第6回に続き,第7回は史上初の農民反乱とされる「陳勝・呉広の乱」を起こした陳勝です。「次回はヨーロッパに目を向ける」と前回書いたのに,また中国の人物になってすみません。陳勝がやりたくなった理由は,漢文の勉強で「
三国志に出てくる韓遂は,もと韓約と言いました。程昱も旧名は程立です。こんな風に改名したのかな,と思ったら,陳渉の渉は
陳渉:諸葛孔明/劉玄徳/孫大虎
という関係ですね。ややこしいのにどうして名前も字も同じ「しょう」にしたのかと思ったのですが,実は発音が違うのですね。英語の表記では陳勝は Chen Sheng,陳渉は Chen She です。
Chen Sheng was born in Yangcheng (陽城). In August or September 209 BC, he was a military captain along with Wu Guang when the two of them were ordered to lead 900 soldiers to Yuyang (漁陽) to help defend the northern border against Xiongnu. Due to storms, it became clear that they could not get to Yuyang by the deadline, and according to law, if soldiers could not get to their posts on time, they would be executed.
陳勝は陽城で生まれました。紀元前209年8月か9月に,彼は呉広と共に兵士を引率する立場になり,匈奴と接する北の辺境を守るのを手伝うために,900名の兵士を漁陽まで連れて行くよう命令されました。嵐のため,期限までに漁陽に辿り着けないことが明白になり,法によると(according to...)持ち場に間に合わなければ処刑されることになっていました。
・陽城は今の河南省南陽市方城県です。南陽市の略称は宛なので,張繍が曹操相手に頑張った辺りですね。
・漁陽は今の北京に近く,確かに北の辺境ですね。
↓北京市の密雲区にはこんな長城跡もあるのですね
・最後の法律の話は,秦が法律に厳しいことが窺われます(法家思想)
Chen Sheng and Wu Guang, believing that they were doomed, led their soldiers to start a rebellion. They announced that Fusu, the crown prince of Qin, who had wrongly been forced to commit suicide, and Xiang Yan, a general of Chu, had not died and were joining their cause. They also declared the reestablishment of Chu.
陳勝と呉広は死が運命づけられた(doomed)と思い,率いていた兵らと反乱を始めました。彼らは,不当にも(wrongly)自決を強いられた秦の皇太子(始皇帝の長男)扶蘇と,楚の将軍項燕(項羽の祖父)は実はまだ死んでおらず,2人が自分達の大義(cause)に加わってくれると公表しました。彼らはまた楚の再興を宣言しました。
・調べると,扶蘇は前210年(弟の胡亥や趙高,李斯の謀略により自決させられた),項燕は前223年(秦に滅ぼされた)に死んでいますので,「まだ生きている」というのは嘘です(陳勝・呉広の乱は前209年)
・陳勝がそのとき言ったとされる「王侯将相寧有種也」(王・侯・将・相に生まれの違いがあろうか)という言葉は奮い立つ言葉ですね(寧=いずくんぞ)
・なお,決起した所が大沢郷なので「大沢郷起義」とも言われるようです。現在の安徽省宿州市埇橋区なので,北京に近づいてからではなく,結構手前で決起していますね。埇橋区には大沢郷鎮があります。
Using 900 men to resist an empire seemed to be a suicidal move, but the people, who had felt deeply oppressed by the Qin regime, joined Chen Sheng and Wu Guang's cause quickly. More than 20,000 men joined. Soon, there were people asking Chen Sheng to declare himself "King of Chu". Acting against the advice of Zhang Er and Chen Yu, Chen Sheng declared himself "King of Rising Chu" (張楚王).
900人の兵士で帝国に抗うのは自殺行為に思えましたが,秦体制に大いにしいたげられて(oppressed)いると感じていた人民は,すぐに陳勝と呉広の大義に加わりました。2万人以上が加わりました。まもなく,陳勝に楚王を称するように言う人々が現れ始めました。張耳と陳余の助言に反して陳勝は「張楚王」を称しました。
・この the people は前方の900人の兵士を受けるのではなく,「人民,庶民」(いわゆる「民」)を指すものだと解します。リンカンの「人民の人民による……」の「人民」です。
・張耳の耳の Er ってどんな発音なんでしょうね。張耳と陳余の反対とは,滅んだ各国の旧王族を王に立てるべきであり,自分が王になるのはいかがなものか,というものでした。それに反して陳勝が王を称したのは私心のようにも思えますが,「王侯将相寧有種也」のモットーで支持者を奮い立たせたのですから,自ら王になって例になるのは一貫していますね。
Chen Sheng, setting his capital at Chen County (陳縣), then commissioned various generals to advance in all directions to conquer Qin territory. Among these were: Wu Guang, whom he created acting "King of Chu"; Zhou Wen (周文), whom he ordered to head west toward Qin proper; his friend Wu Chen (武臣), whom he ordered to head north toward the old territory of Zhao; Zhou Fu, whom he ordered to head northeast toward the old territory of Wei.
陳勝は首都を陳県に置き,様々な将軍に,あらゆる方向から進軍して秦の領土を征服するよう任せました。例えば呉広は「楚の仮王」にし,周文には,西進して秦の固有の領土を攻めさせ,友人の武臣には北進させて趙の旧領を攻めさせ,周市には北東に進ませて魏の旧領を攻めさせました。
・陳県(陳城)は河南省周口市淮陽区にあります。陳勝が生まれた河南省南陽市の東にあります。なお「陳勝」と「陳城」は全くの偶然ではなく,春秋時代の陳が楚に滅ぼされた時,滅んだ陳国の民が「陳」姓を名乗ったと言われます。陳勝もその子孫なのかもしれません。
・Qin proper は Qin's proper territory「秦の固有の領土」と解しました。
・「
↓「市(シ)」とほとんど見分けが付かないが,こんな字
↓この記事のアイキャッチ画像は以下の記事にあります
However, none of these generals returned. After initial defeats Qin forces regrouped under general Zhang Han. Wu Guang was assassinated by generals under him; Zhou Wen was defeated by Qin forces; Wu Chen was initially successful but then declared himself the King of Zhao and became independent of Chu; and Zhou Fu supported a descendant of the royal house of Wei to be the King of Wei, also independent of Chu.
しかし,どの将軍も帰還しませんでした。初期に何度か敗北した後,秦軍は
・章邯は囚人20万人に武器を与えて戦わせました。“戦功を挙げれば罪が許される囚人たちは決死の兵となり”(ウィキペディア「章邯」より)
・波に乗る反乱軍の前に章邯軍が現れて打ち破るシーンは司馬遼太郎『項羽と劉邦』で読みましたが,情景が浮かぶようでしたね。章邯は周文を自決に追い込み,周市を討ち取り,のちには項梁(項羽の叔父)も討ち取っています。その後章邯を降伏させたのは項羽で,章邯を自決に追い込んだのは韓信です。
・呉広を暗殺したのは田臧で,田臧もやがて章邯に敗死しました。
・張耳と陳余は,陳勝が疑心暗鬼になって讒言を信じるようになっていたので,武臣に趙王となるよう助言し,武臣の配下となりました。
A major reason why Wu Chen and the generals who assassinated Wu Guang broke away was that Chen Sheng was paranoid as a king: generals were executed at any sign of infidelity, even by rumours. Chen Sheng's ruthlessness and constant defeats in battle made it harder and harder for him to gather followers. Chen Sheng was greatly weakened, and as he suffered losses at the hands of the Qin army, he personally led a force to try to gather reinforcements, but he was assassinated by his guard Zhuang Jia in c.January 208 BC. He died just five months after his rebellion began. However, his act of defiance provided the spark of inspiration which eventually led to the fall of the Qin dynasty.
武臣や,呉広を暗殺した将軍達が離反し(break away)た主な理由は,陳勝が王として被害妄想に陥っていたためでした。将軍達はたとえ噂によるものであっても,少しでも忠誠を疑われれば処刑されました。陳勝の情け容赦のなさ(ruthlessness)と,度重なる敗戦により,支持者を集めるのはますます困難になっていきました。陳勝は大いに弱体化し,(章邯率いる)秦軍の手によっても敗北し,自ら兵を率いて軍を集めようとしましたが,前208年1月頃に護衛の荘賈に暗殺されました。彼が死んだのは反乱を始めて僅か5か月後のことでした。しかし彼が行った抵抗運動は人々を奮起させ,これがやがて(eventually)秦王朝の滅亡をもたらしたのです。
・武臣,張耳と陳余のその後:武臣は独立した後,秦を攻めるのに協力せず,自国の領土拡大に努めましたが,配下の李良将軍に裏切られて殺されました。張耳と陳余はそののち仲違いし,張耳は漢(劉邦)の配下となりました。漢の韓信・張耳と趙の陳余は,井陘の戦いで激突します。この戦いは韓信が有名な「背水の陣」で勝利した戦いです。ウィキペディアを引きましょう。“韓信は川を背に砦を組み,20万の趙の軍勢と戦った。劣勢の漢軍は押されて砦に逃げ込んだが,退路がないため死にものぐるいで抵抗し,攻めあぐねた趙軍はいったん城へ戻ることにした。だが,そのときには伏せていた2千の漢軍の別働隊が城を占拠しており,前後に敵を受け拠点も失った趙軍は混乱して四散し,大敗した”(ウィキペディア『陳余』より)
・私はこの下りを読んだとき非常に驚きました。これは,『ベルセルク』で鷹の団がドルドレイ要塞を陥落させた時と同じ戦法です。グリフィス,ガッツらは背水の陣を敷いて敵主軍を辛うじて食い止め,その間にキャスカの別動隊が要塞を落として勝利したのです。三浦建太郎は,正に韓信の背水の陣のオマージュで鷹の団の背水の陣を描いたのですね。
According to Shiji, Chen Sheng was the person who coined the Chinese proverb, "How can a little songbird understand the ambitions of a grand swan!" (燕雀安知鴻鵠志), a saying that figures prominently in the Romance of the Three Kingdoms.
(司馬遷の)『史記』によると,陳勝は中国のことわざ「小さなウタドリが
・「硬貨(を鋳造する)」の coin や「造幣局」の mint は,「(新語を)作り出す」の意味があります。
・『三国志演義』でこの故事成語を口にするのは曹操ですね。曹操がこの故事成語を,『史記』を読んで知っていたという設定でしょうか。そう言えば劉備は崩御するまえ諸葛亮に,「鳥が死ぬ直前には良い声で鳴くものだが,人も死ぬ直前には良い事を言うものだよ」と言って遺言を残すのですが,これも曾子(孔子の弟子で四聖の一人)の言葉であり,劉備が盧植の下でしっかり学んだ事が窺えるのです。
・劉邦(漢の高祖)は,のちに陳勝に「隠王」の諡号を与えています。陳勝は農民出身の反乱者ですが,秦の圧政に NO を突き付け,乱は失敗したもののこれのお蔭で秦帝国は瓦解し,最終的に劉邦が皇帝になれたからでしょう。隠者みたいでかっこいい諡号ですね。
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次回こそヨーロッパに目を向け,スコットランドのロバート1世(ロバート・ザ・ブルース)をやります。↓次回はこちら