に臣従,将軍職を返上,秀吉の御伽衆に
1590(天正18)北条氏降伏(小田原征伐)し豊臣秀吉の天下統一
1596(文禄5)サン=フェリペ号事件
1597.2(1596=慶長元年12月)二十六聖人の殉教(カトリック信者26人が長崎で処刑される)
1598(慶長3)豊臣秀吉死去
1600(慶長5)関ヶ原の戦い