これまで英語で300件弱,ゲームで70件弱(重複あり)の記事を書いてきましたが,政治経済歴史の記事も増やしていきたいフレイニャです。先日の記事でグラント北軍将軍・米国大統領に触れた時に,「リンカン→ジョンソン→グラントなのか〜。ケネディの時はケネディ→ジョンソン→ニクソンね」と調べているうちに全部調べたくなって始めることにしました。
・歴代の大統領
・その任期中に起こった米国の事件
・その任期中に起こった世界の事件
・その任期中に起こった日本の事件
を中心に,2大統領ずつ,まとめていきたいと思います。
※“”内はウィキペディアからの引用です。
(1)初代ジョージ・ワシントン(1732-99;1789-97)
バージニア植民地(1603-1783;バージニア州の前身)生まれ
天然痘に掛かるが回復
1755年,フレンチ・インディアン戦争(1754-63七年戦争の一環。イギリス対フランス・スペイン)に英国側で参加
1758年,軍役を退く。バージニア植民地議員に
1759年,裕福な農園主の長女マーサと結婚,大土地所有者に
タウンゼンド諸法反対運動に同調:植民地側から見ると不当に税金を取られるような制度など。以下ウィキペディア「タウンゼンド諸法」より引用(下線強調フレイニャ)
“これを念頭に、当時の財務大臣チャールズ・タウンゼンドは、植民地に輸入された茶、紙、塗料、鉛、ガラスといった品々に新たに税金を課すという案を練った。いわゆるタウンゼンド関税である。これらの品々は、北米では生産されておらず、植民地はイギリス本土以外から購入することを認められていなかった”
1770年3月,ボストン虐殺事件(タウンゼンド諸法に反対して暴動を起こした民間人5名をイギリス軍が射殺)
1770年4月,タウンゼンド諸法部分撤廃(茶への課税は継続)
1773年12月,ボストン茶会事件(Boston Tea Party)。以下ウィキペディアより引用
“こうした事態の中、1773年12月16日の夜に事件は起こった。毛布やフェイスペイント等でモホーク族風の簡易な扮装をした3グループ、50人ほどの住人がボストン港に停泊していた東インド会社の船を襲撃。「ボストン港をティー・ポットにする」と叫びながら、342箱の茶箱を海に投げ捨てた。”
1774年,耐え難き諸法(Intolerable Acts,植民地側の呼び名)成立
:例えばボストン港法(ボストン茶会事件への報復で,連帯責任としてボストン港を封鎖)
1774年,第1回大陸会議(イギリスの高圧的態度に対して植民地側が結集)にワシントン参加
1775年4月,レキシントン・コンコードの戦い:イギリス軍と植民地民兵隊が武力衝突。独立戦争の火蓋。
“4月19日の朝、イギリス軍がレキシントンの村に入ると、77名の民兵が村の緑地に待ち構えていた。銃火が交わされ、数人の民兵が殺された。「1発の銃声が世界を変えた」という出来事であった”
1775年,第2回大陸会議にワシントンは軍服で参加
1776年,イギリス軍,ニューヨークを占領
1776年,ポーランドのコシューシコ,義勇軍として植民地側に参戦
1777年7月,フランスのラファイエット,義勇兵として植民地軍に参戦,少将に
1777年9月,イギリス軍,フィラデルフィアを占領
1777年10月,サラトガ方面作戦(同年6-10月)でイギリス軍降伏
1778年2月,フランス,アメリカ側につく
1779年6月,スペイン,アメリカ側につく
1781年,ヨークタウンの戦いでイギリス軍降伏,捕虜7000名
(1782〜88年,天明の大飢饉)
1783年,パリ条約でイギリスがアメリカの独立を承認
1787年12月〜1790年5月,全13邦で批准
1789年2月,大統領選挙。ワシントンが大統領,得票2位のジョン・アダムズが副大統領に
1789年7月,フランス革命勃発(バスティーユ監獄襲撃・占領)
1790年,首都がニューヨークからフィラデルフィアに
1792年,大統領選挙でワシントン再び勝利。アダムズ再び2位で副大統領に
1794年,ウィスキー税反乱(蒸留酒に対する課税に反発):かつてイギリスが課税で植民地を苦しめたのと同じような構図になってしまい,国家運営の難しさを窺わせた。反逆罪で死刑を宣告された者をワシントンは恩赦した。
1797年,大統領を辞任
1799年,死去
1801年,合衆国新首都建設。「ワシントン」と命名
1855-59年,ワシントンに因んで命名されたワシントン・アーヴィング(1783-1859),ワシントン伝を執筆
(2)ジョン・アダムズ(1735-1826;1797-1801)
ブレインツリーBraintreeの北地区(現在のマサチューセッツ州クインシーQuincy)生まれ
※英語の発音としては/kwɪnzi/と濁るとのこと。ジョン・アダムズの長男ジョン・クインシー・アダムズも同様。
父はピューリタンの農夫・町会議員で,質実な家庭に生まれる
1751年,ハーバード大学入学。父は牧師になることを期待したが,弁護士を目指す
1758年,法廷弁護士に
1764年,アビゲイル・スミスと結婚
1765年印紙法(イギリスからの課税負担)に反対して有名になる
※イギリスが植民地に様々な課税をしたのは,七年戦争などによる財政負担が原因らしい
1770年,ボストン虐殺事件。アダムズは民間人を殺したイギリス兵の弁護を引き受けることになってしまった(無罪と過失致死傷罪に)。これにより評判が悪くなることを心配したが,同年,マサチューセッツ植民地議会議員に選出される
1774年,第1回大陸会議に参加
1775年,第2回大陸会議に参加
1776年,小冊子『政府に関する考え方』を出版,独立派の精神的支柱に
:アダムズは独立宣言を起草する5人委員会(トマス・ジェファーソン,ベンジャミン・フランクリン,ロバート・リビングストン,ロジャー・シャーマン)に入る
1777年,10歳の長男クインシーを伴いヨーロッパに派遣される
1779年11月,クインシーを伴いヨーロッパに再度派遣される
1782年,イギリスと漁業権をめぐり交渉。オランダにアメリカ合衆国を承認させることに成功
1784年,プロイセンと貿易をめぐり交渉
1785年,駐英アメリカ大使に
1788年,アメリカに帰国
1789年2月,大統領選挙。ワシントンが大統領,得票2位のアダムズが副大統領に
1792年,大統領選挙でワシントン再び勝利。アダムズ再び2位で副大統領に
1796年,大統領選挙。アダムズ(連邦党)大統領に(71票)。ジェファーソン(民主共和党)が副大統領に(68票)
“アメリカ合衆国の歴史の中で唯一、大統領と副大統領が反対党から選ばれた。ジェファーソンは副大統領職を梃子にしてアダムズの政策を攻撃し(…中略…)た”
1797年,XYZ事件(フランス外相タレーランの代理人3名がアメリカに賄賂を要求)でアメリカとフランスの関係が悪化。独立戦争の時は味方であったフランスが敵に
1798年,第2回対仏大同盟(-1801年。革命を起こしたフランスを各国が包囲)。アメリカは対仏関係が悪化していたため,フランスと冷戦(擬似戦争)。軍を増強するため増税(ペンシルベニア州では反乱も)
1800年,大統領選挙。アダムズ,ジェファーソンに破れ,ジェファーソン大統領に。副大統領はアーロン・バー
※この選挙を契機にアダムズとジェファーソンは絶交状態になります。
“1800年の大統領選挙は1796年の選挙の再現となった。選挙運動は両陣営の中傷や個人攻撃で辛辣な性格となった。連邦党は、民主共和党がその敵を殺し、教会を焼き、国を滅ぼす急進派であるという噂を流した”
(1800年,伊能忠敬55歳,蝦夷地測量に向け出発。測量は1816年まで断続的に行われ,全国に及ぶ)
1812年,政敵ジェファーソンと和解
(1821年,『大日本沿海輿地全図』完成。伊能忠敬は1818年に死去)
1826年7月4日,ジェファーソンと同日に死去。アメリカ独立記念日だった
==========
アレクサンダー・ハミルトン(初代財務長官),ジョン・アダムズ(第2代大統領),ジェームズ・マディソン(民主共和党結成。第4代大統領)
共和党の源流です。
ワシントンは無所属でしたが,連邦党が支持しました。
・民主共和党(Democratic-Republican Party)
トマス・ジェファーソン(第3代大統領),ジェームズ・マディソン(元連邦党。第4代大統領),ジェームズ・モンロー(第5代大統領)
民主党の源流です。
==========
いかがでしたでしょうか。初代と第2代はやはりアメリカ独立運動・独立戦争との絡みが大きいですね。任期中の出来事は大したことが書けませんでしたが,まずは国家建設という土台造りで大変だったのだと思います。
ワシントンは裕福な大土地所有者で軍役経験のある英雄,アダムズは弁護士で知的活動や外交に活躍した知将という印象ですね。
次回は第3代ジェファーソンと第4代マディソンです。おまけに初代財務長官ハミルトンと,1800年大統領選挙で副大統領に選出されるアーロン・バーの名前を覚えておくと,次回ちょっとした事件が起こります。