フレイニャのブログ

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イギリス史・アイルランド史年表1454年~1509年

「イギリス史・アイルランド史年表~1453年」の続きです。

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1450【大陸】この頃までにグーテンベルク,印刷術の営業開始

薔薇戦争

1454.3.27,ヘンリー6世(1422に9ヶ月で即位)の精神異常に伴い,ヨーク公リチャード(エドワード3世の曾孫で王位継承権者)が護国卿に

:ヨーク家が白薔薇側。ランカスター家のヘンリー6世と王妃マーガレット・オブ・アンジューが赤薔薇側🌹

1455.1,ヘンリー6世が恢復。“ヘンリーの精神病が悲劇だとすれば,その回復は国家的な惨事だった”ウィキペディア「リチャード・プランタジネット」)

:公務に復帰したヘンリー6世はヨーク公から護国卿の地位を取り上げた

ヨーク公は軍備を始める

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1455.5.22,セント・オールバンズの戦い(第一次)。ヨーク公リチャード,ソールズベリー伯リチャード・ネヴィルとその長男ウォリック伯リチャード・ネヴィルの軍がヘンリー6世,第2代サマセット公エドムンド・ボーフォートらの軍を破り,王は捕らえられ,サマセット公は戦死

:ヨーク側に就いたソールズベリー伯の母ジョウン・ボーフォートはランカスター側で戦死したエドムンド・ボーフォートのおばに当たる

“ここでヘンリー6世を生かしておくことは肝要だった。王の死はヨーク公自身の即位にはつながらず,ヘンリー6世の2歳の息子であるエドワード王太子が擁立される危険性につながっただろう”

ヨーク公は再び護国卿になり,1456年の2月に国王が復帰するとその職を降りたものの,既に王国の要職はヨーク公支持者で占められていた。ソールズベリー伯とウォリック伯は議員を続け,ウォリック伯はカレーの司令官として承認された”

1455,オウエン・テューダーの子エドマンド・テューダー,初代サマセット公ジョン(エドワード3世の子であるランカスター公ジョンの孫。上で戦死したエドムンド・ボーフォートの兄)の娘マーガレット・ボーフォートと結婚,ランカスター家の一門に

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1456.11.1,エドマンド・テューダー病死

1457.1.28,エドマンド・テューダーの子ヘンリー・テューダー,父の死から2ヶ月後に誕生

1459.9.23,ブロア・ヒースの戦い。ソールズベリー伯リチャード・ネヴィルの軍がランカスター側のオードリー男爵らを破り,オードリー卿は戦死

1459.10.12,ラドフォード橋の戦い。ヨーク公,ソールズベリー伯,ウォリック伯らがヘンリー6世軍と対峙。元々ヘンリー6世側が倍ほどいたが,更にアンドリュー・トラロップが寝返ったためヨーク公アイルランドに,ソールズベリー伯親子とヨーク公の次男マーチ伯エドワードはカレーに落ち延びた

1460.6.26,ソールズベリー伯親子,カレーからケント州サンドウィッチに上陸。ケントの兵も味方して蜂起

1460.7.2,ソールズベリー伯親子,ロンドンを掌握

:ロンドン塔に籠って抵抗した勢力がいたためこれに当たったソールズベリー伯は次項の戦いには参加せず

1460.7.10,ノーサンプトンの戦い。ウォリック伯とマーチ伯エドワードがヘンリー6世を破り捕らえる

1460.8.3【蘇】ジェームズ2世死去,ジェームズ3世即位(8.10戴冠)

1460.10.10,ヨーク公アイルランドからロンドンに凱旋。イングランド王位を要求するも,貴族の支持を完全には得られず失敗

1460.12.30,ウェイクフィールドの戦い。マーガレット王妃の軍がヨーク公の軍を破り,ヨーク公と三男(早世した兄を除けば次男)ラトランド伯エドムンド,ソールズベリー伯が戦死

シェイクスピアの戯曲『ヘンリー6世』でエドムンドは命乞いするも無惨に殺される少年として描かれている(下の記事の絵画)

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ヨーク公リチャードの首はヨークの城門に晒されたが,ヨーク公の次男(早世した兄を除けば長男)マーチ伯エドワードと,ソールズベリー伯の子ウォリック伯は健在であった

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1461.2.2,モーティマーズ・クロスの戦い。ヨーク家のマーチ伯エドワードがランカスター家のペンブルック伯ジャスパー・テューダーらを破る。ジャスパーの父オウエン・テューダーは捕らえられ処刑される。ジャスパーは落ち延びることに成功し,亡命を挟みながらヨーク家に抵抗

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1461.2.17,セント・オールバンズの戦い(第二次)。ランカスター家のマーガレット王妃らがヨーク側のウォリック伯リチャード・ネヴィルらを破り,ヘンリー6世を奪還

:しかしランカスター軍に略奪されると恐れたロンドン市民が門を閉ざしたためマーガレット王妃らは北へ撤退

1461.3.2,マーチ伯エドワードとウォリック伯リチャード・ネヴィルがロンドン入り

1461.3.4,マーチ伯エドワード,エドワード4世として即位,ヨーク朝を開く

1461.3.29,タウトンの戦い。エドワード4世の数万,ランカスター家の第3代サマセット公ヘンリー・ボーフォートらの数万を破る。ウィキペディア英語版では両軍で死者1万ほど

ヘンリー6世とその王子エドワード,マーガレット王妃,サマセット公らはスコットランドに逃れる

1464.4.25,ヘッジレイ・ムーアの戦い。ウォリック伯リチャード・ネヴィルの弟であるジョン・ネヴィル卿がランカスター家のサマセット公ヘンリー・ボーフォートらに勝利

1464.5.15,ヘクサムの戦い。再びジョン・ネヴィル卿がランカスター家に勝利。サマセット公ヘンリー・ボーフォートは捕らえられて処刑される

:ヘンリー・ボーフォートはエドマンド・テューダーに嫁いだマーガレット・ボーフォートの従兄弟であった

1465.7,ヘンリー6世捕らえられロンドンに幽閉される

1469.7.11,ウォリック伯リチャード・ネヴィル,娘イザベルをクラレンス公ジョージに嫁がせる(エドワード4世が反対したため内々に結婚させた)

1469.7.26【キングメーカー・ウォリック伯の反乱】エッジコート・ムーアの戦い。ウォリック伯リチャード・ネヴィルがエドワード4世の弟クラレンス公ジョージと結んで反乱し,ヨーク家のペンブルック伯を破る

:ウォリック伯が叛いた理由 (1) エドワード4世の為に対フランス外交を担当し,仏王妃の妹ボナとの婚約を進めたが,エドワード4世は5年前に密かにエリザベス・ウッドヴィルと結婚していたことが判明,面目を潰された。(2) ウォリック伯は王弟クラレンス公ジョージに接近,娘をジョージに嫁がせようとしたがエドワード4世は許さなかった

エドワード4世は捕らえられ,ウォリック城に幽閉された

1469.8.10【蘇】ジェームズ3世,デンマーク王兼ノルウェー王兼シュレースヴィヒ公クリスチャン1世の娘マーガレットと結婚,持参金代わりにオークニー諸島シェトランド諸島を得る

:クリスチャン1世は1464年まではスウェーデン王も兼ねていた。また1474年からはホルシュタイン公を兼ねた

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1469.9,エドワード4世解放される

1470.3.12,エンピンハムの戦い(ルーズコート・フィールドの戦い)。ウィラビー・ド・アーズビー男爵のリチャード・ウェルズがウォリック伯の側に就いてエドワード4世に反抗し敗れる

:ウォリック伯とクラレンス公ジョージはフランスに逃れる

1470.7,ウォリック伯リチャード・ネヴィル,14歳の娘アンをヘンリー6世の王子エドワードと婚約させる

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1470.9,ヘンリー6世の王妃マーガレットと組んだウォリック伯とクラレンス公ジョージの反攻。エドワード4世ネーデルラントに逃れる

1470.10.30【キングメーカー】ウォリック伯,ヘンリー6世を復位させる

1470.11.4,亡命中のエドワード4世に王子エドワード誕生

:ヘンリー6世の王子もエドワードなのでややこしい

1471.3,エドワード4世,末弟のグロスター公リチャードと共に大陸からイングランドに上陸

1471.4.3,エドワード4世,弟のクラレンス公ジョージをウォリック伯側から寝返らせる

1471.4.11,エドワード4世,ロンドン入りしてヘンリー6世を捕らえ復位

1471.4.14,バーネットの戦い。エドワード4世と王弟ジョージ,リチャードら,ウォリック伯リチャード・ネヴィルを破る。ウォリック伯は敗走中討ち取られた

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1471.5.4,テュークスベリーの戦い。エドワード4世と王弟ジョージ,リチャードらが,ヘンリー6世(幽閉中)の王妃マーガレット,ヘンリー6世の王子エドワードらを破る。王子エドワードは戦死,第4代サマセット公エドムンド・ボーフォート(第3代の弟)は処刑され,王妃マーガレットと,エドワード王子の妃アン・ネヴィル(ウォリック伯リチャード・ネヴィルの娘)は捕虜に(アン・ネヴィルについては→1472.7.12)

:これにてヨーク家(白薔薇)のランカスター家(赤薔薇)に対する勝利が一旦確定

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1471.5,ヘンリー6世死去

1472.7.12,エドワード4世の末弟であるグロスター公リチャードがアン・ネヴィルと結婚

:アンはウォリック伯リチャード・ネヴィルの娘であり,兄のクラレンス公ジョージもウォリック伯の娘イザベルと結婚していたため,ウォリック伯の領地の相続を巡ってグロスター公リチャードとクラレンス公ジョージの兄弟争いが発生

1475,エドワード4世,フランスとの戦争に勝利しピキニー条約締結

:仏王ルイ11世から2万フランの年金を得る。またヘンリー6世の王妃マーガレット,仏王ルイ11世の身代金で解放,フランスへ移住(1482死去)

1476,ウィリアム・キャクストン(カクストン),欧州で学んだ印刷術で印刷会社設立

“最初に印刷した本はチョーサーの『カンタベリー物語』である”

1476.12.22,クラレンス公ジョージの妻イザベル死去(25歳/暗殺説あり)

1478.2.18,クラレンス公ジョージ,エドワード4世への叛逆を疑われ処刑される

:この結果グロスター公リチャードがウォリック伯の領地を得て力をつける

1482,仏王ルイ11世,ピキニー条約に違反し年金の支払いを停止。エドワード4世はフランス再征の準備中病に倒れる

1483.4.9,エドワード4世死去

1483.4.10,エドワード4世の子エドワード5世が王位継承

:しかしエドワード4世の末弟グロスター公リチャードがエドワード5世を幽閉

1483.6.25,エドワード5世廃位される

1483.6.26,グロスター公リチャードが即位(リチャード3世

1484.4.9,リチャード3世の跡取りである王子エドワード夭折

1485.3.16,リチャード3世の王妃アン・ネヴィル死去

1485.8.7,ジャスパー・テューダー,亡き兄エドマンドの遺児ヘンリー・テューダーと共にウェールズに上陸

1485.8.22,ボズワースの戦い。ジャスパー・テューダーと甥のヘンリー・テューダー(約5千),リチャード3世(約8千)に勝利(寝返りも発生),リチャード3世は戦死

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テューダー朝開始~

1485.8.22,ヘンリー・テューダー即位(ヘンリー7世/遡って8.21即位とした)

テューダー朝の始まり(~エリザベス1世まで)

↓有名なヘンリー8世の父

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1486,ヘンリー7世,ヨーク家の故エドワード4世の娘エリザベス・オブ・ヨークと結婚,融和を図る

ヘンリー8世の母

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~2人 の王位僭称者~

1486,少年ランバート・シムネルがリンカン伯ジョン・ド・ラ・ポールに担ぎ上げられる

1487.5.24,ランバート・シムネル,ダブリンでエドワード6世として即位

1487.6.16,ストーク・フィールドの戦い。ヘンリー7世の軍がジョン・ド・ラ・ポールを討ち取る

:シムネル少年は大人に操られただけということで,厨房の召使いにさせられ,16世紀まで生きた

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1488.6.11【蘇】ソーキバーンの戦い。ジェームズ3世,息子のジェームズ王子らの軍に敗死。王子がジェームズ4世として即位

1489.3.26,メジナデルカンポ条約。ヘンリー7世の長男アーサー・テューダーがスペインのカタリナ(キャサリン・オブ・アラゴン)と婚約

ヘンリー8世の兄であり,流感で夭折しなかったら「アーサー王」となっていた

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↓アーサーが若死したため弟ヘンリーに嫁ぐが……

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1490,パーキン・ウォーベックがリチャード4世を僭称して反乱を起こすが1497年降伏

1494,第一次イタリア戦争(仏王シャルル8世のイタリア侵攻→1495敗北)

1499,第二次イタリア戦争(仏王ルイ12世のイタリア侵攻→1504敗北)

1501,トマス・モア,法定弁護士に

~ヘンリー7世の外交~

1502.1.24【蘇】ヘンリー7世スコットランド王ジェームズ4世の間で恒久平和条約(Treaty of Perpetual Peace)(→1511,1513)

1502.4.2,アーサー王太子,流感で死去

1503.6.23,ヘンリー7世の次男ヘンリー・テューダーがキャサリン・オブ・アラゴンと婚約

:ヘンリー7世は結婚に乗り気でなく,自身の後妻にキャサリンを要求したこともあった

1503.8.8【蘇】ヘンリー7世,娘マーガレット・テューダーをスコットランド王ジェームズ4世に嫁がせる

1504,トマス・モア下院議員に

1508,カンブレー同盟戦争開始(教皇,神聖ローマ,仏,西 vs ヴェネツィア

:1510から教皇ヴェネツィアに就く

1509.4.21,ヘンリー7世死去

ヘンリー8世

1509.4.22,ヘンリー8世即位(18歳)

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1509.6.11,ヘンリー8世,父の喪が明けぬうちに1️⃣キャサリン・オブ・アラゴンと結婚(~1533)

:1️⃣~6️⃣はヘンリー8世の妃

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次はエリザベス女王の最後(1603年)まで行ければいいですね。

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(以下は草稿です)

1511.1.5,王妃キャサリン,ヘンリー王子を出産

1511.2.22,ヘンリー王子,0歳で夭折

1511年,神聖同盟教皇,神聖ローマ,英,西,ヴェネツィアが同盟して仏に対抗)

ヘンリー8世はフランスの敵になることでカレーしかなかった大陸領土を増やそうとした

:【蘇】スコットランドは仏との「古い同盟」と英との「恒久平和条約」との板挟みに

1513【蘇】ヘンリー8世がフランス侵攻を企てたのを機にジェームズ4世,恒久平和条約を破棄してイングランドを攻撃

1513.9.9【蘇】フロドゥンの戦い。ジェームズ4世,イングランドを攻めて第2代ノーフォーク公トマス・ハワードやその息子トマス・ハワード(のち第3代ノーフォーク公)らの軍に敗死。ジェームズ5世(1歳)が継ぐ

ヘンリー8世はフランス遠征中であり,摂政だったキャサリン王妃が事に当たった

:ジェームズ5世はジェームズ4世に嫁いだマーガレット・テューダーの子であるためヘンリー8世の甥である

1516.2.18,ヘンリー8世の子メアリ誕生(母キャサリン・オブ・アラゴン

:キャサリンは0歳で夭折したヘンリーを除き男児を産むことができなかった。ヘンリー8世は多くの愛妾を持った

“キャサリンは非常に敬虔なため,妊娠中もしばしば断食をし,それが死産などに繋がった可能性もあるという”

ヘンリー8世は1520年頃から離婚を望むようになった

1516,トマス・モア『ユートピア』を上梓

1517,ロンドンで外国人に対する暴動「魔のメイデイ事件」

1521~26,第三次イタリア戦争(勝:教皇+神聖ローマ+西+英 敗:仏+ヴェネツィア

:大陸に野望を持つヘンリー8世はフランスの敵に回る

1521.10,ヘンリー8世教皇レオ10世から「信仰の擁護者(Fidei defensor)」の称号を賜る

1526~30,コニャック同盟戦争(勝:仏+教皇ヴェネツィア+英+フィレンツェ+ミラノ 敗:神聖ローマ+西+ジェノヴァ

神聖ローマ皇帝カール5世と敵対したヘンリー8世は仏王フランソワ1世と組んだ

1527.5,神聖ローマ皇帝カール5世によるローマ劫掠

“これによって1450年代から続いていた盛期ルネサンス時代は終わりを告げた”

1527.6,ヘンリー8世,王妃キャサリンに対し離婚の意思を伝える

1529,トマス・モア大法官に

1529.9.23,オスマン朝トルコのスレイマン1世によるウィーン包囲(〜10.17)

1532.5.16,トマス・モア,大法官を辞職

“熱心なカトリック信徒であるモアは王に対し,離婚を正当化するいかなる根拠も無いことを告げた”

1533,ヘンリー8世,2️⃣アン・ブーリンと結婚(~1536)

:キャサリン・オブ・アラゴンとの結婚は無効とされ,キャサリンは(故アーサーの)王太子未亡人扱いとなった(→1534.3)

教皇クレメンス7世はヘンリー8世を破門

1533.9.7,ヘンリー8世の子エリザベス誕生(母アン・ブーリン

:しかしアン・ブーリン男児を産むことができなかった

1533.4,上告禁止法。英国の宗教裁判に関して国外へ上告・上訴することを禁止

英国国教会カトリック教会からの独立

1534.3,第一継承法:キャサリン・オブ・アラゴンの子メアリは庶子とされ,アン・ブーリンの子エリザベスが嫡子(王位継承権者)とされた

1534.11,国王至上法(英国王が英国国教会の唯一最高の首長に)

1535.7.6,トマス・モア処刑される

“この処刑は「法の名のもとに行なわれたイギリス史上最も暗黒な犯罪」と言われている”(モアではなく,モアを処刑したヘンリー8世が罪深いということ)

:死後400年の1935年,トマス・モアは列聖された

1536~38,第四次イタリア戦争(神聖ローマ+西 vs 仏+オスマン帝国

1536.1.7,前王妃キャサリン・オブ・アラゴン死去(48歳)

1536.5.19,アン・ブーリン刑死(姦通罪など)(→1536.6)

1536.6,第二継承法:メアリに加えエリザベスも庶子に。これで王位継承権者が不在に(→1537.10.12および1543.7)

1536,ヘンリー8世,3️⃣ジェーン・シーモアと結婚(~1537)

アン・ブーリンの侍女であった

1537.10.12,ヘンリー8世の子エドワード誕生(母ジェーン・シーモア

1537.10.24,ジェーン・シーモア,難産が元で死去

1538,ローマ教皇パウルス3世,ヘンリー8世を破門

1540,ヘンリー8世,4️⃣アン・オブ・クレーヴズと結婚(~1540)

:6ヶ月で離縁されたが,その後良好な関係を保ち,1557年まで生きた

1540,ヘンリー8世,5️⃣キャサリン・ハワードと結婚(~1542)

:2️⃣アン・ブーリンの従妹にして侍女。姦通罪で刑死した

1541【愛】ヘンリー8世,従来の「アイルランド卿(Lord of Ireland)」に代わって「アイルランド(King of ~)」を称す(〜1547)

1542~46,第五次イタリア戦争(神聖ローマ+西+英+ザクセンブランデンブルク辺 vs 仏+オスマン帝国など)

1542.11.24【蘇】ソルウェイ・モス(ソルウェイ湿原)の戦い。英国国教会を作ったヘンリー8世が甥のジェームズ5世にカトリック教会からの離脱を要求し,断られると侵攻。スコットランド軍は数で優っていたのに統率が取れておらず総崩れ(1543.7.1)

1542.12.14【蘇】ジェームズ5世死去,メアリ1世即位

イングランドのメアリ1世とは別人

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1543.7.1【蘇】グリニッジ条約でメアリ1世,英王太子エドワードと婚約させられる

:しかし結婚せず(→1543.12.11),メアリ1世は仏王太子フランソワ(フランソワ2世)と結婚した

1543.7,第三継承法:エドワードが継承順位1位に。メアリとエリザベスも王位継承権を回復

1543,ヘンリー8世,6️⃣キャサリン・パーと結婚(~1547)

1543.12.11【蘇】スコットランド議会,グリニッジ条約を拒否。次項の戦争勃発

1543.12~1551.3【蘇】「乱暴な求婚(Rough Wooing)」。グリニッジ条約をスコットランドが拒否したため8年の戦争が始まる

:「乱暴な求婚」は後世の歴史家による呼称

1544,ヘンリー8世,仏のブローニュ=シュル=メールを攻略(第五次イタリア戦争)

:のち金と引き換えに返却

1544.5.7【蘇】エディンバラ焼き討ち(「乱暴な求婚」の一環)

1545.2.27【蘇】アンクラム・ムーアの戦い(乱暴な求婚)でスコットランド勝利

1547.1.28,ヘンリー8世死去,エドワードが9歳で即位(エドワード6世

エドワードを産んだジェーン・シーモアの兄エドワード・シーモアが護国卿となって実権を振るう

1547.2.15,エドワード・シーモア,サマセット公位を創設し,これに就く

1547.9.10【蘇】ピンキーの戦い(乱暴な求婚)で英国勝利

1549.10.12,エドワード・シーモア逮捕される(政敵ウォリック伯ジョン・ダドリーに敗れる)

1551~59,第六次イタリア戦争(神聖ローマ+西+英+フィレンツェサヴォイア vs 仏+オスマン帝国など)(→1558.1.8)

1552.1.22,エドワード・シーモア処刑される

:1551にノーサンバーランド公に昇叙したジョン・ダドリーが実権を振るう

1553.7.6,エドワード6世死去(15歳)

1553.7.10,ノーサンバーランド公ジョン・ダドリーの力でサフォーク公ヘンリー・グレイの娘ジェーン・グレイ即位

:ジョンは息子のギルフォード・ダドリーをジェーンと結婚させていた

:メアリ,エリザベスを王位継承権者と定めた第三継承法に違反したことになる

:身の危険を感じたメアリはロンドンを脱出

1553.7.13,メアリ,ノリッジで即位を宣言

“メアリーのもとには支持者が続々と集結し,民衆蜂起となってロンドンに進軍した。これを自ら鎮圧しようと兵を向けたノーサンバーランド公は,逆に惨敗を喫してしまう”

1553.7.19,メアリ(キャサリン・オブ・アラゴンの娘)によりジェーン・グレイ廃位,メアリ1世即位

スコットランド女王メアリ1世とは別人

:メアリ1世はカトリックに復帰,プロテスタント英国国教会)を弾圧。300人を処刑して「ブラッディ・メアリ」と呼ばれた(カクテル「ブラッディ・マリー」の語源の一説)

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1553.8.22,ノーサンバーランド公ジョン・ダドリー処刑される

1554,トマス・ワイアットの乱

:女王メアリ1世はスペイン人であるキャサリン・オブ・アラゴンの娘であり,また女王がスペインの王子フェリペ(後のフェリペ2世)と結婚しようとしたため,ワイアットは国が外国(スペイン)に乗っ取られると危惧。メアリ1世ではなくジェーン・グレイの女王位を要求

:メアリ1世は敬虔なカトリックであり,英国国教会からカトリックに戻したことにも反発

1554.2.12,ジェーン・グレイ,夫ギルフォード・ダドリーと共に処刑される(16歳)

:メアリ1世は最初処刑に乗り気でなかったが,スペインの圧力を受け,またワイアットの乱により態度を硬化させた

“イギリス王室はジェーンをテューダー朝第4代の女王として公式に歴代君主の一人に数えている”

1554.2.23,ジェーン・グレイの父,サフォーク公ヘンリー・グレイ処刑される

1554.3.18,(ワイアットの乱が鎮圧された結果)エリザベス,ロンドン塔に収監される

1554.4.11,トマス・ワイアット処刑される

1554.7.20,メアリ1世,スペインの王子フェリペと結婚

1556.1.16,フェリペ,スペイン王に即位(フェリペ2世

1558.1.8,第六次イタリア戦争の中,フランスのギーズ公フランソワがカレーを210年ぶりにイングランドから奪回(←1347.8.3)

:フェリペと結婚したことでフランスの敵となり,カレーを失った

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1558.11.17,メアリ1世死去,エリザベス(アン・ブーリンの娘)がエリザベス1世として即位

1559.1.15,エリザベス1世戴冠式

1559.5.8,新しい国王至上法(英国王が英国国教会の最高統治者に)

1560.12.5,仏王フランソワ2世(スコットランド女王メアリ1世の夫)が16歳で死去

1561.8.20【蘇】メアリ1世,スコットランドに帰国

1565.7.29【蘇】メアリ1世,従弟(ヘンリー8世の姉であるマーガレット・テューダーの孫)であるダーンリー卿ヘンリーと再婚

1566.6.19【蘇】メアリ1世の子ジェームズ誕生

1567.2.10【蘇】ダーンリー卿ヘンリー暗殺される

1567.5.15【蘇】メアリ1世,ボスウェル伯ジェームズと再婚

1567.7.24【蘇】反ボスウェル派の反乱軍によりメアリ1世廃位され,子のジェームズ6世即位

1568【蘇】廃位されたメアリ(メアリ・ステュアート)蜂起するが敗れ,イングランドエリザベス1世に頼る

“しかし,たびたびイングランド王位継承者であることを主張し,またエリザベス廃位の陰謀に関係した”

スペイン王フェリペ2世は(中略)エリザベスを打倒して,カトリックであり,かつイングランド王位継承者である前スコットランド女王メアリー・スチュアートを王位につけようとする陰謀を支持していた”

1587.2.8【蘇】ジェームズ6世の母メアリ1世(メアリ・ステュアート),エリザベス1世により処刑される

1588.7.31~1588.8.8,アルマダの海戦

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